第六話 偽善者、二者択一

 城の中に入った。本格的に逃亡に向けた準備をするためだ。それぞれ部屋に帰り、着替えやお金など、必要なものを旅行かばんに入れる。この際、あんまり荷物を詰め込まないのが私流だ。必要最低限なものだけ持っていって、旅の途中で他になにか必要になったら新たにどうにか調達すれば良い。ほとんど手ぶらで漂泊する……それこそが、私とヴァルさんの求める旅の理想像に近い気がした。


 準備が終わった。


 ヴァルさんも準備し終えたら、二人で部屋に集まって逃亡計画を立てる予定だ。しかしヴァルさんはまだ準備を終えていない。余った時間をどうしようか、と考えたとき、浮かんだのはアルトゥル君だった。


 扉をノックして、アルトゥル君が出てくるのを待つ。十秒ほどの空白ののち、アルトゥル君は例のごとく扉の隙間から顔を出し、私の姿を見るなり口をぽかんと開けた。


「ノナさん、一体どうしたんですかその髪!」


「え? ……ああ、イメチェンで」


 軽く笑ってみせると、アルトゥル君は、


「ヴァル兄さんの学校見学についてったんじゃないんですか? ……はっ、まさか、僕にお金をせびってきたのはヴァル兄さんのためなんかじゃなくて、美容室代? あぁノナさん僕を騙したんですね? ひどい! 外道! ど畜生!」


 なんて目に涙を溜めて私を罵る。


 本当なら、あんまりことの経緯を他人に言いたくない。言ってしまってはかっこがつかないから。


 だけど、よくよく考えてみるとアルトゥル君の前でかっこつけるなんて今更無意味か。


 私は観念して、肩をすくめた。


「冗談だよ。ヴァルさんの学校が女子禁制だったから、その場で髪を切って男子のふりしたんだ」


 なるべくさらっと言ったつもりだったけど、アルトゥル君はしばし言葉を失った。


「……あなた、バカなんですか?」


「自分でもそう思う」


 そして、再び流れる沈黙。


「とりあえず、アルトゥル君に話しておきたいことがあって来たんだ。他人に聞かれたくないから、入れてくれる?」


「あぁ、まぁ、はい、どうぞ」


 部屋の中はさらに汚さを増していた。紙類が散乱する床はさながら坂口安吾である。ここまでくると、意識的に堕落した生活を送っているのではとさえ思えてくる。


「床は気にせず歩いてください。どうせぜんぶ、ゴミなので」


 そう言われるとますます気になる。手近にあった何かのチラシの裏紙を拾って見てみる。


 そこには、手書きでこんなことが書かれていた。


『タイトル:がき☆すた

 コンセプト:女子高生同士がイチャイチャする……その様式はもはや古い。今の絶望的な世の中、人々はより高度な癒しを求めているのだ。では、そのニーズに応えるにはどうするべきか? 簡単な話である。登場人物を全員小学生にすればいい』


 頭の痛くなるような話だ。一応企画書の体裁をとっているらしい。バカバカしいと思いながらもとりあえず読み進めていく。


『子どもというのは非力で、しかし純粋で、だからこそ我々の庇護欲を掻き立てる。何も守れない無力な我々も、子どもなら守れるような気がしてくる。大人の介在しない、小学生同士のガールミーツガールを中心とした世界観を確立することによって、読者に、女子小学生だけで構成された尊き日常を守りたい、すなわちコンテンツを存続させたいと思わせることが可能になるのだ。それだけ女子小学生の力は凄まじいのだ。圧倒的と言ってもいい。


 女子小学生最高! 女子小学生でまるもうけ! 女子小学生で文化勲章!


……だけど、こんなことを書いている自分は気持ち悪くて仕方ない。これではロリコンである。こんな小説を世に出そうものなら、あらぬ嫌疑をかけられ、即刻お縄で死刑判決だ。企画段階で文字を書く手が震えている。もう無理だ、僕はもうダメだ』


「読んだんですね」


 アルトゥル君が私の肩越しに紙を覗き込んできた。


「ここに散らばってる紙、全部そんな感じですよ。愚にもつかない落書きが延々と綴られています。どうです、気持ち悪いでしょう、軽蔑したでしょう」


「いや、わりとイメージ通りだった」


「そんなぁ!」


 アルトゥル君は大袈裟に頭を抱えてみせた。


 だけど、口許は笑っていて、


「まあ、ノナさんならそう言うかなって思ってました」


 なんだか、今から言おうとしていたことを言いがたくなった。


 それでも、私は遂行しなければいけない。


「アルトゥル君、私」


「ところでですねノナさん」


 一息に言ってしまおうとして、遮られる。


「無様な人間の行き着く先って、なんだと思いますか」


「なんで、急に」


「いいから、答えてくださいよ」


 アルトゥル君はうっすら微笑んでいた。悪い予感を覚えながら、答える。


「現実逃避じゃないの、やっぱり」


「ですよね」


 言われて、ドキリとした。


 咎められているのだろうか、私は?


 しかしアルトゥル君は薄ら笑いを浮かべながら続ける。


「現実の世界に生きていると、惨めで、耐えられなくなる。だから、空想の世界に逃げるんです。そんな人間がまともに生きていく術ってなんだと思いますか? 僕は、創作者になることくらいしか思いつきませんでした。高度な空想は、磨きあげれば他人の助けになるのです。


 しかし、困ったことに、僕は現実逃避の才能すらなかった。どれだけ心の中の世界を育てても、現実世界の声が邪魔をするんです。こんなことしてても無意味だ、お前は何やっても他人の役には立てない、それよりも早く死んだ方が世のためだ、って」


 そこで、アルトゥル君は首を振った。


「いえ、違いますね。本当は、世のため人のためなんて考えていなくて、ただただ消えてしまいたいだけなのです。その方が、楽だから。結局ぜんぶ自分のためです」


「アルトゥル君、一体どういう」


「僕は!」


 腕を掴まれた。叫びと共に。


「僕は、現実逃避すらできない! だから、誰かにいてくれないと、本当に壊れそうになるんです」


 だから、と続ける。


「いなくならないで、くださいよ」


 綺麗な顔を悲痛に歪め、膝から崩れ落ちた。


「……聞いてたの?」


 アルトゥル君はうなずく。


「はい。さっき、ちょうど窓からヴァル兄さんとノナさんの姿が見えて。迎えに行こうと思って城門の前まで来たら、二人がどこかに行こうとしているのだけは聞こえてきました」


 アルトゥル君の声が震えていた。


 本当に、逃げるのか。


 もう一度胸に問う。


 一度決めたことだから曲げられない。ここで曲げてしまってはきっと人生ずっとしまりがないこと続きだ。


 だから、私の方から変わることはできない。


 それなら……と考えていると、ふっと思いついた。


「そうだ。アルトゥル君も私たちと一緒に来ればいいんだよ。そうすればアルトゥル君も辛い現実から逃げられるでしょう?」


 我ながら、名案だと思った。


 アルトゥル君だって、ヴァルさんと同じ、いやそれ以上にここから逃げたがっている。


 なら、一緒に逃げれば良い。


 いや。


「アルトゥル君にも、一緒に来てほしい」


 しゃがんで、アルトゥル君と視線を合わせた。そして、私に縋ってきた手を、掴まれていない方の手でそっと包み込む。


 別れを告げるつもりで訪ねたけど、本当はアルトゥル君を誘いに行くつもりだったのかもしれない。


 いいや、きっとそうだったのだ。私はアルトゥル君を求めていた。アルトゥル君がいないと、何かが足りない。


 だけど、アルトゥル君は私から目を逸らした。


「無理ですよ」


「なんで」


「僕なんかが一緒に行けるわけありません」


「そんなこと」


「ありますよ。僕には、全てを捨てて逃げ出せるほどの覚悟がありません」


「そんなの、私にだって」


 ないよ、とは言えなかった。


 今でも、本当は覚悟なんて決まっていないのかもしれない。ただ衝動と、その残滓の勢いだけで突き動かされているだけなのかもしれない。


 だけど、疑ってはいけない。それを、覚悟だと思い込まなければいけない。一度否定して、立ち止まってしまえば、覚悟になるかもしれなかった思いは形にならないまま消えていく。


 だから、意地を張って、今の気持ちを貫き通すしかない。それを後から振り返って、あのとき私は覚悟していたと言えればいい。


 つまりはその程度の、不確実なものなのだ。ちょっとしたことで揺らいでしまうような、心もとない。


 アルトゥル君は、黙り込んだ私を見て寂しげに笑った。


「覚悟、決める気でいるんですよね、ノナさんは。なら、僕はそんな人についていけません。変わっていくノナさんと、変われない僕。比べれば、惨めなだけです」


 だけど、とアルトゥル君は私の腕をさらに強く掴む。それと同時に俯いてしまったから、どんな表情をしているかはわからない。


「もし、ノナさんが、本当は変わりたくないと言うのなら。覚悟なんか決まっていなくて、本当は行動するのが怖くて、自分なんてどうせ変われないと絶望しているのなら。僕が、一緒にいます。ノナさんがどれだけ弱いところ見せたって、僕はノナさんとずっと一緒にいます。ノナさんを見捨てたりなんてしません。だから」


 そのとき、アルトゥル君は顔を上げた。


「僕を、捨てないで」


 アルトゥル君は、泣いていた。静かに涙を流していた。


 胸の奥が、きゅっと締まった。ヒリヒリとした痛みを覚える。


 私は、どうすればいいんだろう。


 ヴァルさんに悲しんでいてほしくない。だけど、それはアルトゥル君も一緒だ。二人とも、もう十分に苦しんだ。これ以上、誰にだって傷つけられるべきではないし、傷つけたくない。


 だけど、二者択一だと言うのなら。


 私は、どうすればいいんだ。


「私は……」


 選べるわけがない。選ぶものじゃない。どっちかしか助けられないなんて。だけど、よく言うじゃないか。誰かを守ることは、同時に誰かを見捨てることだと。選別のときは、いずれ必ず来ることになっていた。


 こんなことになるなら、半端な決意をするんじゃなかった。傷つけたくないよ、アルトゥル君も、ヴァルさんも。選びたくない、選びたくない、選びたくない!


 もう、悲しいのは、いやだ。


 私は結局、どこまでも決めきれない、ダメ人間だ。ヒーローになんて、なれるわけがない。


 諦めよう、諦めるか、そうしようか。


 アルトゥル君に、手を伸ばす。アルトゥル君は、上目遣いにこちらを見ている。涙を堪えながら。


 レモン色の瞳が、人間離れした美しさを放っている。はっとして、手を引っ込めた。


 きっかけといえばその美しさで、つまりは些細なことだ。


 しかし、一つの気づきを皮切りに、みるみるうちに私の思考は加速していった。

 

 どちらに転んでも、私はダメ人間だ。情けない、エゴまみれの、どうしようもない人間だ。


 それは変わらない。なら、私はどちらを選ぶべきか?


 自分にとって最も重要な価値基準、それは。


「ごめん」


 私は、アルトゥル君に頭を下げた。


「アルトゥル君を選んでも、ヴァルさんを選んでも、きっとどっちも痛くて、つらくて、大切なものを傷つけることには変わらない。だからさ、私は、自分がよりかっこよく行動できる方を選ぶ」


 それは、最悪のエゴだった。


 二人のうちから一人を選ぶことなんてできないから、結局は自分が一番美しく見える方を選ぶなんて。


 アルトゥル君は、涙が乾き切っていない顔のまま笑った。


「はは、そりゃ、そうですよね。一度決めたことを貫くって、絶対かっこいいですもんね。……でもですよ、でも!」


 歯を食いしばって、私の両肩を掴み、真っ直ぐに睨みつけてきた。


「それって、全然違うでしょう! かっこいいから覚悟を決めるんじゃない、覚悟を決めるからかっこいいんだ!」


「うん」


「あなたは結局、大切な人を助けることじゃなくて、大切な人を助けている自分が好きで、一番大事な偽善者なんですよ!」


「知ってる」


 その指摘は、私が私自身に投げかけたものと全く一緒で、ぞっとするほどだった。まるで、もう一人の自分にそう言われているようだった。


 だからこそ、心が動くことは、ない。


 私は、アルトゥル君の手を振り払った。くるりと背を向け、床に散乱した紙を踏まないよういちいちどけて、出口への道を作っていく。その最中、背中越しにこんな声が聞こえてきた。


「偽善者のノナさんには、僕がお似合いなんです!」


 今どけた紙に書かれた一文が目に留まる。


『本当は誰かにめいっぱい叱ってもらいたい』


「僕みたいな、ノナさん以下の人間がいないと、安心できませんよきっと」


『叱ってもらったあと、優しく抱きしめてほしい』


「だから、お願いです、僕と一緒にいてください」


『でも僕には誰もいない』


「僕から離れないでください」


『気づけば誰も、僕の周りからはいなくなっていた』


「僕を、ひとりにしないで」


『残ったあの子は、僕のそばにいてくれるだろうか』


「お願いします、お願いします、お願いします、お願いします、お願いしますぅ……」


『ノナさんだけでも、いなくならないでほしい』


 うわあああああああああああああ!


 と。


 私は叫んだ。


 叫んで、アルトゥル君の部屋から転がり出た。叫び続けたまま、廊下を走り抜けた。脇目も振らず、全力疾走だ。すれ違った人はぎょっとしただろう。しかし、そんなことはどうでもよかった。


 私は、決めたんだ。だから、逃げるんだ。ヴァルさんと一緒に行くんだ。


 でも、だけど、あんなの卑怯だ。


 だから、走る。少しでも遠くまで。今更自分の意志を変えることはできない。


 しかし私は、体力がなかった。途中でプツッと電源が切れるように身体の力が抜け、床に倒れ込みそうになる。


「ノナっ、大丈夫かっ」


 そこへ、颯爽と目の前に人影が現れた。


「ヴァル、さん……」


「へへっ。ノナのピンチには、いつでも駆けつけるぜ」


 いつも通り能天気に笑いながら、ヴァルさんは私の身体を支え、抱き起こしたのだった。

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