第四章 霓裳羽衣の女 其の三、
第四章 霓裳羽衣の女
其の三、
清は初めて『後宮夢』に行ったあの夜から、毎晩のように店に通い、梅妃を指名し、阿片に耽溺した。
その日は『上海神農堂医院』で診察を終え、散歩がてら久しぶりに『五色茶館』に立ち寄った。
『五色茶館』で一休みしたら、今晩もまた『後宮夢』に行くつもりだった。
清はいつものように店内の片隅の席に座り、一人静かに、読書に耽っていた。
今、読んでいるのは、楊貴妃について書かれた本である。
と言っても、史実ではない。
楊貴妃は死後、多くの文学作品の題材になった。
中唐の詩人、白居易の『長恨歌』、楽史の『楊太真外伝』、洪昇の『長生殿』、などなど。
清が読んでいるのはそういった創作で、どの創作においても、物語の終盤、一人の道士が玄宗皇帝に命じられ、楊貴妃の魂を探しに旅に出る。
道士の名は、楊通幽。
現在の四川省、
ある時は空の果て、ある時は地の果て、またある時は冥界まで訪れたが、いくら探しても見つからない。
楊通幽は、ある日、海の果てに仙女達が住む島があるらしいと噂を聞く。
大海原にぽつんと浮かぶ島には、五色に輝く雲が漂い、島の中心部には、雲に届くほどの高い楼閣が建ち、仙女達の中に、一際美しい仙女がいるのだという。
一際、美しいという仙女の名は、太真。
楊通幽は彼女こそ楊貴妃に違いないと、仙女達が住む島まで行って、太真に会わせてくれるように、侍女に取り次いでもらった。
太真は花柄の帳の中で横になっていたが、唐の使いが面会を願っていると聞いて、慌てて飛び起きた。
衣を手に取ったものの、しばらく行ったり来たりして、面会を躊躇う。
やがて観念したように、玉の簾や銀の屏風を押し開き、花の冠も整えないままに、楊通幽の所に足早に向かう。
楊通幽は、彼女が目の前に着物の袂をはためかせ、姿を見せた瞬間、確信した——まるで『霓裳羽衣の曲』を舞い踊っているように、裾をひらひらとさせた彼女こそ、今日まで探し求めていた、楊貴妃だと。
楊通幽の前に姿を現した、太真は、楊貴妃は、いつの間にか、はらはらと涙を流していた。
彼女は、玄宗皇帝に対する想いを、涙ながらに語った。
——あの日、別れてからというもの、陛下との距離は遠くなり、声を聞く事も、姿を見る事もできなくなってしまいました。
今となっては陛下から寵愛を受ける事もなく、この島で過ごした時間も長くなりました。
島の高殿から長安に目を向けても、靄が立ち込めているのが見えるばかりです。
私の気持ちの証として、螺鈿細工の小箱と金の簪をお持ち下さい。
螺鈿細工の小箱は蓋と身を分かち、金の簪は裂きましょう。
螺鈿細工の小箱や金の簪のようにお互いを思い合っていれば、いつかまた再会できる事でしょう。
楊通幽が楼閣から立ち去ろうとした時、楊貴妃は重ねて言った。
——〝天にありては、願わくは比翼の鳥となり、地にありては、願わくは連理の枝とならん〟。
天宝十年の秋、楊貴妃が玄宗皇帝と驪山の華清宮長生殿で寄り添い、牽牛と織姫の故事に想いを馳せながら囁き合った、誓いの言葉である。
いつまでも愛し合っていたいという、二人の切なる願いだった。
「…………」
清は本を閉じ、ふと思った。
今日まで読んできた楊貴妃と玄宗皇帝にまつわる話の数々は、言うまでもなく創作だったが、或いは、実話なのではないか、と。
他でもない、自分自身が、〝朱雀門の鬼〟によって造られた人造人間であり、現在もオカルトの専門機関である、〈エス機関〉を指揮しているだけに、可能性はあるだろう。
だがしかし、本当にそうだったとしたら、楊貴妃はなぜ、玄宗皇帝に処刑されても尚、彼と永遠の愛を誓ったのか?
そして永遠の愛を誓ったはずの彼女が、『後宮夢』などという現代の娼館にいるのだとしたら、それはなぜか?
清は紀長谷雄に裏切られた結果、千年の後、高野を信じる事に臆病になっていたが、胸に湧き上がってきた疑問を、はっきりさせたかった。
それさえ判れば、これからどうすればいいのか、どうするべきか、踏ん切りがつくかも知れない。
清は今晩もまた、『後宮夢』に確かめに行くつもりだった。
——『〈反魂香〉が焚かれた開かずの扉の向こうには、本物の楊貴妃がいる』。
噂は本当なのか?
「清大夫」
清が席を立とうした時、声をかけてきたのは、『五色茶館』の主人、偃師だった。
「最近、少しお疲れなんじゃありませんか?」
清は何も頼んでいないはずだが、偃師は竹製の茶盤に、お茶を載せて運んできた。
「そんな風に見えますか?」
清は苦笑いを浮かべた。
「失礼かも知れませんが、お顔の色が優れないような? よかったら飲んでみて下さい。サービスです」
偃師が紫壇の卓子に置いた茶器には、黄色いお茶が注がれていた。
「これは……?」
清は戸惑いがちに聞いた。
「『蒙頂黄芽』——四川省のお茶です。花のような香りがして、すっきりした気分になれると思いますよ」
偃師は笑顔でお茶を勧めた。
「すみません、今日は遠慮しておきます」
清は差し出された茶器を手で制すと、再び席を立った。
「これからまたお仕事ですか?」
偃師は心配そうな顔で訊ねた。
「まだ例の件を追ってますよ」
「『〈反魂香〉が焚かれた開かずの扉の向こうには、本物の楊貴妃がいる』?」
偃師が確かめると、清はこくりと頷いた。
「本当に楊貴妃がいたとして、清大夫が聞きたい事というのは?」
偃師は不安そうに聞いた。
「偃老板には判りますかね……楊貴妃がなぜ、玄宗皇帝に処刑されても尚、彼と永遠の愛を誓ったのか?」
清はもう考え疲れたとでもいうように、投げやりな口調だった。
「…………」
偃師は困ったような顔をした。
「やっぱり判りませんよね、気を遣わせちゃってすみません」
清はお礼を言い、偃師に代金を払うと、足早に茶館を出た。
「…………」
偃師は店先まで見送りに行ったが、夜の闇に染まった暗い路地に飲まれるように消えていく清の背中は、まるで孤独の淵にでもいるようにひどく寂しげに見えた。
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