第四話 萌えからの目覚め

 ヴァルさんの魔法で強化された私の肉体は、自分のものとは思えないほど軽い身のこなしだった。


 ヴァルさんいわく、できるだけもえぽんを使わずに戦いを切り抜けるということ。使ったってたいした役には立たないとはいうものの、そんな戦い方をさせてしまうのは申し訳ない気もする。


 しかし、心配していた以上にヴァルさんはうまく立ち回った。もえぽんを使わないなりにセーラー美少女を防御することに徹したのだ。お嬢様美少女の札束は近距離用のもえぽんだったからその効果はてきめんだった。


 だけど、問題なのはブルマ美少女のほうだった。


 ブルマ美少女のもえぽんは、プロテイン。つまり液体だ。ブルマ美少女は隙を見計らってはプロテインをこちらにぶっかけてくる。限りがあるとはいえ、なにしろ彼女が持っているのは二リットルぶんは容量がありそうな水筒。それを振り回せるなんて相当な筋肉なんだろうけど、萌え化しているからその実態はさだかではない。


「そろそろ避けるのもきつくなってきたな……」


 プロテインだから飲まなければ効果がないのかと思ったらそうではなく、プロテインが足にかかってしまった観衆が「萌え萌え~」と叫び、前後不覚の萌え萌え状態になってしまった。つまり、ある程度かかってしまったらアウトということだ。


『ヴァルさん、そろそろもえぽんを解放しても……』


『いいや、だめだ! それに、縛りプレイってなんか燃えるだろ?』


 思念ではそう言うものの、肉体の疲弊が感じ取れた。足がもつれる。その瞬間、


「戦いに集中しろ」


『危ないっ』


 プロテイン攻撃っ! どうしよう、魔法も使ってはいけないし、避けられないかもしれない……。


「はぁっ」


 とっさにヴァルさんは腕に結んでおいたタオルをほどき、思い切り眼前に広げる。しかし、この量のプロテインだとタオル越しに液体がやってくるような気がする。あぁ、もうここで終わりか……。


 そう覚悟したそのとき。


「こっ、これはっ……」


 不思議なことが起こった。


「タオルが、光ってる?」


 確かに、光っていた。幼児向けアニメの光るパジャマのごとく、美少女イラストだけ緑

色に発光し、浮かび上がっていた。


 そして、その光が、プロテインを弾き返す。


「「……」」


 ホームレス美少女も、観衆も、みんな揃ってあっけにとられていた。


 その静寂を切り裂いたのは、アルトゥル君の一言だった。


「萌えの力だ……」


 アルトゥル君本人も、自分でそう言ったことに驚いているようで、目を見開きながら、


「そうだ、これは、萌えの力なんだ……。ヒメノちゃんがヴァル兄さんを、守ってくれたんだぁぁぁぁぁっ!」


「「うおおおおおおおっ」」


 観衆も、ホームレス美少女も、揃って雄叫びをあげた。それは、傍観者も、当事者も、敵同士も何もかも超えて、その場にいた全員が一つになった瞬間だった。


「そうか……」


 セーラー美少女が言う。


「本当の萌えの力というのは、もえぽんで強制的に相手を萌え萌えにすることじゃなくて、純粋な愛のことを言うんだね……」


 その言葉に、ブルマ美少女がうなずく。


「あぁ、なんだか、戦いが馬鹿らしくなってきたな。お互い譲れないものはあるだろうが……しばらくは、せめて今日のうちは、休戦といこうか」


 お嬢様美少女もオーッホッホッホと高笑いし、


「ええ、そうですわね。何事にも余裕を持ち、おめでたいことはきちんと祝う。それこそが、貴族の務めでしてよ」


 観衆はみんなで手をつないで踊りだして、すべて丸く収まりそうだ。


『よし、俺も仲間に加わるぜっ!』


 いーれーて、と輪に入ろうとしたそのとき。


「こら、何を騒いでいる!」


「やばっ、警察だー!」


 警官の姿が見え、観衆が次々と散っていく。ホームレス美少女たちもすぐさま駆け出した。


「こっちへ!」


 セーラー美少女が手招きする。その背を追って、アルトゥル君も含めて私達はその場から逃げ出す。


『なぁ、ノナ』


 ヴァルさんが頭の中で話しかけてくる。何を言おうとしているのか、魂の距離が近いからだろうか、予測できた。


『楽しいな!』


『はいっ』




 セーラー美少女が入ったのは、ラディ館の中だった。意外にも路地裏とかじゃないんだなと思ったけど、おそらく人の多いところのほうがかえって人混みに紛れられるのだろう。


 しかし、困ったことに私とヴァルさんはもえぽんをどこかに落としてしまった。人混みの中だから探そうにも探せない。どうしようか話し合っていると、急にまた鈍痛がやってきて、立ちくらみを起こした。


 すると、私の身体からヴァルさんの魂が分離し、途端にいずこかへ消えていたヴァルさんの身体がたち現れる。


「あ、戻った」


 なんてことなかったかのようにけろっとして、ヴァルさんは私の隣に並んだ。


 セーラー美少女は、ホビーショップのショーケースに飾られたフィギュアに群がる萌え化したオタクたちの背を見て、微笑んでいる。


「ヘルブラはいつもこうなんだ。ここに集まる人たちはみんな萌えを愛していて、自分の趣味を愛している。いがみあったりもするけど、騒がしくて、おもしろおかしい毎日だよ」


 萌えアニメのキーホルダーのガチャガチャを回すオタクたちは、出てきたカプセルをきらきらとした目で開けている。


「ホームレス同士での戦いだって、本当はみんな心の何処かで楽しんでいるんだ。オタクなら一度は憧れたことのあるバトロワごっこができるんだから」


 エスカレーターを登ると、ふりふりのロリータ服を着たドールたちの専門店が見える。


「何より、ここには苦しいことが存在しない。好きな姿で、好きなことをできる」


 ヒーロー物のフィギュアやおもちゃを売っている店では、ノスタルジーを感じさせる特撮番組の主題歌が流れていた。


 永遠に続く非日常。夢のような空間。純粋な、好きという気持ちだけで成り立っている世界が、そこにはあった。


「確かに、ずっとここにいたくなるよなぁ……」


 ヴァルさんがそう呟いた。


 セーラー美少女は笑った。


「それなら、本当にボクたちの戦いに参加しちゃいなよ。もえぽんも作り直してさ」


「今度は私も参加したいです! ヴァルさん、私のぶんのもえぽんも作ってください」


「僕はあえて参謀役がやりたいですね」


「アルトゥル君なんかに参謀任せたら敗北RTAだから」


「ノナさんひどい!」


 そんな風に、萌えバトルロワイヤルに参加するイメージをふくらませる。


 うん、楽しい。


 何もかも投げ出して、ただただ遊べたら。それは、とても幸せで、素晴らしいことなのだと思う。きっと、この場にいる誰もがそう思っている。ヴァルさんも、アルトゥル君も、そして私も。現実と戦い続けられるほど強くはないのだ。


「あぁ、楽しいね。完璧な日々だね。素晴らしいね」


 セーラー美少女がそう言った。完璧な笑顔だった。


 しかし、そのとき。


「パパ?」


 セーラー美少女の足元に、まだ五歳前後と思われる女の子がてくてくと近寄ってきた。


 セーラー美少女はその子を見下ろして固まった。


「アンナ……」


 アンナと呼ばれた子は、無垢な瞳でセーラー美少女を見上げる。


「パパ、どうして女の子の格好をしてるの?」


「それは……」


 セーラー美少女は目をそらした。


 この子はおそらくヘルブラに入ったばかりで、まだ周囲が萌えに見えていないのだ。それはわかる。しかし、パパとは?


 ヴァルさんはセーラー美少女に耳打ちする。


「お前、娘いたのか」


「あ、ああ……半年前、離婚した妻との間に」


 半年前というと、この人がヘルブラで暮らし始めてじゃないか。 


 アンナちゃんはセーラー服の裾を引っ張って、


「ねぇ、パパぁ、一緒に帰ろうよぉ。今のパパ、臭いし、キモいよ。おうち帰ってお風呂入ろうよぉ」


「き、キモい……」


 セーラー美少女はしゅんとうなだれる。やはり娘からキモいと言われるのは父親としては傷つくことなんだろうな。


しかしセーラー美少女は気を取り直し、しゃがんでアンナちゃんに視線を合わせ、


「あのな。パパは、もうあのおうちには帰れないんだ。一生ここで生きていくって、決めたんだ」


 その途端、アンナちゃんは顔をくしゃっと歪め、


「やだぁ! パパいないのやだもん! やだぁ、やだぁ、一緒に帰るのぉぉぉぉ! うわぁぁぁぁぁぁぁん!」


 と、大声で泣きわめいた。周囲の人が二人をじろじろ見る。


「あ、アンナ……いや、だめなものはだめなんだ。パパはもう、元には戻れないんだよ。わかったら、さっさとママのところに戻りな。それとも迷子になったのか? なら、このお姉さんたちについていってもらうといい」


 いきなりそんな役割を押し付けられても……。


 とはいえ、セーラー美少女の気持ちもわからなくもない。離婚した奥さんに今のホームレス姿を見られるのは忍びないし、そうでなくても普通に顔を合わせるのだって気まずいだろう。


「わかりました、それじゃあ……」


 アンナちゃんに歩み寄る。すると、彼女は顔を歪めて、


「やだぁっ、やだぁっ、パパといっしょがいい! パパじゃないといやぁっ!」


 また泣く。


 アンナちゃんはしゃくりあげながら、セーラー美少女を上目遣いで見上げる。


「パパ、アンナね、きのうね、幼稚園でおえかきしたの。エリ先生が、かぞくの絵をかきましょうって。アンナね、パパとママといっしょの絵をかいたよ。でもね、おうちかえってママにみせたら、パパなんていないのよっていわれちゃった。でも、ちがうよね。だってパパ、ここにいるもん。ちゃんとここにいるもん」


 そして、セーラー美少女を指差す。


「アンナ……」


 セーラー美少女は、その指先をじっと見つめていた。そして、アンナちゃんと目を合わせる。アンナちゃんは、「んへへー」と笑った。


 やがて、セーラー美少女は、ゆっくりとしゃがみこんだ。そして、アンナちゃんと視線を合わせる。


「もっと、聞かせてくれないかな。アンナのこと、パパにいっぱい」


 アンナちゃんは目を輝かせた。


「うん!」


 その途端、セーラー美少女は頬を緩めた。萌え化しているからわかりにくいけど、その目は父親の暖かな優しさにあふれていた。その優しさに応えるように、アンナちゃんは喋りだす。


「ママね、きのうアップルパイつくってくれたの。おいしかったよ!」


「そうか、それはよかったね」


「おっきかったんだよ、ほら、こーんくらいっ」


 腕をいっぱい広げてみせるアンナちゃんに、セーラー美少女は笑う。


「ははは。そんなに大きくて、ちゃんと食べ切れたのかい?」


「んーん、残っちゃった。だからきょうのおやつもアップルパイ」


「飽きちゃわない?」


「飽きちゃわない!」


「ふふ、そうか、よかったね。……本当に、よかった」


 セーラー美少女は、泣いていた。笑っているけど、目が潤んでいた。「うっ」と一瞬喉の奥で声をつまらせて、アンナちゃんから顔を背ける。


「わかった。アンナが元気なのがわかって、よかった。ほら、もうじゅうぶんパパと話しただろ? だから、もうママのところに戻りなさい。これからも、元気にやるんだよ」


 こらえきれなかったのだろう。名残惜しくなってしまうのが。


 アンナちゃんは当然不服で、「やだぁっ」とまた泣き出したそのとき。


「ちょっと、うちの子になにしてるんですか!」


 萌えな絵柄になってはいるものの、服装はかっちりとしたパンツスーツという、この街に似つかわしくない風貌の女性がやってきた。セーラー美少女はまたしてもフリーズする。


「お、おまえ……」


「はぁ? なんですか初対面なのにいきなりお前呼ばわりだなんて失礼な。しかもうちの子に声かけるなんて……あなた、見た目は可愛らしい女の子だけど、中身はどうだか。どうせろくでもない変態なんでしょうね」


 どうやらこの女性にはセーラー美少女が正しくセーラー美少女として映っているらしい。そして、流れからいっておそらくこの人は……。


「ママ。わかんないの? このひと、パパだよ」


 アンナちゃんが女性の腕を引っ張る。やっぱり。この人はアンナちゃんの母親だ。


 アンナちゃんの言葉に女性は目を吊り上げる。


「めったなこと言うんじゃないの! パパなんてアンナにはもういないの! この人は全然知らない誰かさん! ほぉら、もう、行くわよ。おもちゃ買ってあげるから」


 女性はアンナちゃんの腕を無理やり引っ張って連れて行ってしまう。アンナちゃんは泣きそうな、でもちょっと緊張しているような表情をしながらも、こちらを振り返ってじっと見続けていた。


 そして、意を決したように手を振る。


「またあいにいくから!」


 瞬間、セーラー美少女は目頭を押さえながら天を仰いだ。ツーっ、と頬に浮かぶ一筋の光が見えた。


「うん……うんっ」


 セーラー美少女は、再び前を見た。もうアンナちゃんはこっちを向いてはいなかった。母親と連れ立って、エスカレーターを下っている。


 遠ざかるアンナちゃんの背中を、セーラー美少女はずっと、消えてしまってもなお、見守り続けた。


 私達は、何も言えなかった。何かを言うべきではなかったから。


 セーラー美少女は、ぽつりと呟いた。


「ボクが向こうに愛想つかされたんだ」


 近くの壁に背をもたせかける。


「父親だというのに、家事も育児もせず、趣味ばっかり。そのくせ仕事もできない。とうとう我慢の限界がきて、一方的に別れを告げられた。あいつは、一人でなんでもできるからなぁ、ボクなんかいなくてもアンナはちゃんと育ってるよ、本当。……でもさ、でもさぁ」


 震える声で、続ける。


「一緒に、見守りたいって思っても、仕方ないよな。アンナともう一度、一緒に暮らしたいって言っても、いいよな」


 そして、何かを決めたような眼差しで目の前を見据え、懐からシャーペンを取り出した。ピンク色をした、ハートのチャームつき。この人の、もえぽんだった。


 セーラー美少女は、それを私の手に握らせた。


「これ、あげるよ。好きなように使ってくれてかまわない。ボクにはもう、いらないから」


 一歩下がり、軽く頭を下げてみせる。


「今日はありがとう。色々迷惑をかけて、すまなかったね。ボクは、もう行かなくちゃいけない。君たちと過ごしたこの一日、楽しかったよ」


 そう言って、母子の消えていったエスカレーターに吸い込まれていく。


 一人の男が、現実に、戻っていく。


 私達は、その背をぼうっと眺めていた。言いしれぬ疲れがやってくる。


「……いっちゃったな」


 ヴァルさんが、しみじみと呟いた。急速に世界が色あせていくみたいだ。


 あぁ、取り残されてしまった。無垢で、楽しくて、しかし決して本物ではない場所に。

私は、手のひらの上のシャーペンをじっと見つめた。


「これ、どうします」


「使っても意味ないですよ」


 アルトゥル君が食い気味に言う。


「わかったでしょ、今ので」


 アルトゥル君は、いつになく、苛立っているようにも見えた。悲しんでいるようにも見えた。


「くだらない三文芝居でした。陳腐なお涙頂戴でした。なんなんですか、今のは。都合よく家族が通りかかって、都合よく社会復帰だなんて……そんなの、認めないからな! 僕は、絶対に、認めない!」


 そんな物言いは、フィクションの中なら多分悪役の言うセリフだ。他人の幸せをひがんでいるようにも聞こえるから。


 だけど実際、アルトゥル君の言う通りなのだ。現実と戦うチャンスが目の前に来てくれることなんて、なかなかない。


 アルトゥル君とは対照的に、ヴァルさんは、ただたださみしげにセーラー美少女の消えた階下へと目を向けている。


「行っちゃったな、あいつ。……もう、俺とは、遊んでくれないんだよな、きっと」


 その姿は、やっぱり子供のままだった。ヴァルさんはいつまでも、ひとりぼっちの子供のままなのだ。


 どうすればいいのだろう。ヒーローになると決めたのだ、私は。だから、せめてアルトゥル君とヴァルさんのことだけでも助けたい。考えろ、考えろ……どうすれば二人を助けられる? 現実に、打ち勝てる?


「大丈夫ですよ。ほら、私達三人で一緒に遊び続ければいいじゃないですか。それで、じゅうぶんじゃないですか」


 結局、逃避を選んだ。


 私は、二人の手をとった。


「ほら、私達はまだ、ここにいるじゃないですか」


 無理矢理に笑顔を作った。ヴァルさんも、アルトゥル君も、口角を上げた。「ははは」と声に出して笑うとなんだか楽しくなったような気がした。三人で声を揃えて笑う。


「ははは」

「ははは」

「ははは」


 だけど、誰がやめると言ったわけでもないのに、いつの間にか誰の顔からも笑顔が消えていた。


「帰りましょうか……」


 私はそう言った。


 夢とは、覚めるから夢なのだ。


 これまた陳腐なフレーズで、しかし真理だった。

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