第10話 絵本

 その晩、里穂はベッドの中でユアンとの会話を反芻していた。ユアンの発言は里穂が読み書きできないという前提だったと今ならわかる。しかも里穂に文字を学ばせることを躊躇しているフシがあった。


「この町では身分によって学校に行けなかったりするのかな。それとも私が女だから?」


 里穂のいた世界にも識字率の低い国はそこかしこにあった。女性の方が低いのも一般的だ。だから今いる世界で同じことがあったとしても何の不思議もない。


 しかし、識字率の低さによる弊害は数え切れないほどある。それを放っておくのは為政者の怠慢だ。ましてや意図的に学びの機会を奪っているとしたら言語道断だ。里穂の教師魂に火がついた。


 翌朝、里穂はナギに教育環境について聞いてみることにした。昨日選んだ服の中から一着選んで身に付け、頭にスカーフを巻いて待っていると、いつも通りスキップをしながらナギが部屋に入ってきた。ナギは少し難しい顔になった。


「お姉ちゃま、スカーフがなかったら教会のおばさまたちみたい」


 ナギの容赦ない指摘に里穂は苦笑いするしかなかった。里穂には上品なハイブランドに見えるが、大きな襟が目立つくらいで装飾に乏しい地味なこのドレスはナギにとって修道服なのだろう。ナギだけではなく、この世界の多くの人々が同じように思うはずだ。そういう点で率直なナギの言葉は有難くもあった。


 ソファに座ってひとしきり雑談をした後、いよいよ本題に入ることにした。ナギにもわかる言葉で、里穂はそのつもりだった。


「ところでナギちゃんはへは行ってるの?」


「ガッコ? ガッコってなあに?」


 里穂は絶句した。里穂が軽い気持ちで発したという言葉がこの世界の言葉に変換されずそのままま発音されたのだ。すなわちそれはこの世界に学校がないことを意味する。


 いったいこの世界の子どもたちはどのように教育を受けるのか。幼いナギには答えられないことが多いだろう。できれば他の大人、例えばユアンに質問できれば一度で解決するだろうが、里穂が突然そんな話を持ち出したら不審がられるに違いなかった。とりあえず今はナギから聞き出せることは少しでも多く聞いておこうと、里穂は再びナギに向き直った。


「学校の話は今度するね。それよりナギちゃんは本って持ってる?」


「絵本ならたくさん持ってるよ。お姉ちゃま、絵本見たかったの? ナギ持って来るね」


 ナギは返事を待たずに部屋から飛び出した。ユアンは里穂に本を見せることを躊躇していたが、ナギは絵本をたくさん持っていて見せてくれるという。


「どういうこと?」


 ふたりの矛盾する行動の理由がわからぬまま待っていると、ナギが使用人を引き連れて数十冊の絵本を運んできた。


 テーブルいっぱいに並べられた本はどれも素晴らしく豪華な装丁で、またしてもこの家の経済力を見せつけられる思いがした。里穂の役に立てたと喜ぶナギの横で、里穂はそのうちの一冊を手に取り表紙に触れた。


「これが文字……」


 それはこれまで里穂が見てきたどの文字とも違った。この世界の言葉が話せるのだから文字を見れば読めるかもしれないと少し期待していたのだが、残念ながら今の里穂には無意味な記号でしかなかった。


「ナギちゃん、これは何て書いてあるの?」


「知らない」


「え、あ、そっか。じゃ、こっちの本のタイトルは読めるかな?」


 里穂が他の本を指差すと、ナギは当たり前のように答えた。


「わかんない。ナギが読めるのはほんの少しだけ」


「あ、そうなんだ。まだお勉強してないんだね」


「女の子はどうせ使わないから覚えなくてもいいんだって」


 無邪気に答えるナギの姿に里穂は愕然とした。こんな大富豪ですら女子への教育は行われないというのか。しかも本人はそれを何の問題とも捉えていない。そういうことなら昨日のユアンの言動は納得がいく。貧しいリホが読み書きできる道理はなかったのだ。


 里穂は膝の本を開いてみた。中も素晴らしく美しいが、そこには殆ど文字がなくて、そもそも読むためではなく眺めるために作られたものなのだとわかった。がっくりとうなだれる里穂を気遣ったのか、ナギが立ち上がって里穂の手を引っ張った。


「お姉ちゃまの好きな本がなかったからがっかりしてるの? それならコウ兄さまの部屋に行こう。びっくりするくらいたくさん本があるからきっとお姉ちゃまの好きな本もあるよ!」

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