第三章 ラスプーチンの娘 其の二、
第三章 ラスプーチンの娘
其の二、
上海、フランス租界で、『キャビネ・ド・キュリオジテ』を営む美術商、シュテファン・ド・ヴォーカンソンがこの地を訪れたのは、今から十数年前の事である。
彼は人生を趣味道楽で明け暮れ、それは異国の地である上海にやって来てからも変わらなかった。
歳の頃なら三十代前半ぐらいだろうか、柔らかそうな金髪にいつも微笑んでいるような顔、すらりとした細身で、両手に革手袋を嵌めた背広姿がよく似合っている。
フランス租界の一角、昼なお暗い鬱蒼と茂った森に、瀟洒な屋敷を構え、すぐ近くに、西洋の小さなお城を思わせる、『キャビネ・ド・キュリオジテ』がある。
『キャビネ・ド・キュリオジテ』とは、フランス語で、『驚異の部屋』、『不思議の部屋』を意味し、十五世紀から十八世紀にかけて、ヨーロッパの貴族や学者がこぞって作り出した、博物陳列室の事である。
当時の貴族や学者は、それが珍しいものならなんでも集めた。
ヴォーカンソンもまた彼らに倣って、世界中から珍奇な品物を集めては、『キャビネ・ド・キュリオジテ』に展示していた。
ギャラリーは美術館や博物館のように整然としたものではなく、一見するとごみ屋敷のように珍品を並べた部屋がいくつもあり、まるで迷路のようだった。
ヴォーカンソンの熱意の賜物は、ジュゼッペ・アルチンボルドの奇想の絵画に始まって、鯨、マンモス、恐竜の剥製、まるでこの世のものではないように見える動物の標本、植物の標本、巨大な天球儀、小さな地球儀、錬金術の文献、何の為に作られたのか判らない精巧な機械、虹色に輝く大小様々な貝殻、古代のゲーム盤、硝子細工、象牙細工、珊瑚細工、中国の陶磁器などなど——蒐集活動は、上海に来てから、更に拍車がかかった。
なぜか?
——この街は出鱈目だ。何もかも、嘘偽りだ。
さすが、『魔都』と呼ばれるだけの事はある。
——誰も彼もやる事なす事、欺瞞に満ちているが、だからこそ、面白い。
きっと世界中を探しても、こんな街、他に見当たらないだろう。
ここ、上海は、繁栄の象徴である外灘の摩天楼すら、『偽りの正面(フォールス・フロント)』、と呼ばれている。
フランス租界の警察署長は犯罪組織〈青幇〉の首領であり、阿片を取り締まる警察官が阿片の売人をしている。
上海は事ほど左様に、何もかも全て嘘偽り、欺瞞に満ちていた。
——だが、それでいい。
それで何の問題もない。
上海の人々も当たり前のようにそれを受け入れ、楽しんでいる節さえある。
この世の何もかも、阿片の微睡みに消えていくように。
ヴォーカンソンはその日も、お馴染みの革手袋にスーツ姿でギャラリーの玄関に佇み、閉店時間まで、まだ見ぬお客が訪れるのを待っていた。
今日一日、常に満面の笑みでお客を迎えていたが、彼は由緒正しきフランス貴族の家系ともコルシカ・マフィアの出とも噂され、怪しげな所があった。
彼が経営する『キャビネ・ド・キュリオジテ』も、ギャラリーというにはあまりに色々なものが展示され、混沌とした様相を呈していた。
ヴォーカンソンも、彼が経営するギャラリーも、上海租界という場所と同じく、どこか胡散臭かった。
——こんな刺激的で面白い土地は、他に類を見ない。
ヴォーカンソンは、お客に対して愛想笑いではなく、薄笑いを浮かべる事があった。
なぜなら、この街もこの街の住人も普段澄ました顔をしているくせに、ふとした時に思いもよらない別の顔を見せてくれるからである。
上海租界は、中国人、イギリス人、フランス人、アメリカ人、日本人と、様々な人種が住み、租界の至る所で、多種多様な文化が混ざり合い、どこに行っても街は活き活きとしている。
そうかと思えば、さっきまで活気に満ちていた街中で、陰謀渦巻く銃撃戦が行われたりするし、大金持ちや深窓の令嬢を、身代金目当てに、白昼堂々、誘拐したり、貧困層の女子どもを労働力として売り飛ばす為に、やはり真っ昼間から拉致するというような、犯罪が横行する。
そして、どこにでもいるような中国人が平気で人殺しをする〈青幇〉だったり、てっきり中国人だとばかり思っていた相手が日本人の特務機関員だったり、紳士的なイギリス人が東洋人に対してはひどく差別的だったりする。
あたかも万華鏡のように、街も人もくるくると表情を変え、飽きない、退屈しない。
目の当たりにした時には、こちらまで活き活きとしてくる。
ヴォーカンソンはだから、『キャビネ・ド・キュリオジテ』を経営しているのだ。
この店に世界中から集められた珍しい品々も、お客が普段被っている、お澄まし顔の仮面を剥ぎ取る力を持っている。
お客は人間の本性や欲望を写す鏡代わりになる品々を見、自分が本当は何を望み、何を欲しているのか、素顔を曝け出す事になる。
彼らは欲望を刺激する珍しい一品と出会い、普段は決して語る事のない自分の数奇な運命を語り出し、いかにその品を欲しているのか訴え、大枚叩いてでも購入しようとする。
ヴォーカンソンはその時、新たなコレクションを手に入れる事になる。
なぜなら、ヴォーカンソンにとっては、ギャラリーの珍品に魅せられたお客こそが……。
「いらっしゃいませ」
ヴォーカンソンは閉店間際のお客に対して迷惑そうな顔をする事なく、愛想のいい笑顔を浮かべた。
ギャラリーの分厚い木製のドアを開けて入ってきたのは、おそらくは白系ロシア人だろう、見窄らしい服装をした、垢に塗れた少女だった。
歳の頃なら十四、五歳ぐらい、白系ロシア人の少女は見た目こそ薄汚れていたが、豊かな黒髪は背中まで垂らし、青い瞳は海のように青く、その肌も本当なら雪のように白いのだろう。
「…………」
白系ロシア人の少女はヴォーカンソンには目もくれず、何か探しているように辺りをきょろきょろと見回した。
「何かお探しですか?」
ヴォーカンソンは、白系ロシア人の少女に声をかけた。
「…………」
ヴォーカンソンが声をかけた途端、彼女はじっと見つめてきた。
「うちには世界中の珍しいものが置いてありますから、貴方様が欲しいと思う品が、きっと見つかると思いますよ」
例え相手が子どもだろうと、大人のお客と同じように扱い、いつもと同じ対応で、店内の品物に太鼓判を押した。
「奥にはもっと、珍しいものがありますよ」
奥に案内しようとしたが、白系ロシア人の少女は身動ぎ一つしない。
「私が本当に欲しいもの? ……残念だけど、私が本当に欲しいものはここにはないわ」
ヴォーカンソンはどんな時も笑顔を絶やさなかったが、これには一瞬、顔が強張った。
「もし、お時間に余裕がありましたら、是非一度、全ての展示品をご覧になって下さい。そうすれば、お嬢さんのお望みのものが——」
気を取り直して、もう一度、奥に案内しようとしたが。
「——貴方は、フランスの発明家、ジャック・ド・ヴォーカンソンが作った、『フルート吹き(プチ・ジャック)』でしょう? 人間である私の本当に欲しいものが、人形の貴方に判るのかしら?」
白系ロシア人の少女は何食わぬ顔をして、思いがけない事を言った。
「…………」
ヴォーカンソンの顔から、今度こそ笑顔が消えた。
白系ロシア人の少女の美貌からは相変わらずどんな表情も窺い知る事はできなかったが、彼が今まで誰にも知られる事のなかった正体をいとも簡単に見抜いた。
ヴォーカンソンは白系ロシア人の少女がどれだけ数奇な運命のもとに生まれたのか、この時はまだ、知る由もなかった。
「プラーミア、ヴォールク、もう少し丁寧に扱いなさいな!」
ヴェーディマは、清の右腕を燃やし、左手を食い千切った、二人の小柄な少女——プラーミアとヴォールクに、注意を促した。
「はいはい、言われなくても判っているわよ!」
プラーミアはハキハキした調子で返事をした。
「ヴォーカンソン様のコレクションに加わるぐらいなんだし、私達がちょっと本気を出したからって、それでどうにかなっちゃうようなやわな出来じゃないんじゃない?」
今一人の小柄な少女であるヴォールクは、口の端から鋭い犬歯を覗かせて言った。
ヴェーディマから注意を受けたばかりだというのに、なかなか、危険な事を言う。
お喋りな彼女達とは対照的に、寡黙なレナータとリェチーチの二人は、何も言わずに囲いを狭めてきた。
「高野君、ぼーっと突っ立っているとやられるぞ!?」
高野が呆然と立ち尽くしていると、清がヴェーディマ達の動きを警戒して言った。
「どうした、目の前の状況に意識を集中しろ!」
「は、はい」
高野はヴェーディマが口にした『コレクション』という言葉に、言い知れぬ不安と嫌悪感を抱いていた。
ヴェーディマ達は、何を企んでいるのだろうか?
「……連中、何を企んでいるのか判らんが、本気だな。それに全員、只者じゃない」
清は二人の小柄な少女、プラーミアとヴォールクに対して、特に警戒心を強めていた。
「どうします?」
高野は彼女達から目を逸らさず、清に耳打ちするように聞いた。
「そう簡単には見逃してくれそうもない。聞き出せるだけ情報を聞き出して、隙を見て状況を脱する」
清は冷静だった。
「了解——しかし連中、私達の事をコレクションにするというのはいったい?」
胸の内に湧き上がった疑問を口にせずにはいられなかった。
「私達が何をしようとしているのか、いまいちよく判らないって顔ね——〈エス機関〉のお二人さん」
ヴェーディマは、高野達が事態を把握しきれずに戸惑っている様子を見て、せせら笑うように言った。
「…………」
高野は一般人が知るはずのない組織名をあっさり口にされ、緊張した面持ちで、堅く口を閉ざした。
「悪いけど、だんまりを決め込んだってお見通しよ」
ヴェーディマは北叟笑んだ。
「君達もただの美術商じゃなさそうだが、何の為にこんな事をする?」
清は自分達の正体が見破られても落ち着いていた。
「そもそも『上海神農堂医院』の闘蟋仲間には、普通の人間なんて一人もいらっしゃらないのでは?」
ヴェーディマは何を今更、といった風である。
「そちらの社長は錬金術に傾倒しているみたいだし、君達もどう考えても普通の人間じゃないものな」
清は眉一つ動かさずに言った。
『上海神農堂医院』に集まる闘蟋の愛好家は、皆、オカルト絡みの人間らしい。
「ヴォーカンソン様は何も錬金術にだけ精通している訳じゃないわ。お二人は神聖ローマ皇帝、ルドルフ二世の事はご存知かしら?」
ヴェーディマはこんな時、こんな所で、歴史の授業を始めるつもりか、突然、神聖ローマ皇帝の名前を出した。
「ハプスブルク家の〝魔術の帝王〟の事か」
清は〈エス機関〉の機関長らしく博識を披露し、ヴェーディマに付き合った。
高野もルドルフ二世の名前ぐらい知っているが、しかし、それがどうしたというのか。
神聖ローマ皇帝ルドルフ二世——〝魔術の帝王〟。
歴代の皇帝の中でも、芸術や学問に秀でた変わり者として知られ、あちこちから錬金術師や占星術師を迎え、居城であるプラハ城には、『
「さすが清先生、博識。それじゃ〝魔術の帝王〟のお城には、『驚異の部屋』という、世界中から珍しいものが集められた博物陳列室があったのはご存知?」
ヴェーディマは、得意げな顔をして続けた。
「『驚異の部屋』の目的は、小さな宇宙を創造し、宇宙の神秘を理解する事。『キャビネ・ド・キュリオジテ』は、『驚異の部屋』のフランス語読みなのよ」
「つまり君達は、十六世紀の変わり者、神聖ローマ皇帝のように、私達をコレクションに加えて、宇宙の神秘を理解しようという訳か」
清は半分、呆れたように言った。
「私達は、貴方方が〈エス機関〉だという事はもちろん、人造人間である事、そして、清先生が人造人間として珍品である同時に、出来がいいという事も前々から知っていた——ヴォーカンソン様は清先生をコレクションに加える機会をずっと窺っていたのよ?」
ヴェーディマは、ようやく主人の願いが叶うとでも言うように、嬉しそうに言った。
「このまま素直についてくるのならよし」
「逆らうのなら今すぐここで戦うもよし」
プラーミアとヴォールクは不遜な態度だ。
「君達が私達の事をコレクションに加えたいのは判ったが、今日まで行動に移さなかったのはなぜだ?」
清はサングラスの奥に隠れた瞳を見据えるように、真っ直ぐ聞いた。
「貴方方の方がよくご存知なんじゃないかしら?」
ヴェーディマは、逆に驚いたように聞いてきた。
「どういう事ですか」
高野は思わず口を挟んだ。
「ヴォーカンソン様はできる事なら、まだまだ上海租界にいたかった。だけど貴方方は、日本は、この世界を脅かそうとしている。満州でも傀儡政権を打ち立て、ここ上海でも、不穏な動きを見せている。はっきり言って今の上海はもう、闘蟋を楽しめるような雰囲気じゃないんじゃないかしら。だからこそ、私達は行動に出たのよ」
ヴェーディマは高野に聞かれるままに、上海を取り巻く状況と、なぜ、今になって行動に移したのか話した。
「高野君、準備はいいか?」
清は敵の目的と内部事情を聞き出せばもう用はないとばかりに、高野に小声で確認した。
「はい」
高野は頷いた。
清が最後に出した指示は、隙を見て状況を脱する事、だ。
いざとなれば、囮になり、上官の清だけでも逃すつもりだった。
「プラーミア、ヴォールク」
ヴェーディマは高野達の緊張が高まっている事に気付き、楽しそうに言った。
「こっちはいつでもいいよ」
「そうそう」
プラーミアとヴォールクはすでに臨戦体勢に入っていた。
「必ず生け捕りにする事、殺しちゃ駄目よ!」
ヴェーディマは念を押したが、つまるところ、自分達の勝利を全く疑っていない。
「はいはい」
プラーミアは両手を掲げると、それこそ魔法のように、何の前触れもなく、めらめらと燃え盛る炎を宿した。
「なるべく甘噛みで済ましてあげる!」
ヴォールクは狼のように唸りを上げた。
「気をつけて!」
ヴェーディマは今にも高野達に襲いかかろうとしていたプラーミアとヴォールクに向かって、ふいに警告を発した。
「!?」
驚いたのは清だった。
彼女達の隙をついて今まさに小柄な少女達に狙い定め、右手から水流を放とうとしていた所を、ヴェーディマにいち早く気づかれたのだ。
だが、今更、攻撃をやめる事もできない、プラーミアとヴォールク目掛けて、立て続けに二度、水流を放つ。
「この野郎!」
プラーミアは楽しげにヴォールクの前に躍り出て、紅蓮の炎を宿した右手を盾代わりにし、清が発した水流を蒸発させた。
「まだまだ!」
清は負けじと水の刃と化した透き通った己の右腕を振り翳し、プラーミアに斬りかかった。
「清水さんと、互角だと!?」
高野は目の前で繰り広げられる光景に、驚きを禁じ得なかった。
清の息をもつかせぬ太刀筋を、プラーミアは素手に宿した紅蓮の炎で受け止め、その度に清の水の刃がじゅっと音を立てて蒸発した。
プラーミアの動きは特務機関で鍛え上げられた清に引けを取らない、ある種の訓練を受けた者のそれだった。
「これじゃいつまで経っても決着はつかなそうね!?」
プラーミアは相変わらず、楽しげな顔をして言った。
「……連中、並じゃないな」
高野の動体視力では二人の動きを追うだけで精一杯だったが、まさかこのまま指を咥えて見ている訳にもいかない。
「油断するな、高野君! 敵は一人だけじゃないぞ!」
清は咄嗟に注意したが、もう遅かった。
「西行法師が作ったそばから捨てただけあって、やっぱり出来損ないね。役立たずもいい所だわ」
ヴェーディマはつまらなそうに言った。
「ガァァ!」
高野の目の前に突然、墓石を踏み台にして、不規則に跳躍し、着地してきた小さな影は、狼のように牙を剥いた、ヴォールクだった。
「くそ!?」
高野は何の躊躇いもなく噛みついてきたヴォールクともみ合いになり、中折れ帽子が明後日の方向に飛ぶ。
「こいつら!?」
高野は怯んだ。
ここぞとばかりにレナータとリェチーチが二人掛かりで髪の毛を引っ張り、腕を掴み、身動きを封じにかかってきた。
「高野君!」
清は血相を変えたが、プラーミアが燃え盛る炎を宿した拳でしつこく殴りかかってくるものだから、どうする事もできない。
「他人の心配なんかしている場合——何っ!?」
プラーミアは清が余所見している所に攻撃を畳み掛けたが、次の瞬間、清の全身が透明な液体と化し、驚愕した。
その身に纏っていた縞模様の背広、丸縁眼鏡や中折れ帽子は、液体と化した体内に溶けたように消えた。
清の液体化した身体は単細胞生物、アメーバのように輪郭を広げたかと思えば、局地的な洪水となった。
突然、発生した洪水は、その場にいた人間を巻き込みながら、まるでドミノ倒しのように墓石を倒していく。
「きゃあ!?」
プラーミアはなす術もなく押し流された。
「清水さん!?」
高野は自分を取り囲んでいた、ヴォールク、レナータ、リェチーチとともに、あっという間に、洪水に飲み込まれる。
「くっ!?」
ヴェーディマもまた、なんとか逃げ出そうとしたものの、やはり瞬く間に水流に飲み込まれ、流されていく。
彼らは一人残らず高波に飲まれたようにもみくちゃにされ、芝生の上に投げ出された。
「——清水さん!?」
高野ははっと目覚めて、上体を起こした。
辺りを見回し、まず最初に、清の所在と安否を確認した。
すると、そう遠くない場所で、中折れ帽子や丸縁眼鏡こそ身に付けていなかったが、いつもの縞模様の背広姿で、清がぐったりした様子で倒れているのを見つけた。
「まさか自分の身体を使って洪水を起こすなんて、思ってもみなかったわ」
気を失った状態で無防備となっている清のそばに立っていたのは、ヴェーディマだった。
「し、清水さん!?」
高野は慌てて立ち上がった。
「……た、高野君、君だけでも逃げろ。応援を呼んで来るんだ」
清は自分の身体を洪水と化した事で、相当消耗しているらしく、息も絶え絶えといった様子である。
「私だけ、逃げる?」
高野は困惑した。
確かに今のこの状況は、自分だけ撤退し応援を呼びに行った方が、まだ勝ち目があるかも知れない。
だが、この場に取り残された清はどうなる?
「…………」
高野の胸にヴェーディマ達の『コレクション』という言葉に感じた、言い知れぬ不安と嫌悪感が甦ってきた。
その時、すぐ近くで、何かがぱきっと折れる音がした。
見れば、ヴェーディマが、芝生に落ちていた清の丸縁眼鏡を、これ見よがしに踏み壊していた。
高野の事を挑発するように、にやりと笑った。
彼女の周囲には、プラーミア、ヴォールク、レナータ、リェチーチも集まっていた。
「早く……私を捨てて、逃げろ」
清はそこまで言って力尽きた。
「…………」
高野はその途端、全身が緊張するのを感じた。
ヴェーディマは洪水に巻き込まれても手放さなかった肩に提げた黒いビジネスバッグから、おもむろに何かごそごそと取り出した。
黒いビジネスバッグから出てきたのは、何やら呪文のような刻印が施された物々しい鉄の鎖と、こちらは何の変哲もない大きめの麻袋だった。
ヴェーディマはレナータとリェチーチに鉄の鎖を手渡し、彼女達は鉄の鎖を使って、清の身体をぐるぐる巻きにし、二人掛かりで抱えて、麻袋の中に無造作に詰め込んだ。
おそらくはあの鉄の鎖には何か呪術的な力が付与されていて、清の人ならざる能力を封印してしまうのではないか。
「お前達は何なんだ? 何の為にこんな事をする?」
高野は硬い表情で、率直な感想を述べた。
「改めて自己紹介しましょうか——私の名前は、ヴェーディマ。いわゆる、超能力者よ。『キャビネ・ドキュリオジテ』の代表取締役社長、ヴォーカンソン様の部下であると同時に、ギャラリーのコレクションの一つでもある。そうそう、残念な事に、高野四郎さん、貴方は社長のお眼鏡には叶わなかったわ」
ヴェーディマは残念な事と口では言いながら、嬉しそうな顔をしていた。
「何……?」
高野は聞いてもいない事を聞かされ、呆気に取られた。
「貴方も『五色茶館』の主人も、人間そっくりには作られているけれど、はっきり言って、清水八十郎に比べればその価値は数段劣るわ。比べ物にならないと言った方がいいかも知れないわね」
ヴェーディマは当の本人を前にして、歯に衣着せぬ物言いだった。
「私達の狙いは、彼——ううん、〝朱雀門の鬼〟が千年前、女性の屍体のいいところばかり集めて作ったという、絶世の美女である彼女だけよ。判る? 貴方に用はないの」
ヴェーディマは高野の反応を窺うように言った。
「…………」
高野は突然の事に頭が働かないのか、それこそ人形のように固まっていた。
「さ、目当ての品は手に入れた事だし、この辺でお暇させて頂くわ。いくら人けがない墓地だと言っても、いい加減、誰かやって来るかも知れないし、貴方も一般人に顔が割れるのは避けたいでしょ。逃げるのならさっさとお逃げなさいな」
「どうしても戦いたいっていうのならそれはそれで構わないわよ」
「ヴォーカンソン様にいい土産話になるからねー」
ヴェーディマ、プラーミア、ヴォールクの三人は、変わらず上からものを言った。
「……逃げる?」
高野は眉を顰めた。
「それ以外に、今の貴方に何ができるっていうの?」
ヴェーディマは嘲笑うかのように言った。
プラーミアとヴォールクは、高野がどう出るのかにやにやと笑っている。
レナータとリェチーチは、いったい何を考えているのか、ただただ黙っている。
「…………」
高野はじっと考えていた。
(……た、高野君、君だけでも逃げろ。応援を呼んで来るんだ)
上官の命令は絶対だし、命令に背けば、軍法会議ものである。
(早く……私を捨てて、逃げろ)
とは言え、本当にこのまま、清の事を見捨てて逃げていいのだろうか。
——かつて一人目の父親が、西行法師が、自分の事を見捨てた時と同じように、捨てていくのか?
いや、一時の感情に流されてはならない。
(ここは命令通り、一旦退き、応援を呼びに行くのが先決だろう)
このままでは敗北は必至だが、一旦、退いて体勢を立て直せば、まだしも勝つ可能性はある。
第一、向こうも見逃してくれると言っているのだ。
少なくとも、確実に自分だけは逃げられるはずだ。
「…………」
高野は周囲を警戒し、二、三歩、後退った。
「うふふ、あっはっは! 貴方達、帰るわよ」
ヴェーディマは高野の様子を見て勝ち誇ったように笑うと、墓地の出口に向かって歩き出した。
「——ノウマクサラバ タタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン」
高野はその直後、ヴェーディマ達に気付かれないように、小さな声でぶつぶつと呪文を唱えた。
「……炎を操る事ができるは、お前だけじゃないぞ」
高野は何を思ったのか、西瓜ほどの大きさの火の玉を手のひらから生み出し、ヴェーディマ達一行に狙い定め、野球のピッチャーのように、大きく振り被って投げた。
千年前、高野山で修行の末に身に付けた力の一つ、密教に伝わる不動明王の大呪、〈
「プラーミア、避けなさい!」
ヴェーディマは清の水流にいち早く気づいた時と同じく、ここでも勘のよさを見せて、最後尾にいたプラーミアに叫んだ。
だがしかし、今回は残念ながら間に合わなかった。
「!?」
プラーミアは〈火界咒〉の火の玉が、振り向き様、直撃し、爆発に巻き込まれたように吹き飛んだ。
「プラーミア!?」
ヴォールクは、プラーミアがもんどり打って倒れ込んだのを見て、血相を変えて駆け寄った。
「食らえ!」
高野がこの機を逃すはずがなく、今度はヴォールクに向けて激しい炎を放つ。
ヴォールクは断末魔の悲鳴すら、〈火界咒〉の激しい炎によって掻き消され、黒焦げになり倒れ伏した。
「いくらこんな事をしても、貴方には勝ち目なんかないわよ」
ヴェーディマはプラーミアに続き、ヴォールクまで失ったというのに、面白いと言わんばかりだった。
「…………」
高野は先刻、清の不意打ちを事前に察知した事といい、今も誰よりも早く、〈火界咒〉に気づいた勘の鋭さといい、ヴェーディマに対して、警戒心を強めた。
「レナータ! リェチーチ!」
高野の方にヴェーディマにけしかけられた二人が、黙って歩いてくる。
「大した自信だな、真っ向から来るのか」
実際、体格は向こうの方が上だったし、正直、組みつかれたらどうなるか判らない。
「ノウマクサラバ タタギャテイビャク……不動明王、〈火界咒〉!」
だが格闘になる前に、〈火界咒〉で吹き飛ばせばこちらのものだった。
レナータとリェチーチは、あまりに無防備に向かってきた為に、まともに〈火界咒〉を受け、紅蓮の炎にその身を焼かれた。
レナータとリェチーチの長身は炎に塗れ、ぶすぶすと煙を上げていたが、悲鳴一つ、呻き声一つ上げず、ゾンビのようにふらふらと歩いてきた。
その上、驚くべき事に、焼け焦げたダークスーツの生地の下から覗いた真っ黒に炭化した皮膚や筋肉が泡立ち、再生し始めたではないか。
「!?」
高野はぎょっとした。
「言ったでしょう、私達はヴォーカンソン様のコレクションだって。みんな、特殊な能力を持っているのよ」
ヴェーディマは鼻で笑った。
「くそ!」
高野は悔しげに言った直後、レナータに殴り飛ばされ地面に倒れ込んだ所に、リェチーチがすかさず腹部を蹴ってきた。
「がはっ!?」
高野は屍体から作られた人造人間だけに痛覚は持っていないが、物理的な衝撃だけはどうにもならない、レナータもリェチーチもとんでもない怪力だった。
どうにかこうにか二人減らしたとは言え、数においては未だに三対一、多勢に無勢である。
高野は、レナータとリェチーチに足蹴にされながら、どうするべきか考えていた。
——こんな時、人間ならどうする?
第一に、上官である清からは逃げるように指示が出ている。
本来ならその時点で一旦退き、応援を要請するべきだった。
でなければ、命令違反、軍法会議ものである。
今からでも遅くはない。
——頭では判っている。
だが、清から逃げろと言われた時、ヴェーディマから逃げるのならさっさとお逃げなさいなと言われた時、一瞬、ほっとしてしまった自分がいる。
そう、自分だけは助かる、命拾いできると。
ほんの一瞬だったが——いや、ほんの一瞬だったとしても、そう思ってしまった自分に対して、何か引っ掛かりを覚えた。
——いくら応援を呼びに行った方がまだ勝ち目があるとは言え、その間、清が何をされるか判らない。
命の保証など、どこにもない。
——なのに?
ヴォーカンソンのコレクションにされた清が、以前と同じ清のままだとも限らない。
——それなのに、逃げるのか?
もしかしたら、清を未来永劫、失ってしまう事になるかも知れないのに?
——何もせず、何もできないままに、自分だけ生き残ってどうする?
いつも誰かに何か命じられ、言われた通りに動いているだけか?
——それで本当に、生きていると言えるのか?
他人の事を見捨て、自分だけぬけぬけ生き延びて人間らしいと?
「…………」
(——『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し』)
その時、高野の脳裏に木霊したのは、空海が記した、『秘蔵宝鑰』の一節だった。
何度生まれても生の始めが判らない、何度死んでも死の終わりが判らない。
——ここから逃げて自分だけ生き延びた所で、何もなりはしない。
清の無事は保証されていない。
——大体、自分はまだ何もしてない。
ただでさえ何も判らないというのに、力を尽くしてさえもいない。
「…………」
高野はレナータとリェチーチにサッカーボールのように蹴られ、彼女達の足元の間を無様に往復し、地面を転がっていたが、視界の端には、ヴェーディマと、そばに置かれた麻袋をしっかりと捉えていた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、鉄の鎖で身動きを封じられた上、麻袋に乱暴に放り込まれた、清の姿だった。
特務機関の上官だとか構成員だとか言う前に、自分と同じ、人造人間、かけがえのない存在、だ。
(もし、ここから自分が逃げ出せば、清水さんはあんな無残な姿で一人ぼっちになる)
その後、どうなるか、何をされるのかは判らない。
(このまま清水さんを残して、自分一人だけ逃げる訳にはいかない)
最早、特務機関員としての出来不出来、現状から予想される勝ち負けの可能性、そこから導き出される損得など、どうでもよかった。
(このまま何もしないで自分一人だけおめおめと逃げ出したくない)
この際、特務機関員としての任務も上官である清の命令も、関係なかった。
(清水さんを置いてきぼりにしてなるものか!)
高野はただ、清の事を孤独にするような真似だけはしたくなかった。
だが、本来、遵守すべき特務機関員としての規則、命令より、なぜ、その想いが胸に強く湧き上がってくるのかは、判らなかった。
「…………」
しかし、高野にはもう迷いはなかった。
——レナータとリェチーチは、再生能力を持っている。
あの二人には、〈火界咒〉はあまり効果がない。
——〈竹封じ〉なら、どうだ?
〈竹封じ〉——懐に忍ばせた小さな竹の筒を対象の足元に投げ付け、それを媒介に竹の檻を作り出し、竹筒、一個につき、対象を一人、閉じ込める術だった。
見た目はただの竹の檻のように見えても、呪術的な力が付与され、並大抵の事ではびくともしない。
だが、ヴェーディマ達のうち、誰か一人を封じたとしても、その間に、残る二人にやられてしまうのは目に見えている。
「……〈火界咒〉!」
高野はレナータとリェチーチにされるがままと見せかけて、ふいに立ち上がると、何を思ったのか、あちこちに火球を放った。
「あらあら、頭でも打っておかしくなったのかしら?」
ヴェーディマが小首を傾げるのも無理はない。
高野が放った〈火界咒〉は周囲に並んだ墓石を闇雲に破壊するばかりで、レナータとリェチーチは慌てる事なく、高野から距離を取った。
「はっ、なんとでも言うがいいさ!」
高野は自分の事を再び取り囲もうとしてじりじりと近づいてきたレナータとリェチーチに、牽制するように火球を発射した。
何発か直撃しても傷口はすぐに再生し、ろくな足止めにもならなかった。
高野は苦し紛れのように、ヴェーディマにも〈火界咒〉で攻撃を仕掛けたが、彼女がキッと睨みつけただけで、火球は目に見えない力によって、シャボン玉が割れるように打ち消された。
かてて加えてレナータとリェチーチが平然とした様子で迫って来るのを見て、緊張した面持ちで立ち尽くした。
どう考えても、窮地に陥っていた。
こちらの攻撃は悔しい事に当たらないか、よしんば当たったとしても意味がなかった。
高野はレナータと両手を組み合わせて力比べをする事になったが、信じられない怪力で、早くも押し潰されそうになる。
高野はレナータの身体に蹴りを入れ、なんとか距離を取ろうとしたが、傍らにいたリェチーチに蹴り飛ばされ、無様に芝生の上を転がった。
「……いいぞ、この調子だ」
高野は絶体絶命だと言ってもいい状況にも関わらず、舌なめずりをして懐を弄り、掌大の何かを地面に埋めた。
「連中は特殊技能を持っているし、格闘術にも長けている」
高野はレナータに右腕だけ掴まれ強引に身を起こされながら、ぶつぶつと呟いた。
「こっちの攻撃は当たらないか、当たっても意味がない」
レナータに羽交い締めにされ、そこにリェチーチも寄ってきて、高野の左腕を力任せに引っ張り始めた。
「それなら」
高野は子どもに悪戯された人形のように左腕をもがれ、今度はレナータに抱え上げられ、地面に叩き付けられた。
「特殊技能も、格闘術も、使わせなければいい」
高野はレナータとリェチーチの拷問のような攻撃から逃れようと、芋虫のように地面を這いつくばり、懐からまた、何か小さな品を取り出して埋めた。
「その為には、身動きを封じてしまえばいい!」
高野は勢いよく立ち上がると、ヴェーディマの背後に狙いを定め、懐から三度取り出したそれを投げ付けた。
「!?」
高野が投げ付けたのは、ヴェーディマは知る由もなかったが、高野山で清められた竹筒だった。
先程から二度、地面に埋めていたのも、同じく、竹筒だった。
各所に埋めた三個の竹筒を線で結ぶと、ヴェーディマ達はみんな、線の内側に入る事になる。
「〈竹封じ〉!」
高野は三本の竹筒に念じた。
「レナータ! リェチーチ! ばらばらになって!」
ヴェーディマは高野の不審な動きに気づきすぐに二人に命じたが、彼女達が反応するよりも早く事が起きた。
高野の念に反応した三本の竹筒を媒介にし、先刻、〈火界咒〉によって墓石が粉々に砕け散り、更地となった地面から、突如、竹藪が発生した。
瞬く間、竹筒が埋まった三ヶ所から天を衝くほどに成長した竹藪は、今度は、ヴェーディマ達を閉じ込めるように一点に集まっていく。
ヴェーディマ達は、突如として発生した竹藪に一ヶ所に追いやられ、ろくに抵抗もできないままに、竹の檻の中に三人仲よく閉じ込められた。
「よし!」
高野はヴェーディマ達が〈竹封じ〉にかかったのを見て、柄にもなく興奮した。
『キャビネ・ド・キュリオジテ』の女性社員を五人、たった一人で沈黙させたのである。
先程までの危機的状況を考えれば、嬉しくない訳がなかった。
「どうだ、見たか! あっはっは、やったぞ!」
高野は緊張が解けたのか、その場にぺたんと尻餅をつき、思わず天を仰いで、快哉を上げた。
清は鉄の鎖で身動きを封じられ、麻袋の中に入っているものの、連れ去られる事なく、自分と一緒にいる。
清は、無事なのだ。
「……?」
高野は勝利の余韻に浸り、しばし空を見上げていたが、気付けば、ぽつぽつと雨が降り出していた。
いつの間にか不吉な暗雲に覆われ、雨脚は徐々に強くなってきた。
ふと誰かがやって来る気配を感じ、ヴェーディマ達との戦闘で墓石が倒れ、足の踏み場もない、芝生の小道を見やる。
蝙蝠傘を差した男性らしき人影が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「貴方は?」
高野は億劫そうに立ち上がり、目の前にやって来た人影に聞いた。
「しばらくぶりで忘れられてしまったかな、〈エス機関〉の高野君」
愛想のいい笑顔で言ったのは、歳の頃なら三十代前半ぐらい、柔らかそうな金髪をした、両手に皮手袋を嵌めた背広姿がよく似合う、優男だった。
「まさか……何度も闘蟋をご一緒した仲じゃないですか。しかし、貴方がなぜこんな所に?」
高野は表面上は当たり障りのない会話をしていたが、警戒心を緩める事はなかった。
「——コレクションを取りに来たんだ。すぐに失礼させてもらうよ」
蝙蝠傘の下から顔を出し、澄ました顔で言ったのは、『キャビネ・ド・キュリオジテ』の社長、シュテファン・ド・ヴォーカンソンだった。
「…………」
高野はヴェーディマの口から『コレクション』という言葉を聞いた時と同じように、言い知れぬ不安と嫌悪感を抱いた。
高野の不安を煽るように、雨は次第に強さを増し、土砂降りの様相を呈してきた。
視界も悪く、雨音が全てを搔き消してしまい、墓地の片隅で起きている異形の者同士の争いに気づく者は、誰もいなかった。
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