第七話 さよならも聞けずに
「どこに行きたいですか、ヴァルさんは」
「そうだなあ。やっぱ海かな海。俺、実は海って見たことないんだよ」
立つ鳥跡を濁さず、と言う。
その言葉通り、旅への準備をしたときに部屋を整理した。もともと物が少ないからそんなにやることはなかったけど、ちょっとした私物を撤去するだけで自分の部屋だったものがこんなにも他人行儀になるのか、と驚いた。
そんな他人行儀になった部屋の窓際、化粧台の前に並べられた椅子二つにそれぞれ向かい合って座り、私とヴァルさんはこの先のことについて言葉を交わす。
「映像で見る海も綺麗だけどさ、やっぱ実際行きたいよな。誰もいないビーチで砂の城作ったりとか」
「はは、ロマンチックですね」
ヴァルさんはにこにこ笑っている。追従して笑うも、なんだか虚しい。
「ノナ?」
ヴァルさんが顔を覗き込んでくる。
「なんですか?」
「ノナは、どこに行きたい?」
そんなこと、考えてもいなかった。
まだ脳裏にアルトゥル君の影がちらつくのをなんとか無視して、いろんなビジョンを浮かべてみる。
「そうですねぇ、いっぱいありますよ。楽しそうなところなら、どこへでも行ってみたいです」
「たとえば?」
「なんでしょうかね……ヴァルさんの言った通り、海とか。私、泳げないので水辺で遊ぶくらいしかできそうにないですが」
「おっ、いいな。他には?」
「世界的に有名なスポットには行っておきたいですね。ナイアガラの滝みたいな……って言ってわかります?」
「あれだろ、でっけー滝。お前んちのテレビで特集やってんの見た気がする」
「そんな感じの、観光名所には行っておきたいですね」
「ふむふむ」
話しているうちに、だんだんと暗い気持ちが晴れてきた。この世界に広がる、まだ見たことのない、たくさんの美しい風景。
それをヴァルさんと一緒に見て回るんだ。そして、ヴァルさんにその風景を描いてもらう。実物よりずっと綺麗な色彩で、ヴァルさんの世界を。
「ヴァルさんがいれば、どこだって楽しいですよ」
いかにも嘘くさいセリフだが、事実だった。私にとって重要なのは、どこに行くかじゃない。ヴァルさんと旅に出るという行為そのものに意味があるのだから。
ヴァルさんは、私のセリフを聞いて急に真顔になった。やけに真剣そうな顔、と言った方が正しいか。
そして、しばしの沈黙。
「なあ」
「なんです」
「もし、旅の途中で、俺がいなくなったらどうする」
「へ?」
いきなり不穏なことを言い出した。
いったい、ヴァルさんは何を考えているのだろうか。
思えば、ヴァルさんが何を考えているかなんてわかったためしがない。というか、何も考えていなさそうなことがほとんどだった。
今は、ヴァルさんが遠い。結局私は、ヴァルさんのことなんて何もわかっていないのだろう。
だけど、だからこそ、私にできることは、ヴァルさんの言葉に率直な気持ちで返すことしかない。
「ヴァルさんがいなくなったら、ですか」
「そうだ」
「それは、悲しいです」
「うん」
「どうするか、なんてわからないです。そのときになってみないと」
「その後、幸せな人生は送れそうか?」
「……わから、ないです」
「じゃあ」
ヴァルさんがそっと私の手を両手で握った。ひんやりとした体温が伝わってくる。
「約束してくれ。俺がいなくなっても、幸せを諦めないって。幸せに、生き続けるって。覚悟、してくれないか」
銀色に輝く切長の瞳に見据えられる。唇を引き結んで、瞳には今までの純粋な輝きとはまた違ったものを爛々と光らせ、きゅっと優しく私の手に力を込めた。
ただならぬものを感じて、私はわけもわからないまま頷いた。
「よし」
ヴァルさんは、それだけ言って私の手を離す。ゆっくりと、やけに名残惜しそうに。
妙な胸騒ぎがした。
「ヴァルさん。こうして行く前から想像を膨らませるのもいいですけど、準備はもう終わったんでしょう? なら、もう出ていきませんか、ここから」
早く、ここから逃げなければいけない。一緒に手を繋いで、今すぐにでも旅に出なければいけない。そう直感した。
だけどヴァルさんは首を振って、
「いーや。ちゃんと一晩たっぷり寝て、体力を回復させてからにしなきゃな。旅ってきっときついぜ。ノナはひ弱だし、俺だってほぼこもりっきりで過ごしてきたからな。二人でぶっ倒れちゃいけない」
珍しく現実的なことを言った。
それから他愛もないことを二、三話したのち、そのまま流れるようにヴァルさんは私の部屋から出て行ってしまった。
そして、翌日。
朝起きたら、短く切ってしまった髪が元通りの長さにまで伸びていた。
それと同時に、ヴァルさんはこの城から、消えてしまった。
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