第五章 憂鬱は数え切れない
第一話 ヒーローの船出
目を覚まし、肩のあたりに違和感を覚えた午前八時半。髪が肩より長いくらいまでに伸びた姿を化粧台の鏡で確認し、愕然としていたところ、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「ノナちゃん、起きてる?」
それは、ルーカスさんの声だった。
夢か現か判別がつかないまま「今起きたところです」と言うと、
「準備し終わったら食堂に来て。話があるから」
淡々とそれだけ告げて去っていってしまった。
ぼんやりとした意識のまま、着替え、髪を櫛でとき、共同の洗面所に行くため部屋の外に出ると、だんだん意識がクリアになっていく。
ルーカスさんは、私の髪がいきなり伸びた原因について何か知っていて、それについて話してくれるのかもしれない。
洗面所で顔を洗って口をゆすいだ後、食堂に向かう。
ルーカスさんは、一番奥の、周囲に誰もいない席を既にとっていた。というか、よく見てみたら食堂内にはほとんど人がいなかった。
この時間帯なら、いつもはまだ朝食をとっている人も少なくないというのに、一体どうしたのだろうか。
「人、いませんね」
そう言いながらルーカスさんの前の椅子を引くと、ルーカスさんは、
「それどころじゃないからね、いろいろと」
と表情ひとつ変えずに言った。
含みのある感じにざらつきながら、席に座る。
テーブルの上にはすでに今日の朝ごはんが二つ分並べられていた。こんがり焼いたバタートースト一枚に、サラダ、スクランブルエッグ、ウインナーのワンプレート。くぅ、とお腹が鳴った。
「いただきます」
ルーカスさんが手を合わせてそう言い、サラダを食べ始めた。何か大事な話をするんじゃなかったのか、と思いながらも空腹には抗えず、「いただきます」と私も言って倣うようにレタスにフォークを刺す。もぐもぐと咀嚼していたところ、ルーカスさんは何気ないふうにこんなことを抜かした。
「ヴァルデマールがいなくなった」
ごくり、とレタスを飲み込む。
「……なんて?」
「ヴァルデマールがいなくなった」
どうやら幻聴ではなかったらしい。
「いなくなったって、それって、どういう意味で」
「一足先に学校の寮に引っ越した。自分を変えるためにね」
「嘘でしょ」
自分を変えるため、だなんて、ヴァルさんが言いそうにないことだ。だって、ヴァルさんは変わらないことを望んでいたのだから。
ルーカスさんは冷めた表情のまま、懐から封筒を取り出す。
「証拠なら、この中にヴァルデマールの手紙が入っているからそれを読むといい」
のりで留まった封を勢いのまま力任せに開け、びりびりになった切り口から折り畳まれた便箋を取り出す。
そこには、たった一言、こう書かれていた。
『ヒーローになってくる』
「なんですか、これ」
「ヴァルデマールが、ノナちゃんに向けたメッセージだ」
そんなのはわかっている。
「わけがわかんないですよ。こんな一言で、なんでいなくなっちゃえるんですか」
「かっこつけたいんだよ、あいつ」
「知ったような口きかないでください!」
思わず叫んでしまった。
ルーカスさんは、そんな私をなんの感情もこもっていない瞳で見た。
その瞬間、今すぐこの場から逃げ出したいような恥ずかしさが湧き上がってきて、気まずくうつむくことしかできなかった。
「知ったような口、もなにも、僕はヴァルデマール本人から君も知らないようないろいろなことを伝えられた。あいつには君に伝えないように言われたけど、知っての通り僕はあいつのことが大嫌いだろ。だから、全部教えるよ」
そして、滔々と語り出した。
「あいつは、実のところ最初から運命に逆らうつもりはなかったんだ。そりゃそうだよね。暗殺者か学校行くかっていう二択なら、誰だって後者を選ぶ。
それに、もっと前から、この現状をどうにかしなければいけないということはわかっていたんだ。ただ、見ないふりをしていただけでね。だから、現実と向き合う機会が降ってきて、本当のところほっとしたって言っていた。
だけど、押し付けられたことに従順に従うのは、納得がいかなかった。結局、流されているだけだということになってしまうからね。
そこで、君が髪を切ってまで学校見学についてきて、一緒に逃げることを提案してきた。確か、ヴァルデマールはそれに頷いたんだっけ? でも、本当のところ、そこで決めたんだ。学校に通うことを」
その瞬間、鼻の奥がツンとする。
「なんで、ですか」
想像以上に自分の声は震えていた。
「わ、私のこと、嫌いになったんですか? 私と一緒に逃げることが、いやだったんですか? でも私、ヴァルさんの感性を、夢を、守りたくて、ヴァルさんと一緒なら、どこへでも行きたかったんですよ。その思いは、伝わって、なかったんですかぁ?」
最後の方はほとんど泣きそうになっていた。
「君の気持ちが伝わってたかは、わからないけどね。ひとつ言えるのは、あいつは君のことが本当に好きだったということだよ。君が大切だから、君の覚悟を見て、変わらなければいけないと思った。その結果が、これだよ。君の髪は、自分のことを忘れて生きていってほしいっていう、あいつのエゴだ。君が寝ている間にこっそり魔法をかけて伸ばしておいたらしい」
ルーカスさんは、言いながら気だるげにトーストを一口かじった。
「これを聞かされたのが、朝の五時でね。まったく非常識なやつだよね。寝起きの人間にこんな重い話をしてさ」
なんでもないふうに、トーストを食べすすめていく。
「ルーカスさんは、どうしてそんな落ち着いていられているんですか」
詰問するような口調になってしまったのは、許してほしいと思う。
ルーカスさんはしかし、トーストを齧りながら遠くを見てこう言った。
「一度ね、ショックすぎることを経験したから。もう、心が麻痺しているんだ。悲しくなりすぎないように、免疫ができているんじゃないの、きっと」
「寂しいって言う気持ちも、湧かないんですか」
「さあ、どうだろう」
でも、と続ける。
「あいつから、ノナちゃんのこと頼まれたからさ。それだけは、果たそうと思う。心がすり減った僕には、仕事をこなすことしかできない。……手始めに、栄養管理だね。ほら、全然食が進んでないみたいだね。どんな気分だろうと、ご飯はしっかり食べた方がいいよ」
「……はい」
トーストに口をつける。もうすっかり冷めていた。
ルーカスさんに言われるがまま朝ごはんを食べたけれど、結局二、三口食べた程度で猛烈な吐き気がやってきて食べるのをやめざるを得なかった。
しかし、食事をやめたところで吐き気はやまなかった。何をするにしても、学校に行って自由を奪われるヴァルさんのビジョンや、ヴァルさんがいないで生活する悲しさが浮かんできて、ひたすらに不安感が背中にのしかかってくる。
死のうかな。
この現実から、人生から、逃げたい。
死ぬんだとしたら、ひそかに、誰にも見つからないようなところで死にたい。窓から派手に飛び降りてやろうという気持ちはもうなかった。誰にも引き留められたくない。なるべく誰にも迷惑をかけたくない。
部屋に戻って、何かいい感じの刃物でサクッと右手首を切ってやろうか。それとも、首を吊ろうか。
空腹に由来する目眩で足もとがふらつきながら、自室に向かう道すがら、廊下の隅で固まって井戸端会議をしている清掃員のおばさん二人が目に留まる。
「自殺未遂ですって」
その言葉に反応して立ち止まった。
一体なんでそんな単語が。気になって、おばさんたちから数メートル離れたところから、会話の内容をうかがう。
「ただでさえろくでなしのごくつぶしなのにねえ」
「ごくつぶしだからよ。自分でも自分に嫌気が差しちゃったんじゃないの?」
「そりゃそうよねぇ。アイゼンシュタットの人間だからここに住まわせてやってるだけでねえ」
「当主様からは絶縁されてるんでしょ? あたしだったらもう恥ずかしくってとっくに」
「誰の話ですか」
絶縁、という言葉を耳にしてすぐに二人に近寄って話に割り込んだ。
脳裏によぎる顔は、ひとつ。だけど、信じたくは、ない。
おばさん二人は、ただならぬ様子の私に目をひん剥きながらも、こう言った。
「誰って、あんた知らないの?」
「昨晩、アルトゥル・アイゼンシュタットが自室で手首を切って気絶した状態で見つかって、病院送りになったのよ」
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