三日月の夜に君に逢ふ

テケリ・リ

揺れる水面に歪む月夜



 ――――三日月がとても綺麗で、星々も明るく瞬いていた記憶。


 あの日、僕はきっと……運命と出逢ったのだと思う。




 小学三年生だった初春の頃。春休みの七日間ほどを、僕は母方の祖母の家に泊まって過ごした。


 なにぶん幼い頃の記憶だから、所々おぼろ気で。

 朧月のように薄雲が、かすみが掛かったように不鮮明で曖昧なかつての少年の記憶を頼りに、僕は独り祖母の家の裏山の茂みを、納屋で見付けた鉈を振るって掻き分けて進む。


 祖母が亡くなり、母を手伝って遺品整理に訪れた、かつて滞在した田舎の村の片隅で。

 あの日小学生だった、現在いまは二十五歳になった僕は、曖昧で現実味の無いあの光景を目指して、山へと分け入っていく。




 あの日は確か、祖母が大切にしていた祖父の形見の品である、すずり石を落として割ってしまったんだった。毎日丁寧に磨いては仏壇の祖父の遺影の前に飾っていたのに興味を惹かれて、想像以上の重さに、硯を持ち上げた手を滑らせてしまったんだ。


 立派な仏壇の角に運悪く当たり、半ばから割れてしまった硯を見たかつての僕は。

 怒られるのが怖くて、悲しむ祖母の顔を見るのが嫌でたまらなくなってしまって、祖母の家から飛び出して逃げてしまった。


『バカだねぇ。ゆうくんが居なくなっちゃうことの方が、何百倍も悲しいんだよ? 怖かったね、ごめんね』


 身を隠すために夢中で逃げ込んだ裏山で遭難し、朝方になって見付かった僕に掛けられた、涙を目に溜めた祖母の言葉。もう亡くなって会えない、大好きだった祖母のその言葉と声は、今でも鮮明に思い出せた。


 問題は、逃げた山の中で遭難している時に起こったんだ。

 山狩りまでして僕を探し当て、手伝ってくれた地元の人達に礼を言って送り返した祖母にその話をしたら、それは遠い昔の……まだ山が信仰されていた時代に起こった御伽噺おとぎばなしの神様かもしれないね、と頭を撫でながら話してくれた。




 〝ツクヨ様〟と呼ばれた、かつて神社の娘であり巫女でもあり、そして山の神様に生贄として捧げられた、一人の少女のお話だった。


 山深いその村の長であり、山の神様を祀る神社の宮司の一人娘であった彼女は、それは大層見目麗しい姫であったそうだ。濡れ羽色の長い髪は真っ直ぐに腰まで伸び、それが純白の巫女の装束と相まって、村の人々には天女様みたいだと言われるほどであったという。


 ある年、他と隔絶された山里であったその村を、未曽有の災いが襲った。

 冬が終わらなかったのだ。


 各家の蓄えはとうに底を付き、村長でもあった宮司は用心のための倉を開いて食物を分け与え、皆一丸となって糊口をしのいでいた。長雪ながゆきが過ぎれば、山桜の新芽が膨らめばと皆で希望を語り合い、積雪が酷く民家では危険なため寄り集まった神社の神殿で、肩を寄せ合い春を切望していたのだという。


 飢えか、それとも終わらぬ冬への不安と恐怖からか、どうしてこんなことになったのかという喧嘩にも似た責め合いが勃発するまでは、そう長くは掛からなかった。

 ああでもない、こうでもないと現象への因果を口々に言い合い、同じ村民同士で罵り合い……そこで一人の少年が槍玉に挙がってしまった。


 その少年が、山の神様へのお供え物の餅に手を付けてしまっていたのだ。

 村人達は激怒し、少年を責め、その親を責め、果ては先祖累代の素行にまでその責めは及び、私刑すら始まりかねない様子だったという。


 そんな中で。


『わたしが、山の神様のお怒りを鎮めて参ります』


 上げられたその声に、村人全員が凍り付いたかのように言葉を飲み込んだそうだ。

 神へ純潔を証明するための純白の巫女服をに着付け直した、一人の少女が佇んでいた。


 左襟とは、死に装束の着こなしのことだ。少女は……宮司の娘である〝ツクヨ様〟は、清いその身を山の神に捧げて、その怒り――この長過ぎる冬を終わらせてくるのだと、そう村人達に話し、気を静めさせた。


 贄とするならば、人身御供ならばくだんの悪餓鬼にせよという村民の総意を頑として跳ね除け、逆にその子供や家族を虐げることあらば、山の神の眷属となりし己が、末代まで祟るだろうと呪いを吐いた。

 その決死の言葉とは裏腹に、〝ツクヨ様〟の顔は穏やかであったという。それが殊更に村人の恐怖を煽ったのか、泣く泣く子を抱きしめ彼女に感謝を述べる一家に口を出そうとする者は、一人も居なかったそうだ。


 村の長でもあり彼女の親でもあった宮司は、先んじて説き伏せられていたのか、それとも彼こそが勘案したのか……何も言わずに冬を終わらせるための祈祷を続けていた。


『どうか泣かないでください。わたしは山とひとつになって、この村をいつまでも見ていられることが、とても嬉しいのですから』


 子を助けられた一家に語り掛ける〝ツクヨ様〟は、少女とは思えないほどの慈母の微笑みでもって例の少年を抱きしめ、ひとつのお願いを託したそうだ。




 ――――わたしはきっと、時々寂しくなってしまうと思います。だから、憶えていたらで構いませんので、わたしを思い出したその時にでも、山に遊びに来てくださいね。




『本当か嘘かは知らないけれど、ウチのご先祖様がその、助けられた悪餓鬼だったってお話さ。だからもし裕くんが山で会ったっていうのが〝ツクヨ様〟なら、裕くんはあたしやご先祖様のお務めを立派に果たしてくれたってことだ。家族の誰も信じちゃいなかった御伽噺だけれど、もしそうだったならこんなに嬉しいことは無いねぇ』


 そう、お話の締め括りに僕の頭を撫でながら、祖母は目に涙を溜めて嬉しそうに……本当に嬉しそうに微笑んでいた。


 どうして忘れていたんだろうか。あんなにも印象深かった思い出なのに。

 彼女が……〝ツクヨ様〟が何某なにがしかの術でも僕に掛けて、この村に来た時にしか思い出せないようにしたのだろうか。


 思わずそう勘繰ってしまうほどに唐突に、祖母の家を再び訪れた瞬間に、あの少年の頃の記憶が甦ったんだ。

 だから、僕は山へと入っていく。




 山に分け入ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。母は祖母の家で休んでいるだろうし、僕の趣味が山登りやキャンプだと知っているから、特に心配を掛けることはないだろう。メッセージも送っておいたしね。

 何代にも渡る古い家系だったから、遺品を整理するのも一苦労の泊まり仕事だ。焦らず休み休みやってくれたらいいんじゃないかな。


 すでに中腹を過ぎた辺りだと思うけれど、この山は不思議なくらい空気が澄み渡っている。普通深い山に入ると、奥に行くにつれて草いきれがより濃くなって、空気も湿気を含んだように重たくなるものなんだけど。


 そんなふうに首を傾げながらも下草を払い、辛うじて見える獣道の名残を辿って奥へと進む。地面が段々と緩く柔らかくなり、次第にぬかるみに近いくらいには湿ってきた。それはつまり、近くに水場があることを示している。


 記憶の中に映るのは、煌々と照らす三日月の明かりと……瞬く星々と……枝垂しだれた立派な山桜。そしてそれらをまるで額縁にひとまとめに納めるかのように、もしくは鏡に映すように揺れる、静かな夜の湖。


 ――――そんな景色の中に、彼女は、微笑んで佇んでいた。


「大きくなったね、裕くん」


 まるで変わってしまった空気の流れるその湖畔で、樹齢何千年と経っていそうな古い山桜の立派な枝に座って。足先を水面に遊ばせながら彼女は……鴉の羽のような瑞々しい漆黒の長髪を揺らしながら、僕に微笑んだ。


「祖母が、亡くなりました。僕が貴女に会ったことを知って、涙を浮かべるほど喜んでいましたよ」

「そう……おミツちゃんも亡くなっちゃったんだ。あの子は何度かここに来ようとしていたけれど、、信じていないと来られないからね。多分嘘だと確かめようとしてたんじゃないかな」

「やっぱりあの時も、そして今も、貴女が僕を呼んでくれたからここに来られたんですね」

「うん。それくらい、招かないと来られないくらいにする程度には、ここの神様はわたし達人間に怒っていたからね。それも数十年前……山の開発工事が始まってしまってからは、完全に見限ってしまって。わたしに土地神の役目を与えて、どこかに行ってしまったの」


 やっぱり、祖母の語った御伽噺の通りに。

 彼女こそが、山の神にその身を捧げた宮司の娘。村人に敬愛され、罪を犯した少年とその家族を救った巫女姫――〝ツクヨ様〟なんだ。


 ということは、やはりあの話の通りに。


「僕のご先祖様が犯した罪を、代わりに背負ってくれたと聞きました。それだけでなく、本来は責めを負うべき先祖への弾劾すらも防いでくれたって。一体何人がこの場に会いに来られたかは分からないけれど、本当にありがとうございました。そして……ごめんなさい」

「なぁに、それ? どうして裕くんが謝るのよ。それより一緒に座りましょ? ほら、こんなに三日月が綺麗なのよ?」


 ツクヨ様はそう微笑むと、湖畔から水上にせり出している太い枝――自身が座っているその枝の、隣の辺りをポンポンと叩いて招いてきた。

 山登りやレジャーに慣れているとはいえ、初見の、それもこんな立派な桜の木に登ることになり、僕はおっかなびっくり、慎重に木のうろやコブ、そして枝を頼りにそこまで登って行った。


「ふふ。相変わらず木登りが下手くそだね?」

「そう……かな。憶えてるのはここの景色と貴女――ツクヨ様のことばかりだったから」

「だけど、思い出してくれたんでしょ? ありがとうね」


 そう言って微笑むツクヨ様は、確かに天女様と言いたくなるほど、とても綺麗だった。

 空から振る月光と、揺れる水面が反射する夜の光と。その両方に照らされて、暗いはずの夜だというのに、まるで彼女自身が光を放っているようにも感じる。


「そういえば、あの時もこんな三日月の夜だったね」


 そうして非現実的な美しさである彼女に見惚れていると、ふとそんなことを彼女が言う。

 確かに、あの日山に迷い込んで、彷徨い続けて、ようやく彼女――ツクヨ様に招かれて助けられた時も、今とまったく同じような三日月の浮かぶ星空で。


「あれから……十六年も経ってるんだね。どうかな? ?」


 何に慣れたと言うんだろう?

 社会人の生活にだろうか。祖母を亡くしたことは……まだ大して時間が経っていないから、まだ慣れそうにはないし。


「ふふ、違うよ寝坊助さん。まだ頭が働いてないみたいだね?」

「え……?」


 なんだろう。何かを忘れている……?

 思わず頭痛を覚え、手で頭を押さえる――――が。


 なんだよ、どういうことだよこれ……?

 ……? そんな、これじゃ……


はどうだった? 時代は進んで高度に発展した世の中で、大人になって働いて。はかっこいいんだから、伴侶くらいできると思ったのになぁ」

「なん……どうして……」

「あれ、本当に忘れてるの? それじゃ教えてあげる」


 ダメだ。聞いちゃダメだ。

 聞いたら取り返しがつかない。それならまだ、今の微睡まどろみの夢の中の方が――――


「思い出したね。君は、裕之助ゆうのすけ。神様の供物の餅を盗み、山の怒りを買った少年。わたしね、あの村がホントは大嫌いだったの。閉塞的で、迷信深すぎて。だからあの時、宮司の父上に人柱となれって言われた時は、好機だと思ったのよ。山に入るフリをして、そのまま行方を暗ませようってね」


 やめてくれ。思い出させないでくれ。

 そんな君に酷く罪悪感を覚えたんだ。子供ながらに考えて、君の言った通りに、寂しくないようにって思って。だから山に入って……


「神様なんてこれっぽっちも信じていなかったのに、本当に居たのよね。内心嬉々として山に入ったわたしは山の神様に出会って、本当に眷属にされちゃった。全部見てたよ? 冬が終わって喜ぶ村人達も、娘を生贄にしただけで称賛されていた父上も。……許せないよね?」


 そのまま、山に入った僕は、ここに招かれて――――


「裕之助が来た時は、思わず笑っちゃった。神なんて信じてなかったのに、一体誰のせいでこんなことになったんだって。だから、君をここに閉じ込めたの。辛くて苦しくて、君が壊れてしまいそうになる度に、長い長い眠りに就かせて、夢を見させて……ね」


 ああ、この笑顔だ。

 村で見ていた時とは比べる気にもならない、歪んだ三日月のような笑み。


 怒りと、悲しみと、悔しさと。どうして自分がと呪い、自分を捧げた父親を呪い、そして原因を作ったこの僕を呪い……。


 終わらない絶望のように、三日月の浮かぶ明けない夜に閉じ込められた〝月夜ツクヨ〟。

 彼女の綺麗なだけであったその顔は憎しみに歪み……口の端を上げてわらうその様は、水面に映った三日月のようにイビツであった――――




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三日月の夜に君に逢ふ テケリ・リ @teke-ri-ri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ