第4話 異世界

「君の名前は?」


 愕然としている里穂りほに対して、男はあくまでも穏やかな態度で繰り返した。


「わからないの?」


 里穂はその場しのぎに頷いた。予想もしなかった展開にどう対応すべきなのかわからなかった。男はふうと息を吐いて手近な椅子を引き寄せると、先程から心配そうな様子の少女を膝に乗せて話し始めた。


「僕の名前はユアン、こう見えても医者だよ。君が助けてくれたこの子はナギ、そしてここはナギの家だ。君は暴走した馬車に轢かれそうになったナギを庇って大怪我をしてここに運び込まれたんだ。覚えていないかい?」


 覚えていないも何も、自分が遭った事故とは全く違うし、この少女を助けた覚えはない。里穂は混乱しつつも首を横に振った。ナギがユアンの顔を不安そうに見上げたので、ユアンはナギの頭を静かに撫でた。それから穏やかな笑顔を里穂に向けて言った


「頭を打つと一時的に記憶が失われることがあるそうだ。君の身元はこちらで調べるから、君は何も心配しないで体を治すことだけ考えてくれたらいい。いいね?」


 里穂は仕方なく頷いた。自由に動けない以上、他に選択肢は無さそうだ。それより今はこの混乱した状況を冷静に判断する必要がある。里穂は湧き上がる不安を一旦押し込めた。


 ユアンとナギが部屋を出ると代わりに看護師らしき女性がふたり現れて甲斐甲斐しく里穂の世話を焼いてくれた。と言っても薬を塗ったり薬湯を飲ませたりと先進医療とは程遠い手当てに過ぎなかった。それでも痛みは随分と楽になり少しばかり心に余裕ができたので、里穂は情報収集のための観察を始めた。


 寝たままなのでよくわからないが部屋はかなり広そうだ。壁は木の部分と漆喰のような白い部分があって、何枚か絵が掛けられているのが見える。窓もいくつかあり部屋は明るいし、室温も快適だ。ベッドは少し硬めだが、広々として寝心地がいい。


 看護師たちはユアンやナギと同じく日本人よりは彫りの深い顔立ちをしている。ただ白人ほど色白ではなく、印象としては中東アジアかラテン系に近い。服装はかなり質素で、ゆったりとした上から被るタイプのブラウスにストンと落ちたロングスカート、頭にはスカーフを無造作に巻いている。ユアンは少しばかり仕立ての良さそうな布地を身に着けていたが、デザインは彼女たちとさほど変わらずシンプルで、スカートではなくくるぶし丈のスラックスを穿いているのが違うくらいだ。ただナギだけは色柄のあるワンピースを着ていて、裕福な家庭だからなのか子どもはそうしたものなのか今はまだわからない。


 何より不思議だったのは、彼らが話す言葉が日本語ではないのに自分がその意味を理解していることだった。里穂はずっと黙ったままでいたが、ひとりになったタイミングでそっと声を出してみた。


「いいだりほ」


 日本語だ。しかしここで里穂は思い直した。固有名詞は言語が変わっても変わることはない。ここで里穂のお腹がぐうと鳴った。里穂は事故に遭った時もひどくお腹がすいていたことを思い出した。


「お腹すいた」


 里穂は息を呑んだ。自分の口から出た言葉は日本語ではなく、先程までユアンたちが話していた言葉だった。里穂は目につく物を次々と口にしてみた。


「部屋、テーブル、天井、ドア、ベッド……」


 どの単語も見事に彼らの言葉に変換されて里穂の口から出てきた。里穂にはなぜ自分がこの言葉を話せるのか全く理解できなかった。とはいえ、これで彼らとコミュニケーションが取れることはわかった。今はまだ少し怖いけれど、いずれ話し合いが必要になる時が来るに違いない。


 それからも里穂は思いつく限りの言葉を発した。すると奇妙なことに気づいた。固有名詞でなくても変換されない言葉があるのだ。例えばテレビやパソコンなどの電化製品はほぼ変換されなかった。そこに至って里穂はある結論に至った。この世界に存在しない物は変換できないのだと。そして自分が日本ではない、どこかよその世界にいるのだということを認めざるを得なくなった。

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