骨に触れた者同士

寧々「今日は…夕方からのシフトだよね。」


脳内でカレンダーを開きながら歩く。

買い出しを終え帰路を

辿っているところだった。

まだ昼間、そして春休み

ということもあるからか、

小学生くらいの男の子たちが自転車で

猛スピードで駆け抜けていった。

やいやい、きゃーと騒ぐ声が

だんだんと遠のいて行く。

それを見て懐かしいとも戻りたいとも、

いいなとすらも思わなかった。

既に私の頭の中では

子供達ではなくカレンダーへと

視線が移っていた。


帰ると3時、準備して4時、移動して5時。

4時間勤務して、1時間片付け。

家に着くのは11時前後。

今日はバイト先にこころがいないから

少し早めに家につけるはず。

こころは勤務後いつも誰かと

話をしてから集合場所に来る。

私は時に、集合場所近くにある

デパート内の本屋に立ち寄ったり

スマホをいじったりして時間を潰していた。

今日はそれをしなくていい。

ただ。


寧々「…1人かぁ。」


好きな服や趣味の話もできず

表面取り繕って働くだけ働いて帰宅する。

それはあまりにもつまらない。

…とは言え、そういう生活を

送っている社会人なんてごまんといる。

甘えたことを言っているようじゃ

この先が思いやられる。

お兄ちゃんだって、失望するに違いない。


寧々「よし、気合い入れますか。」


頑張ろう。

勉強も、バイトも、家のことも全部。

だってせっかく高校に

通わせてもらっているんだから、

それなりに恩を返さなきゃ。

真面目に、誠実に。

誰よりも。

それこそ、お兄ちゃんすらも

超える気持ちを持って。


寧々「ふぅー。」


長く長く息を吐いて、

それから手に垂れる

エコバッグを力強く握った。

生活が大きく変化してから、

もう1年と少し経たらしい。

私はまだまだお兄ちゃんに

追いつくことすらできていなかった。





***





寧々「ただいま。」


エコバッグを僅かにかさかさと鳴らしながら

家の中へと入って行く。

生まれてからずっとマンションで

暮らしているものだから、

エレベーターのある暮らしが

所謂普通になっていた。

それが、この前友達の家に行けば

一軒家だったもので、

家の中に階段があったのだ。

それ自体は普通のことであるはずなのに、

何故か新鮮に見えたんだっけ。

新鮮に見えたのはきっと

階段が理由じゃないだろう。


私の家は大きくはない。

玄関を入ってすぐにキッチンと

ダイニングが広がっており、

トイレや風呂場、

そして2部屋の洋室がくっついている。

そのうちひと部屋は閉ざされ、

今は使えない状態になっていた。

私ですら入ることはできない。

正確に言えば、入ることを禁止されていた。

今となってはこの狭さにも、

ダイニングに布団を引いて

眠ることにだって慣れ始めていた。


家は変わらず薄暗い。

そしてなにやら人の声がすることに気づく。

いつものようにテレビをつけているらしく、

がはは、と笑い声が響いてきた。

バラエティでも見ているのかな。

恐れることなくダイニングに入り、

お母さんのいる部屋を一瞥した。

また窓も開けずにタバコを吸っているせいで

室内全体が煙たくって仕方がない。

いくら洗濯しても匂いがつくから

やめてほしいなんて昔口にしたっけ。


寧々「冷蔵庫の中に買ったもの、入れておくね。」


お母さん「何買ったの。」


寧々「卵と牛乳。後はちょこっと緑黄色野菜と、簡単に食べられるようにと思って出来合いのものを…」


刹那。

がんっ、と大きな音が耳を劈く。

無意識のうちに肩がびくりと

大きく震え上がっていた。

冷蔵庫に食材を入れる手が止まる。

持っているものを落とさなくてよかった。


お母さん「今月は食費のこと考えるって言ったのに、何よそれ。」


寧々「ちがっ…」


お母さん「ったく使い物にならないわね。佑ならもっと上手くやるでしょうに。」


たすく。

その名前を出した後、

お母さんは決まってため息を吐く。

数時間後にはぐずぐずと

泣き出す時が屡々あった。

佑は私のお兄ちゃんで、既に亡くなっている。

お兄さんが事故で亡くなってから早1年と少し。

お母さんがこうなって

しまった原因もそれだった。


お兄ちゃんは私から見ても

清々しいくらい表裏のない好青年だった。

それに加えて勉強は上の下ほどできる。

運動こそできなかったけれど、

人付き合いの上手な人だった。

愛想のいい人だった。

信頼できるだとか優秀だとか、

そんな言葉の似合う人だった。


休日はよくバイクに乗って

出かける姿を見かけた。

私はいつも楽しそうだなって

思っていたんだっけ。

お兄ちゃんの運転するバイクの

背中に乗せてもらったこともあった。

けれど。

お兄ちゃんはバイクで事故を起こし

あろうことか亡くなってしまった。


お母さんはお兄ちゃんを溺愛していたから

尚更ダメージが大きかったのだろう。

そんなお母さんをそのまま

放って置くわけにもいかず、

私は家事を手伝い、バイトを始めた。

反面お母さんは家に引き篭もるようになった。

お父さんはいつからだろう、

いないものだったから

頼りにすることはできず、

窮屈な2人暮らしが始まった。


お兄ちゃんを超える存在になる。

真っ当な人生を送る。

お母さんを失望させない。

そのために私は生きている。


静かに切ってきた食材を

冷蔵庫の中へと仕舞う。


寧々「ごめんね、お母さん。今度からは別のにするね。」


お母さんはいつも家にいるから

食べやすいものがあれば良いだろう、

体にいいものがあれば良いだろうと

思って買ったものは、

全て無駄扱いされてしまった。

何を言われても同じようにかわしてきた。

これでも随分と慣れてきた方だ。

それでも未だ心にぴし、と音を立てて

ヒビが入ってゆく。


冷蔵庫に突っ込む手は

みるみるうちに冷えていった。

食材をしまい終え、冷蔵庫を閉める。

ぱたんと空虚に響いていく。

がしゃがしゃとテレビは騒ぎ続ける。

徐々に赤くなる日差しが

畳の隅をちりちりと燃やし出す。


寧々「じゃあお母さん、バイト行ってくるね。」


お母さんはこちらへと振り向くこともなく

テレビの方へと顔を向けた。

私のことは見てくれなくても、

私はお母さんのことを見捨てないし

裏切りたくない。

生活のことや勉強のことに

口を出してはくるけれど、

それは全て私のことを思って

してくれているとわかっているから。

だから私はここから逃げ出そうだなんて

考えつかなかったんだろう。


床に転がっている布団の上には

バイトに行くための準備を終えた

鞄が放られていた。

今日の朝、私が忘れないようにと

置いたものだった。

鞄を手に取り玄関へと向かう。

一瞬のうちに冷えてしまった靴に

足を突っ込むと、

足の裏から骨を残して

全てが溶けていくような疲労を感じた。


寧々「行ってきます。」


お母さんはこちらを見ない。

声だって掛け返さない。

私は目を細めて眉を下げ、

困ったように微笑んでいた。





***





寧々「いらっしゃいませ。当店ではー」


セール中だと知らせる看板が

至る所に飾られ始めている。

春服の時期だというのに

アパレルショップには既に

夏服が多く並べられていた。

何人かの顔見知りの店員と共に

バイト時間を難なくやり過ごす。


まだ春休み期間だからか

若い人が多いように見えた。

夕方のため、社会人の姿も

ちらほらと増え出している。

夜になれば、ここら一体は

帰宅途中の社会人で溢れそうだ。


「吉永さん。こっち来てもらえる?」


と、裏の方から声がかかる。

近くにいたために、

そんなに大きな声を出さずに済んだ。


寧々「はい、すぐ向かいます。」


今行っている作業を止め、

なるべく早くにその声の方へ向かう。

髪の結び目をきゅっと上にあげて、

気合いを入れ直すのだった。

でも。


寧々「…。」


こころのいないバイト時間は

なんだか淡白でつまらなかった。

他の同期の子や先輩、後輩は

とても親しくしてくれている。

話していて楽しいと思う時もある。

くだらないことで笑い合うこともある。

なのに心のどこかに溝があり、穴があり

そこにずるずると流れて行く。

誰といるのも満たされないのだと

いつしか諦めている私がいた。


けれど、こころと出会ってからは変わった。

こころといると安心するのだ。

それは紛れもなく

私たちは変わったもの同士だから。

普通ではないというお揃いが、

私の心の穴を埋めた。

いつ以来だろう。

人といて安心できた。

繕わなくて、作らなくていいんだと思うと

ほっとしたんだっけ。


お互いの普通ではないところを知った。

背骨を両手で掴まれたような感じがした。

怖くて、でも受け入れてもらえて嬉しかった。


だからこそ、普通の関わりじゃ

満たされないことをより鮮明に

知ってしまった。


それは今目の前にいる、

いつも私によくしてくれる

社員の人だってそうだ。


「お仕事中ごめんね。」


寧々「いえ、全然。」


「吉永さん、休憩してきたら?10分15分くらい休みなよ。」


寧々「いいんですか?」


「だって最後まで入るでしょ?それに、今日人の入りそんなに良くなさそうだし、大丈夫。」


寧々「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。」


「はーい、ゆっくりしてきてね。」


面倒見のいいお姉さんといえばいいだろうか、

その社員さんはよく周りのことを

見ている人だった。

表に長くいる人を見ては

さっきのように少し休むよう促してくれる。

優しい優しい先輩。

ぽかぽかと体が芯から

暖かくなるような気持ちはする。

けれど、この暖かさは家に帰れば

最も簡単に溶けてなくなる。


寧々「…お兄ちゃんみたいになれるのかな。」


真面目な人間という

理想像を持ったはいいものの、

そこから抜け出せずに

親しい人とも敬語で話す私が。

分かり合えないと察した瞬間

距離をあける私が。

心の底から人と繋がり関わっていたいのに、

恐れて逃げている私が。

お兄ちゃんみたいになれるはずがない。

自分が1番分かってる。

今の私がどれほどつぎはぎして

作られた表面上のものなのか、

私だけが理解している。


休憩室に入り、水筒に入れて

持ってきていたお茶を飲む。

あまり飲みすぎても

良くないとは思いながらも、

結局気の済むまで胃に通した。


寧々「ふう…。」


10分も何をしよう。

お茶を飲むだけであれば5分もいらない。

微妙な時間が残される中、

ぼうっとするのも疲れてしまい

徐にスマホに手を伸ばした。


ふと目に入るのは色々な

アプリからの通知。

そのひとつに、青い鳥のマークが

あったのを見逃さなかった。


Twitterでまでも真面目ぶらなくて

いいんだと不意に思った私は、

それ以降気になっていた

ゲーム実況者界隈のアカウントを

持つことにした。

他にもいろいろ種類がある中で

ここを選んだのはきっと

私を真面目じゃなくしてくれると

思ったからだと思う。

たまに動画を見るのは面白かった。

家で布団に潜り、

お母さんにばれないよう

イヤホンをつけて人の声を聞く。

修学旅行で携帯を持ってきたような

どきどきした気分にはなれた。


しかし、毎日投稿する人もいる中

段々と追えなくなり、

今では気が向いた時に見るようになった。

それもひとつの追い方だろう。


何かしら界隈での大きな情報が

舞い込んできたのかもしれない。

そう思った私は珍しくバイト先で

Twitterを開いたのだった。

しかし、目に入るのは

これまでの私のツイートばかり。

あまりのおかしさに違和感が募るも、

硬直してしまい何もすることができない。


寧々「何…。」


「吉永さん、ごめん!」


その時、ばたばたと先輩が

休憩所に入ってくる。

慌ててスマホを背中に隠した。


「大丈夫って言ったんだけど急にレジ並んじゃって。手伝ってもらえる?」


寧々「はい、もちろん。」


「ごめんね、ありがとう!」


スマホを鞄の中に突っ込む。

胸騒ぎがすることにようやく気づいた。

家に帰ってからもう1度、

冷静になって見返してみよう。

穏やかに、冷静に。

そう唱え続けながら仕事場に戻った。

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