第3話

 おれがこんな風になってしまったのは親父と母のせいだ――良哉は嘯いた。

 もともと横柄な男ではあった。それでも、母がいなくなる前までは仕事と子育てをしていた。

 母は由紀子が二歳の時いなくなった。ある日親父とものすごい口論をして飛び出した――そのときのことは子供心に深く脳裏に刻まれていた。

 母は親父を愛していなかった。親父に対しての態度を見ているとそうとしか思えなかった。それはおれと由紀子に対しても同じだった。母は己を飾り立てることにしか興味がなさそうだった。いつも高そうなネックレスをや指輪を買っていた。おもちゃなど、一度も与えられた経験がなかった。

 ――お母さん、見てよ。テストで満点取ったよ。

 ――そんなことより、見てよこのルージュ。似合ってるでしょ?

 描いた絵が美術館に期間限定で掲示してもらえることになった。良哉は必死に母にアピールした――無駄だった。母は自分のことばかり。由紀子が生まれるまで一人だったおれは、寂しさを押し隠した。学校でいくら褒められても、母は無関心。満たされなかった。そのうち頑張るのも、母に自慢するのもやめた。

 授業参観、運動会――どこにでも見られる、家族間のやり取り。良哉が経験することはなかった。父母どちらも一度も来ることはなかったからだ。

 飲んだくれの親父に、そこまで気が回るはずもなかった。息子など存在していないかのように酒をあおり、酔っ払った挙句、くだを巻く。息子など存在していないかのように、装飾品を買いあさる。こんな大人にはなりたくない――そう思った。父を憎んだ、母を恨んだ――どうしようもなかった。

 由紀子が生まれてからもそれは変わらなかった。

 良哉のたった一つの自慢は妹の由紀子だった。兄心と懐かしさからくるものなのかもしれないが、かわいい妹だったことを覚えている。

 特別顔立ちが整っているわけではなかったが、いたるところが丸かった。可愛くて、愛おしかった。由紀子は、良哉の行くところにいつもついてきた。シャツの裾を引っ張って、てくてくと並んで歩いた。兄に懐く幼いさまは心地よかった。幼子特有のぷにぷにとした指を良哉は良く触っていた。撫でてやると顔をくしゃくしゃにして笑った。

 母がいなくなってから、親父は良哉と由紀子に対して冷たくなった。特に、由紀子に対しては露骨だった。妹を口汚く罵ることが増えた。

 まだ幼稚園にも行っていない由紀子の遊び相手はいつも良哉だった。

 ある日親父が不機嫌さを隠そうともせず家に帰ってきた。仕事で失敗したらしかった。良哉と遊んでいる由紀子を、いきなり怒鳴りつけた。

 ――自分だけ楽しやがって!

 なぜ妹が怒鳴られるかはわからなかった。仕事が理由とは思えず、良哉は親父を詰問した。酒に酔った親父は悔し気にしゃべりだした。母の家出先――相手がわかったらしかった。おれの予想は当たっていた。

 相手の顔はわからない――芸能事務所の社長という職業だけは伝えられた。それ以外のことは喋ろうとしなかった。母に会おうとしたが、手ひどく追い返されて何も出来なかった――親父は口惜しげにビールの缶を握りつぶしながらまくし立てた。

 その日を境に、親父は由紀子を怒鳴るようになった。

 良哉にとっての母の記憶は苦痛を伴うものしか浮かばなかった。愛情を受けた記憶などなかった。小学校で書かされる、家族にお礼を伝える作文。何も書くことがなかった。思ってもいない内容の作文を書き、先生に提出した。母には渡さず、捨てた。

 親父は相手の職業を知っているにも関わらず、あれ以降母を取り戻そうとした気配がなかった。性格はともかく、母は美人の部類だった。親父は自分がみすぼらし依存在であり、母と釣り合わないことを自覚していた。

 傲慢で暴力的だが、自分のことを親父は理解していた。だから、弱い良哉と由紀子に当たり散らした。特に母の面影を残している妹に対する当たりはきつかった。妹が泣く度怒鳴った。由紀子は丸い顔を強張らせ、良哉の後ろに張り付いていた。

 親父は料理ができたが、妹だけには粗悪なものしか渡さなかった。親父に内緒でおれは由紀子に自分のご飯を半分あげていた。半分しか食べられないというのに、由紀子はうれしそうだった。おれといるとき、由紀子は笑みを絶やさなかった。愛おしい気持ちに良哉も包まれていた。

 貧乏で乱暴な親父がいる家庭――それでも、由紀子がいたから幸せだった。由紀子といる時間は特別なものだった。

 ある日、それが親父にばれた。由紀子の口に食べかすが付いていたからだった。

 ――クソガキ、何いっちょ前にもの食ってるんだ⁉

 由紀子が泣いた。父の顔が歪んだ――張り手が飛んだ。由紀子が転がった。白くて柔らかい由紀子の頬はすぐに腫れた。幼子の未熟な体に親父の張り手は拷問に等しかった。

 躾の域をはるかに超えていた――しかも、理由が理由といえるものではなかった。親父の手は太く、節くれだっていた。憎悪の込められた打擲はたやすく由紀子を傷付けた。肉体的な意味合いだけではないはずだった。

 食べかすがついている幼子――柔肌に触れる温かい両親の掌。本来なら、優しく包んでくれるはずだった。無償の愛を受ける権利が由紀子にはあるはずだった。間違っても、咎められるようないわれはないはずだった。

 ――何で由紀子にそんなことすんだよ⁉ 父さんと母さんのせいだろう⁉ 由紀子が何したって言うんだよ!

 良哉は食って掛かった。親父はビール瓶を振り上げた。頭上にガツン、という衝撃。頭の中が白くなった。視界が霞んだ。前につんのめっていた。身体中が痺れて動けないところを、滅多打ちにされた。

 ぼやける視界――足を掴んだ。ビール瓶の破片が突き刺さった。良哉の身体は貧弱だった。親父に敵うはずがなかった。

 ――ムカつくんだよっ。泣いたら特にな! 自分はおれらを捨てたくせに、被害者みたいな顔して暮らしてる。こいつはあの女の血を引いてる。きっと同じことをするに決まってんだろうが‼

 親父は完全に由紀子と母を同一視していた――常軌を逸していた。

 ――ざけんなよ⁉ 勝手すぎんだろ。由紀子がかわいそうじゃねえか⁉

 良哉は血を垂らしながら親父に食って掛かった。暴力のせいで体が怠かった。全身が焼けるような痛みを訴えていた。いつもならすぐ暴力をふるう親父のことは避けていた――が、無意識に立ち上がっていた。それだけ親父の発言は許しがたいものだった。

 ――うるせえ! ガキは黙ってろよ‼

 親父の足――浮き上がる。一瞬、息が止まった――かすれ声を良哉は上げた。あっけなく倒れた。親父が仁王立ちし、良哉の首を踏みつける。濁った悲鳴。

 また、かすれ声を出した――声にならなかった。手足が空を切る――なおも親父は良哉を踏みにじる。蹴りが止まる――顔を上げる。親父の憤怒に塗りたくられた顔。見えたのは一瞬だった。顎を思いきり蹴り上げられた。

 激痛。何も考えられなかった。転げまわった。床に滴る深紅の液体――鮮血。鼻に触れた――違和感があった。触っているはずなのに感触が感じられない。血で滑る指。

 ――やめて、やめてよ。

 由紀子が泣きながら親父に縋りつく。やめろ、親父に殴られるぞ――声にならなかった。身体を自分の意思で動かせなかった。

 親父が腕を振りかぶる――由紀子の腹を叩く。由紀子は蹲って震えていた。泣くこともできない痛み――目を閉じた。由紀子が嬲られるのは見たくなかった。助けられなかった――なお身体が動かなかった。親父に殴られたせいだった。親父に殴られるのを恐れていたせいだった。さらに殴られたら死んでしまう――そう思った。

 お父さん――由紀子は親父をそう呼んだことがなかった。自分に愛が向けられていないのが分かっていたからだ。物事の分別がつかない年齢でもわかる親父の冷たさ。胸が痛んだ。かわいそうだった。本当なら父と母に囲まれて微笑んでいるのがあるべき姿だった。母――良哉と由紀子を見捨てて逃げた。父――良哉と由紀子に暴力を振るう。最低だった。親としての義務なんて何一つなしていなかった。運命を呪った。二人への憎悪が募った。

 それから親父の由紀子への暴力は連日に渡った。

 ――死んじまえ、クソガキ‼

 ――やめろよ!

 親父の暴力は容赦なかった。良哉は親父に背中から掴みかかった。妹が目の前で傷だらけになっていくのは耐えられなかった。息が詰まった。首をつかまれていた。増す握力。足をばたつかせた。息を吸おうとした――必死で。

 腕を離された。良哉は床に転がった。荒い息を吐いた。電球が霞んだ――親父の足が良哉の腹に突き刺さった。息を吸おうとしていた身体の動作――蹴りによって圧迫された。うまく息が吸えなかった。

 ――やめて、おにいちゃん、助けて。

 由紀子は助けを求めていた――唯一頼れる兄に。良哉――痙攣することしかできなかった。親父――由紀子を踏みつけにしていた。濁音交じりの悲鳴。耳をふさいだ。これ以上由紀子の悲鳴を聞いていればどうにかなりそうだった。親父の暴力――圧倒的だった。恐れていた。どうすることもできず、ただ震えているだけだった。

 気が付けば顔を晴らした由紀子が倒れていた。親父は出かけたらしかった。足の腫れは青くなっていた。こんな小さい体を――良哉はそっと抱え上げた。口に血が付いていた――唇が切れていた。由紀子の丸いおでこを撫でているしかできなかった。

 ――おにいちゃん、だいじょうぶ?

 小さな声で由紀子が言った。薄く開かれた目には涙が浮かんでいた。

 良哉は泣いた。由紀子を抱いて泣き崩れるしかできなかった。


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