第五話 どこまでもふたりで
その猫は、いつの間にか私の家にいた。
誰かが拾ってきたというわけでもなく、ごくごく当たり前かのように家の中を歩き回っていた。家族の誰もその猫の来し方を知らなかったけれど、とても綺麗な毛並みをしていたので、きっとどこかの家の猫が迷い込んできたのだろうと結論付け、飼い主が見つかる間、家で預かっていた。
それが、ここに転移してくる半年ほど前のことだ。
主に世話をしてたのは私だった。友達がいないから、猫に依存していた。言葉なんてわかるわけもないのに、よくいろんな話をしていた。虚空に向かって話しかけるよりはまだマシだと思っていた。
その猫も、この世界に来る直前にふらっとどこかへ行ってしまった。最後の希望だったのに。
あの猫が、ヴァルさんだというのか。
「夢を見ているような感覚だった。俺が猫だっていう認識はあんだけど、触覚とか、行動の選択権とか、本能とか、そういうのとは切り離された感じだった。帰ってきたときは実際、夢だと思った。だけど、ずっと一緒にいた女の子がこの世界にやってきたからさ、あ、夢じゃなかったんだって、思ったんだよ」
ヴァルさんはそう言って、屈託なく笑った。
よく、わからない。
わけがわからない現象にはこの世界に来てから行き合いっぱなしで、もはや慣れたつもりでいたけれど、今度ばかりは飲み込み難かった。理解も感情も追いつかない。
「なんで、私のいた世界に転移していたんです」
最初に出てきた疑問は、それだった。この世界の住人であるはずのヴァルさんが、どうして私のいた世界にいたのか。ヴァルさんも神様にお願いされたりしたのだろうか。
だけどヴァルさんの場合は違った。
「逃げたいと思ったんだよ。こっから、別の世界に。そんで、異世界転移魔法を試してみたら意外にうまくいっちまってよ」
「異世界転移魔法?」
そんな簡単に異世界に転移できるのか?
「あ、一応異世界転移魔法って大昔に封印された魔法らしい。術者に負荷がかかりすぎて、最悪の場合死に至る可能性があるから。猫になっちまったのは、若干失敗したってことなのかもな」
さらっととんでもないことを言った。
「そんな危険性を冒してまで、なぜ」
すると、ヴァルさんは曖昧に笑った。
「だって、ここで生きていたって、仕方ないだろ。未来が見えないだろ。だから、どっか行きたかったんだ」
ヴァルさんは笑っていた。だけど、瞳はさみしげに揺れていた。私はちょっと、虚しかった。
ヴァルさんのような人に、こんな顔をさせてはいけないのだと思う。この人みたいな人はずっと、ニコニコニコニコ、子どもみたいに笑っていられたらそれが一番幸せなのだ。いいや、そうでなくちゃいけないのだ。
私は、どうすればいい?
この人を救う、ヒーローになるには。この人の夢を守るには。
もう一度、ヴァルさんを見た。
「……?」
こてん、と首を傾げた。まるで幼い子どもみたいだ。
まだ、現実にさらされるには早すぎると思った。
ふと、イメージが浮かんだ。私がヴァルさんの手を引いて、どこまでもどこまでも遠くへ行く。旅をするのだ。
いろんな場所へ行って、いろんな人に出会う。そうして、ヴァルさんは毎日毎日絵日記をつける。いろいろなことがあるけれど、それでも絵日記の最後はいつも「今日も楽しかった」で終わる。
そんな、夢のようなイメージが浮かんだのだ。
そして、ヴァルさんには夢のようなイメージこそが似合う。
私は、ヴァルさんの手を取った。
「じゃあ、どっか行きましょうか」
取った手を、強く握る。ヴァルさんは滑稽なほど目をまん丸くしていた。
「どっかって、どこ行くんだよ」
「どこでもいいじゃないですか。目的地なんてありませんよ。それ相応の準備と、後は画材だけ持って、自由気ままに旅するんです。いろんな風景をスケッチしたりして、旅の記録を残しながら」
「……本当に?」
ヴァルさんは、私の言う事を信じていないようだった。本気じゃないと、思っているようだった。
「本当です」
目を合わせて、そう言った。
ヴァルさんは、曇りのない瞳で私を見つめた。何も考えてないかのような目だった。
そして最後には、ニッ、と笑った。
「じゃ、行こうか」
それは、小さい子が、近所に探検しに行くかのような軽さだった。
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