第二話 サイケデリック・トリップ

「たいしたことないんですって」


 アルトゥル君は、近くにある総合病院の一室に入院していた。


 私が向かったときにはすでに処置は終わっていたらしく、病室に駆け込んできた私を、包帯が巻かれた右手首を軽く挙げて出迎えてみせた。


「おおげさですよね、軽い怪我なのに入院、おまけに個室って」


 ベッドの脇の丸椅子に座った私に、アルトゥル君はそう言った。やけに声のトーンが高い。


「でも、気絶したって」


「痛みで気を失っちゃったんですよ。まったく情けないですよねぇ、バカバカしいですよねぇ、あっははははははははっ」


 今までに見たことがないくらいの大笑いだった。


 私はだいぶ、心配になった。


「あの」


「あんなに痛かったのに傷が浅くて致命傷にはならなかったんですって。それであの痛みなら、死ぬ時にはどれくらい痛いんでしょうねっ」


 私が何か言おうとしても、アルトゥル君は壊れたテンションでまくしたてる。


「明日には退院ですよ。仕方ないですよね、こんな雑魚すぎる怪我ですもん。むしろ今日一日入院させてもらえたのが奇跡です。いやあさすが天下のアイゼンシュタット家ですよね、待遇が違う。まあ僕はとっくのとうに絶縁されてるんですけどねなーんて自虐かましちゃいましたすみません」


「アルトゥル君」


「カッター持った時、手が震えて仕方なかったんですよ、もう面白いくらいに! 痙攣ですよ痙攣! しかもなんか呼吸も変で、喉の奥からひゅうひゅういってたんですよ!」


「ねえ」


「他になんかやりようがないのか、怖くて怖くて仕方なくて、思考はどんどん空回りして、前にもこんなことがあったなあと思いを馳せて、でもそのときは怖気付いて何もできなかったんですよ! そんな自分が情けないから、今度こそは本当に死んでやると覚悟決めたんですけど!」


「アルトゥル君!」


「結局、なによりも情けない結果になりました」


 アルトゥル君の笑顔が、消えた。


「本当に死ぬつもりなら、部屋を閉め切って、練炭を焚いて、睡眠薬をオーバードーズしたうえで、手首を切るなりして念入りに死ねばよかったんです。僕は甘かった。笑いものです、これじゃあ」


 アルトゥル君は、ちっとも笑っていなかった。


「ノナさんはきっと、嫌いになりましたよね。散々不幸ぶって、何もかもから逃げ出して、みんなに迷惑をかける僕のことを。……そういえば、ヴァル兄さんは行ってしまったんでしたっけ、聞きましたよ。じゃあ尚更だ。いろいろ大変でしょうに、こうやって来て下さったノナさんに延々と自分語りを垂れ流す僕は、イライラして仕方ないでしょう」


「そんなことないよ」


「気を遣ってもらわなくて結構ですよ」


「違うよ。……今は、そんなアルトゥル君が、ちょうどいいんだ。それに、私もアルトゥル君と一緒だよ。ついさっきまで、死のうと思ってた」


 アルトゥル君の、嘘をつかないところが好きだ。なんでもかんでも自分から話してくれる、その身勝手さが好きだ。私も嘘をつかなくてすむ。惨めにならなくてすむ。アルトゥル君とはいつだって、生身でぶつかり合える。


 アルトゥル君は、私を見た。食い入るように見た。そして黙っていた。


「……じゃあ、今度こそ二人仲良く一緒に死にますか?」


 それは心中の誘いのはずなのに、一ミリもロマンチックじゃなかった。思えばこんなことばかり話しているような気がする。私たちみたいな暗い若者は、いつだって希死念慮に追われている。


 こんなんだから、私たちはダメなのだ。


「それは、できないよ」


 私はきっぱりと言い切った。


「じゃあどうすればいいんでしょう、僕たちは」


 アルトゥル君は私の答えになんの感情も見出さなかった。無感情に、そう言うだけだった。


「どうすればって、それは」


 そんなんわかったら苦労しない。生きることはすり減らすことで、常に未来は鬱々としている。楽しいことを見出すには、私たちはちょっと深く考えすぎてしまう。


 しかし、そんな真実に気づいてしまったら、残された最良の選択肢は自死しかないのだ。いくらたまには良い日があるとはいえ、基本的に満たされない毎日が続くだけだから。


 ならばせめて、最良の選択肢から目を逸らせるほどサイケデリックな現実逃避を見つけるしかない。クスリでトリップするレベルに気を紛らせる、イカした何か。


 何か。

 何かって、なんだ。


 しかし考えなければいけない。私たちは考えなければいけないのだ。一時でも苦しみを忘れられる、最高の何かを。


 考えるんだ!


 大きく深い海の底をさらうような途方もない思案の末、私は一つの天啓を得た。


 原点にして、幻想の象徴。


 代償行為としての、創作だ。


 思いつくと、口が勝手に動き出したのかと疑うくらいすぐに、そして饒舌に語り出せた。


「アルトゥル君、いいアイデアを思いついたよ! 小説を書くんだよ。小説の中で、自分にいいようにすべての出来事を上書きするんだ。そうすれば、どうにもならない鬱屈も、悲しみも、不甲斐なさも、全部が嘘で塗り変わる! いなくなった人とも、遊び続けられる! 綺麗な自分の姿で、だよ!」


 いきなり早口でまくし立てた私を、アルトゥル君は引きつった表情で見た。


 一瞬、沈黙が訪れる。


「ははは」


 アルトゥル君が、笑った。最初は無理に口角を上げていたようだけど、次第に本物の笑いに変わる。


「はははははっ、いいですね、それ。いかしてます、最高です。登場人物はみんな現実にいる誰かをモデルにしましょう。それで、現実で満たされない欲求を創作の中で満たしましょう! こんなしみったれた世界じゃなく、もっと夢のあるファンタジックな世界にみんなを住まわせて、現実の苦しみも、悲しみも、僕たちの手で消し去るんです。これで世間に出して大ヒットなんてなったら文字通り儲けものですよ! うっひょー、テンション上がってきたぁぁぁぁぁっ!」


 ハイになって拳を突き上げる。


 私は、最高、最高、と連呼してその場でくるくる踊る。アルトゥル君は狂ったように笑う。


 私達はもう無敵なのだ。これまでも、これからも、どんなに辛いことがあろうとも、自分の力で作り変えられると知ったのだから。


 だから、無敵なのだ!


 そうでしょう?


 どこに問いかけるでもなく問いかける。


 答えは、どこにもなかった。

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