第三章 ラスプーチンの娘 其の一、

 第三章 ラスプーチンの娘


 其の一、


 青年は知っていた。


 自分がなぜ、この世に生まれてきたのか、いつ、どこで生まれたのか。


 ——今から千年前、平安時代の日本、和歌山県は、高野山で生まれた。


 生まれた時から母親はいなかったが、父親と呼べる存在は、二人いた。


 一人目の父親は、僧侶であり詩人であり、花や月を眺めては詩を詠み、趣味に生きていた人だったという。


 青年が生まれる前の事、一人目の父親はある日、花月の情に通じた話し相手が欲しくなり、昔、他人から教わった、反魂の術を使い、話し相手を作る事にしたという。


 彼は野晒しの人骨を拾い集め、一個一個繋ぎ合わせて、人間と同じ大きさをした、一体の人形を作った。


 そう、青年は野原に放置されたいくつかの屍体をより合わせて作られた、人造人間なのだ。


 一人目の父親の‪孤独を紛らわせる為に話し相手として作られた、それが青年の生まれてきた理由だった。


 だが、いくら本物の人骨を使っているとは言え、所詮は紛い物。


 どこの誰とも知れない屍体を寄せ集めて作った、仮初めの命。


 青年は骸骨のように醜く痩せた姿で壊れた楽器のような声しか出せなかったから、作られたそばから捨てられた。


 高野山に捨て置かれ、最初は途方に暮れるしかなかった。


 なぜ、自分がこの世に生まれてきたのか理由を知っていても、いや、だからこそ、この先、どう生きていけばいいのか判らなかった。


 生きる資格があるのか、価値があるのかすら、判らない。

 

 それ故、高野山を総本山とする、真言宗に入る事にした。


 真言宗——平安時代初期、弘法大師空海が開いた、仏教の一つである。


 弘法大師空海。


 彼こそ、二人目の父親と言うべき存在だった。


 が、弘法大師空海はすでに無我の境地に入った後、本人と会う事も話す事も叶わなかった。


 空海は子どもの頃から仏門を志し、将来、自分の願いが叶うというのなら、我が命を救いたまえ、と仏に対して祈り、滝壷に三度、身を投げたという。

 

 青年はこんな自分にも生きる資格があるのなら、価値があるのなら、死ぬはずはない、壊れるはずはないと、自分の生を試す為に空海と同じ事をした。


 その結果、こんな自分にも生きる資格はあるらしいと、いくらか価値がありそうだという事は判った。


 だが、人間とは何か、人間として生きるとはどういう事か、それはまだ、判らないままだった。


(——『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し』)


 いつも青年の脳裏に木霊していたのは、空海が記した、『秘蔵宝鑰ひぞうほうやく』の一節だった。


 青年はやがて、答えを探しに行くように、果てのない旅路に出た。


 高野山を後にして、山を越え、谷を越え、海を越え、千年の時を越えて——青年は今、日本人の若者である『高野四郎たかや・しろう』を名乗り、一九三○年代、第二次世界大戦前夜、中国は『魔都』、上海にいた。

 そう、日本の特務機関、〈エス機関〉の一員として。


 闘蟋——千年以上、中国人を魅了してきた伝統的な競技、雄の蟋蟀同士を闘わせ勝敗を決する、言わば、蟋蟀相撲である。


秋興ちゅうしん』とも呼ばれるように、季節は秋、九月から十一月に行われる。


 賭博にも利用され、一夜にして、貧乏人が大金持ちになる事もある。


 歴史上の人物にも、あまりにも夢中になりすぎて、『蟋蟀宰相』、『蟋蟀皇帝』とあだ名された者もいる。


 高野が勤める『上海神農堂医院』の医院長にして漢方医、清こと、清水八十郎もまた、日本人でありながら、闘蟋を趣味としていた。


 高野も嗜む程度には、闘蟋をしている。


 ただ二人とも、純粋に趣味として始めた訳ではなかった。


 彼らは医者と助手であると同時に、日本の特務機関〈エス機関〉の一員であり、任務——中国社会に溶け込み、この国の動向を探るという諜報活動の手段として、伝統的競技、闘蟋を採用したのである。


 だが、清は闘蟋を始める前から、患者達から『清大夫』などと呼ばれ、親しまれていた。


 普段は日本人だという事は隠していたが、誰も清の国籍や素性など気にしていなかった。


 それだけ、医者として信用されていたのである。


 高野も清と同じくその時々で日本名と中国名を使い分け、中国名を名乗る場合には『高』としていたが、患者達からは『助手さん』と呼ばれていた。


 高野と清、呼び方一つ取ってみても、患者との距離の違いが判る。


 清はどこにでもいるような丸縁の眼鏡をかけた小柄な青年だったが、高野は骸骨のように痩せ細った姿で、見た目からして不気味で近寄り難いものがある。


 実際、清が闘蟋の話題で患者と盛り上がる事はあっても、高野はまず、話しかけられる事が稀だった。


 高野に対しても時々、清は闘蟋について熱心に語ったが、彼からすると、いまいちピンと来なかった。


 清は特務機関の任務の為に闘蟋を始めたはずだが、いつの間にか立派な『蟋蟀迷』と言っていいぐらい、情熱を注いでいた。


 医院兼自宅に蟋蟀の飼育室を設け、自ら世話しているだけでなく、蟋蟀の餌や、水の研究に関しても余念がない。


 が、高野は、いくら任務の為とは言え、なぜ清が、そこまで入れ込んでいるのか、今一つ理解できない。


 そのせいか、清からは、『朴念仁』、『野暮天』などと呼ばれ、よく冗談半分で、莫迦にされていた。


(しかしいくら闘蟋を通して情報収集するにしても、何もあそこまで熱心になる必要はないはずだが)


 高野自身、特務機関員として闘蟋を学び、毎日、欠かさず、蟋蟀の世話を行なっているが、清のように、のめり込んではいなかった。


 では、彼らが闘蟋を手段として行っている諜報活動というのは、具体的にはどんなものなのだろうか。


 例えば、清は同好の士を招き、『上海神農堂医院』の自宅部分で闘蟋を開催する事もあれば、闘蟋が定期的に行われている共同租界にある茶館、『五色茶館』の別館にも顔を出していた。


 高野も清のお供として、闘蟋に何度か一緒に参加した。


 顔触れは大体、決まっている。


 清に闘蟋について、一から十まで教えてくれたという、『五色茶館』の老板、中国人の青年、偃師。


 由緒正しき貴族の家系ともコルシカ・マフィアの出とも噂される、フランス租界に住む美術商、シュテファン・ド・ヴォーカンソンと、彼が営むギャラリー、『キャビネ・ド・キュリオジテ』に勤める、五人の女性社員。


 そして、イギリス貴族であるフランシス・ダッシュウッド・ル=デ・スペンサー男爵と、彼の執事、ホワイトヘッド。


   この街、上海租界は人種の坩堝だけあって清の交友関係も国際的だったし、闘蟋の最中に交わされる参加者の会話の中にも、多種多様な情報が含まれていた。


(蟋蟀と遊んでいるだけで情報が手に入れられるのだから、特務機関としては実に都合がいい)


『特務機関』——主に暗殺、諜報、工作を行う、日本の特殊軍事組織である。


 清水八十郎を機関長とする〈エス機関〉は、『上海神農堂医院』を隠れ蓑として、各界著名人の共通の趣味である闘蟋を利用し、定期的に会合を開く事で、この国の動向について、安全かつ効率よく情報収集をしているという訳だ。


 繰り返すが、高野にとって、闘蟋は、諜報活動を行う為の単なる手段の一つであって、それ以上でも、以下でもない。


 だが、高野の上官である清にとっては、少し違うらしい。


 高野はその日、清から虫市に誘われた。


 特に任務という訳ではない。


 二人ともいつもの白衣とは装いを変え、中折れ帽子に背広といった出立ちで出かけた。


   虫市は、住宅街の一角で開かれていた。


「高野君、ほら、虫市だ。高野君の事を今日連れ出してきたのは、闘蟋についてもう少し理解を深めてもらおうと思ったからなんだよ」


 確かに、虫市に行けば闘蟋に必要なものは全て揃っているので、闘蟋について知りたければ、虫市を訪れるのが手っ取り早いかも知れない。


 蟋蟀はもちろんの事、蟋蟀を飼育する時に使う養盆、養盆の中に置く餌皿に水皿、試合の時、蟋蟀の闘争心を掻き立てる為に使う茜草など。


 虫市に軒を連ねた屋台には、闘蟋に関するありとあらゆるものが所狭しと並べられ、全ての品が蟋蟀の大きさに合わせて、小さく、美しく丁寧に作られていた。


 秋晴れの下、清の解説を聞きながら、ぐるりと見て回る。


 陽が傾いてきた頃、共同租界は静安寺の南側、外国人墓地、『静安寺公墓』を訪れた。


 高野は清に連れられ、西洋の石造りの四阿を横目に、芝生を割って伸びる小道を歩いていたが、無論、墓参りにやって来た訳ではない。


 やはり、闘蟋絡みである。


「ここまで闘蟋についてざっと説明してきたが、何か感じるものはあったか?」


 清は墓地の南端、礼拝堂の前で立ち止まると、楽しげな顔をして聞いてきた。


「……ええ、まあ」


 高野は何の感慨もなさそうだった。


 実際、任務の都合上、闘蟋に関して最低限の事は知っていたので、そこまで目新しい事実はなかった。


 とは言え、相手は直属の上司、もう少しお世辞を言ってもバチは当たらないだろう。


「これと言って感慨はないという感じだな」


 清は相変わらずの部下に、苦笑いをした。


「いえ、そんな事は!」


 この辺が『朴念仁』、『野暮天』と言われる所以だろう、口では否定したが、図星だった。


 もし清から、自分と同じ熱意を持って闘蟋に取り組めと言われたら、難しいかも知れない。


 だが、今の闘蟋に対する理解度、習熟度で、任務に支障は来していないはずである。


 いや、むしろ、清が闘蟋に対して抱いているような熱意は、任務に必要ないのではないかとさえ思う。


 こう言ってはなんだが清は任務を忘れ、本当に闘蟋に没頭している節がある。


 だとすれば、いずれ、何か任務の失敗に繋がってしまうのではないか?


「気は使わなくてもいい。実際、通り一遍の事しか説明していないし、おさらいみたいなものだったしな。但し、ここから先は少し違うぞ?」


 清は思わせぶりに言った。


「こんな所で何をするつもりなんですか?」


 高野は今日初めて、興味深そうな顔をした。


 なぜ、こんな所に、墓地にやって来たのか、気になっていた。


「毎日、飼育室で蟋蟀に餌やりをしたり掃除しているだけじゃ、判らない事もある」


「それにしても何でまた、お墓なんかに?」


 高野は疑問に思わざるを得なかった。


 闘蟋について講義するのなら、虫市にいた方がよかったのではないか。


「お墓じゃなきゃ駄目なんだよ。お墓は『陰虫』と呼ばれる蟋蟀の住処なんだ」


『陰虫』——暗く湿気がある場所を好む虫の事である。


「勉強になります」


 高野は感心したような事を言ったが、無表情もいい所だった。


「お墓に行けばお金をかけずに蟋蟀を手に入れる事ができるし、他にもここで教えたい事は色々ある。しばらく付き合ってもらうぞ」


 清は自分自身、楽しみにしているようである。


「…………」


 高野は不思議そうな顔をした。


「何だ、不思議そうな顔をして」


「……清水さんは本当に、闘蟋に入れ込んでいるみたいだと思いまして」


「上辺だけなぞっていたんじゃ相手に怪しまれるし、本気で取り組まなければ愛好家とは言えないだろう。相手を安心させて信頼を得る、安全かつ効率よく情報収集する為にも、闘蟋に詳しくなっておいて損はないぞ」


「それで今日、私の事を誘ったんですか」


 闘蟋についてもう少し理解を深めてもらおうというのは、お前ももう少し、任務の達成に貢献しろ、という事だったのか。


 確かに、客人と話が弾んでいるのは、いつも清だったし、高野は距離があるのは否めない。


 距離があるのは外見や雰囲気が原因ではなく、闘蟋に対する情熱の有無だと言われれば、反論の余地はないかも知れない。


「判りました。任務の成功率と効率性を上げる為にも、しっかり勉強させてもらいます」


 高野は高野なりに気持ちが込もった返事をしたつもりだった。


「平安時代の昔、花月の情に通じた話をする為に作られた人造人間にしては、生真面目すぎる返事だよ」


 清は困ったように苦笑いした。


「すみません」


 高野が平安時代に屍体から作られた、人造人間だという事は、〈エス機関〉では周知の事実だった。


「……だから生みの親の西行法師のお眼鏡に叶わず捨てられたのか?」


 清は何か考え込むようにして言った。


「はい」


 高野は、これはさすがに失礼ではないかと思ったが、事実は事実だと思い直し、素直に返事をした。


 我ながら骸骨のように醜く不気味な容姿をしていると思うし、声も壊れた楽器のようだった。


 それ故、生みの親である西行法師に、作られたそばから捨てられた。


 どう言い繕ったとしても、過去は変わらない。


 自分が出来損ないの人造人間だと自覚しているからこそ、今日まで他人に必要な存在であろうとし、努力してきたつもりだった。


〈エス機関〉に身を置いてからは、優秀な機関員たろうとして、どんな命令にも忠実に従い、正確かつ効率的に任務を遂行する事を第一位としてきた。


 それが結局、自分の為にもなるのだと信じて。


「いやいや、責めるつもりはないんだ。高野君も闘蟋に対して理解が深まれば、出来不出来や勝ち負け、損得といったものとは違う、もっと別の価値観が芽生えるんじゃないかと思ってね。きっと、個人的に得るものもあるだろうし、客人とも話が弾むだろう。こんな偉そうな事を言っておきながら人間らしさが乏しいのは、私も同じなんだけどね」


「判りました。今後の任務達成の為、闘蟋に対する理解を深めたいと思います。本日は、ご指導の程、よろしくお願い致します」


 本人には自覚がないらしいが、高野らしいお堅い返事だった。


「こちらこそ。私も闘蟋について一人で考えているよりは理解が深まるだろうよ。任務を抜きにしても闘蟋はいいものだよ、同好の士が増えれば楽しみも増すだろうし。人間、楽しみがないとやってられないだろう?」


 清は高野の物言いに、何度目かの苦笑いをして言った。


「人間?」


 高野は清の何気ない一言に反応し、ふいに自嘲気味に笑った。


「話し相手が欲しかっただけの男に人骨を寄せ集めて作られた、仮初めの命だったとしてもですか?」


 高野は自分自身を卑下するように言った。


「ああ——例えそれが〝朱雀門の鬼〟によって屍体を寄せ集めて作られた、仮初めの命だったとしてもな」


 清は屈託のない笑顔で言った。


〝朱雀門の鬼〟——日本の絵巻物、『長谷雄草紙』に出てくる鬼の呼び名である。


 時は平安時代、所は平安京、〝朱雀門の鬼〟は人間に化け、双六の名手、紀長谷雄に双六勝負を挑む。


〝朱雀門の鬼〟は絶世の美女を、対する紀長谷雄は全財産を賭けた大勝負だったが、敗北を喫したのは、〝朱雀門の鬼〟だった。


 後日、〝朱雀門の鬼〟は約束通り、絶世の美女を連れて、再び、紀長谷雄の前に姿を現した。


 ——この女には、百日間、触れてはならない。


〝朱雀門の鬼〟はそう言い残して、姿を消した。


 だが、紀長谷雄は八十日が過ぎた頃、我慢ができずに、絶世の美女につい手を出してしまう。


 すると、絶世の美女は瞬く間に水と化して、地面に流れて、跡形もなく消えた。


〝朱雀門の鬼〟が連れてきた絶世の美女は、女性の屍体のいいところばかりを集めて作った、人造人間だったのである。


 もし、これが事実なら、清もまた高野と同じような出自を持つ者だという事になるが、高野の出自と同様、信じ難い話だった。


 第一、清の場合、性別からして違うではないか。


「ちょっと耳を澄ませてくれないか」


 清はいよいよ講義に移るつもりか、高野に耳を澄ますように言った。


「はい」


 高野は素直に清の言う事を聞き、耳を澄ませた。

 聞き耳を立ててみると、そこら中で色々な虫が鳴いているのが判る。


「次に蟋蟀の鳴き声を聞き分けて、これはと思う蟋蟀を捕まえるんだ」


 そう簡単に言われても、あちこちで色々な虫が鳴いているものだから、どこに蟋蟀がいるのか見当も付かない。


「ところで高野君は八月ぐらいに、公園や道端でうずくまって、何か探し物をしている人間を見た事はあるかい?」


「いいえ?」


「もしそういう人間がいたら、『蟋蟀迷』だと思っていい」


「『蟋蟀迷』が公園や道端にうずくまって、何をしているんですか?」


「今の私達と同じだよ、蟋蟀を捕まえようとしているんだ。その辺で捕まえようとしているのはこだわりのない連中だが、これが筋金入りの『蟋蟀迷』となると、蟋蟀の名産地まで泊まり込みで出かける。虫市で買う以外にも、蟋蟀の入手方法は色々あるという訳だな」


 黙って聞いていると、清は更に蟋蟀の採取方法について話し始めた。


「どこで蟋蟀を手に入れるにしても、一番気を付けなきゃいけないのは、鳴き声だ。蟋蟀の鳴き声は、左右の前翅を擦り合わせる事で出している。前翅の大きさ、厚さによって、鳴き声は変わる。一般的に、長く薄く柔らかい翅を持つ蟋蟀は、闘蟋に向いていると言われている。つまり、強い蟋蟀を捕まえるには、鳴き声を聞き分ければいいのさ」


「はい」


 とは言え、鈴虫、蝉、螽斯、色々な虫の鳴き声の中から、蟋蟀の鳴き声を見つけ出すのも、なかなか難しい。


「何匹か蟋蟀を捕まえたら、闘蟋をしよう。そうだな、『五色茶館』の夕飯代を賭けてやるのはどうだ?」


「こんな所で闘蟋をやるんですか?」


「何だ、嫌なのか」


「いや、これも任務の為だと考えれば……」


「個人的には気乗りしない? そういう事が判れば、わざわざお墓まで蟋蟀を捕まえにきた甲斐があるというものだよ」


「どういう事ですか?」


「闘蟋を嗜む者には、上・中・下、等級があると言われている。今、話していたような簡単な賭けをする場合は、下級。飴玉を賭ける、漫画本を賭ける、適当なルールでやる、そういう子ども達の闘蟋も、下級の部類に入る」


 最下級とされているのは、一攫千金を夢見て行われる博打打ちのそれだという。


 蟋蟀に対して何の愛着もなく、イカサマに血道を上げ、誰それが大勝ちして、一夜で蟋蟀御殿を建てただの、大負けして無一文になっただの、下世話ばかりの連中である。


「さっきの誘いを受けていたら、私はめでたく下級に該当していた訳ですね」


「あはは、そうだな。高野君から見て、うちでやっている闘蟋はどう思う?」


「普通に考えて中級ですか」


「うんうん。中級は、作家や詩人、教師といった文学を愛する者達の闘蟋らしい。同好の士でクラブを作り、定期的に集まって闘蟋を楽しむ。賭けるにしても小銭ぐらいのもので、蟋蟀がどんな試合をするのか純粋に見て、自分が勝てば謙遜し、負ければ相手を褒め称える——いつもの私達だな」


 中級の該当者には、闘蟋そのものよりも、蟋蟀の飼育や、道具の手入れに楽しみを見出す者もいるという。


「上級は?」


「上級は商人の闘蟋だそうだ。自分の屋敷や料亭を借り切って、招待客を招いて行う。参加者は手出しも口出しもしない、代理人の専門家に任せて優雅にお茶を飲み、煙草を燻らせ、談笑しながら結果を待つ。賭けるものは、大金、金銀財宝、書画骨董、だ。勝っても負けても顔色一つ変えず、談笑し続ける。自分の財力と器量を示す為にやる、お大臣の遊びだな。では、改めて聞くが、君は自分が、どの等級に当てはまると思う?」


「まかり間違っても、お大臣ではないと思いますが」


「今日一日、一緒に過ごした限りだと、中級辺りだな。お墓で闘蟋をやるのはお気に召さないみたいだし、虫市では養盆の細工に興味があるのか、じっと見つめていただろう?」


 言われてみればそうかも知れない、闘蟋に使う物品には惹かれるものがある。


「自分自身、作り物だからかも知れません。それも、出来はあまりよくないときている。だから尚更、美術品のような闘蟋の品々に、憧れを抱いているのかも」


「そう言えば、日頃から蟋蟀の飼育道具や試合に使う必要物品の手入れは一生懸命やっていたな。でも、憧れの感情があるだけ、人間らしいじゃないか。偃老板によれば、闘蟋の魅力は勝敗の行方や必要物品の美しさだけじゃないらしいぞ」


 偃老板と言えば、定期的に闘蟋を行っている『五色茶館』の主人であり、清に闘蟋を指南した人物だ。


〈エス機関〉とも縁がある青年で、彼もまた、自分達と同じような存在だった。


 そう、今より遥かな昔、ここ、中国で、同じ名前を持つ細工師の手によって創造された、自動人形。


 高野も清ほど親しくはなかったが、決して知らない仲ではない。


 彼は自分と違って外見も醜くなく、人間そっくりに作られていたが、時の皇帝と謁見を許された際、皇帝に対し、極刑に処されてもおかしくない失礼をしてしまったという。


 高野は上海租界に特務機関員として赴任したばかりの頃、中国の妖怪変化、魑魅魍魎について一通り調査したのだが、初めて彼の存在を知った時には、この世には自分以外にも、不出来な人形がいるのだな、と親近感を抱いたものである。


「偃老板は、闘蟋には他にどんな魅力があると?」


 高野は思わず、疑問を口にしていた。


 ——一度過ちを犯した……その意味で自分と同じ不出来な人形である偃師が感じる闘蟋の魅力とは、いったい、どんなものなのか?


 勝ち負けや物品の美しさではないと言うのなら、我が子のように心血を注いで育てた蟋蟀を、高値で売って金儲けができる事か?


 それとも、自分達が闘蟋を利用し、上海の動向を探っているように、何らかの益を得る為に、好事家同士の情報網として使える事か?


「偃老板はその時、こう言っていたよ。『——蟋蟀はいつも、私に大切な事を教えてくれる』、とね」


 清は偃師とのやり取りを思い出すように言った。


「例えば?」


 高野は腑に落ちなかった。


「……孤独について教えられた、と。一人で部屋に籠って自分自身の存在意義について悩んでいた時、蟋蟀の鳴き声を聞き、自分は孤独だったんだと気付かされ、本当は自分が何をしたかったのか、いったい、何をすればいいのかも判った、と言っていたな?」


 清は直接、偃師の口から聞いたのだろうが、それでも、難しそうな顔をしていた。


「なんだかよく判りませんね、どういう事なのかな?」


 高野はいまいちピンと来なかった。


「実を言えば私もだよ。だからこそ、高野君と一緒にこうしてお墓までやって来て、闘蟋について理解を深めようとしているんじゃないか——気を付けろ、監視対象のお出ましだ」


 清は表情こそ変わらなかったが、ぼそりと警告した。


「……?」


 高野は平静を装い、視線を動かす事なく周囲の気配を窺った。


「——こんにちは」


 と、そこに姿を現したのは、黒髪を小さく纏め、可愛らしいシニヨンテールを作り、顔が半分隠れるぐらい大きなサングラスをかけた、二十代ぐらいの女性だった。


 ダークスーツに身を包み、黒いビジネスバッグを肩から提げているところを見ると、今日も仕事なのだろうか。


 彼女の後ろには、やはりサングラスをかけ、ダークスーツを身に纏った長身の女性が二人、ボディガードのように佇んでいた。


 三人ともサングラスのせいで顔貌や表情は窺えなかったが、長身の二人は会釈一つせず、愛想の欠片もないのはよく判った。


『キャビネ・ド・キュリオジテ』、五人の女性社員のうちの三人、だ。


「こんにちは、ヴェーディマさん」


 清は先程の警戒ぶりはどこへやら、シニヨンテールの女性——ヴェーディマと、笑顔で挨拶を交わした。


「…………」


 高野は会釈し、様子を窺った。


「まさかお三方とこんな所でお会いするなんて、思いもしませんでしたよ」


 清は高野とは対照的に、愛想よく口を開いた。


 ヴェーディマ達は三人とも同じような格好をしていたが、ヴェーディマはシニヨンテールと人並みの身長で区別がつく。


 ボディガードのような長身の二人は、黒髪をお揃いのショートボブにして、背丈も同じぐらいなので、どちらがどちらなのか、いまいち判らなかった。


 確か、名前は——


「レナータに、リェチーチですわ」


 ヴェーディマが気を利かせて紹介したが、どちらがレナータで、どちらがリェチーチなのか、やはり区別はつかなかった。


「改めてこんにちは、今日はヴォーカンソンさんのお付きではないのですか?」


「はい——私達の事を覚えて下さっていたなんて、嬉しいですわ」


 ヴェーディマは本当に嬉しそうに、にっこりと笑った。


「もちろん、闘蟋仲間ですから。ヴォーカンソンさんのお付きでないとすると、お休みですか。それで、ご縁がある方のお墓参りに?」


 清が聞いても、ヴェーディマは微笑んでいるばかりで、一向に返事をしようとしなかった。


「…………」


 高野は訝しげな顔をした。


 ヴェーディマ達が誰の墓参りに来たのか判らないが、個人的に訪れたのだとしたら、ちょっと妙な気がした。


 今日はヴォーカンソンのお付きではないらしいのに、仕事をしている時と同じようにダークスーツに身を包んでいたし、ヴェーディマに至っては、ビジネスバッグまで肩に提げている事に違和感を覚えた。


 それでなくても、清からは警戒するように促されているのだ。


「清先生と高野さんも、今日はご縁がある方にお会いしに来たのかしら?」


 ヴェーディマは明らかに清の質問をはぐらかし、質問してきた。


 清水こそあだ名で呼ばれているが、清水も高野も日本人名を名乗っている。


「今日は高野君と闘蟋巡りをしていまして、午前中は虫市、午後はお墓という訳です。こういう場所は、蟋蟀の格好の住処なんで」


 清は事の経緯を簡単に説明した。


「うちの社長もお誘い頂けていたら、さぞかし喜んでいた事でしょう」


「ヴェーディマさん達も今度一緒にどうですか、なんなら今からでも」


 清は冗談半分でヴェーディマ達を誘った。


「ええ、喜んで。でも、今からというのはちょっと——今日はヴォーカンソンから指示を受けて、ここにやって来ているので」


 ヴェーディマは満面に笑みを浮かべて言った。


「!?」


 その途端、高野は清に突き飛ばされ、たたらを踏んだ。


「なんですか、いきなり!?」


 高野は危うく転びそうになった所をなんとか踏ん張って、抗議するように言った。


「高野君、気をつけるんだ!」


 清は高野の事を庇うように、一歩、前に出て、振り返りもせず、再度、警告を発した。


「!?」


 高野の顔に緊張の色が走った。


 一瞬の出来事だった。


 自分の事を庇ってくれるように清が前に出てきて両手を広げたのだが、いったい、何が起きたのか、清の右腕が一瞬にして燃え上がり、肘から先が消し炭と化したのである。


 間髪入れず、清の懐に野良犬のような影が飛び込んできて、今度は左手がいとも簡単に噛み千切られた。


「だ、大丈夫ですか!?」


 高野も普段は仏頂面だったが、これには動揺を隠し切れなかった。


「心配するな! 私の正体を忘れたのか!?」


 清は一見すると満身創痍だったが、まだ余裕を残していた。


 たった今、肘から先を失った黒焦げの右腕も、瞬く間に透明な液体のようなものが指先まで形を成し、見る見るうちに肌色に変化して、元通りになる。


 同じく、噛み千切られた左手も、まるで透明な飴細工に肌色の色素がつくように、瞬時に再生を遂げた。


「一旦、退避だ」


 清は高野にだけ聞こえるように、小声で言った。


 高野達はすでに、ヴェーディマを始めとする『キャビネ・ド・キュリオジテ』、五人の女性社員に、すっかり囲まれていた。


 彼女達は最早、三人ではない——五人、勢揃いしていた。


「うふふ、プラーミア、ヴォールク、やり過ぎては駄目よ」


 ヴェーディマはサングラスをかけ、顔が上半分、隠れていたが、形のいい唇で、妖しく微笑んだ。


 彼女の前にいつの間にか姿を現していたのは、やはり、サングラスとダークスーツを身に着けた、小さな背中にさらさらの黒髪を流した、二人の小柄な少女である。


 これで、『キャビネ・ド・キュリオジテ』、五人の女性社員が、全員、揃った事になる。


 シニヨンテールのヴェーディマ、長身の二人組であるレナータ、リェチーチ、小柄な二人組、プラーミア、ヴォールク。


 彼女達は皆、美しく可愛らしい外見からは想像もつかない、他人に死をもたらす、特異な能力を持っている。


 ほんの一瞬の出来事だったが、清の右腕を消し炭にし、左手を食い千切ったのは、それぞれ人ならざる力を持つ、プラーミアと、ヴォールク、小柄な二人の少女の仕業だった。

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