第5話 名前

 結果的に記憶喪失を装ったことは里穂にとって都合が良かった。更にはショックで口がきけないとユアンが思い込んでくれたお陰でこの世界を理解するまでの時間稼ぎができた。


 特に役に立ったのがナギのお喋りだった。ナギはことあるごとに部屋を訪れてユアンや看護師たちを手伝った。時にはひとりでこっそりやってきて、両親やふたりの兄のこと、父親の商売のこと、この国の日常や祭りなど色々なことを里穂に話して聞かせた。里穂は頷くだけだったが、ナギは余程話し相手がいることが嬉しいのか、何度使用人に連れ戻されても懲りずに里穂の元へやってくるのだった。


 また治療も順調だった。ユアンは医者と言ったが、傷を治すための外科的治療は殆ど無く、その代わり大量の薬を次々と処方するので薬剤師に近い印象だ。それらの薬の効果は覿面てきめんで、食事を摂れない間も薬湯を飲めば空腹に悩まされることはなかったし、毎日何度も塗ってくれる薬のお陰で、体中の擦り傷は日を追うごとに消えていった。


 体の傷が癒えるのと反比例して、里穂の悲しみは深まった。話を聞けば聞くほどここは里穂のいた世界とは違っている。何がどうなったかまるで見当がつかないが、何らかの理由で異世界に紛れ込んでしまったのはもはや疑いようのない事実だった。凪咲なぎさの言っていた異世界転生が我が身に降りかかることになるなどどうして予想できただろうか。夜が訪れるたびに、里穂はついこの間までいた世界を思って人知れず涙を流した。


 こうして療養すること十日余り、里穂はベッドから出て数歩歩けるまでに回復した。


「順調な回復ぶりだね。顔の傷も随分と目立たなくなったよ」


 ベッドに腰掛けた里穂にユアンが笑顔を向けた。人を安心させる温かい笑顔だ。里穂は感謝を込めてにっこりと微笑み返した。それを見たナギが不意に泣き出し里穂に抱きついた。


「ナギのせいでごめんなさい」


 里穂は驚きつつも小さな体を優しく抱きとめ頭を撫でた。ナギが優しい子だということはこの十日間で十分里穂にもわかっていた。幼いながらに申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだろう。


「大丈夫よ、もう大丈夫」


 ナギが目を見開いて里穂を見た。ユアンも口をあんぐりと開けている。


「お姉ちゃま、お話できるの?」


 ナギの驚いた顔が喜びの表情へと変化する。里穂は内心焦ったが、すぐさま開き直って驚いた表情を作った。


「ほんとだ、声が出る! ナギちゃんがたくさんお話してくれたからだね、ありがとう」


 ナギは嬉しそうに再び里穂に抱きついた。ユアンの反応が気になった里穂がそっと見上げると、ユアンもまたとても嬉しそうで、ナギの行動が里穂の言葉を引き出したのだと思ってくれているようだった。


 そこからは言葉が話せるようになった里穂への問診と今後のリハビリについての説明が行われた。その結果、もう暫くはこの家で体力の回復と歩行訓練を行い、折を見て外出をすることになった。ナギが提案したピクニックの計画はまだまだ先の話とユアンによってすぐさま却下された。


「ところで、まだ自分の名前は思い出せないのかい?」


 里穂が使うための杖を調整しながらユアンが尋ねた。しかし、里穂が困ったようにうつむくのを見て慌てて付け加えた。


「すまない、責めてるわけじゃないんだ。ただ、君がどこの誰なのか知っている者が見つからなくてね、未だにご家族に連絡できないんだ。おそらく君はよそから何かの用事でこの町にやって来て事故に巻き込まれたんだと思う。そうでなければこの町の誰かが君に気づくだろうからね」


 そう言うと、ユアンはベッド脇の袋から薄汚れた服を取り出した。事故の際に里穂が着ていたと言うが里穂自身の物ではなく、召使いが着ている服よりも更に質素な木綿のワンピースだった。それからユアンは鞄を里穂に見せた。麻のような荒い繊維の巾着袋で、幅広のベルトは事故のせいか千切れていた。中には財布らしき小さな巾着袋と手拭いが数枚。里穂にはそのお金の価値はわからなかったが、見た目からして恐らくは小銭だろうと思われた。


「これも記憶にない?」


 里穂は首を振った。


「そうか。わかった。軽装だし、それ程遠くから来たんじゃないだろう。必ず親御さんを探すから心配しないで僕たちに任せてね。ただ、それまでの間君を何と呼んだらいいのかわからなくて……何かいい案はないだろうか?」


「ナギはお姉ちゃまって呼んでもいい? あたし前からお姉ちゃまが欲しかったの」


 ポニーテールを揺らしてナギが首を傾げた。里穂が「もちろん」とナギの頭を撫でるとナギはベッドの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを表現した。その姿を見ながら里穂はひとつの決心をした。


「ユアンさん、私『リホ』って呼んでほしいです」


「リホ? 素敵な名前だけど、どうして?」


 飛び跳ねていたナギも止まって里穂の顔を覗き込む。


「いえ、何となく頭の片隅にこの言葉が残っているので……」


「そっか、いいと思うよ、凄く。『リホ』は木の名前でね、白い小さな花がたくさん咲くんだよ。その実は栄養価が高くてね、ほらリホが飲んでたあの薬湯にも使われているよ」


「ナギもね、リホの実大好き。お姉ちゃまももしかしたらリホの実が好きだったのかもね」


「きっとそうだと思うわ」


 ナギの髪を撫でながら、里穂は久しぶりの自分の名前にホッとしていた。

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