第二章 逃避のはじまり
第一話 魔法使い、不登校
旅人病。
絶望粒子が絶望塊に変わってしまった後に引き起こす症状のことを、この世界ではその名前で呼んでいるようだった。
百科事典いわく、旅人病とは古来より存在する奇病で、罹患した者がどこか遠くの場所へ旅をしているかのような言動をすることからその名がついた。じっくりと全身の機能が低下していき、最終的には指一本も動かせなくなった状態で静かに息を引き取る。原因は未だ解明されておらず、症例もごくわずかなことから一部の研究者以外からはおおかた都市伝説とされている。
「おーい、ノナ」
しかし、近年では情報技術の発達によりインターネットを中心として実際の罹患者と思われる人の声が徐々に広がっていき、存在の認知とともに旅人病を都市伝説とみなす風潮を変える動きが少しずつなされて、
「何読んでるんだ?」
「うわぁっ」
突然背中に重いものがのしかかってきた。活字の世界から現実へと引き戻される。
すると、今のしかかってきた物体がヴァルさんだということに気づいた。
この世界の文字は私にも識字可能になるよう日本語として表示されていると気づいたのが今朝のことだった。
そこで、ヴァルさんやルーカスさんが言う『奇病』というのがどういうものか、とりあえず城にある図書館で調べてみようと思って百科事典を手にとってみたのだ。ついでにその他のこの世界に関する情報も手に入るかもしれないと、備え付けのテーブルで分厚い辞典と格闘している矢先、能天気なこの男がやってきた。
ヴァルさんは私の肩越しに百科事典を読む。
「あ、あの、距離近すぎません?」
正直ドン引いていた。年頃の男性が年頃の女性の背中に覆いかぶさってくるなんて、頭がパッパラパーな陽キャですらなかなかやらない蛮行だ。
しかしヴァルさんは、
「そんなことないだろー、俺とお前の仲だし?」
「まだ出会って丸一日も経っていませんが」
私の突っ込みも聞いていないようで、ヴァルさんはふむふむと小さく声を漏らしながらその姿勢を保ち続ける。ドキドキして仕方ないのと同時に、ペットにじゃれつかれているような感じもする不思議な気分だった。
一分も経たないうちに、ヴァルさんはふぁぁと欠伸をした。そして私の背中から離れ、
「お前、よくこんな難しそうなの読めるなー」
とけだるげに隣の椅子を引いて座る。
「つまんなくねぇの?」
「つまらないですけど、一応ほら私、異世界人ですし。この世界の常識は知っておいた方がいいかなーって」
「そんなん暮らしていくうちにわかるって」
「でも、この世界に暮らす人達も何の勉強もなしに生きているわけじゃないでしょ。学校とかに通って」
そこではたと気づく。
「そういえばヴァルさんって私と一つ違いですよね。学校には通ってないんですか?」
「行ってない。だってつまんないだろ、あんなとこ」
ヴァルさんは大きく伸びをして、
「俺、規則正しい生活っていうのできねぇし、周りのみんなも大きくなるにつれて俺と遊んでくれなくなったし、授業つまんないし。行く意味もないかなと思って。一応在学してるってことになってるらしいけど、ずっと不登校なんだ」
あっけらかんと言い放った。
その姿に、どこか爽快感を覚えている私がいた。
「それって、とても」
いいですね、と言おうとしたとき、着信音が鳴る。ポケットからスマホを取り出したが、私ではなかった。
どうやらヴァルさんだったようで、「もしもし」と心なしか不機嫌そうな様子で答えていた。
次第にヴァルさんの機嫌は目に見えて悪くなっていった。というよりも、憂鬱そうになっていった。最後には、「やめさせては、くれねぇのか」とだけ言って電話を切った。
「あー、すっげぇタイムリーな話題だけど。俺、なんか明日学校行くことになったわ」
翌朝。
「おぉぉぉぉ、外出るのなんて久しぶりだぜ」
「感動してる場合じゃありませんよ! もうすぐで遅刻です遅刻!」
私とヴァルさんは城門の前に集合していた。
ヴァルさんが電話をもらった相手というのは父親からだったという。
「なんか明日は試験らしくってさ。アイゼンシュタット家の体裁のためにも受けとけって」
「ちなみに勉強は?」
「全くしていない」
「それは、まぁ、がんばってください」
正直他人事だった。試験を受けるのはヴァルさんであって私ではない。
ところが、ヴァルさんはいきなり頭を下げて、
「頼む! 俺と一緒に学校に来てくれ!」
と言ってきたのだ。
そうして今に至る。
「学校ってどのくらいの距離にあるんですか? もうあと十分で始業ですよ」
異世界の時間に合わせたスマホの時計を見せると、ヴァルさんは目を丸くして、
「なんだ、まだ十分もあるんだな、なら全然余裕だ」
と言って、私の手を握ってきた。
「ちょっ、何するんですか!」
思わず振り払うと、もう一度今度は力強く握ってきて、
「今の反応、思春期の娘が父親に触られたときのそれでちょっと傷ついたぜー……。ま、我慢してくれ、これから飛ぶから」
「飛ぶ?」
答えずに、ヴァルさんは目を閉じて、
「フリーゲン」
ぼそりとそう呟いた。
すると、私とヴァルさんの身体は立ったまま宙に浮いた。
……浮いた?
「えぇぇぇぇっ、い、今のって」
「あぁ? あれな、実は違う呪文でも同じ効力を発揮するんだよな、『レッ〇ブル!』つって」
「翼を授けるってことか! かっこよさが半減したわ! ……ってそうじゃなくて、私達、浮いてますよ!」
「だな」
「もしかしてこれ、魔法ですか!」
「おう」
「そんな概念がある世界だったんですか!」
スマホも使えるし科学技術は発展しているし、魔法なんてない世界なのかと思ってた。
そういえばアルトゥル君の件でもナチュラルに手のひらからバズーカ出してたなこの人。あのときはスルーしちゃったけどあれも魔法だったのか……。
「ま、一般的には都市伝説みたいなもんだけどな。アイゼンシュタット家とか貴族の名家は割とその存在を認知していたり利用していたりするけど」
ヴァルさんがそう言うと、いきなり風を感じた。景色が高スピードで流れてゆく。飛んでいるのか、私は。
「ヴァルさん、私にもこの魔法って使えますか?」
できるなら、自分の力で飛んでみたい。一度全てを捨てて大空を舞えればいいなと思う。
ヴァルさんは首を傾げて、
「どーだろーなぁ。なんかオヤジが言うには俺は特別らしいんだけど」
「特別」
「才能がある、らしい。魔法の才能があるから不登校が容認されてる節もあるしな。俺もこの力でいろんなことができて超おもしろいぜ!」
ヒュン、とスピードが上がった。振り落とされそうな気がして肝が冷えた。脳内に屋上から飛び降りようとしたときのことがフラッシュバックする。うぁぁやめてくれぇと思ったが、よくよく考えれば今私は空を飛ぶという夢を叶えているのだ。
案外、あっさりしていた。けど、想像した通り、気持ちよかった。
「あの、ヴァルさん」
「なんだ?」
「ありがとう、ございます!」
ヴァルさんは、相変わらずなにもわかってないような表情でこちらを見てきた。銀の瞳が澄んでいた。
そして、みるみるうちに笑顔になって、
「よぉし、思いっきり飛ばすぞ! しっかり掴まってろ!」
宣言通り、はやぶさを思わせるスピードで空を切る。時間には、間に合いそうだった。
数分もしないうちに到着。
「こらー! あと一分で鐘が鳴るぞ! いそげー!」
校門には若い男性教師が立っていた。私達の世界で言うところの生徒指導の体育教師といったところか。
「今から学校に入る。認識阻害魔法をかけるぞ」
ヴァルさんが早口で言った。次の瞬間、「クラールハイト」と呪文を唱える。自分では何も変化がないように感じた。
しかし、ヴァルさんと校内を並走しているうちに、制服を着ていない私をじろじろ見てくるような人がいないことに気づいた。本当に見えていないんだ。
チャイムにはぎりぎり間に合った。
教室内は広かった。現代日本なら高校にあたる教育機関のはずだけど、大学みたいな内装だった。階段状になった長机も、アンティーク調の椅子も、壁にかけられたタペストリーも、ファンタジー作品に出てくる魔法学校といった装いだ。
ヴァルさんは入り口に一番近い椅子に座った。教壇では教師が試験の日程や注意事項を話している。しかし、クラスの半分近くがヴァルさんのことをちらちらと見てきていた。
そんな人達にヴァルさんがニカッと笑いかけ、手を軽く振ってみせると、みんな気まずそうに目をそらした。
当然の反応だ。不登校だったクラスメイトが来たと思ったらやけに親しげな態度を取ったのだから。不気味ですらあるだろう。
でも私は、ちょっと怒りを感じた。誰か一人くらい手を振り返せよ、と思った。そうじゃないとおかしいだろ、と、本気で憤ったのだ。
教師の話が終わった。
生徒たちは席を立ち、友人のもとに行って「ねぇ今日テストヤバい」だとか「何が出ると思う」だとか歓談しながら問題集を開いている。日本の高校でもよく見る光景だ。
ヴァルさんも立ち上がり、一番近くの男子グループの中に入った。「今ってどんな授業やってるんだ?」と言いながら。
しん、とグループ内が静まり返った。静寂は徐々に教室中に広まっていく。
みんな、問題集片手にヴァルさんのことを見ていた。
ヴァルさんは、笑っていた。子供みたいに、笑っていた。
「教科書、貸すよ」
グループのリーダー格がそう言って、ヴァルさんに持っていた教科書を押し付けた。
「俺、他の人に見せてもらうから。好きに使ってよ」
言いながら、ヴァルさんに顔を背け、「この例題は絶対出るだろー」と言いながら仲間の教科書を指さした。
そこからまた白けていた教室の雰囲気が元通りになっていく。
ヴァルさんは渡された教科書に目を落とし、持ち主のグループを見上げ、また教科書の表紙を見つめ、席に戻った。
教科書を開き出したヴァルさんに、
「難しそう、ですね」
結局こんなことしか言えなかった。
「ああ……」
気のない返事だった。
シグマのような記号の入った公式が並ぶページを開いたまま、ヴァルさんはこちらを見上げてくる。
「わかんね」
両目が濡れていた。
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