第五話 冬の終わり
私は、フェンスに背を預け、星空を見上げた。夜の屋上は冷え込んで、やたらと寂しい。
しばらく待っていたら、屋上の扉が開いた。
月明かりに照らされ、すらっとした人影が浮かび上がる。青白く光る銀髪が神秘的で、息を呑んだ。
人影は、こちらに向かってしずしずと歩いてくる。そして、正面まで来て、私を見据えた。
「……ノナ」
いつになく儚げな佇まいは美しく、だからこそ悲しい。
私は、できるだけ普段の調子で笑ってみせた。
「お久しぶりです。って言っても、会ってないのはほんの数日なんですけどね」
「ああ……」
ヴァルさんの声は掠れていた。
私は勇気づけるようにヴァルさんの手を握る。
「ここから、逃げましょう」
しかし、ヴァルさんは力なく首を振った。
「無理だ」
「無理じゃないです」
「無理だ!」
ヴァルさんは叫んだ。
そして、引きつった笑みを浮かべた。
「大丈夫、俺はこの学校でそこそこに楽しくやってるから。心配してくれたんだろ、きっと。でも、大丈夫だからさ。侵入騒ぎについてはアイゼンシュタット家の力でなんとかする。だから、もう遅いし、帰れ。夜道は危険だから、護衛もつけさせよう。これで問題ないな。よし、それじゃあ帰ってぐっすり寝てくれ。俺のことなんて忘れて」
「帰りません」
私は強情を張った。意地でもヴァルさんの手を離さないつもりだった。
「楽しいなんて、嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「聞きましたよ、友達もできなくて先生にも怒られてばかりだって」
「それでも楽しいもんは楽しい」
「じゃあ何が楽しいのか言ってみてくださいよ」
「それは……」
ヴァルさんは言葉に詰まった。
私はその隙を追撃する。
「ほら、答えられないんでしょ。楽しくないことを続けて、なんの意味があるって言うんですか」
「意味はある。実績ができるから。現実から逃げなかったという実績。ヒーローになれたっていう実績が」
「ヴァルさんの言うヒーローって、一体何なんですか? ヒーローって、もっと夢にあふれていて、心躍るものなんじゃないんですか?」
「ヒーローが守るのは現実だ。日常だ。そして、それを続けるには、社会の一員でなくちゃいけない」
「そうやって、自分をごまかしてるだけなんじゃないんですか?」
「でも、あのまま逃げていたら絶対ノナにつらい思いをさせていただろ」
「わかんないじゃないですか、そんなの」
「いいや、そうに違いない。だから俺は、きっと、間違っていない」
埒が明かない。心が折れそうだ。
こんなヴァルさん、見たくなかった。これじゃあまるで、ただの大人だ。
しかし、戦うことをやめてはいけない。まだ、可能性は残っている。
なんとかして、削れてしまったものを取り戻すのだ。
「それがヴァルさんの、正義だとでも言うんですか」
「ああ」
「独善的ですね」
「正義なんてたいがいそんなもんだろ」
それは、そうかもしれない。
だけど、私はヴァルさんの正義を明確に否定したい。
私の大好きな魔法少女モノのシリーズには、一貫してこういうテーマがある。
『友達を助けていたら、いつのまにか世界を救っていた』
正義とはつまり、そんなものなのだと私は思う。たいそうな響きで覆い隠されがちだけど、実は意外と、小さなものなのだと思う。
いや。
それらしいことを引用して、したり顔で語ってみたものの、きっと私の思っていることはそんな小綺麗なものじゃないのだ。
正義なんて、どうだっていい。私はもう、自分自身で手一杯だ。
だから結局、私が言いたいことは、ただのわがままで、自分勝手だ。
私は、ヴァルさんの胸ぐらを思い切りつかんだ。ヴァルさんは目をまん丸くした。
勢いのまま、私は叫んだ。
「私を悲しませておいて、何がヒーローですか!」
言い放ってから、これはまたずいぶんなことを言っているな、と思う。
だからこそ、この言葉には嘘偽りがない。
ヴァルさんは、一瞬息をつまらせた。瞳が悲しげに揺れた。
「……ごめん」
ヴァルさんは目をそらして消え入りそうな声で謝った。
後悔した。
胸が痛い。
自分の本音が相手を傷つけたとき、他のどんな言葉を投げかけたときよりも辛いのだと知った。
だけど私は言葉を続ける。
「現実に、負けないでくださいよ。ヴァルさんにだけは、負けてほしくない」
「現実に従ったほうが、みんな喜ぶ。迷惑をかけずにすむ。慣れちまったらどうってことないんだ、心を消すことは」
「そんなの嘘ですよ!」
「嘘じゃない」
ヴァルさんは、らしくないシニカルな笑みを浮かべた。
「そうしなければ生きていけない状況に置かれるとさ、不思議とできるようになってるんだよ、なんでも」
「できる気になってるだけですよ、そんなの」
「できてる」
「できてない!」
一向にお互いの言い分を聞こうとしない、最悪の喧嘩だった。
凍てつく空気が肺に染み込む。冬の夜だ。
このまま話しても平行線なのはわかり始めていた。ここらでなにか決定的な一手を打たなければいけない。
考える。何か眼を瞠るようなアイデアが降りてこないか考える。
しかしアイデアはうんうんうなったところで出るものじゃない。
「なんにせよ、俺は大丈夫だからさ。心配しないでくれよ。呑気に、幸せに生きてくれよ。頼むからさ」
ヴァルさんはさみしげに笑って私の両手を握った。
「できませんよ、ヴァルさんがいないのに」
「そんなことない。俺がいたって不幸になるだけだ」
「なんでそんなこと言うんですか!」
「だって俺は、宇宙人だから」
月の光がヴァルさんの白い顔を映し出す。妙に説得力があった。
「みんなとは違うリズムで生きていて、だから周りの人に知らず知らず迷惑をかける。宇宙人みたいな存在。今までは、これでいいんだって思ってたけどよ。……でも、変わっちまったんだ」
「なんで」
すると、ヴァルさんはすっと人差し指をこちらへ伸ばしてくる。
「ノナが、いるから」
「……」
ヴァルさんは人差し指をもとに戻した。
「普通になりたいって思った。迷惑かけたくないって思った。ノナが髪を切ってまでこの学校に侵入してくれたとき、本気でそう思ったんだ。初めてだった。だから、真人間になって、もう迷惑かけないようにしなきゃなって、決めたんだ」
「っ……」
言葉に詰まった。
胸の真ん中がひりひりして、喉の奥にやるせなさがつっかえる。必死に飲み下そうとして出てきたのは涙だった。気づけば止まらなくなっていた。
「ヴァルさんは、おかしいです!」
なんとかひねり出した絶叫は、嗚咽混じりでなにがなんだかわからなくて笑ってしまう。
「私のことなんて、考えなきゃいいのに」
私みたいな情けない人間のことなんて、放っておけばいいのに。
そう言いながらも、本当は胸がいっぱいで仕方がない。
純粋な好意は、純粋ゆえ心にぐっさり刺さってくる。嬉しすぎて痛い、わけのわからない感情になる。
ただ、一つ言えるのは。
絶対、絶対、絶対に、ヴァルさんを手放したくないということ。
考えろ、考えろ、考えろ。何を言えば、ヴァルさんは一緒にいてくれる? 何を言えば、寂しくならない? 何を言えば、ハッピーエンドだ?
周りを見渡す。
張り巡らされたフェンス、広がる空、コンクリートの地面。
どこをとっても典型的な屋上だ。
だけど私にとって、屋上というのは特別な場所だ。
脳裏に浮かんだのは、銀色の猫のふわふわした毛並みを撫でる自分の姿だった。
「寂しい、寂しいよ」
私は猫に話しかけている。夕暮れの窓辺、カラスの鳴き声、五時のチャイム。ひとりぼっちで銀の猫を撫でている。
猫はにゃあと鳴いた。何も考えてなさそうな、のんきな鳴き声だった。私は泣いた。
だけど猫はいつしかいなくなってしまった。私の腕からするりと抜けて、遠くへ走り去ってしまった。それきり。
「私は」
私は猫に倣うように逃げた。元の世界の、現実から。
「私は」
私はフェンスに登って、だけど向こう側に降りられなくて、見世物になって。
「ノナっ」
こうして、下から見上げられて。
気づけば私はあのときの行動をなぞるようにフェンスにまたがっていた。
「やめろっ、何しようとしてるんだっ」
ヴァルさんが手を伸ばしてくる。逃げるように向こう側に行こうとすると、身体強化のおかげか、綺麗に着地することができた。
一歩踏み出せば、落ちる。
私はヴァルさんとフェンス越しに向かい合った。ヴァルさんは、「戻ってこい、戻ってこい!」とひたすらに叫んでいる。
「ねえ、ヴァルさん。喪失の痛みって、とんでもないんですよ」
静かに切り出した。ヴァルさんはピタッと黙り込む。
「元からないより、ずっと痛い。だって、誰かが居る幸せを知ってしまったから」
夜の空気がいっそう冷える。
「元の世界では、銀色の猫が私のそばにいてくれた。でも、いきなりいなくなって。本当に、ひとりぼっちになってしまったんです。だからこうして、屋上から飛び降りて死のうとした」
「ごめん……ごめんなぁ」
ヴァルさんが俯いた。胸が痛むけれど、続ける。
「もちろん、そのほかにもいろいろあったけど。一番、辛いんです。大事なものを失うのは」
そう、一番辛かった。友達をなくして以来、私の話を唯一聴いてくれた存在を失うのは。
ひとりぼっちは、やっぱり寂しい。歳を経て、大事なものができた経験と大事なものを失った経験を経て、実感する。
温もりが、欲しい。
いつでも寂しさを紛らせていたい。
私は、寂しい。
いつも寂しくて寂しくてたまらないのに、現実は難しいものを押し付けてくる。だからみんな負けてしまう。ある者は感性を削って。ある者は将来に妥協して。
そしてある者は、
「このままだと、私は死にます」
自ら命を絶って。
「いやだっ、いやだっ!」
「だって、一人で生きていけるほど、現実って簡単じゃないです。ヴァルさんも、同じでしょう?」
そうなのだ。
一人は寂しい。幸せを知っていれば知っているほど。
私は幸せを知ってしまった。周りに人がいてくれることの楽しさを、この世界に来てより強く感じた。
ヴァルさんも、そうであってほしい。かっこつけてみせたって、本当のところ、一人じゃ生きられないはずだって信じていたい。
「このまま私が死んだら、きっと共倒れですよ。だから、戻ってきてください。あの城に」
もはや脅迫にも近かった。地雷系のファッションも相まって、今の私はさしずめ「好きって言ってくれなきゃ死ぬ!」と叫ぶメンヘラだろうか。
それでもやっぱりヴァルさんと一緒がいい。今の私はもう、誰も失いたくない。
誰かを失うのは、悲しすぎる。
「……わかった」
ヴァルさんは、一言そう言った。
「わかったから、頼む、死なないでくれ」
二言目にはそう続けた。
「本当の本当にわかりましたか?」
「ああ」
「この学校から逃げるんですよ?」
「そうだな」
「お父さんにはなんて言うんですか?」
「わかんねーけど、なんか考えるよ」
ニカっと笑った。久しぶりの、屈託のない笑顔だった。
それを見て、ふっと全身の力が抜けた。
やっぱり、ヴァルさんは笑っている方がいい。
この笑顔がそばで見られるんなら、それ以上のことはない。
「それじゃあ、約束ですよ」
「ああ!」
私たちはフェンス越しに小指と小指を絡ませた。ゆびきりげんまんの歌を歌った。ゆびきった、と言ってお互いの指をほどいた。
その瞬間、風が吹く。
やや強めの夜風だった。
しかし……どうしてだろう。どうしていつもこうタイミングが悪いのだろう。
わずかにバランスを失った私はふらついて、あろうことか一歩後ろに下がってしまった。
しかし、その先には何もない。
身体の重心が後ろにずれる。
ふわっと一瞬浮いた。ようやく、これはまずいなとわかった。
そしてすぐに落下していく。
「ノナっ」
ヴァルさんが思い切り跳躍した。
フェンスを軽々と越えて、後を追うように落下してくる。
星の輝く夜に、落ちてゆく二人だった。
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