第三章 ラスプーチンの娘 其の四、

 第三章 ラスプーチンの娘


 其の四、


「ヴェーディマ、レナータ、リェチーチ! 私の声が聞こえているのなら起きろ! いつまで寝ているつもりだ!?」


 ヴォーカンソンが蝙蝠傘の下から話しかけたのが合図だったように、〈竹封じ〉によって作られた竹の檻がめきめきと音を立てて壊れた。


「す、すみません、ヴォーカンソン様。清水八十郎は、すでに捕らえています。あとは西行法師の人造人間を撃退すれば、事はすぐに終わります」


 ヴォーカンソンに、竹の中からかぐや姫宜しく姿を現し、状況を報告したのは、ヴェーディマだった。


「やけに帰りが遅いと思って様子を見に来てみれば、随分、手こずっているみたいじゃないか」


 ヴォーカンソンは不機嫌そうに言った。


 見れば、レナータとリェチーチは未だに竹の檻から出てくる気配はなかったし、プラーミアとヴォールクに至っては無惨な黒焦げ死体のようで、ぴくりとも動かない。


「す、すみません」


 ヴェーディマは、叱られた子どものように小さくなった。


「…………」


 高野はあれだけ苦労した〈竹封じ〉を易々と破られた事に驚きを禁じ得なかったが、ヴォーカンソンという新手に対しても警戒心を強めた。


 自分には目もくれようとしないフランス人の優男を、降りしきる雨にも負けず、しっかりと見据える。


 ——美術商、シュテファン・ド・ヴォーカンソン。

 

 以前から知っている相手だったが、今はこうして向かい合っているだけでも緊張が走った。


 おまけに、芝生の上に捨て置かれた麻袋の中には、清が捕らわれたまま、だ。


 ——いや、諦めるのはまだ早い。


 高野は激しい雨に打たれながら決意を新たにした。


「ヴェーディマ、この雨だ。しばらく誰もやって来ないだろうが、これ以上時間をかけるな。さっさとあれを始末しろ」


 ヴォーカンソンは蝙蝠傘を軽く動かして高野の事を指し示すと、汚いものでも見るように言った。


「はい」


 ヴェーディマは畏まって返事をした。


「…………」


 高野はその様子を見て反感を持った。


 ——こいつらは、『キャビネ・ド・キュリオジテ』の連中は、〈エス機関〉の構成員としての自分の事も、人造人間としての自分の事も、完全に見下しているんだ。


 このまま黙ってやられる訳にはいかない。


「〈火界咒〉!」


 高野は先手必勝とばかりに呪文を唱えて攻撃を仕掛けたが、ヴェーディマに一睨みされただけで火球は見えない力によって弾けるように消えた。


「いくら醜く不出来な人形でも、損得勘定ぐらいできるかと思ったけど、それすらできなかったみたいね」


 ヴェーディマは余裕綽々、高野に近付いてきた。


「清先生の言う通り、自分だけ逃げていればよかったものを、特務機関員としても出来が悪いみたいね。役に立たない欠陥品は処分させてもらいましょう」


 ヴェーディマは高野の事をはっきりと見下していた——それも、念動力が込められた視線で。


「!?」


 高野はヴェーディマの目に見えない力によって、金縛りに遭ったように身動ぎ一つできなくなった。


「がはっ!?」


 まるで万力に締め付けられているように、全身が音を立てて軋んだ。


(今度こそ、本当に万事休すか)


 いや——指先ぐらいなら僅かに動かす事ができる。


 死に物狂いでやれば、片腕ぐらい自由に動かせるだろう。


 ヴェーディマにとどめを刺されようとしていたが、自分だけ逃げるのなら、なんとかなりそうだった。


(これなら〈火界咒〉で隙を作って逃げる事も不可能じゃない)


 だがしかし、ここで自分が逃げ出せば、清は確実に連中の手に落ちる事になる。


(そうなったら清水さんとはもう二度と会えないかも知れない)


 未来はない。


(……清水さんを未来永劫失う事になる)


 高野は、事ここに至ってもまだ、清を置いて逃げる事をよしとしなかった。


(嫌だ)


 何が?


(怖い)


 いったい、何に対して、そう思うのだろう?


 りりり……


 これまでの戦闘で粉々に砕け散り、辺りに散乱した墓石の合間から、虫の声が聞こえた。


 蟋蟀、だ。


「…………」


 高野ははたと気付いた。


(偃老板はその時、こう言っていたよ。『——蟋蟀はいつも、私に大切な事を教えてくれる』、とね)


 今まさに、自分が味わっているこの気持ちが?


(偃老板が蟋蟀に教えられたという……これが、そうか?)


 たった今、自分が置かれているこの状況が?


 ——孤独。


「だったら!」


 やはり、逃げる訳にはいかなかった。


 ここから逃げても、何の意味もない。


 なんとしても清を助けるのだ。


「…………」


 高野は懐に、切り札を忍ばせていた——高野山で清めた、竹筒の最後の一本である。


 まず、ヴェーディマの動きを〈竹封じ〉を使って封じた後、ヴォーカンソンを〈火界咒〉で仕留めるつもりだった。


 だが、ヴェーディマに同じ手が二度も通じるのか、通じたとして、〈竹封じ〉が解かれる前に、ヴォーカンソンを〈火界咒〉で仕留める事ができるのか。


 どうする?


 どうすればいい?


 最早、考えている暇はなかった。


「ぺっ!」


 高野は何を思ったのか、ヴォーカンソンに唾を吐きかけた。


「何のつもりかな?」


 ヴォーカンソンは平静を装っていたが、口調は苛立ちを含んでいた。


「そっちこそ何のつもりだ? こっちもお前達の事は調査済みなんだ、私と同じように人間に捨てられた人形のくせに、お高く止まっているじゃないか? なあ、『フルート吹き』殿?」


 高野は皮肉っぽく笑った。


「黙れ」


 ヴォーカンソンは眉一つ動かさなかったが、胸元から拳銃を引き抜き、高野の鼻先に銃口を突きつけた。


 刹那、


「その言葉、そっくりそのまま返してやる!」


 高野は胸元から竹筒を取り出し、〝念〟を込めたそれを銃口に詰めて蓋をした。


「な!?」


 ヴォーカンソンがちょうど引き金を引いた瞬間、高野の〝念〟によって硬度が増した竹が銃口に詰まった拳銃は、当然の如く暴発した。


「食らえ!」


 高野は次いで、ヴェーディマに狙いを定め、〈火界咒〉を唱えた。


「往生際の悪い男!」


 ヴェーディマは身を翻し、難なく、避けた。


「くそ!?」


 高野はギリシャ神話の怪物メデューサのように、ヴェーディマに一睨みされ、途端、石化したように指一本動かせなくなった。


 更には本来曲がる方向とは逆に、手足の関節を容赦なく捻じ曲げられる。


(情けない、千年経っても私は不出来な人形だな)


 最後の最後で失敗した。


 絶対絶命、だ。


「そのままこの出来損ないの人形をぶち壊せッ!」


 ヴォーカンソンは拳銃が暴発した事で革手袋ごと何本か指が千切れ飛び、片手に持っていた蝙蝠傘も勢いよく吹き飛んでいた。


「……いくら醜く不出来な人形でも」


 高野は今にも壊れてしまいそうなぐらい、ギシギシと音を立てて軋んでいた。


「……いくら醜く不出来な人形でも、孤独を感じる事はできる!」


 高野はいつ身体がバラバラになってもおかしくないというのに、ヴェーディマの事をキッと睨み付け、足を踏ん張った。


「だからこそ、清水さんを一人にさせはしない!」


 高野は気合いを入れて、一歩、また一歩、ヴェーディマに向かっていく。


「な、何!?」


 ヴェーディマは高野の気迫を目の当たりにして、一瞬、たじろいだが、念動力は弱めなかった。


 むしろより一層、念動力を注ぎ、高野の事を苦しめた。


「…………」


 高野は悲鳴一つ上げなかったが、腕はあらぬ方向に捩れ、指先はねじ切れ、膝の皿はひび割れていた。


 だがしかし、土砂降りの雨の中、どんなに満身創痍となっても、決して歩みを止めようとしなかった。


 高野の事を突き動かしているのは、千年前、西行法師によって高野山に打ち捨てられた、過去の自分だった。


 そして、先刻蟋蟀の鳴き声を聞いた時、はっきりと意識した、清を失った後の自分——きっと孤独の淵にいるだろう、未来の自分である。


「……生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し……」


 高野は一字一句、噛み締めるように言い、地面を踏み締めるようにして歩いていく。


(……清水さんを孤独にはさせない)


 それが、千年前、自分が誰かにして欲しかった事なのだと、今なら痛いほど判る。


 だが、高野の行く先は篠突く雨で、一寸先も見通しがきかなかった。


「——高野先生!」


 高野の目の前に、ふいに誰かが飛び込んできた。


「あ、貴方は……」


 その瞬間、嘘のように雨も止み始め、高野は雲間から幾筋も陽射しが振り注いだせいか、眩しそうな顔して立ち尽くした。


「うん?」


 ヴォーカンソンは突然、姿を現した男を見て、怪訝そうな顔をした。


「あの男は?」


 ヴェーディマも、眉を顰めた。


 今や清々しいぐらい晴れ間が広がった墓地に突如として現れたのは、歳の頃なら、二十代前半ぐらい、涼しげな目をした、細面の青年だった。


 身長は一七五センチほど、青い長袍チャンパオの上から紺色の馬掛マーグワを羽織り、右の手首に腕輪を二つ、銅製の腕輪と、数珠状の棗の腕輪をしていた。


「ここから先は私に任せて下さい」


 青年は懐から小さな煉瓦のようなものを取り出し、宙に投げた。


「〈金磚〉」


 ぽつりと呟いたと同時、不思議な事に宙に浮いたままのそれは、無数のレーザー光線のようなものを発射し、あっという間に、ヴォーカンソンとヴェーディマの全身を蜂の巣にした。


「……す、凄い」


 高野は彼らが射的の的のようにバタバタと倒れた途端、ようやく念動力から解放され、目をぱちくりさせた。


「大丈夫ですか、高野先生」


 高野の危機を救った青年は、上海共同租界は『五色茶館』の主人、偃師だった。


「なぜ、貴方がこんな所に?」


 高野は思いがけない人物に助けられ、驚きのあまり質問した。


「清大夫から聞いていませんか。高野先生に闘蟋について教えてもらいたいと頼まれまして。夕方からここで待ち合わせをしていたんですけど、もうちょっと早く来た方がよかったかな?」


 偃師は高野が置かれている状況を把握しているようで、冗談っぽく言った。


「清水さんが、わざわざ、貴方に? 私は余程、困った部下みたいですね」


「清大夫は高野先生の事を何も悪くは言ってませんよ。貴方ともっと闘蟋を楽しみたいだけみたいでしたけどね」


「現に今も、偃老板に助けてもらわなければ、どうなっていた事か。決して、いい部下とは言えませんよ」


「まあまあ、あの人達はしばらくは動けないだろうし、終わりよければ全てよし、気楽にやりましょうよ」


 偃師は笑って言った。


 ヴォーカンソンもヴェーディマも関節を撃ち抜かれ、まともに立つ事すらできず、芝生の上で呻いている。


 いや、


「くそ、役立たずの出来損ないめが!」


 ヴォーカンソンだけは平然と立ち上がり、足元で苦しげに呻くヴェーディマを見、吐き捨てるように言った。


「!?」


 高野は緊張に身を硬くしたが、偃師は冷静な視線を向けて次にどう出るか見ているようで、落ち着き払っていた。


「——ではお二方、また今度、どこかでお会いできる事を」


 ヴォーカンソンは一転、いつものように人好きのする笑顔で言って、次の瞬間には、ヴェーディマも、ヴェーディマの分身である四人の女性社員の事も、何の躊躇いもなく置き去りにして、あたかも両足にバネでも仕込んでいるように、驚異的な跳躍力を見せて姿を消した。


「可哀想に」


 偃師はヴォーカンソンが姿を消した後、がらくた同然に捨てられた、ヴェーディマ達、五人に対して、痛々しそうな視線を向けた。


「ところで清大夫はどこに? できるだけ早く茶館に戻って、高野先生の身体を診ましょう」


 偃師は先程までとは打って変わって、にこやかな顔で声をかけた。


「清水さんならそこの麻袋の中ですが……これから、茶館に? それに、私の身体を?」


 高野は当たり前のように言われ、呆気に取られた。


 なぜって、単なる顔見知りである自分は言うに及ばず、偃師に闘蟋を教えてもらっている清にした所で、単なる茶館の主人とお客の関係に過ぎない。


 なのに、彼がここまでする理由が、いったい、どこにある?


「はい、身体中傷だらけなんですよ。このまま放っておく訳にはいかないでしょう。ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。こう見えても私、多少は医学の心得があるので」


 と、偃師は高野の返事を待たずに、清が放り込まれている麻袋の口を解きにかかった。


「落ち着いたら、またみんなで闘蟋でもしましょうよ。その時は任務なんか抜きにして、同好の士としてね」


 偃師は麻袋の口を解きながら、何気ない顔をして言った。


 高野は清を助け出すのを手伝いながら、偃師に誘ってもらった闘蟋に対して、いつもとは違う感慨を抱いていた。


 それは今までとは違う、勝ち負けではなく、出来不出来でもなく、損得でもない、全く、異なる感情だった。


 高野には偃師と約束した闘蟋がなぜかいつもと違い、とても楽しみなものに感じられて仕方がなかった。


 なんとなく、こんな予感がした。


 ——きっと孤独など微塵も感じない、楽しい‪一時に‬なるだろう。


 あの日を境に、フランス租界の一角にある、ギャラリー『キャビネ・ド・キュリオジテ』は、閉まったままだという。


 主人のヴォーカンソンは闘蟋で大負けしてすっからかんになった、彼に大勝ちしたのは日本人の二人組だなどと、巷ではまことしやかに噂されていた。


 ヴォーカンソンは借金で首が回らずギャラリーに勤める五人の女性社員は暇を出されたらしいとか、女性社員は五人でいた所に不幸な事故に見舞われ退職せざるを得なくなったらしいとか、色んな噂が流れたが、真偽の程は定かではない。


 噂話がどこまで本当か、当の本人達以外では、もしかしたら、彼らの行きつけの茶館、『五色茶館』の主人なら、知っているかも知れない。


 茶館には、運がよければ賭けに勝った日本人の二人組だけでなく、ヴォーカンソンや五人の女性社員もお客として来ている事だろう。


 上海は第二次世界大戦の足音が近付いてきて、日に日にきな臭くなってきていたが、『五色茶館』は今日も店を開け、いつもと同じように、訪れる者を心からもてなそうとしていた。

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