夕暮れひとつ、花空ひとかけ

鑽そると

√s end_B もう一度がないことを

廃れたビルの屋上、彼女が柵の近くに立っていた。空一面に敷き詰められた陰った灰色の雲、隙間を感じさせない背景に映えた紫色の髪が風に吹かれて緩く靡く。


「なぁ、みんな。これで最後にするから。だからおねがい。」


何かを決意したようにそういった彼女はただ、じっと、眼前のそれを見つめた。勘違いでなければ、美しい夕焼けを閉じ込めたその瞳は燃えるように揺らめきながら、ひどく傷付いた悲壮な色をしている。


彼女に対峙する女は4人の男をまるで、侍らせるようにそばに置いていた。


それはそれは神様が琴の線を丹精込めて丁寧に綺麗に創り上げた引っ掻いた芸術品不協和音が如く美しい気の触る女だった。


冬の花のような白い髪はその一本一本が絹のように滑らかに風に靡いて、白魚のような手足、程よく肉のついた体つきは一切の無駄を許さず球体関節がついているのではないかと思わせるほど。

まるで神様の理想えこひいきを詰めたみたいな美しさ。

女の美しさも相まって、それらはまるで王子様や騎士様に守られるお姫様のような、乙女ゲームのスチルみたいにさまになっているのがなお疎ましい。


「誇りに思っていた仕事を蔑ろにして、大切にしていた想いを踏みにじって、真摯に向き合っていた姿勢を曲げて。残ってるのは腐った中身と廃れた名誉。それで……みんなはそれでいいの?」


赤紫の夕焼け色の瞳はただまっすぐに、彼女は声を紡ぐ。静かな屋上に風がびゅうびゅうと吹きさらす。淡々と叫ぶ失望と慟哭に似た、紡ぐ期待と正反対の感情が込められた彼女の声が風の音に混じって重く響いた。

彼女にとっては悲願といっても過言ではない、なににも変え難いほど重たい言葉だったけれど、叫んだそれは女に簡単に、ゴミを捨てるみたいに”ぽいっ“、と棄てられる。


歪めた表情の彼女とは裏腹に。それを耳にしているはずの女の顔はつまらなさそうに、そして彼らの顔は一定してぴくりとも動かなかった。


「…はーぁ、わざわざ呼び出して、言いたいことがそれなの?貴重な時間を無駄にしたわ。それでいいのって、みーんな私のこと大好きだもの、私を愛する以上に大切なものなんてないのよ。だって私は愛されているのだから、ソレが全てで正しいんだもの。端役が、くだらない事でしゃしゃりでないでよ」


今まで視界にも入れないようにしていた女の発した言葉に、夕焼け色の瞳が鬱陶しそうに失望と落胆で歪められる。白い髪を指でくるくると絡めた女は4人の男たちに甘く転がるような声でしなだれかかって蕩けた蜂蜜色の瞳を向けた。


その姿すら、女は美しいのでとうとう彼女は苛立ちまじりに顔を顰めた。女はいい口実を手に入れたと歯牙にも掛けず「こわーい」なんて言いながらくすくすと笑って4人の男の1人、月色の瞳の男に腕を絡めた。


その男は女にとっていっとうお気に入りだった。このシーンは女にとっては素晴らしく、その光景は彼女にとっては気味が悪く不快でしかなかった。その、なすがままでお姫様のお気に召すまま、鷺だって烏だと言わんばかりのそれ、それだ!それがひどく、ひどく、涙も流せないほど殺してしまいたいほど気持ちが悪かった。


「あんたには聞いてない」

「うふふ、こわぁい。ねぇみんな、みんなの口から言って欲しいって!あの思い上がりに言ってあげて?ねぇ、みんな、私のこと愛してる?」


きゃらきゃらと楽しそうに笑う、その笑い方は虫とかそういう取るに足らないようなモノが身分不相応なことをしていることを嘲笑ってるみたいな、そういう残酷な笑い方だった。

女が問いかければ、今までぼんやりと立っていただけだった4人は途端に顔を甘く緩ませる。

可愛い可愛いお姫様の可愛らしい中身の腐ったわがままを聞いたみたいに、瞳は随分と濁ってしまっているくせに「そうだね」と肯定の言葉を吐いた。


「俺たちは君のこと大好きだよ」

「そうよね、当然よね。うふふ、一緒にいてね?」

「あぁ、頼まれたって離れねぇよ」

「だって、あたしが一番だものね?」

「勿論です」

「みんなのとっときの特別?」

「当たり前だろぉ〜」


とろり、とろり、どろどろり。甘ったるく溶けるようなその茶番。yesしか求められていないし許されていないし言う気もない、問いかけに肯定しか返さないクソッタレで愚かしい彼らのその有様を、きっと本当にただの他人ならば。馬鹿馬鹿しいと一蹴できた。してやった。歯牙にもかけてやらないだけの無関心さえあればよかった。


“愛されるべきお姫様”とお姫様を愛する事が正解な“王子様””騎士様“、それ以外は全部端役で舞台を盛り上げるその他大勢。

だから王子様は玉座にすら座らない、お姫様を愛する事が1番だからお仕事だって二の次。

だから騎士様は誰も助けない、お姫様に傷ひとつつけない事が1番だから目の前で誰かが重たい傷を負っても二の次。


お姫様は愛されるべきだから、王子様のそれはただしいこと?

お姫様は愛されるべき、だから王子様のそれはただしいコト!


お姫様は愛されるべき、愛されるのが当然ってコト!

だから王子様のそれは正しい、だってお姫様がいっちばん!













「…気っ色悪……」




_____知るか、勝手にやってろ


どうにも見ていられなくなって、見ることすら馬鹿馬鹿しい有様で、彼女は吐き捨てた言葉と共に視線を下げた。


王子様のそれが愛してるだなんて言葉で片付けられてたまるか、誰かを見殺しにすることが正当化されて言い訳あるか

ただしいだなんて免罪符みたいに使われて たまるか


三流恋愛劇以上に下らない、愛があるから全て許されるわけがないのなんて、夏の星座に刻まれているくらい昔からの常識だっていうのに。

マ、悲しいことに、天罰を下してくれる天帝様すら女にくびったけなので星座にすらならない茶番劇なのだけれど。


吐き捨てる彼女に“お姫様”はこてりと首を傾げた。頬に手を当てて心底不思議だと言わんばかりに理解する気もなく目を丸くさせるので、苛立ちを倍増させる。


「あら、なんでそんなひどいことを言うの?あぁそうか、そうね、そうだわ!ね、あなた嫉妬してるのね?」

「……は?」

「私に色々とひどいことを言っていたけれど、いざこういう時はあたしに嫉妬してるのね。そうよね、そうね、だってアナタ嫌われ者だもの、正しくないからみぃんなから無視されて石を投げられて当然の悪者!私のことひどく酷く言うけれど、それってつまり嫉妬して僻んでるのね!うふふ、“キモチワル”ぅい。」


くす、くす、くすくす、あはは

箸が転げた以上にばかばかしいとあざけ笑う女は後ろの彼等に同意を求めるように視線を流した。しなだれかかって上目遣いで、ね?と微笑んだ女の姿はまるで、何処かの国の麗しく讃えられる宗教画に出てくる女神様のようだ。

その姿を前にすれば誰もいいえなんていえやしない。


彼女はただ、呆然としていた。

まさかここまで話が通じないなんて、なんて、今の今まで分かっていると思っていた。けれどこれはもう、本当に、違う生き物なのだと目の前で嗤う女に言葉も出なかった。


彼女の夕焼け色の瞳に映った女の姿はとうに人でなしの、そういうナニカでしかなかった。


だって女は正しくそう思っている。

目の前で血に塗れる子供を無視して、庇って重傷を負った隊員を踏み台にして、多くのいきものでできた道をハイヒールで踏みつけにしながら生きることへの苦言はただの嫉妬で妬みで僻みでしかないってコト。


だってお姫様の言うことは全部正しくて、全部肯定されて、それを否定するのは悪役で、王子様がお姫様を守ってくれる。

そういうものが、御伽噺のルールよね?


だから彼らも“そう”あるべきで、だから・・・女の言葉に同調して顔を顰める。

この茶番劇で彼女は端役の悪役で、女はお姫様で、彼らはお姫様を守る騎士で王子様だから。

お姫様のためにと、ずっとずっとお姫様に悪いことをして悲しませて嫌なことをしてばかりの彼女に石を投げつける。


「見苦しいんだよ、お前なんてこの子の足元にも及ばないくせにさ、くだらないことで噛み付いて」

「俺たちの邪魔すんじゃねーよ、消えちまえよ、とっととどっかに」

「はぁ……いい加減身の程をわきまえたらどうです?」

「この子にひどいこと散々しておいてさぁ、この子が優しいから俺たちは見逃してあげてるんだぜ?」


ひどい、ひどい、こと。

彼女は男たちの言葉を口の中で反芻した。


_____どっちがだよ


手のひらに爪を立てて、口内炎まみれの頬の裏を噛んで、そうして、そうしてようやっと吐き捨てるのを必死に耐えた。そうしなければ口からあらゆる悲鳴と不満と憎悪が溢れてしまいそうで、どうせ叫んだって聞こえやしないとわかっていてもなお、どうしようもなく。

我慢と憤りと怒りと悲嘆、ここ数ヶ月で降り積もった感情は手のひらにいくつもの爪傷をたてる。少し前から体から傷が消えなくなったが、痛みは麻痺して感じなくなったので問題はなかった。


人の命がかかった場所で吼えたことはくだらないこと。

屍を踏みつけて歩くのを止めたのは邪魔なこと。

戦場に乱入してきたことを咎めたのは身の程を弁えないこと。

階段から突き落とされそうになったから手を払ったことはひどいこと。


____あぁくそったれ!


口が悪いだなんて嘲るならどうぞ、生まれつきなもので仕方がないので。

お姫様なんてお綺麗なものじゃなく、こちとら村人cあたりなもので!


叫んだところで無駄なことだとは100も承知の上で、それでも、それでも、それでも!

…けれど言葉が震えた口から放たれることはなく、ギリギリと歯を食いしばる音だけが微かにした。


彼女にはない。

到底言うつもりはない。

私だけがどうしてこんなことに、なんて。


任務の放棄、重症人の放置、罵詈雑言に集団リンチ。その理由の全ては“あの子のために”。

望まれたから、愛しているからずっとおそばに侍りたいのデスと宗教詐欺にも劣る盲目的な愛好心。もちろん、都合の悪いところは全部ぽいっと見ないふり、見かけは完璧取り繕った理想郷。 


その理想郷を作り上げるのは、無辜の血と涙と屍が、たくさん。

それを積み上げて、踏みつけて、当たり前の顔で必要犠牲だろ?って笑ってやがるクソッタレ。犠牲になって当然な人なんていないよって、そんな当たり前すらわからなくなった解る頭を放棄して楽な不自由を選んだ彼らの顛末は?


彼女は、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張った果てに、何があった?




擦り傷だらけの足に、傷痕の消えなくなった上半身、上げることすらできなくなった左腕、爪傷で滲んだ手のひら、消えなくなったクマとこけた頬、澱んだ夕焼けの瞳と枝毛まみれで薄んだ紫の髪の毛。痛みを感じなくなった体と悲鳴が聞こえなくなった心、思い込みと嘘と虚で固めたハリボテの自信と努力。


痛くない

悲しくない

大丈夫

頑張れる

まだ大丈夫

どこもかけてない

辛くない

苦しくない

大丈夫













なにが

だいじょうぶ?




ほんとはずっとほんとはずっと何より悲しかったなによりかなしかった





五肢をもがれたような痛みも、喉から迫り上がる血反吐も、腹を割くような熱も、頽れながらも形を保つ闇の中で僅かに光る“タカラモノ”を道標に抱き抱えて。タカラモノがいつの日か。遠いあの日のように元に戻ると、忘れ去られた約束が叶えられる日が来ると、信じていた。

信じていたから、そのすべてを手放さなかった。


彼女はずっと忘れられない、手放せられない、知らない

あの日々以上の幸福を 彼女は知らない


ただ、ただ、幸せだっただけのはずなのに。


「こわーい。ね、ね、見てみて、私を睨んでるの。ひどいわ、こわいわ、とーっても」


きゃあ、きゃ、B級ホラーでも見たように怖がった“ふり”。もちろん、怖いだなんて思っちゃいないでしょうね、お姫様。

そういう舞台で、舞台装置で、台本。

くすくす笑って月色の瞳の男の腕を抱きしめて、その麗しい顔を寄せれば男は決まりきった事実としてその肩を抱き寄せる。そうして絹のような髪に頬を擦り寄せて優しい中身のない声をかけた。




「大丈夫だよ、“俺がお前を守ってやる、小指切って、約束な”」




月色の瞳の男はきっと、何も考えもせずにそう、口にした約束のおまじない。

約束の_____ずっとずっと縋り付いていた彼女の道標。彼女が抱え続けたありし日の幸福、男があげた汚していっとう大切にしたぐちゃぐちゃになった宝物


ひび割れて、もう見るも耐えないほどにぼろぼろで、テープでつぎはぎにしてかろうじて形になっていた。泥を被せて踏み躙られて、ここまでしなくったっていいじゃないかといっそ笑いまで込み上げる。


夕焼けは暮れて、夜に沈んでいく。

びゅうとひとつ風が吹いて、彼女の黒い服がはためいた。ぱちり、と月色の瞳と目があった、陰った瞳が歪められる。


「何見てんだよ…とっとと消えろよ。なんで今まで、お前みたいなやつといたんだろうな」


蟲とか、そういうものを見るような瞳。

吐き捨てられたどうでもいいものへの思い上がりな台詞には嫌悪しか込められていない。あの日貰った不器用で冗談に隠した優しい心配はどこにも、どこにも、なにも。


ばきん。

ハンプティダンプティ、堀から落ちた、地面に落ちて粉々になった。


(あ)


ばきん。

真白のミルクは盆から溢れた、地面に跳ねてクラウンは潰れた。


(なんか、もう)



ばきん。











『……ん、約束だからね』

『……おぅ、“俺がお前を守ってやる、小指切って、約束な”』



(どうでも、よくなっちゃった)



忘れ去られた幸せな思い出。

今となっては非日常な、当たり前だった日常。

必死に頑張って、頑張って、我慢して、耐えて、頑張って、泣いて、頑張って、泣いて、涙も出なくなって、それでも頑張って、がんばって がんばって がんばったその結果が“これ”だ。


爪傷だらけの手のひらがゆっくりと開かれる。

凛としていた夕焼け色の瞳は途端、涙すらも流さずに諦めを宿して夜の色に染められる。



「もういらない、もう、いい」



屋上に立つ彼女以外、意味がわからないその呟き。分かるはずがないだろう。必死に必死に取り繕っていたタカラモノ彼女を踏み躙ったお前らには、到底。


何かあった、あったに決まってる、理由がある、あるはずだ、壊れたことに理由がないなんてあり得ないだからきっと頑張ればあの日々を取り戻せる

なおせば、元通りになるはず、理由が取り除かれればぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ

そう信じて、願って、望んで


そして何より信じていた


信じていなければ生きていけなかった


「誰を好きになろうがみんなの勝手で、好きな人を優先するのも仕方ない、そう、思ってた」


好き

大切なひと

大事な仲間

かぞくのような人

愛している


それが全てで、すべてだった。


好きな人に好きな人ができることも

大切なひとに大切な誰かができることも

大事な仲間に大事な特別ができることも

家族のような人が優先して可愛がることも

愛している彼に愛するものができることも


寂しく、嬉しく、嫌なことで、喜ぶことで、嫉妬の対象で、応援の対象で、ただそういう話で終わるだけのはずだった。

それだけで、たったそれだけのはずだったのに。


誰も、誰もが、みんな、皆、盲目的に、絶対的に、信心深く、確定事項として、“お姫様”を自分のいちばんにした。

気がついた時にはとっくに手遅れだった。


傷だらけの体で笑いながら女を誉めそやし

無辜の血を踏み躙りながら女の手をとって

屍で作った舞台の上で女と共に踊りあった


割れかけたガラスよりも、つつかなくとも崩れるほどに脆くなった世界

それでも彼女の抱えたきらきらとした幸福は、変え難い思い出は、どうしたって全てを諦めさせてはくれなくて。

きっと、必ず、絶対に!笑い合ったあの日々を、彼女の愛した全てを取り戻せると信じていた。



















信じていたのに。




(ねぇわたし)


(だれのためにがんばってたの)



(わたしのたからものをぐちゃぐちゃにふみにじっているのは)






 


「お前たちは、どうしてわからない。誇りも、意思も、信念も、ぜんぶ踏み躙って、お前らの足元には屍の血が流れてることがどうしてわからない!」




落ちて潰れた卵はスクランブルエッグにだってならないし、溢れたミルクには虫が集る。


助けを求める手を払い、泣き叫ぶ子たちの声を無視して、“お姫様”が望むからとただそれだけで人を詰り、踏み躙る。彼女だって聖人ではない、ただの、たったひとつのちっぽけないきものだ。


大切だった、大好きだった、大好きで大好きで大好きで、なによりも、愛していた!


誇りも敬意も全て自らで汚しもうどうしたって言葉も届かない彼らを、大切な仲間だったかつての彼らと同じだとは思えない。



(一緒であってたまるか)

(私を救ってくれたあの輝かしい日々を、この世の全てとも思えた幸福を、その全てを踏み躙ったコイツらは地獄に落ちたって許されてたまるか)


「呪われちまえ」


何もかもを見捨てて忘れ果てた、お姫様への疎ましい“あい”だけを抱く彼らを、腐り落ちたバケモノに成り果てた、彼らの皮を被ったニセものにしか見えない。


理由があったって何だというのだ

それだけで、私の全てが許されてたまるか



「返してよ、私の、私が愛したみんなを、私のしあわせを、かえしてくれよ…!」



もうがんばれない

もうどうでもいい

もうぜんぶぜんぶ


こわれちまえしるもんか

わたしのしあわせはもうない

こわれたものはなおらない



わたしは、わたしは、わたしは






わたし、は。



しあわせなおもいでだけでいきていけるほど、つよくないよ



とうとうずっと耐えていた赤紫色の瞳は膜を張ってぼろりと大粒の涙が溢れた。

拭うこともせず、久しく流れていなかった涙は冷たいコンクリートにぽたぽたシミを作っていく。


ふらつきながら彼女はおぼつかない足取りでゆっくりゆっくり後ろに下がっていく。ガシャンと鉄柵に体が当たり音が鳴り響いてようやく、自分が屋上の端っこに突っ立っていることに気がついた。

まるで自分が追い詰められた鼠みたいに惨めで、無様で、みっともないようでいっそ笑えた。



「うそつき、まもってくれるって、いったくせに。うれしかったのに…うそつき」



彼女の最後たったひとつ引っ掻き傷のろいのことば

追い詰められた鼠は猫をも噛むとはよくいったもので、文字通り死に際に放った恨言。わかって放った呪いの言葉、そのたった一言だけでもう全てを投げ捨てられた。


ざまぁみろ、ざまぁみろ、ざまぁみろ!

いるもんかこんな世界

いらない いらない いらない!

どうなったって知るもんか

勝手にやってろ 勝手に繁栄して 勝手に滅べ


もう疲れた、私だけの幸せだけ抱きしめて、もう、ねむらせて





憎悪すら忘れてただ、諦めだけを宿した彼女の体は真っ逆さま。

そのまま柵を乗り越えた。


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