第11話 コウの部屋

 高級ホテルのロビーのような場所を通り抜けた先にコウの部屋はあった。コウはナギの次兄だ。長兄のレイと共に家業を手伝っているらしいが視察に出ているそうで里穂はまだどちらにも会ったことがない。ナギとは母親が違うことや随分と年が離れていることは聞いた。またレイが実務を担っているのに対し、コウは薬草の研究をしているとも聞いたが、幼いナギの話なのでそのあたりはあやふやだ。


 そのコウの部屋の前まで来ると、ナギはあたりをきょろきょろと見回し扉に耳をつけて中の音を確かめ、それから音を立てないようにそっと扉を開いた。明らかに入室を許されていない者の入り方だ。身元のわかっていない里穂にとってはかなりリスキーな行動となる。里穂は腰が引けた。


「ナギちゃん、大丈夫なの?」


「だいじょぶ、だいじょぶ」


 一方でナギはずいぶん楽しそうだ。この広い屋敷で母親と離され大人ばかりに囲まれて暮らしてきたナギにとって、中身は大人だが見かけは少女のリホと遊ぶことはこの上ない喜びに違いなかった。里穂もまた好奇心には逆らえず、ためらいつつも扉の中へと滑り込んだ。


「はええええ」


 思わず声が漏れる。それほど中の様子は里穂の想像を超えていた。高い天井まで届きそうな本棚が人ひとり通れるくらいの通路を挟んで何列も並んでいて、どの棚にも本がぎっしりと詰まっている。部屋には古書店のあの独特な匂いが立ち込め、この部屋の歴史を感じさせた。口をぽかんと開けて圧倒されている里穂の腕ににこにことナギが巻きついた。


「お姉ちゃまの好きな本はある?」


 里穂はナギの肩を抱いた。


「そうね、あんまりたくさんあり過ぎて見つけられないかもしれないけどきっとあると思うわ。連れてきてくれてありがとう」


 ナギは満面の笑みを浮かべて狭い通路を縦横無尽に駆け始めた。「気をつけて」と声をかけてから、里穂は手近な本を引き抜いて開いてみた。大切にされているようでほこりひとつついていない。この世界の文字がびっしりと書かれているのに、ただのひと文字も読めないことが里穂にはもどかしかった。


「誰だ!」


 ナギがぴたりと止まった。気づかぬうちに通路の突き当り、窓のあたりに人影があった。


「コウ兄さま!」


 ナギが一目散に駆けて飛びついた。コウはナギを両腕でがっしりと受け止めると愛しげに何度も頬ずりした。


「コウ兄さま、いつお帰りになったの? レイ兄さまは?」


「昨夜遅くだ。レイは明日帰る。隣で寝ていたらパタパタ走る音が聞こえて目が覚めた。ここで走ってはいけないとあれほど言ったのに守れないなら、今回のお土産は無しだな」


「ごめんなさい、もうしません! それでお土産はなあに?」


「あとで部屋に届けるよ。それより」


 コウの鋭い視線が里穂に向けられた。


「あれは誰だ」


 ナギはコウの腕から逃れると、その手を引いて緊張でこわばっている里穂のところへ連れてきた。


「リホ姉さまだよ。ナギを助けてくれたの」


 コウは値踏みするように里穂を上から下まで眺めた。随分と無礼な振る舞いだと里穂は腹が立ったが、こっそり部屋に忍び込んだこちらに非がある。ここは先に謝ってしまおうとした矢先、コウが軽く握った右手を胸に当て会釈した。それまでとはうってかわって礼儀正しい態度だ。


「妹を助けてくださってありがとうございます。心から感謝します」


「い、いえ、当然のことをしたまでです」


 里穂がどぎまぎしながら答えるとコウが顔を上げ目が合った。二十歳前後といったところか、少しウエーブのかかった茶色い髪にアメシスト色の瞳が印象的なとても美しい顔をした青年だ。このままドレスを着せたらどこぞのお姫様と言っても通用するだろうと里穂は思った。しかしその目は先程の鋭さに戻っている。そしてその口調はもっと厳しかった。


「ここで何をしていた」


 ナギが慌ててコウの腕を引っ張る。


「お姉ちゃまが本を見たいって言うからナギが連れてきたの」


「本? 女が本にどんな用があるんだ」


 里穂の中で何かがぷちんと弾けた。


「お言葉を返すようですが、女が本を見てはいけないという法律でもあるんですか」


「そんな法律はない。法律は必要ではない。男は子どもを産んではいけないという法律がないのと同じだ」


 里穂の頭にますます血が上った。


「女は本を読む価値もないということですか?」


「違う。そもそも読めないだろうが、わからん女だな。だから女は嫌なんだ」


 何と言う暴言! 何と言う男尊女卑! 里穂の脳みそが沸騰寸前になっているそばで、ナギが今にも泣きそうな顔でふたりの顔を交互に見ていた。途端にコウの顔が優しくなってナギの頭を撫でる。


「ナギ、僕たちは喧嘩をしているわけではなく議論をしているんだよ。まあ、普通は女とはしないけれどね。お土産が隣の部屋の机の上にあるからそれを見ておいで。黄色い袋に入っているからすぐにわかるよ」


 ナギは少し名残惜しそうで、それでいて嬉しそうな顔をして隣の部屋に消えた。見送ったコウが口の端を曲げてにやりと笑う。


「言いたいことがあれば聞こうじゃないか。尤も、僕に意見できるほどの語彙力がおまえにあればの話だけどね」

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