第四章 霓裳羽衣の女 其の二、

 第四章 霓裳羽衣の女


 其の二、


 清は翌日の夜、フランス租界にある、昼の十二時‬から‬深夜まで開いているという、『上海大世界』にいた。


『大世界』の入り口に面した路上には一般のお客だけでなく、ゴロツキや売春婦が集まり、お祭り騒ぎのように賑わっていた。


 人混みをかき分けて、なんとか入場券売り場まで辿り着き、入場券を一枚購入し、建物の中に入る。

 入ってすぐの広間には姿形が歪んで映る十二枚の大きな鏡が並び、お客が何人か立ち止まって楽しんでいた。


 清は哈哈鏡ハーハージンに見向きもせず、人々で賑わう賭博場を通り過ぎ、階段を上っていく。


『大世界』は開店当初、劇場、映画館、売店、喫茶店、中華、洋食のレストラン、飛行船を模した観覧車などなど、家族揃って楽しむ事ができる娯楽の殿堂だった。


 だが、黒社会に買収された今となっては、スリやかっぱらい、ポン引きが蔓延り、階段を上るごとに、売春婦の旗袍のスリットが深くなっていく、如何わしい場所になっていた。


 清は犯罪の殿堂となった『大世界』の階段を、ポン引きや娼婦に声をかけられても無視し、誰に何を誘惑されても惑わされる事なく、黙々と上った。


 そうして、娼館『後宮夢』があるという七階に辿り着くと、さっきまでの喧騒が嘘のように、しんと静まり返り、お大臣の屋敷に迷い込んでしまったように壁には美麗な筆致の書画、廊下には歴史を感じさせる骨董品が飾られていた。


 清は美術館でも巡るように、周囲に飾られた品々を眺めながら歩いた。


 すると、突き当たりに『後宮夢』の看板を掲げ、いくつもの中国提灯を提げた、一軒の妓楼が見えた。


「ここか」


 清は分厚い木製の扉に手をかけ、いよいよ足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ!」


 清の事を一礼して出迎えてくれたのは、頭には半円形の帽子を被り、灰色の長い上着の上に暗紺色の短い羽織を身に纏って、黒地の褲子を履いた——つまり、皇帝や貴族に仕えた去勢された男子、宦官の格好をした人物だった。


「ようこそ、『後宮夢』へ! お客様は初めてのご来店でしょうか?」


 宦官の格好をした店員は細面で中性的な顔立ちをしており、年齢は二十代にも見えるし、もっと年上にも見えたが、声音は宦官のように特徴的な甲高い声ではなかった。


 おそらくは、時の皇帝に仕えた后妃を意識した女性を揃えたのと同じように、お店の雰囲気に合わせて仮装しているのだろう。


「ええ、初めて来ました」


 清は物珍しそうに辺りを見回し、こくりと頷いた。


 まるでどこかのお屋敷の応接間のように、洒落た調度品が店内を彩っていたが、受付には高級そうな調度品の他には、取り立てて何もなかった。


 だが、店の奥から阿片独特の甘ったるい匂いに加えて、なんだか楓の花に似た香りが漂ってきていた。


 ——これが噂に聞く〈反魂香〉の香りなのだろうか?


「では、当店について説明させて頂きます。申し遅れましたが、私はお客様のご案内を担当している、『寺人じじん』と言います」


『寺人』と名乗った男は、深々と頭を下げた。


「当店は時の皇帝の寵愛を受けた后妃や後世に伝えられる美女を意識して、歴史上の彼女達に勝るとも劣らない女性を揃えております。お客様には、お好みの女性はおられますか?」


「初めて来た事だし、そちらに任せるよ」


「ありがとうございます。この後、お客様のお好みで女性を一人お選びになり、彼女達の部屋に入りましたら、相手と話した上でご自由にお過ごし下さい。当店は、飲食、阿片、様々、受け付けております」


 寺人はいかにも商売人らしく、愛想のいい笑顔で説明すると、受付の脇にある花柄の垂れ幕を潜り、引きつけ部屋に案内した。


「ここは引きつけ部屋にございます。今から一人ずつ女性を紹介させて頂きますので、お客様が気に入った女性をご指名下さい」


 言われるがままにやって来た部屋は受付よりも広々とした所で、正面には緞帳が垂れ下がった小ぢんまりとした舞台が設置され、観客席のように黒檀の大きな卓子と長椅子が置かれていた。


 清は舞台を前にして長椅子に腰を下ろし、寺人が女性を紹介してくれるのを待つ事にした。


 寺人が誰かに合図するように手を叩くと、緞帳がするすると開き、一人の女性が姿を現した。


「……?」


 清は彼女が姿を現したと同時、梅の花の匂いを嗅いだような気がした。


 薄化粧の美女で、時代がかった艶やかな着物にほっそりとしたその身を包んでいた。


「梅妃。穏やかな性格で、文芸を趣味としています」


 寺人が簡単に紹介すると、彼女は清に向かって可愛らしく微笑んだだけで、すぐに引っ込んでしまった。


 寺人は次々と女性を呼び、一人一人、紹介していく。


「絹を裂く音を好んだ夏の桀王の妃、末喜です」


「定陶出身、漢の高祖の戚夫人です」


「匈奴に嫁した漢の王昭君です」


「漢の司馬相如と駆け落ちして、酒を売った卓文君です」


「越王勾践に滅ぼされた呉王夫差の愛姫、西施です」


 誰もが皆、歴史上の后妃か、後世に伝えられる美女の名を持ち、その名に勝るとも劣らない、美貌と気品に満ちた女性ばかりだった。


「お客様、どの女性になさいますか?」


 寺人は実に三十三人、紹介し終わると、自信に満ちた顔をして言った。


「一番最初の女性で」


 すでに最初から決めていたように、即答だった。


「——梅妃でございますね。畏まりました。少々、お待ち下さい」


 寺人は梅妃本人に指名が入った事を知らせに行ったのか、一旦、引きつけ部屋から出た。


「お待たせました。どうぞこちらへ」


 と、すぐに戻ってきた寺人に案内され人けのない廊下を行くと、在籍する妓女一人一人に充てがわれた本部屋が並んでいた。


 梅妃の本部屋は源氏名の通り、梅の木が出入り口に植えられていて、実に芳しい香りを漂わせていた。


「では、ごゆっくりお過ごし下さい」


 清は寺人が立ち去った後、梅妃が過ごす本部屋の扉を、軽く叩いた。


「はい、今、開けます——こんばんは」


 清を出迎えたのは、先程、初めて顔を合わせた引きつけ部屋の時と同じく、にっこりと微笑んだ梅妃だった。


「このお店は初めてですか?」


 梅妃はごく自然な所作で清の手を引き、室内の中央に置かれた黒檀の長椅子に座らせ、穏やかな口調で聞いた。


「うん、知り合いから『大世界』の七階にいい店があると聞いてね」


 清が辺りを見てみると、本部屋は少々狭いながらも、書斎、寝室、化粧室に分かれていた。


 書斎には、香炉、盆栽、書棚が置かれ、お客はここでお茶を啜り、西瓜の種を齧り、煙草を飲んで、阿片を吸い、妓女の歌を聞いて、楽しい一時を過ごす。


「素敵なお知り合いをお持ちですのね。実際、来てみてのご感想は?」


 梅妃は白魚のような指先で卓子の上に茶器を準備し、手慣れた様子でお茶を注いで、楽しそうに言った。


「そりゃもう、噂に違わぬいい店だよ。歴史上の后妃に勝るとも劣らない美女ばかりで、雰囲気もいい。おまけにこんなに可愛らしい女性と出会えたんだから、店長にも感謝しないとな」


「そんなにいっぱい褒めて下さるなんて、お世辞でも嬉しいわ」


 梅妃は清にしなだれかかり、いっそう愛らしい笑みを浮かべた。


「かの有名な楊貴妃と、玄宗皇帝の寵愛を争った女性だからね、一目惚れだよ」


 清は梅妃の細い肩に、腕を回して言った。


 梅妃——玄宗皇帝の寵愛を、楊貴妃と争った人物である。


 梅妃は福建省の医者の家に生まれ、九歳の時、すでに『詩経』の二編を暗唱していたという才女で、容姿にも恵まれ、二十歳の時に宦官である高力士の目に留まり、玄宗皇帝に仕える事となった。


 後宮には四万人の女性がいたというが、彼女は玄宗皇帝の寵愛を欲しいままにした。


 それだけ美しく気品があったのである。


 梅妃自身も文芸の才に関しては、『柳絮の才』の語源となった謝道韞を意識していたというぐらいだ。


 玄宗皇帝は、梅妃が自分の部屋の周りに梅を植えていた事から、彼女の部屋を、『梅亭』と名付けた。


 梅妃は夜遅くまで梅の花を眺めながら詩を作るのに励んでいたという。


 清の肩に頭を寄せた現代の梅妃もまた美しかったが、今夜、彼女を選んだ理由は、美醜や魅力は関係がない。

 

 楊貴妃に縁がある女性だったからである。


『開かずの扉』の噂について、本物の楊貴妃について、何か知っているかも知れないと思っての事だった。


「まあ、お上手だ事……でも、この店に〝牡丹の花のあの人〟がいたら、貴方はどちらを選んでいたのかしら?」


 彼女はそれこそ歴史上の梅妃のように、〝牡丹の花のあの人〟——牡丹の花を愛したという楊貴妃に対抗意識を燃やして言った。


「言い方が悪かった、引きつけ部屋じゃ他の誰も目に入らなかったよ。他の誰かじゃ駄目だ。私には、君しかいない」


「優しいのね」


「誰にでも優しい訳じゃないよ、君がそうさせるんだ」


「あらあら、本当かしら?」


「本当だとも——そう言えば、このお店には、『〈反魂香〉が焚かれた開かずの扉の向こうには、本物の楊貴妃がいる』なんて噂があるみたいだけど、楊貴妃の源氏名を持っている女性がいないから、そんな噂が立ったのかな」


 清はこの辺でそろそろ、探りを入れてみる事にした。


「初めてうちのお店に来た割りにはよく知っているのね。私もその噂、お客さんから聞いた事があるわ」


「事実なのか?」


「……貴方、面白い事を聞くのね」


 梅妃は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに艶やかな笑みを見せた。


「あまりにも雰囲気がある店だからね。君にしたって、本物の梅妃だと言われればそうかも知れないと思うぐらい、とても綺麗だよ」


「ありがとう。でもどんなに褒められても、当たり前だけど私達は名前を借りているだけ。その噂も、ただの噂——たぶん、噂の出所になったお部屋は、この先にある、阿片の保管庫だと思うわ」


 梅妃は清の耳元に顔を寄せて、囁くように噂を否定した。


「うちの阿片は特別製らしいから、独特の匂いがするのは事実だけど。ねえ、それより、そろそろ楽しみましょうよ。特別製の阿片、頼んでもいいかしら?」


 梅妃は清の顔を撫でながら、甘えた声でおねだりしてきた。


「もちろん」


 清達の元に、あたかも皇帝に献上品を届けに来たように、寺人が阿片と吸引道具をお盆に載せて運んできた。


「これが本物の〈反魂香〉だったら、楊貴妃に会えるかも知れないな」


 清は阿片と吸引道具が載ったお盆を受け取り、梅妃とともに寝室に向かった。


 寝室には赤い絨毯が敷かれ、奥にある寝台も天蓋付きの赤い絹のカーテンに覆われていた。


 寝台の脇には小机が置かれ、磁器の花瓶、置き時計、壁際には鏡付きの衣装箪笥に、紫檀の丸テーブル、籐の椅子が二脚置かれていた。


「もう、意地悪。また、あの女の話なんかして! お願いだから、私だけ見て下さい」


 清は寝台に備え付けられた阿片台の上にお盆を置き、梅妃と豪華な綾錦の布団の上で子どものようにじゃれ合った。


 清がお盆に載った小さな象牙の壺の蓋を開けると、幾何学模様が彫られた象牙の壺の中には、褐色の飴のような液体が入っていた。


 お盆に用意された五寸ぐらいの針を右手で摘んで針の先を液体に浸し、青白い炎を燻らせた阿片ランプに翳す。


 清は炙った針の先端をまた壺に浸し、再び阿片ランプに翳した。


 これを何度も繰り返すと、針の先には褐色のお団子、阿片泡ができる。


 阿片泡ができあがったら、尺八のように長い阿片煙管を使って、阿片を楽しむ。


『後宮夢』の阿片はやはり、どこか楓の花の匂いが混じっているような気がした。


 清達はやがて、阿片の微睡みに落ちていった。


 ——清が微睡みの中で見たものは、果たして、偶然か必然か、楊貴妃の夢、だ。


 清は夢の中で、なんと、楊貴妃自身になっていた。


 楊貴妃は、幼名を『玉環』と言い、西暦七一九年、開元七年に生まれた。


 彼女には三人の姉がいて、楊貴妃が玄宗皇帝の寵姫になる事で、三夫人として有名になる。


 だが、楊氏一族で、一番、出世をするのは、宰相の地位を得るまでになる、従兄弟の楊国忠だった。


 しかし、三夫人や宰相の傲慢な振る舞いが、やがて『安禄山の乱』を招き、玄宗皇帝は楊貴妃の事を処刑しなければいけなくなる。


 清は夢の中で、『霓裳羽衣の曲』の音色とともに、玄宗皇帝から貴妃として迎えられた。


『霓裳羽衣の曲』は、開元年間、甘粛省の西涼地方から献上された元々シルクロードから伝わってきた婆羅門曲を、音楽に造詣が深い玄宗皇帝が編曲したものだった。


 清はいつの間にかまた次の夢に移り、やはり玄宗皇帝と一緒に、今度は見事な木蘭を咲かせた、木蘭殿の宴に参加していた。

 

 だが、なぜか玄宗皇帝は元気がない様子だった。


 そこで清が、いや、楊貴妃が玄宗皇帝を気遣い、『霓裳羽衣の曲』を舞い踊ると、途端に元気になった。


 また次の夢になると、清は玄宗皇帝と一緒に、興慶宮にある、沈香亭で、咲き誇る牡丹を眺めていた。


 今度は玄宗皇帝が清の為に、詩人の李白に『清平調詞』を詠ませ、当代随一の歌手、李亀年に歌わせ、彼自身も玉笛を吹いた。


 清は玻璃七宝の杯で西涼の葡萄酒を楽しみ、幸せそうに微笑んだ。


 更に夢は華清宮へと移り変わり、酒に酔った玄宗皇帝は清の肩を抱きながら、牡丹の花の匂いを嗅ぎ、


 ——牡丹の花は憂いを忘れさせてくれるというが、この花が一番、酔いを忘れさせてくれる。


 と、清の美しさを、花に準えた。


 ついさっきまで玄宗皇帝だと思っていた相手の姿は、いつの間にか高野四郎のそれと入れ替わっていた。


 清は阿片が見せる夢の中で楊貴妃となり、玄宗皇帝である高野とともに、仲睦まじく、幸せな日々を過ごした。


「…………」


 清はふいに驚いたように目を開け、夢から覚めた。


 横で寝ている梅妃を置いて、静かに部屋から出ていく。


 今、やるべき事は、『後宮夢』の噂を調査をする事である。


 手始めに本部屋の周囲を見、噂の出所になったという阿片の保管庫を探した。


「お客様、どうかなさいましたか?」


 何の前触れもなく廊下の角から姿を現したのは、受付の寺人だった。


「近くにトイレはあるかな」


「トイレなら本部屋に備え付けてありますが、梅妃は何も言っていませんでしたか」


「彼女なら阿片を吸って、気持ちよさそうに寝ているよ。私もたった今、起きた所でね」


「これはこれは、梅妃が大変、失礼な事を。トイレでしたら受付にもございますが、ここから行くなら梅妃の部屋の方が近いかと」


「いや、彼女もぐっすり寝ている事だし、今日はこれで失礼するとしよう」


「左様でございますか。では、またのお越しをお待ちしております」


「次に来た時も、また彼女を指名させてもらうよ」 

「ありがとうございます。梅妃にも伝えておきますよ。ところで、お客様は何か夢はご覧になりましたか?」


 寺人は清を出口まで案内しながら、何気ない様子で聞いてきた。


「夢? ああ、この店に来たせいか、大昔のお妃様の夢を見たな」


 清はさっき観たばかりの楊貴妃の夢を思い出し、素直に答えた。


「不思議なもので、当店の阿片は特別製のせいか、皆さん、そのような夢をご覧になるみたいなんですよ。次も同じような夢を見たら、その時はどなたが夢に出てきたのか教えて下さい。きっとまた、いい夢が見られると思いますよ」


 寺人は店のいい宣伝になると思っているのか、得意げに言った。


「ここで出している阿片はどこのものなんだ?」


 清はふと気になって聞いた。


 阿片には、福建省で作られる激安の品や、四川省の『川土チョワントウ』、雲南省の『雲土ユントウ』、大連や日本で作られる『紅土ホントウ』、最高級品とされるインド産の『大土ダートウ』など、様々ある。


 だが——、


「……〈反魂香〉ですよ」


 寺人がにやりと笑って口にした阿片の名は、清が知るどこのものでもなかった。


「…………」


 清は冗談か否か判断がつかなかった。


 一つ、はっきりしている事があるとすれば、寺人の笑みには邪なものが感じられた事だ。


 それこそ皇帝や妃を意のままに操ったという宦官を思わせる、いやらしい微笑みだった。

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