第四章 霓裳羽衣の女 其の四、

 第四章 霓裳羽衣の女


 其の四、


 ——〝天にありては、願わくは比翼の鳥となり、地にありては、願わくは連理の枝とならん〟。


 楊貴妃と玄宗皇帝の世に言う『比翼連理の誓い』に対して、かつて清と同じように疑問を抱いた者がいた。


 玄宗皇帝の命に従い、楊貴妃の魂を探す旅に出た道士、楊通幽である。


 楊通幽は楊貴妃の魂を、美しい姿を思い描き、いつまでも、どこまでも追い求めているうちに、その思いは思慕の念にまで高まっていった。


 玄宗皇帝の命はどこへやら、すでに亡くなった女性に、しかも、身分違いの恋をしてしまったのである。


 だが、楊通幽は、この世からあの世まで行き来し、探し求めた楊貴妃の口から、『比翼連理の誓い』を聞いた時、憤りを覚えずにはいられなかった。


 ——なぜだ?


 楊通幽には、理解できなかった。


 ——なぜ、自分を裏切り、処刑を命じた相手に、比翼連理の誓いなどする!?


 これまでどんなに長く辛い旅路を歩んできたとしても、決して醒める事のなかった思慕の念が一瞬にして消えた。


 それどころか長旅の果てに大きく膨らんだ想いは一気に弾け、逆に凄まじいまでの憎しみと嫌悪感に変わり果てたのだった。


 ——あのようなうつけ者、どんなに容姿が美しかろうと、断じて、皇妃などではない!


 ただの人の形をしたもの——木偶人形、である。


 中身など何もない。


 そんなものと愛し合う事などできない。


 では、この世に自分が愛するに値する女が、他にいるだろうか?


 いや。


 楊貴妃でさえそうなのだから、市井の女など、容姿も教養も論外である。


 もし高貴な身分にある女がいたとしても、できる事があるとすれば、ただ肉欲を満たす事のみだろう。


 楊通幽は自分が道士である事を幸運に感じた。


 なぜなら、楊通幽は死んだ人間の魂を利用する術を知っていたからである。


 漢の武帝が亡くなった李夫人と再会を果たす為に使ったという〈反魂香〉、多少、時間はかかるかも知れないが、必ず、作り出す事ができるはずだ。


〈反魂香〉さえあれば、過去に亡くなった後宮の后妃を、後世に伝えられる美女を甦らせ、己が神仙術で自由を奪い、肉欲に耽る事ができる。


 ——それこそ、歴代の皇帝と同じように、女は全て私の思うがまま、だ。


 楊通幽は伝説にある西海聚窟州の楓に似た花と葉を持つ返魂樹を阿片と混ぜ合わせ、長い年月をかけ、新たな〈反魂香〉を完成させた。


 楊通幽が完成させたそれは、死んだ者の姿を煙の向こうに映し出すものではなかった。


 楊通幽の〈新反魂香〉は、この世に生き返りたいと願う、後宮の后妃や後世に伝えられる美女の魂を呼び寄せ、〈新反魂香〉の煙を吸った者の夢の中に出現させ、七回目の夢を見た時、煙を吸った者は、自分が呼び寄せた者の魂に取って代わられ、姿形まで変わるのである。


 元は別人、しかも、男性であっても魂が入れ替わり、肉体を乗っ取られ、歴史上の后妃や美女、本人になるのだ。


 楊通幽が作り出す〈新反魂香〉がなければ、后妃や美女は生き返る事ができず、例え一度生き返ったとしても、〈新反魂香〉の香りがしない所にはいられない。


 そして、〈新反魂香〉を作れるのは、楊通幽、一人しかいない。


 すなわち、この世に甦った后妃や美女は楊通幽の言いなりになるしかない、という事だ。


 楊通幽は〈新反魂香〉の使い方を考え、自分自身で娼館を経営し、お客相手に使うのが、一番、いい方法ではないかと思った。


 店を構えれば、娼婦を働かせて収入を得る事ができるし、お客に〈新反魂香〉を使わせれば、次々に美女を甦らせる事ができる。


 そうすれば、自分は気が向いた時や、彼女達が休みの日、定休日にでも楽しめばいいのだし、いい事尽くめだった。


 そう、楊通幽は、一九三〇年代のここ、上海租界で、『寺人』を名乗り、『上海大世界』の七階で、娼館『後宮夢』を経営していた。


「梅妃、お前は書斎で梅の花でも愛でていろ」


 寺人——楊通幽は、梅妃の本部屋を訪れ、彼女を顎で使うように、寝室から下がらせた。


「……さて、君は誰の夢を見ているのかな」


 楊通幽が北叟笑む傍らには、寝台で寝入っている清の姿があった。


 清は〈新反魂香〉を使い始めて、今日でちょうど七回目。


 今は阿片の深い深い眠りに落ちて、夢を見ているに違いない——果たして、どんな后姫、どんな美女の夢なのか?


「…………」


 楊通幽は今宵、また新しい美女を自分のものにできる瞬間を、今か今かと、楽しみにしていた。


 だが——


 清はすやすやと寝ているばかりで、いつまで経っても何も変化はなかった。


「……こいつ?」


 楊通幽はようやく、様子がおかしい事に気づいた。


 今に至るも、清の身体には一向に変化が生じる気配はなかった。


「こいつはいったい、何者だ?」


 楊通幽は、清に近付こうとした。


「——うちの店の常連さんですよ」


 楊通幽はふいに背後から声が聞こえてきたので、はっとした。


「な、なんだ、お前は!? 梅妃はどうした!?」


 楊通幽の前に立っていたのは、歳の頃なら二十代前半ぐらいか、涼しげな目をした細面の青年だった。


「あの小姐なら書斎で休んでもらっていますよ。貴方の方こそ、いったい、何者なんですか?」


 楊通幽が狼狽えているのに構わず、正体を訊ねたのは他でもない、『五色茶館』の老板、偃師だった。


「見たところ、他人の命を利用して〈反魂香〉を使っているみたいですね?」


 偃師はここで何が行われているのか、一目で見破った。


「……もう一度、聞こうか。お前は何者だ?」


 楊通幽は〈反魂香〉という言葉を聞いた途端、冷静さを取り戻して質問した。


「ただの茶館の老板ですよ。さっきも言いましたけど、その方はうちの大事なお客様なので、こんな事をされるのは困るんですよね」


 偃師は清が横たわる寝台と楊通幽の間に割って入り、冗談めかして言った。


「茶館老板、だと?」


 楊通幽は警戒心を露わにして、距離を取った。


「はい」


 偃師は屈託なく笑った。


「この男は自分の意志でうちの店にやって来たんだ。それを突然、勝手に入ってきてとやかく言われてもな……いいか、今ならまだ何もなかった事にしてやろう。判ったらさっさと出て行け!」


 楊通幽は脅しをかけた。


「この方が何を望んでいるのか、貴方には判るんですか?」


 偃師はわざとらしく、感心したように言った。


「……ここは娼館だぞ。こいつは女を買いに来たに決まっているだろうが」


 楊通幽は、おかしな事を言う奴だと言わんばかりだった。


「で、貴方は、女を売っている娼館の主人という訳だ?」


「何が言いたい?」


「この人は女を買いに来た訳じゃない、この人は噂が本当かどうか確かめに来たんですよ」


「噂? 『〈反魂香〉が焚かれた開かずの扉の向こうには、本物の楊貴妃がいる』という、あれか?」


「ええ、〈反魂香〉は実在するのか、実在するとすれば、本物の楊貴妃がいるのか。そしてもし、楊貴妃がいるとしたら、本当の愛があるのかどうか? この人は、それを確かめに来たんですよ」


「下らん」


 偃師が『楊貴妃』の名前を口した途端、楊通幽の顔色が変わった。


「貴方がそう思ったとしても、この方にとっては大事な事なんでしょう。私にとっても大切なお客様だし、こんな所で死なれたんじゃ堪ったものじゃない。今すぐ返してもらいますよ」


「お前がただの茶館の老板だとしたら、この男はどこの誰なんだ!?」


 楊通幽は腹立たしげに言った。


「私がただの茶館の老板なんだから、この方はただのお客様ですよ」


 偃師は何を今更、といった風である。


「ふざけた事を……このまま、この男を連れて帰れると思ったら、大間違いだぞ」


「貴方が裏で何をしていようが私はこの方さえ返して頂ければ、何も言うつもりはありませんよ。どうせここで見た事、聞いた事を他人に話したところで、誰も信じてくれないでしょうし。例えば玄宗皇帝の寵愛を楊貴妃と争った、本物の梅妃を見たなんて言ってもね」


 紀元前より存在し、現実に歴史を生きた偃師が言うのだから、『後宮夢』の梅妃は、正真正銘、本物の梅妃なのだろう。


「さっきから知った風な口をききおって、益々、このまま帰す訳にはいかんな!」


 楊通幽はいよいよ何か仕掛けてくる気だった。


「貴方、私がさっき楊貴妃の名前を口にした時も顔色を変えたでしょう? どうやら楊貴妃に対して、余程の思い入れがあると見える」


 偃師は自分が感じた事を、ありのままに言った。


「……!」


 楊通幽はそれこそ、顔色を変えた。


「貴方の方こそ、何者なんですか? こんなところで〈反魂香〉なんか使って、何をしているんですか?」


「それを聞いてどうする? お前に何の関係がある!?」


「気に障ったらすみません。でも私には、貴方が今、ここでやっている事が、本当にやりたくてやっている事には見えないんですよ。そうですね——欲しかったものが手に入らなかったから、不貞腐れている、いじけているようにしか見えないですね」


 偃師が不思議そうな顔をして、小首を傾げたと同時、


「我雷公旡雷母以威声 五行六甲的兵成 百邪斬断 万精駆逐 急急如律令」


 楊通幽はこれ以上は聞き捨てならないとばかりに、懐から〈霊符〉を取り出し、呪文を唱えた。


 道教について知っていれば、誰でも聞いた事ぐらいはあるかも知れない。


 道士が〈霊符〉を用い雷を意のままに操る術、〈雷法〉だ。


 だが、偃師は〈雷法〉の雷が発生する寸前、右の手首に嵌めた銅製の腕輪を外し、楊通幽が握り締めた〈霊符〉に狙い定め、さっと投げた。


「ぎゃ!?」


 楊通幽は偃師が投げつけた腕輪がその手に直撃し、短い悲鳴を上げ、〈霊符〉はひらひらと床に落ちた。


「貴方も道術の心得があるみたいですけど、私も仙人に教えを受けた事があるんですよ」


 偃師は余裕の態度だった。


「ば、莫迦な!? 何なんだ、お前は!?」


 楊通幽は自分の手を砕いた後、偃師のもとにブーメランのように戻っていった銅製の腕輪が、かの有名な哪吒太子の宝貝である〈乾坤圏〉などとは知る由もなかった。


「く、くそ! よくも私の手を……!」


 楊通幽は痛みのあまり膝をつき、偃師を睨み付けた。


「その程度の力しかないのなら、もう下手な抵抗はしない事ですね」


 偃師は楊通幽が力尽きたのを見ると、寝台に横たわる清を軽々と抱き上げた。


「そうそう、ところで楊貴妃の噂は本当なんですか?」


 偃師はふと思い出したように、噂の真偽を確かめた。


「…………」


 楊通幽は反抗的な目付きで口を閉ざし、答えようとしなかった。


「がは!?」


 楊通幽は顔面目掛けて、容赦なく〈乾坤圏〉を投げ付けられ、無様に床に倒れた。


「……あ、あの女なら、今も仙界にいるだろうよ。だからこそ〈反魂香〉に誘われ、魂が現世に戻ってくる事もないのだから」


 楊通幽は床に這いつくばったまま、血反吐と一緒に吐き捨てるように言った。


「そうですか、真偽を確かめられてよかった。目が覚めたら教えてあげよう」


 偃師は腕の中の清の顔を見て、嬉しそうに言った。


「お、お前にとって、その男は何なんだ?」


 楊通幽はこてんぱんにやられ、げっそりした顔で聞いた。


「さっきからうちの店の常連だって、ただの客だって言っているじゃないですか。そうだ、最後にもう一つ、教えて上げましょうか——私は人間じゃない、自動人形なんですよ」


「……何?」


「いくら見た目が人間そっくりでも、私は自動人形なんですよ。だからどうしても、人間の心の機微には、色恋沙汰になんかは特に疎いし、他にも判らない複雑な気持ちはたくさんある。でもね、そんな私でも、自分が孤独だという事は判る」


「孤独、だと?」


「それさえ判っていれば、自分が何をしたいのか、何をするべきなのか、間違う事はないんじゃないかと思っています……そう思うからこそ、この方は返して頂きますよ」


 偃師は自分の力では最早、立ち上がる事もできそうにない楊通幽を残し、清の事を抱えて立ち去った。


「全く……〈反魂香〉なんか清大夫ならどうとでもできたでしょうに、なんでまたあんな風に、危険に身を任せるような真似をしたんですか?」


 偃師は『五色茶館』に真っ直ぐ帰ると、店内の奥にある長椅子に清を寝かせて、ため息混じりに聞いた。


 清に対して言いたい事は、他にもまだたくさんある。


 あのままあそこに寝ていたらあの男に何をされていたのか判らなかったし、さすがの清も阿片中毒になっていたかも知れない。


「偃老板の方こそ、なんでまた今日に限ってこんな事を?」


 清は長椅子に横たわったままで、多少、疲労感は残っていたが、口調はしっかりしていた。


「ここ最近、清大夫の様子はなんとなくおかしかったですからね」


 偃師は肩を竦めた。


「……最初はいつものようにただの任務として確かめようと思っただけなんですよ。かの有名な〈反魂香〉が実在するのか、実在するとしたら本物の楊貴妃がいるのか」


「……でも、高野君が命懸けで自分の事を助けてくれたはいいが、もし昔のように裏切られた時の事を考えたら怖くなって?」


 偃師は何もかもお見通しらしく、清の顔を見つめて言った。


「……ええ」


 清はこれは敵わないとでも言いたげに、苦笑いを浮かべた。


「だから私は、調べたくなった……なぜ、玄宗皇帝に処刑されても尚、楊貴妃は彼と永遠の愛を誓ったのか? もし、噂が本当だとしたら、永遠の愛を誓ったにも関わらず、どうして楊貴妃は、娼婦に身をやつしているのか? そしてもし、本当の愛があったという事が判れば、私は、私は彼に……」


『彼』というのは、高野の事だろう——しかし、清はそれ以上、言葉にする事はできなかった。


 偃師もまた清に声をかける事ができず、二人の間には静寂が訪れた。


 りーりーりー……りーりーりー……!


 どこかから迷い込んできた一匹の蟋蟀が、清が枕代わりにした長椅子の肘掛けの先に留まり、ふいに鳴き始めた。


「……『後宮夢』の老板らしき男は、楊貴妃は今も仙界にいると言ってましたよ」


 偃師は、反応を窺うように言った。


「もういいんですよ。『後宮夢』で〈反魂香〉を吸っているうちに、そんな疑問、どうだってよくなったんですから」


 清はひどく疲れたような顔をして言った。


「いっそこのまま、ずっと夢を見ていよう。阿片の微睡みに沈んでいよう、そう思っているんですから」


 清はこの世の全てが嫌になったような顔をして、ため息混じりに言った。


 清が〈反魂香〉を使って眠りに落ちた時に見ていたのは、他のお客のように、后妃や美女と戯れる夢ではなかった。


 自分が想っている人と仲睦まじく過ごす、幸せな時間——本当に、清の夢だった。


「あの〈反魂香〉さえあれば、私はこれからもずっと……」


 清はそれこそ、阿片に溺れた人間のように、うっとりした顔をして言った。


「でもそれは、清大夫が本当にやりたい事なんですか。本当に、やるべき事なんですか?」


「……私はもう、自分一人であれこれ考える事に疲れたんですよ」


 清は、千年の長きに渡って考え抜いてきたかのように、心底、うんざりした顔で言った。


 確かに彼は、本当にそれだけの長い年月を生きてきた、平安時代に造られた人造人間だった。


 ずっと、独りで生きてきた。


 たぶん、これからもずっと。


「ただ単に孤独に耐え切れず自分を見失って、それこそ夢の中に逃げ込んでいるだけでしょう。清大夫は本当のところ、高野君の事をどう思っているんですか」


 偃師が問うと、清の目は泳ぎ、まつ毛は揺れ、そして、意を決して、何か言おうとした。


「私は……」


 清は涙を堪えきれず、それっきり口を噤んだ。


 清は玄宗皇帝の事を想い、涙した楊貴妃のように、さめざめと泣いていた。


「……なぜ、玄宗皇帝に処刑されても尚、楊貴妃は彼と永遠の愛を誓ったのか。私はその疑問自体が、そのまま答えになっているんじゃないかと思いますよ」


 偃師は哀しみに暮れる清の事を、励ますようにして言った。


「つまり……玄宗皇帝と楊貴妃は、お互いに愛し合っていたから」


 偃師はなぜか寂しげに、ぽつりと呟くように言った。 


 そう、お互いに愛し合っていたからこそ、玄宗皇帝は自ら処刑の命を下したにも関わらず、道士を使って楊貴妃の魂を見つけようとし、楊貴妃もまた、処刑されても尚、彼と永遠の愛を誓った。


 だからこそ、『比翼連理の誓い』なのだ。


「…………」


 清は偃師の言葉を聞き、まるで何か思い知ったように、大きく目を見開いた。


 清の涙に濡れた双眸に映っていたのは——


「今、ここで、貴方の気持ちを言う必要はありませんよ。伝えるべき人に、伝えるべき時に言えばいい」


 偃師は目の前のお客が、想いを定め、口を開こうとするのを、片手を上げて制した。


「もし、その舞台にうちの店をお選びなら、前もって言って下さい。貸し切りにする事もできますから」


 偃師は茶目っ気たっぷりに言った。


「いらっしゃいませ!」


 新規のお客が来店し、看板娘の龍姑娘が笑顔で迎えた。


 偃師は、龍姑娘がお客を案内した時、清にちょうどお茶を運んできたところだった。


 偃師が清に持ってきたのは、可愛らしい小さな蓋椀に淹れられた、とても清々しい香りがする、透き通るような緑茶だった。


 楊貴妃も愛飲していたという、中国十大銘茶の一つ、『黄山毛峰』である。


 けれど、そこに座っていたのは、さっきまで泣き腫らしていた丸縁の眼鏡をかけた、小柄な青年ではなかった。


 そこには、特務機関〈エス機関〉の機関長、清水八十郎の姿もなければ、『上海神農堂医院』の漢方医、清大夫の姿もなかった。


 いつの間にか清と入れ替わるように座っていたのは、偶然にも、彼と同じ縞模様をした女性物の背広を着た若い女性だった。


 まるで誰かに恋でもしているように、幸せそうな微笑みを浮かべた、絶世の美女である。


 実際、ゆったりとした姿勢で長椅子に座し、楊貴妃と同じお茶を優雅に味わっている絶世の美女は、実に千年ぶりの恋愛に胸をときめかせていた。


 りーりーりー……りーりーりー……!


 かつて皇帝の寵愛を受けられなかった后妃達は、蟋蟀を虫具に囲い、美しくも切ない鳴き声を聞き、孤独を慰めていたというが。


 りーりーりー……


『五色茶館』を住処とする機械仕掛けの蟋蟀は、まるで己の役目を終えたとでもいうように、長椅子の肘掛けからぴょんと飛び跳ね、何処かへと去っていった。


 ここにはもう、孤独の淵に佇む者はいない——恋に生きる女と、その女においしいお茶を淹れ、時々、話し相手になる、若い男の老板がいるだけだ。

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