第四章 霓裳羽衣の女 其の一、

 第四章 霓裳羽衣の女


 其の一、


 茶館は社会の縮図である。茶館という同じ場所に、色々な人間が集う。


 例えば、開店直後の午前八時‬頃‬は、朝食を食べに来た社会人や学生で混み合う。


 ‪十時‬を回れば商人が個室で会議を始め、‪‪十二時‬に‬なれば観光客や地元の人々が飲茶に訪れる。


 共同租界の路地裏にひっそりと軒を構える『五色茶館』も、色々なお客が来る事にかけては例外ではない。


 古民家を利用した『五色茶館』の玄関は、鬱蒼と茂った庭木に半分覆われ、隠れ家のような雰囲気を漂わせていた。


 中国格子のドアを開けて店の中に入れば、目の前に広がるのは小ぢんまりとした桃源郷のような光景。


 どこかから蟋蟀の鳴き声が聞こえ、足元には小川が流れ、せせらぎとともに、小型の水車がくるくると回る。


 店内は土壁で、随所に竹、古木が使われ、全体に温かみがある素材が使用されていた。


 あちこちに備え付けられた飾り棚には、唐代から現代までの茶器が展示され、色も形も様々な茶器の他にも、泥人形や手指人形、棒人形といった中国の人形が、所狭しと並んでいる。


 お客は季節の花で彩られた紫檀の卓子で好きなお茶を飲み、茶器も一人一人違ったものを使い、思い思いに過ごしていた。


『五色茶館』はお茶を一杯頼めば、種、木の実、乾燥させた果物、その日、お勧めのお茶請けが、三種類ついてくる。


 お客の好みの数だけお茶と茶器があるかのように、茶器は飲み方によって相応しいものが用意され、お茶の香りを楽しんでもらうのなら蓋がついた蓋碗、茶葉の形状や浮いたり沈んだりする様を楽しんでもらうのなら耐熱硝子の容器、といった具合である。


 茶壺は、お茶の香り、茶渋、油分が、使い続ける事によって染み込み、一つとして同じものはなかった。


 お客にしても、一人静かにお茶を楽しんでいる者、誰かと談笑している者、食事に勉強、仕事に読書、果ては将棋や囲碁を打っている者までいる。


 夜の帳が下りて、そろそろ閉店時間になろうかという頃、店内の片隅には、お客が一人、残っていた。


 丸縁の眼鏡をかけ、縞模様の背広を着た小柄な青年——清である。


「——偃老板には、誰かいい人はいるんですか?」


 清は近くの卓子の上を片付けていた偃師を捕まえて、楽しそうに質問した。


「どうしたんですか、急に。私なんかにいい人がいる訳ないじゃないですか」


 偃師は布巾を片手に笑って答えた。


 彼は仮にも、茶館を一軒、営むだけの手腕を持ち、それなりの容姿をしていたが、謙遜したのではなく、本心から言ったのである。


 偃師は見た目は人間そっくりでも、人ならざる者だったからだ。


 今より遥かな昔、腕利きの細工師によって作られた、自動人形。


 機械仕掛けの身体にも関わらず、恋人はいるかなどと聞かれれば、苦笑いする他ないだろう。


 イギリスの小説家、メアリー・シェリーの著作である『フランケンシュタイン』においても、〝フランケンシュタインの怪物〟は、孤独に苦しんでいたではないか。


「異性に興味がない訳じゃないでしょう?」


 清は、偃師の正体が自動人形だと知る数少ない人物だったが、逆にそれ故か、からかうように言った。


 清もまた、平安時代の日本で〝朱雀門の鬼〟によって作られた人造人間だったが、こちらはいい人が、お相手がいたと言えばいた。


「まあ、人並みには……自分で言うのもなんですけど、そのせいで昔、主人に恥をかかせたぐらいですからね」


 偃師は、一旦、休憩する事にしたのか、そばに置かれた椅子に腰を下ろした。


「それ以来、色恋沙汰はもう懲り懲りというか、御無沙汰ですよ。清大夫の方こそ、どうなんですか。急にそんな話をしてくるなんて、誰かお相手でもできたんですか?」


 偃師は興味深そうな顔をして聞いた。


「まさか。私だってそんな人、いる訳ないじゃないですか」


 清は驚いた顔をして言った。


 偃師と同じ人造人間だとは言っても、清の方は少し事情が込み入っている。


 なぜなら、清は、普段こうして男性の姿をしているが、本当は女性なのである。


 今より千年の昔、平安時代の日本で〝朱雀門の鬼〟が紀長谷雄と双六勝負をし負けた為に、紀長谷雄に渡す賞品として造られた人造人間だった。


 それも紀長谷雄が八十日間手を出してはならないという約束を守らなかった為に、普通の人間になれなかった液体人間なのだ。


 もしあの時、紀長谷雄が約束を守り、普通の人間になる事ができていたとしたら、清は彼の元に嫁いでいたかも知れない。


 だが、約束は果たされる事なく、哀れ、清の身体は水と化した。


 以来、清は約束を守らない人間は人一倍嫌いだったし、異性に対しても、強い不信感があった。


 ここ、上海でも、清が気を張らずに済む相手は、『五色茶館』の主人であり、自動人形である偃師、特務機関員であり、自分と同じように屍体から造られた人造人間、高野の二人ぐらいだった。


 きっと同じ人ならざる者だからこそ、いくらか心が許せる所があるのだろう。


「ただ最近、ちょっと気になる噂を聞いたんですよ。偃老板は、『上海大世界シャンハイダスカ』の七階に、『後宮夢』という娼館があるのを知っていますか?」


『上海大世界』と言えば、フランス租界東部にある、東洋一と言われる総合娯楽施設で、西洋の宮殿を思わせる六角形の尖塔が印象的な洒落た建物である。


 建設当初は起業家の黄楚九がオーナーだった事もあり、人々から『銭の世界』と言われていたが、〈青幇〉の首領、黄金栄に買収されてからは、売春、賭博、阿片、人間の欲望を一通り揃えた、‪‪『悪の世界』と化した。


 偃師は、正直、『大世界』に行きたいとは思わなかった。


「いやー、知らないですね。なんだか店の名前だけ聞くと、綺麗な人がたくさんいそうですね」


 中国の娼婦には、いくつか階級があるが、『大世界』の七階にあるという『後宮夢』は、どんな娼館なのだろう。


「『後宮夢』——その名の通り、歴史上の美女達を意識した高級娼婦を揃えた店ですよ。源氏名もそこから取っているらしいんですが、『中国四大美人』の名を冠した娼婦はやっぱり人気があるみたいですね」


『中国四大美人』と言えば、〝沈魚美人〟西施、〝落雁美人〟王昭君、〝閉月美人〟貂蝉、〝羞花美人〟楊貴妃の四人。


『中国四大美人』の中でも、取り分け、楊貴妃は、『世界三大美人』に数えられるだけに、どんな女性が源氏名を名乗っているのか、興味が湧いてくるというものだった。


「実際、お店に在籍している女性がどんな顔をしているのか気になりますね」


「もしかしたら歴史上の本人の顔を知っている偃老板が見たらなんて言うかは判りませんが、少なくとも世間一般のお客さんの間じゃ綺麗だって専らの評判ですよ。ただ、一見さんはお断りらしくて、毎日通って目当ての女性に気に入ってもらって、初めて一緒に寝る事ができるっていう話ですよ」


「それは大変だ。で、気になる噂というのは?」


「さっき言った『四大美人』、なぜか、楊貴妃だけいないんですよ」


「楊貴妃と言えば、傾国の美女なんて言われているぐらいだし、源氏名に使うのも躊躇われるんですかね」


「いや、私が気になる噂っていうのが——『後宮夢』の奥には開かずの扉があって、その扉から阿片の匂いに混じって独特の匂いがする、と」


「開かずの扉? 阿片の匂いに混じって独特の何の匂いがするっていうんですか?」


「——〈反魂香〉ですよ」


 清は偃師の反応を窺うように言った。


「〈反魂香〉……昔、漢の武帝が亡くなった李夫人と再会する為に使ったっていう、あれですか」


「そう。常連客の間じゃ、阿片の匂いに混じって独特の匂いを発しているのは、開かずの扉の向こうで焚かれた〈反魂香〉だと。そして扉の向こうには本物の楊貴妃がいると、まことしやかに噂されているんですよ」


「まさか、本当にそんな事がある訳が……第一、なんでまた本物の楊貴妃が、現代上海の、それも娼館なんかに? いや、ただの根も葉もない噂なんでしょうけど」


「その辺にいる普通の人間からしたら、ただの噂、与太話に過ぎないでしょうけど、私にとっては……偃老板だって、本当の所、一概には否定できないんじゃないですか?」


 清は含みのある言い方をした。


「そりゃまあ、私や清大夫の存在自体が、その手の噂話が事実の可能性があるという事を裏付けちゃってますからね」


「それでなくとも『後宮夢』の常連には、お恥ずかしい事に我が大日本帝国軍の人間も何人か名を連ねていましてね。それだけならまだしも、数人、失踪を遂げているんですよ。彼ら全員、ある日、突然、どこかに行ったまま帰ってこない……共通しているのは、『後宮夢』に通っていた事」


「清大夫としては軍部にも犠牲者が出ているとなれば、ますます気になる訳だ」


 偃師が清の立場を察し、清は黙って頷いた。


「すでに上の方からも命令が出ていますから」


「これ以上、犠牲者を出さない為に、調査をしろと?」


「確かにそれもあります。まだ失踪していない者達には、もう『後宮夢』に行かないように指示が出てますし。でも今回、最優先事項としてあるのは、〈反魂香〉の方なんですよ。何しろ、本当に世に言う〈反魂香〉が存在するとすれば、これを利用しない手はない」


「お偉いさんは、重要人物の死者をこの世に呼び出したりして、政争や諜報戦に利用するつもりかな。そうなると、これからまた忙しい日々が続きそうですね」


「個人的にも興味があるし、いつものようにのんびりやりますよ」


「個人的に、娼館に興味があるんですか?」


 偃師は目を丸くした。


「何か勘違いをしてやいませんか? 別に私は、お客として女性をどうこうしたい訳じゃありませんよ」


「それじゃ、いったい何に興味が?」


「偃老板にも誰かいい人がいれば、聞いてみたかったんですけどね」


 清は思わせぶりに笑った。


 どうやら清は恋愛沙汰について話したかった事があったらしく、それは『後宮夢』の常連客の間で交わされている、楊貴妃の噂話とも関係があるようである。


「二人揃って恋愛話ですか」


 と、興味津々な様子で話に入って来たのは、店内を箒片手に掃除していた、切れ長の目をした少女、『五色茶館』の店員、劉鳴凛である。


「劉小姐。もう閉店だっていうのに、長居をしてすまないね」


 清はにこやかに言って、席を立とうとしたが、


「清大夫、今の話、私にも聞かせて下さいませんか?」

   

 彼女はいかにも恋愛に興味がある年頃の娘らしく、清が返事をする前に、目をきらきらと輝かせて、近くの椅子に腰を下ろした。


「突然、どうしたんですか?」


 劉鳴凛の積極的な申し出に驚いたのは偃師だった。


「……自分で言うのもなんですけど、お店を手伝うようになってから男の人に声をかけられる事が多くて。でも、どうしたらいいのか判らないんですよ。田舎から出てきたばかりで都会の事もよく判らないし、男の人と付き合った事も一度もないし。それに私はなんて言うか、他の人とちょっと違う所があるし……」


 劉鳴凛は清とは茶館の店員とお客以上の関係がない為、自分の正体については言葉を濁したものの、落ち込んだように俯きがちになる。


 彼女は、偃師達と同様、普通の人間ではなかった。


 中国南方の奥地、恭丘山の隠れ里に住む、〈応龍の一族〉の生き残りであり、大人になれば、〝応龍の神通力〟を持つ、〈龍人〉に変身する事ができる。


 とは言え、それ以外はどこにでもいる普通の少女だった。


 本人が言うように、隠れ里から出てきたばかりで都会の男女の作法には疎いし、〈応龍の一族〉には元々女性が極端に少なく、恋愛に対しても奥手だった。


 と言うより、恋愛などした事はなかったし、判らないと言った方がいい。


「清大夫のお話、龍姑娘が聞きたいみたいなので、よかったらもうちょっとお話しませんか」


 偃師は劉鳴凛が悩み事を抱えている事を知って、店から出ようとしていた清に声をかけた。


「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらって」

 清は再び席に着き、話を続ける事にした。


「私は店仕舞いの知らせを出してきますよ」


 偃師は気をきかせて、表に出た。


「偃老板に浮いた話の一つでもあれば聞いてみたかったんだけど、知り合いの女性の話なんだ。その人は昔、男性に裏切られ男の人が信じられなくなってっていうんだ。そして気づいた時には、人間自体、信用できなくなっていたらしい」


 清がつらつらと話し始めると、劉鳴凛は真剣な眼差しで聞いていた。


「以来、男性はもちろん、他人と深く関わらないように生きてきたんだが、このご時世だ。上海租界は治安が悪い、最近、仕事帰りに強盗団に襲われてね」


「それで、どうなったんですか?」


 劉鳴凛はまるで自分の事のように、痛ましそうな顔をして聞いた。


「生憎の雨、場所も人けのないお墓の近く、助けを呼ぼうにも周囲には人っ子一人いない。その場には職場の同僚である男性も一人いたが、女性ながら武術の心得があった彼女は最初から同僚の男性を当てにせず、自分一人で抵抗したっていうんだ。だが多勢に無勢、数には敵わなかった。そこで彼女はせめて同僚の男性だけでも逃がそうと頑張ったんだが、結局は力尽きて気を失った、と。そして、次に目覚めた時、彼女は驚いた」


「……?」


 劉鳴凛はその後どうなったのだろうと、興味津々である。


「彼女は男性に裏切られた過去からどうせ同僚の男性もさっさと逃げ出したに違いない、今頃は命拾いしたと喜んでいるのではないかと思ったが、彼はなんと、まだそこにいたそうなんだよ。しかも、一人で強盗団相手に大立ち回りを演じて、見事、追い払って、全身、傷だらけになった姿で」


「もしかして、その女の人、それがきっかけで同僚の男の人を好きになっちゃったとか?」


 劉鳴凛は頭の中で膨らんだ想像を、確かめずにはいられなかった。


「男女の事はよく判らないと言っておきながら、察しがいいじゃないか」


 清は笑って言った。


「やっぱり」


 劉鳴凛は嬉しそうに言った。


「まあ、本当に好きになったかどうかはともかく、ちょっと気になっているのは事実みたいだよ。でも、さっきも言ったように、その女性は過去にひどい裏切りを受けているからね。もし同僚の男性と結ばれたとしても、その後どうなるのか考えたら心配で先に進めないらしい」


「自分の事を命懸けで助けてくれた男の人にまで裏切られたら、本当に誰も信じられなくなっちゃいますもんね」


「君もそう思うかい?」


「その女の人の気持ち、なんとなく判るような気がします。その人、今も一人で悩んでいるのかしら?」


「お嬢さんならこんな時、どうしたらいいと思う?」


「うーん、私はまだ一度も恋愛なんかした事ないし、判りません。ごめんなさい」


「何も悪い事はしてないんだし謝らなくてもいいさ。それどころか話を聞いてもらっているんだから、こっちがお礼を言わなきゃいけないぐらいだ。でもそうなると、ここはやっぱり、経験者に聞いてみるしかないか」


「経験者?」


 劉鳴凛は誰の事を言っているのだろうと、小首を傾げた。


 まさか、偃師の事ではあるまい。


 いったい、経験者というのは?


「ああ、楊貴妃さ」


 清は何食わぬ顔をして言った。


「まあ……」


 劉鳴凛はぽかんとした。


「清大夫、今の話は?」


 偃師はいったいいつの間に表から戻っていたのか、清達の傍らに佇み、躊躇いがちに聞いた。


 今の話、生憎の雨、場所も人けのないお墓の近く、となれば、細部こそ違えど、先日のヴォーカンソン達との事ではないだろうか?


 だとすれば、男性に裏切られた女性、その女性を見捨てずに、強盗団と大立ち回りを演じたというのは……


「もう、こんな時間か。すみません、随分、お邪魔してしまったみたいで」


 清は、偃師の言葉が聞こえたのか、聞こえていないのか、席を立ち、壁にかけた中折れ帽子を被り、帰り支度を始めた。


「‪今夜は遅くまでありがとうございました。お休みなさい」


 清は偃師にお勘定を支払い、出口に向かって歩いていく。


「ありがとうございます」


 偃師は先程の話について聞こうかどうか迷ったが、いつも通り代金を受け取って、お礼を言った。


「…………」


 だが、やはり気になったのか、なんとなく玄関先に出た。


 一瞬、あとを追いかけようとしたが、清の後ろ姿がすっかり暗くなった石畳の路地を出て、ネオンサイン煌めく租界の雑踏に消えるのを見て、今夜はやめる事にした。


 ——また今度、機会があれば聞いてみよう。


 と、そう思ったのである。

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