第二章 妖精の花嫁 其の三、

 第二章 妖精フェアリー花嫁ブライド


 其の三、


 偃師はいくら止めても耳を貸そうとしない清と一緒に、食糧貯蔵庫と調理場がある区画を通り過ぎた所だった。


 洞窟の最深部まであともう少しという、石橋が架けられた川までやって来た。


「なんだか地下じゃないみたいですね」


 偃師は足元から聞こえてくる小川のせせらぎに、まるで地上のようだと思った。


 石橋を越えた向こうには、なだらかな起伏や曲線で形作られ、樹木も刈り込まれず、垣根もない、イギリスの自然風景式の庭園が広がっているのが見えた。


「とりあえず、隅から隅まで探してみましょうか」


 清はダッシュウッド卿がどこにいるのか、虱潰しに調べるつもりらしい。


「どこかにクラブハウス側の人間がいたら、ダッシュウッド卿に取り次いでもらいましょう」


 偃師は清の後について、庭園の中に入っていったが、正直、気は進まなかった。


 清にはこのまま帰る気などないみたいだから、仕方がない。


 清とダッシュウッド卿を引き合わせても、何もいい事はないと思うが、清を置いて帰るよりはましだろう。


 ダッシュウッド卿と何かゲームする事になれば、向こうはイカサマを仕掛けてくるだろうし、清はどうやっても見破ろうとするはずだ。


 そしてもし、ダッシュウッド卿のイカサマが発覚すれば、どんな事になるか、自分が仲裁に入って事なきを得たとしても、ギスギスとした空気になる事は間違いない。


 何にしても、決して楽しい一時にはなるまい。


「ここで行き止まり、か」


 偃師は考えているうちに、苔むした大小様々な石が階段のように連なる細い道までやって来た。


 階段を上った先には、これまた石で作られた祭壇のようなものが見えたが、祭壇の向こうにあるのは、ごつごつとした岩肌だけだった。


 偃師達は庭園の突き当たりまで辿り着き、岩肌を前にして立ち止まった。


 ——でも、今宵はハロウィーン。明日は、諸聖人の祝日になる。


 気のせいか、岩肌の向こうから、女性の歌声が聞こえたような。


「まだ行き止まりじゃないみたいですよ」


 清は面白そうに言った。


「本当だ」


 改めて見ると岩肌だと思っていたものは深い茂みのようで、偃師は鬱蒼と茂った木々の合間にぼんやりとした明かりを見つけ、目を凝らした。


    ——この機に救出して欲しいのだ、貴方ならやれるはず。


 清は黙って茂みをかき分け、一人でどんどん先に進んでいった。


「清大夫! この先にダッシュウッド卿がいても、挨拶だけして帰りませんか?」


 偃師は清の後に続いて、一生懸命、茂みをかき分けながら聞いた。


 ダッシュウッド卿と険悪な雰囲気になったり、諍いに発展するぐらいなら、さっさと帰った方がいいと思ったからである。


「まあまあ、そう言わずに。せっかくここまでついて来たんだし、偃老板も楽しんで下さいよ」


 清はおもしろおかしく言ったが、意志は相当、硬いようである。


「楽しむ?」


 偃師は戸惑った。


 生憎、人様が復讐の念に身を焦がす様を見て、気の毒だと思いはしても、楽しむような趣味など持っていない。


「私はダッシュウッド卿とイギリス式のゲームでもなんでもして、向こうがイカサマを仕掛けてきたら、絶対に暴いてやりますから。偃老板は、見ていて下さい。その為に今夜はお付き合い願ったんだし、きっと楽しい時間になると思いますよ」


 清はダッシュウッド卿と勝負し、イカサマをどう見破り、いかにやり込めてやろうかという事に、心が逸っているようだった。


 偃師はここに来て、自分と清の価値観の違いを思い知った気がした。


 清にとって勝負事は、それがどんな形であれ、夢中になれるものなのだ。


 例え対戦相手がイカサマをすると判り切っていても、いや、だからこそ、自分が勝つ為にあの手この手を考えるのが、楽しくて仕方ないらしい。


「偃老板にはあれが何に見えますか」


 清は立ち止まり、茂みの向こうに広がる光景を見やる。


「あ、あれは……」


 偃師は地下にありながら、淡い月明かりにぼんやりと輝くような、美しく広大な野原を見て、眉を顰めた。


「おお、どこかで見た顔だと思ったら、ミスター清に、ミスター偃じゃないか! よく私のいるところが判ったね!」


 そこには、偃師達が今晩、ずっと探していた、イギリス貴族が佇んでいた。


「ダッシュウッド卿」


 偃師はできれば会いたくはないと、見つかってくれるなと思っていた、相手の名を呟いた。


「本来、この地下の最果てには、私が気に入ったお客を、毎晩、一人だけお招きするのだが、今夜は特別だ。お二人とも、歓迎させて頂こう——ようこそ、〈ヘルファイアクラブ〉へ!」


 以前、『五色茶館』で見た時と同じ、仕立てのよい三つ揃いのスーツにその身を包み、口髭を生やした威厳のある中年男性が、ダッシュウッド卿が言った。


「散々、探しましたよ。今夜、貴方に会ったら、いくつか聞こうと思っていた事があるんですけどね」

 清は一歩、前に進み出て、ダッシュウッド卿に切り出した。


 すると、ダッシュウッド卿の脇に控えた老執事のホワイトヘッドが、主人を守るように、静かに前に出てきた。


「何かね」


 ダッシュウッド卿は清とホワイヘッドが対峙し、緊張の糸がピンと張り詰めた状況になっても、眉一つ動かさず聞いた。


「まず最初に聞きたいのは、貴方の足元に倒れている、その男の事だ。私の見間違いじゃなければ、その男は今晩、私達が一階の賭博場で知り合った、〝向こう見ずエドリック〟という、イギリス人のはずだが」


 清はダッシュウッド卿の足元を見つめ、表情一つ変えずに聞いた。


「ひどいな」


 偃師は眉根を寄せて、不快感を示した。


 ダッシュウッド卿の足元、野原に埋もれるように転がっていたのは、〝向こう見ずエドリック〟の物言わぬ屍体、それも、悲惨な屍体だった。


 まるで大型の肉食獣に襲われたように、無残に喉元を食い千切られ、上半身は血塗れ、そのくせ、どこかで溺れたように、全身びしょ濡れ。


 更に言えば、高い所から転落し、地面に叩き付けられたのか、首も、四肢も、明後日の方向を向いていた。


「以前、クラブの目的はお話したはずだよ。ここで何かあるとすれば、それは賭け事しかない。この男は賭けに負けた、それだけの事さ」


 ダッシュウッド卿は自分の足元には目もくれず、なんでもない事のように言った。


「つまり、負けたら命を奪われる訳ですか。それじゃ、もし勝っていたとしたら、彼は何を手に入れていたのかな?」


 清は興味深そうに言った。


「賭けというのは、賭け金が大きければ、大きいほど、刺激的だ。なあ、ミスター偃」


 ダッシュウッド卿は偃師に話しかけた。


「先日は実に楽しい時間を過ごさせてもらったよ。『五色茶館』、素晴らしいお店だ」


「は、はあ」


 偃師はいくら褒められた所で、目の前にはエドリックの屍体が転がっているので、返答に困った。


 賭けに勝ったからと言って、負けた相手の命を奪うような人間に、素直にお礼を言う気にはなれなかった。


「本館の飾り棚に並べられた人形や茶器も壮観だったし、別館で開かれた闘蟋も大いに楽しませてもらったよ——それにまさか、〈応龍の娘〉にもお目通りが叶うとはね」


 ダッシュウッド卿は、偃師の反応を窺うように言い、含み笑いをした。


「何の事ですか?」


 偃師は何も知らないふりをしたが、その顔は強張っていた。


 ——このダッシュウッドという男、なぜ、どこまで、〈応龍の娘〉の事を知っている?


 今はまだ、はっきりした事は判らなかったが、どうやら、ただのイギリス貴族ではないらしい。


「今更、隠すのはやめにしようじゃないか。あの場にいた者はみんな、知っていたんじゃないかな。あの娘が、普通ではないという事をね」


 ダッシュウッド卿は全てを見透かしているように言った。


「いや、待てよ。と言うより、あの日、あの場にいた者達は、全員、普通の人間ではなかったか」


 ダッシュウッド卿はふと思い出したように言った。


「何ですって?」


 偃師は警戒心を露わにして、ダッシュウッド卿と清の事を見やる。


「私にも何の事だかさっぱり」


 清は肩を竦めて言った。


「あくまでしらを切るつもりなら、それはそれで構わんよ。日本の特務機関、〈エス機関〉の機関長、清水八十郎君?」


 ダッシュウッド卿は皮肉っぽく言った。


「大人しくしていてもらおうか?」


 ホワイトヘッドがいつの間にか清の背中に回り込み、ぴたりと拳銃を突きつけていた。


「清大夫が、特務機関の機関長?」


 偃師は緊張した面持ちで言った。


 偃師が警戒したのは、果たして、清の正体か、ホワイトヘッドの拳銃か?


「そう、それも彼が束ねる特務機関は、少々、変わっていてね。上海租界に巣食う妖怪変化や魑魅魍魎から、日本政府の重要人物や日本人住民を守る事を目的として、設立された組織らしいんだ。そしてついこの間まで、秘密裏にある計画を遂行していた」


 ダッシュウッド卿は勿体つけた言い方をして、偃師の反応を楽しんでいた。


「…………」


 清は顔色一つ変えず、黙って聞いていた。


「すなわち、『応龍国建国計画』と、その前段階であり、要でもある、『〈龍人兵〉製造計画』だ」

 ダッシュウッド卿は清の様子を窺ったが、彼は落ち着き払っていた。


「〈エス機関〉は中国南方の奥地に住む〈応龍の一族〉と協力、実験を重ねた結果、人ならざる〈龍人〉の力を再現する事に成功、ここ、上海で〈龍幇〉を組織した。〈エス機関〉は〈龍幇〉を裏から操り、〈青幇〉から奪った阿片を資金源にして、勢力を拡大、いずれは応龍国を建国し、世界の覇権を狙う壮大な計画だったのだが、ある日突然、一人の男によって壊滅させられた……なあ、ミスター偃?」


 ダッシュウッド卿はいかにも訳知り顔で、偃師に対してわざとらしく言った。


「本当に、清大夫が?」


 偃師はダッシュウッド卿が自分の動向を知っている事にも驚いたが、〈応龍の娘〉を巡る陰謀の黒幕が清だという事に困惑していた。


 ——ダッシュウッド卿が言っている事が本当だとしたら、なぜ、特務機関員の清は、自分に近づいてきた?


 やはり、〈応龍の娘〉を、劉鳴凛の事を狙って近づいてきたのか?


 ——いや、だとしたら、今日まで何もして来なかったのはおかしい。


 清は『五色茶館』に通う日々の中で劉鳴凛に手を出そうと思えばいつでもできたはずだし、あそこまで闘蟋に対して熱心になる必要もない。


 ——ならばなぜ、いったい何の為に、清大夫は私と一緒にいたんだ?


「どうしました? 自動人形でも気分が悪くなる事があるんですか?」


 ダッシュウッド卿は何食わぬ顔をして追い打ちをかけるように言った。


「貴方方の狙いは、何なんですか? いったい何の為に、私に近づいてこんな事を?」


 偃師は呻くように言った。


 ダッシュウッド卿はにやにやと笑うばかりで、清は中折れ帽を目深に被り、黙りこくっていた。


「最初はただの偶然さ。それさえも今にして思えばミスター清の諜報活動の一環だったかも知れないが、私はどこぞの社交パーティーでたまたまミスター清と知り合い、中国にも『血生臭いスポーツ』が、闘蟋があるという事を教えてもらったんだ。興味を覚えた私は後日、彼と連絡を取り、何度か闘蟋の手ほどきを受け、あの日、他の連中と一緒に、『五色茶館』を訪れた訳だ」


 ダッシュウッド卿は偃師の事を哀れむように説明した。


「ただの偶然にしては、私や清大夫の事をよく知っているみたいじゃないですか」


 偃師は疑わしげな顔をして言った。


「うちの執事はボディガード役も兼ねているからね。私が深く関わる相手の事は、事前に調査しているんだよ。だから君達の正体に関しても、前々から知っていたんだ。ミスター清、君は大方、諜報活動の一環で、ミスター偃や私に近づいて来たんだろう?」


 ダッシュウッド卿は未だに押し黙っている清に対して、質問を投げかけた。


「それとも、前回の雪辱を晴らす為に、わざわざこんな所まで来たのかね?」


 ダッシュウッド卿は面白そうに言った。


「何を知っているのかと思って黙って聞いていれば、よく喋る」


 清は呆れたように言った。


「貴方と初めて出会った時はともかく、今回やって来たのは任務の為じゃない。前回の雪辱を晴らす為、立会人として偃老板の事もお誘いしたのに、ペラペラと余計な事を喋ってくれる貴族様だ」


「お褒め頂き光栄だよ。だが、まだ本題に入っていない。残念ながら、あの日、茶館で私がお誘いしたのは、君ではなく、ミスター偃だ」


 ダッシュウッド卿は偃師を見て言ったが、偃師はますます困惑するばかりだった。


「もう一度、言おう。本日の主役は、ミスター偃、君なのだよ。地下の最果てに夜毎、お客を一人招いて賭博を開催するのはさっきも話した通りだが、このゲームはミスター偃のような、情熱的な男性にこそ相応しい。そういう意味で、そこで寝ている彼もなかなか楽しませてくれたよ」


 ダッシュウッド卿は足元に転がる、無言のエドリックに微笑んだ。


「私が主役ですって?」


 偃師は対戦相手に指名され、自分のどこが情熱的なのか判らないという顔をした。


「そう……君はその昔、穆王の侍女に色目を使ったそうじゃないか?」


 ダッシュウッド卿は何気ない顔をして、偃師の過去に触れた。


「ならば自動人形である君にも、人間と同じ恋愛感情があるのだろう。その気持ちに嘘偽りがないか、確かめさせてもらおうか」


 ダッシュウッド卿は誰かに合図するように、ぱちんと指を鳴らした。


「!?」

 突然、辺りに突風が巻き起こり、偃師は咄嗟に、両手で顔を庇った。


「——龍姑娘!」


 偃師は次に目を開けた瞬間、思わず呟いていた。


 ダッシュウッド卿の隣に、魔法のように姿を現した少女のあだ名を。


「その子に何をしたんですか?」


 偃師は一触即発といった状態だった。


「ご覧の通りだよ。君達の為に、ドレスアップしてお越し頂いたのだ」


 ダッシュウッド卿は当たり前のように言ったが、偃師は到底、納得できなかった。


 なぜなら、ダッシュウッド卿の隣に佇む劉鳴凛は、まるで京劇に出てくるお姫様のように派手な格好をしていたが、切れ長の目は虚ろで、マネキン人形のように身動き一つしなかったからである。


 これで、ただドレスアップしただけであるはずがなかった。


「ゲームのルールを説明しよう。ミスター偃には、彼女から試練が課される。試練が終わるまで、手を繋ぐでも、抱き締めるでも構わない、彼女を放さなければミスター偃の勝ちだし、放せば負けだ。但し、ミスター偃は、試練に耐える事しか許されない。つまり、抵抗した場合も、負けと見なされる。勝てば彼女は晴れて君のもの、負けたら今夜限りでお別れだ」


 ダッシュウッド卿は偃師が怒りに満ちている事など意に介さず、笑顔で説明した。


「龍姑娘!?」


 偃師は劉鳴凛に話しかけたが、まるで人形のように何の反応もなく、瞬き一つせず、口を閉ざしたままだった。


「さあ、そろそろゲームを始めようじゃないか」


 劉鳴凛はダッシュウッド卿の言葉が合図だったように、偃師にすっと手を差し伸べてきた。


「龍——!?」


 偃師が手を取り、もう一度、呼びかけようとした時、彼女は瞬く間に肌色のジャムのように溶け出し、足元でどろどろの肉塊に変わり果てた。


 偃師はどろりとした粘液状の手だけは放さず、彼女の変わり果てた姿を、足元で蠢く肌色の肉塊を見つめた。


 肌色の肉塊はあっという間に、燃えるように赤い目と、真っ黒な毛並みをした、仔牛ぐらい大きな犬の姿になる。


 その途端、黒い犬は偃師に覆い被さり、喉元に食らいつく。


 偃師は仰向けに倒れ、右手は黒い犬の前足を掴んだまま、左手で喉元を庇ったが、黒い犬は容赦なく、偃師の左手をばりばりと音を立てて食べた。


 偃師でなければ、手首から先がなくなった時点で、出血多量で死んでいたのではないか。


 が、そこは自動人形、偃師は左手を失っても尚、血の一滴も出ないし、右手で黒い犬の前足をしっかり掴んで放さなかった。


 劉鳴凛が次に変身したのは、灰色の毛並みをした馬だった。


 これもただの馬であるはずがなく、偃師を灰色の背中に乗せて走り出したかと思えば、そのまま近くの湖に飛び込み、驚くべき事に水を蹴って、地上と同じか、それ以上に縦横無尽に水中を駆けた。


 偃師は灰色の馬がいくら暴れ回っても振り落とされないようにと、必死で片手で背中の毛を掴んでいたが、むしろ、手を放そうとしても放れない事に気づいた。


 灰色の馬の狙いは、偃師を振り落とす事ではない。


 偃師が手を放そうが放すまいが、黒い犬は喉元を食い千切ろうとし、灰色の馬は水中深くに引きずり込み、偃師の事を殺す気でかかってきているのだ。


 水中深くに引きずり込まれ、五分、十分、刻一刻と時間が過ぎていく。


 普通の人間なら、とっくに溺れ死んでいる所だ。


 ——これは賭けなんかじゃない、ただの罠だ!


 偃師は最初から判り切っていた事だが、まんまと嵌められたと思った。


 偃師に水攻めが効かないと見るや、灰色の馬は水中から勢いよく飛び出し、野原に着地すると、今度はドイツの妖精、ドワーフを思わせる、小柄な老人に変身した。


 小柄な老人は見る見るうちに小山ほどの大きさになり、自分の手を握って放そうとしない偃師を玩具のように振り回し、何度も何度も地面に叩きつけた。


 大男の老人が自動人形を地面に叩きつける、どこか滑稽だったが、悪夢のような光景だった。


「ミスター清、君はあの光景を見てもあまり驚いていないようだな」


 ダッシュウッド卿は感心したように言った。


「何を今更。私の素性は調査済みなんだろう」


 清はホワイトヘッドに背中に拳銃を突きつけられたままだったが、鼻で笑った。


「職業柄、見慣れているという訳か」


 清とダッシュウッド卿が話をしている間も、偃師は糸の切れた操り人形のようにぐったりしていたが、何度、叩きつけられても、決して、その手は放さなかった。


「実際、この目で見た事があるかどうかは別にして、最初の黒い犬は、〈黒妖犬ブラック・ドッグ〉、二番目の灰色の馬は、〈水棲馬ケルピー〉、三番目の巨大化した老人は、〈スプリガン〉か」


「素晴らしい」


 ダッシュウッド卿は清の見立てを聞き、わざとらしく拍手した。


〈黒妖犬〉も、〈水棲馬〉も、〈スプリガン〉も、みんな、イギリスの妖精の名前だった。


「そして、ダッシュウッド卿……貴方は、〝妖精の騎士〟、タム・リンだな?」


 清はホワイトヘッドが今も背中に銃口を当てて、心臓に狙い定めているというのに、挑戦的な眼差しで言った。


「なぜ、この私がスコットランド民謡にある、〝妖精の騎士〟だと?」


 ダッシュウッド卿は、実に興味深いとでも言いたげな顔で聞いた。


「大した根拠がある訳じゃない、ここに来る前に歌が聞こえてきたんだ——『でも、今宵はハロウィーン。明日は諸聖人の祝日になる。この機に救出して欲しいのだ、貴方ならやれるはず』、と。これは『妖精の騎士タム・リン』のバラッドの一節だし、バラッドの内容が内容だけにね」


「日本の特務機関は、我が国のバラッドまで諳んじているのか。大したものだな」


 ダッシュウッド卿は、呆れたように笑った。


「カーターホーの森には、入ってはならない。そこには、〝妖精の騎士〟、タム・リンがいる」


 清はダッシュウッド卿の正体を暴くように、〝妖精の騎士〟タム・リンの物語を語り始めた。


 ——その地に住んでいる者の間では、乙女がカーターホーの森に行けば、〝妖精の騎士〟タム・リンに純潔を奪われる、だから、絶対に行ってはならない、と言われていた。


    だが、国王の一人娘であるジャネット姫は、自分の父親が所有する、カーターホーの森に遊びに行って何が悪いと、お共もつけずに、森に出かけた。


 そして案の定、森で出会った〝妖精の騎士〟タム・リンと恋に落ち、純潔を失ったジャネット姫は、彼の口から身の上話を聞かされる。


    自分は元は人間だったが、ある日、狩りから帰る途中に落馬した所を、妖精の女王に捕まり、それ以来ずっと、妖精の国の入り口がある森の番人をしている事、今年は地獄への貢ぎ物として自分が差し出されるに違いない事、だからハロウィンの夜に救い出してもらいたい事。


 ……妖精の女王が馬に乗り、お供の者をつれて通り過ぎる時、白い馬に乗った私の事を、引きずり降ろして欲しい。


〝馬から引きずり降ろされた私は色々なものに姿を変えるが、しっかりと抱きしめて放さないで欲しい〟。


 最後に私が真っ赤に燃える鉄の棒に変身したら、泉に投げ込んでくれ。


 そうすれば私は、元の人間の姿に戻れるから、と。


 ジャネット姫はタム・リンとの約束を見事に果たし、彼を人間の世界へと連れ戻した。


「私が思うに、貴方が夜毎興じているというこのゲームは、ジャネット姫が課された試練の再現だ。違いますか?」


 清はダッシュウッド卿に向かって、いや、おそらくは、タム・リンだろう彼に向かって、確かめた。


「……私にも聞きたい事があるんだが、いいかね?」


 ダッシュウッド卿は質問には答えず、逆に聞いてきた。


「どうぞ」


 清は涼しい顔をして言った。


「そういう君は、ホワイヘッドが調査した結果によれば、今から千年の昔、〝朱雀門の鬼〟によって造られた人造人間らしいが、本当か?」


 直後、清は背後のホワイトヘッドに、拳銃で連続して撃たれた。


「!?」


 清は避ける間もなく銃弾を受けた衝撃でぐらりと倒れた。


「清大夫!?」


 偃師は〈スプリガン〉に何度目か野原に叩きつけられようとしていた寸前、銃声で目を覚ましたのか、身を翻し、地面に着地すると、清の名を叫んだ。


 そして、今の今まで固く手を繋いでいたはずの〈スプリガン〉の姿が消え、自分の手を握っている相手が、いつの間にか、ホワイトヘッドになっている事に気づいた。


「龍姑娘をどこにやった?」


 偃師は右手は繋いだまま、警戒心を露わにして、ホワイトヘッドに聞いた。


「ギャハハ! 賭けはご破算! ここから先は楽しい楽しい、殺人ゲームの始まりだぜ!」 

   

 ホワイドヘッドはこれまでの執事然とした態度を捨て去り、ならず者のように喋った。


「騙したのか?」


 偃師はダッシュウッド卿を見やり、憮然とした表情で言った。


「おいおい、中国人は知らねえのか!? 妖精は悪戯好きだって事をよう!」


 ホワイトヘッドは言葉遣いだけでなく、気づけば外見も変化し、貴族に仕える老執事の面影は微塵もない。


 偃師が今、手を繋いでいるのは、いつも控えめな態度だった大柄な執事などではなく、まるで生き血で染め上げたような真っ赤な帽子に真っ赤な作業着、それに血走った目つきをした、小柄な老人だった。


 ホワイトヘッドは左手には分厚い鉄の斧を携え、鉄製の長靴を履き、見るからに凶悪な人相と身なりをしていた。


「食らえ、間抜け野郎が!」


 ホワイトヘッドは偃師の脳天をかち割ろうと嬉々として斧を振り下ろした。


「くっ!?」


 偃師はそこでようやく右手を放そうと、ホワイトヘッドの身体にわざとぶつかり、二人とも野原に倒れ込んだ。


「〈金磚〉!」


 偃師は仰向けに転がりながら懐を弄り、掌大の煉瓦のようなものを取り出し、さっと宙に投げた。


 すると〈金磚〉は宙空に留まり、ホワイトヘッドが立ち上がろうとしていた所に無数のレーザー光線を発射した。


「ギャハハ!」


 だが、ホワイトヘッドは〈金磚〉から発射された光線に身体を貫かれても、痛くも痒くもないというように、平然と両手で斧を振りかぶって攻撃してきた。


「くそ!?」


 偃師は背後を樹木に遮られ、不覚にも逃げ場を失った。


「人間に、ジャネット姫に助けてもらったはずの〝妖精の騎士〟が、なぜ、こんな事をする!?」


 偃師はホワイトヘッドと取っ組み合いをしながら、自分の窮地に北叟笑むダッシュウッド卿に抗議するように言った。


「おいおい、どこを見ていやがる、てめえの相手はこの俺様だぞ!? それに、あいつがいつ、自分の事を、タム・リンだなんて言ったよ!?」


 質問に答えたのはダッシュウッド卿ではなく、今まさに偃師をその手にかけようとしていた、ホワイトヘッドだった。


「ダッシュウッド卿は、タム・リンじゃないのか!?」


 偃師はホワイトヘッドの鉄の斧を間一髪避け、鉄の斧は偃師の背後にそびえ立つ、樹木に食い込んだ。


「〝妖精の騎士〟、タム・リンの物語は、あれで終わっていればめでたしめでたしだったんだけどな! あの色男は妖精の女王に仕えていた時、ジャネット姫に手を出したのと同じように、ジャネット姫と夫婦の契りを交わした後、姦通の罪ってやつを犯しちまったのよ!」


 ホワイトヘッドは木の幹に突き刺さった斧を引っこ抜き、下卑た笑みを浮かべて言った。


「——お喋りが過ぎるぞ! 〈赤帽子レッドキャップ〉!」


 その途端、ダッシュウッド卿は、ホワイトヘッドの事を、〈赤帽子〉と呼び、一喝した。


〈赤帽子〉——〈黒妖犬〉などと同様、イギリスの妖精の名だ。


 その名の通り、赤い帽子を被った醜い老人の姿をした妖精で、性格は残虐、斧を携えて人間に襲いかかってくる事で知られていた。


「ギャハハ!」


 ホワイトヘッドは——〈赤帽子〉は、主人に叱責されたというのに悪びれた様子もなく、何が面白いのか、お腹を抱えて笑った。


「それならあなたが本当の所誰なのか、龍姑娘をどうしたのか聞かせてもらおうか!」


 偃師は〈赤帽子〉が莫迦笑いしている隙に、ダッシュウッド卿の正体を見極めようと、右手で素早く刀印を結び、空に〈霊符〉を書いた。


「急急如律令!」


 偃師が呪文を唱えたと同時、ダッシュウッド卿の全身から、一瞬、火花が散った。


 すると、どうだろう。


「……貴方は?」


 偃師の目の前に立っていたのは、つい先程までの三つ揃いのスーツを身に纏い、口髭を生やしたイギリス人の中年男性ではなかった。


 まるで中世のそれを思わせるたっぷりと膨らんだ豪奢なドレスにその身を包み、ぞっとするほど美しいが、青白く血の気のない顔をした、貴婦人だったのである。


「あー、大変だ! 大変だ! ダッシュウッド卿の正体がばれちまった!」


 ホワイトヘッドは大変だと言いつつ、しかし、楽しそうに小躍りした。


「ギャハハ! 正体がばれちまったらどうする!? 正体を知っちまったらどうする!? 〝妖精の騎士〟、タム・リンに裏切られ、孤独のうちに死んだジャネット姫は、幽霊となって、今もここにいる! 俺のような悪戯好きの妖精と手を組んで、タム・リンみたいな助平野郎を殺す為に、お前みたいな間抜け野郎を殺す為に!」


〈赤帽子〉は血走った目で、偃師に向かって鉄の斧を振りかぶった。


「復讐か!?」


 偃師は〈赤帽子〉ともみ合い、貴婦人の顔を見た。


「『汝、望む事をなせ』、ですのよ?」


 貴婦人、ジャネット姫は艶やかな笑みを浮かべて、いかにも上品な口調で言った。


 どうやらジャネット姫がダッシュウッド卿になりすまし、クラブに遊びに来た男性客を死の罠にかけているのは、昔、妖精の女王に地獄の貢ぎ物にされようとしていた所を命を賭けて救い出してあげたにも関わらず、その後、別の女性を愛し、自分の事を裏切った、タム・リンに対する憎しみに端を発しているらしい。


「生憎、私は人間じゃないので、そう簡単には死にませんよ。いや、『壊れない』と言った方がいいかな?」


 偃師は口では強がっていたが、内心、こう思っていた。


 ——とは言え、相手は妖精だ。おまけに後ろに控えているのは、それこそ死を超越した、正真正銘の幽霊ときた。


 こうなると、自動人形の偃師でも、普通の人間相手のようにはいかないだろう。


「なら叩き壊してやろうじゃねえか!」


〈赤帽子〉が偃師の頭をかち割ろうと鉄の斧を振り上げた瞬間、


「……私も皆さんと同じような存在だという事を忘れないでもらいたいな」


 と言ったのは、先程、ホワイトヘッドの拳銃で蜂の巣にされた清だった。


「清大夫!?」


 偃師は自分自身、〈黒妖犬〉に左手を噛み千切られ血の一滴も流していないというのに、ホワイトヘッドの拳銃で何発も撃たれたはずの清が、衣服に穴すら開いておらず、やはり出血すらしていないのを見て、驚きの色を隠せなかった。


「偃老板、ここは一つ、私と手を組みませんか?」


 清は何食わぬ顔をして自分の右手から何か液体のようなものを発射し、〈赤帽子〉の鉄の斧をあらぬ方向に弾き飛ばした。


「今の今まで正体を隠していた、〈龍幇〉の黒幕の言う事を信用しろと?」


 偃師は当然の如く、いい顔はしなかった。


「それはお互い様じゃないですか。偃老板も自分が自動人形だという事を隠していた訳だし、今となっては、私にはもう、〈応龍の娘〉を利用するつもりはないんだし」


 清は自分に非はないとでも言いたげだった。


「今後も上層部には、混江龍が裏切った結果、〈龍幇〉は解体、〈応龍の娘〉が脱走した、それ以上の事実を報告するつもりはありませんよ。今日だってここには前回の雪辱を晴らしに来ただけだし、任務は関係ない。はっきり言ってうちも一枚岩じゃないんでね、いつ自分の事を切り捨てようとして来るか判らない上層部相手に、そこまで役に立ちたいとは思いませんし。偃老板が〈龍幇〉の時のように邪魔をして来ない限り、危害を加えるつもりはありませんよ」


 清は〈赤帽子〉が鉄の斧を拾い上げるのを横目に見ながら言った。


「第一、私は純粋に闘蟋が好きだし、偃老板には色々と教えてもらった義理がある。この場を切り抜ける為に、私にできる事があるのなら、協力は惜しみませんよ——そうそう、〈応龍の娘〉は今頃、『五色茶館』でいつも通り過ごしているはずですよ。利用するつもりがなくなっても、監視は続けさせてもらってまして。思わぬ所で役に立ったかな」


 清は悪戯っぽく笑った。


「…………」


 偃師は丸縁眼鏡の奥にある清の目を見て、じっと考えていた。


——確かに、〈応龍の娘〉を取り戻すつもりで近づいてきたのだとしたら、いつでもできたはずだ。


 それにこんな所まで自分の事を誘い出し、ダッシュウッド卿相手にいざこざを起こしても、特務機関員である清に何か得があるとは思えない。


 今、清が言った事は、本当の事ではないか。


「——判りました……でも、手を出すのはちょっと待って下さい」


 偃師は一拍置いて、返事をすると、ダッシュウッド卿を見やる。


 劉鳴凛が無事なら、いくらでもやりようはある。


「〈赤帽子〉、これはどういう事? 屍体から作られた人造人間にしては、随分おかしな力を持っているようだけど」


 ジャネット姫は清が特務機関員であり、人造人間だという事は把握していたようだが、その能力までは知らなかったらしく、〈赤帽子〉を不機嫌そうに睨んだ。


「けっ! 奴がどんな力を持っていようが、ぶっ殺しちまえば同じだろうが!?」


〈赤帽子〉は自分の調査不足を棚に上げて、鼻息も荒く言った。


「ははは」


 偃師はジャネット姫と〈赤帽子〉のやり取りに、和んだように笑った。


「あら、何がおかしいのかしら?」


 ジャネット姫は偃師に視線を移し、これまた不愉快そうに言った。


「話を整理すると、貴方方はイギリスの幽霊と妖精らしい。清大夫は日本の人造人間だというし、私は中国の自動人形だ」


 偃師の言う事に、ジャネット姫は小首を傾げた。


「お互い、そう簡単に死ぬ事はできないんだから、この辺で争うのはやめにしませんか?」


 偃師は苦笑いを浮かべ、提案した。


「けっ、笑わせるんじゃねえよ! 俺にはお前があちこち壊れて、今にも動きが止まりそうにしか見えないぜ!?」


〈赤帽子〉は自分が散々、痛めつけた偃師を見て、嘲笑した。


「!?」


 しかし、はたと気づき、我が目を疑った。


 よく見れば、偃師は左手を食い千切られ、全身傷だらけ、ぼろ雑巾のように見えるが、呼吸一つ乱れておらず、一滴も血を流していない。


「私の事、貴方の調査資料にはどう書かれているんですかね。自分で言うのもなんですが、私の身体はかなり丈夫にできているんで、たかが野良犬に片手を食い千切られ、鉄の斧を何度か食らった所で、止まる事はないと思いますよ」


 偃師は実際、些かも動きは鈍っていなかった。


 紀元前から稼働しているのは伊達ではないという事なのだろう、周の穆王の時代に造られし自動人形の耐久力、推して知るべしである。


「ぐだぐだ御託を並べやがって! 人間は殺す! 人形は壊す! それだけだ!」


〈赤帽子〉は苛立たしげに鉄の斧を振り上げた。


「お待ちなさい!」


 だが、ジャネット姫が制止した。


「!?」


〈赤帽子〉は主人の言いつけ通り、動きを止めた。


「確かに、ミスター偃の仰る通りですわ。今の私達に、彼らにとどめを刺す力はありません。違いますか?」


「ちいっ! てめえらのその首! 今度会う時、必ず切り飛ばしてやるからな!」


〈赤帽子〉はジャネット姫に水を差され、すっかり白けたらしく、主人を残して、森の中に姿を消した。


「うふふ! 私も貴方方とまたゲームができる日を楽しみにしていますよ。なんたって、復讐の味はどんな蜜よりも甘いのだから! 私達のような人ならざる者の命のやり取りに相応しいゲームを早急に考案して、準備が出来次第、こちらから——」


「……失礼は承知の上で言わせて頂きますが、私には、貴方が心から笑っているようには見えないんですが?」


 偃師はまるで堪えきれなかったように、彼女の台詞を遮って言った。


「何ですって?」


 ジャネット姫の顔色が変わった。


「ダッシュウッド卿。いや、ジャネット姫、とお呼びした方がいいのかな。失礼ながら、私には初めてお会いした時から、貴方が、心から笑っているようには見えないんですよ?」


 偃師はせっかく命懸けのゲームが引き分けに終わって助かりそうだというのに、相手の機嫌を損ねると判っていながら、はっきりと言った。


「貴方はいつも機嫌がよさそうに振る舞っておいでのようですが、その実、ただ他人を騙し陥れ、莫迦にして笑っているだけだ。心から笑っている訳じゃない。一度、うちの茶館で、ゆっくり過ごしてみてはいかがですか?」


 偃師は彼女が腹を立てている事に気づいていながら、素知らぬ顔をして続けた。


「もし来館される時は、貴方に相応しいお茶をご用意させて頂きますよ」


 偃師はわざとらしいぐらい微笑み、ジャネット姫に誘いの声をかけた。


「失礼な! 誰が貴方のような無礼者の茶館に行くものですか!」


 ジャネット姫は血相を変えて言った。


「長年、復讐の念に凝り固まっている貴方には、きっと、『花茶』がいい。『花茶』は花の香りを付けたり、花びらそのものを使ったお茶で、飲めば心身の緊張をほぐす効果がありますから——では、また」


 偃師はどんなにジャネット姫に拒否されても、笑顔を忘れずに誘いの声をかけ、清とともに、〈ヘルファイアクラブ〉を後にした。


 偃師は空が白み始めた早朝の路地を、清と一緒に並んで歩いていた。


「あれが茶館に来たら、本当にお客として迎えるつもりなんですか?」


 ふと、清が訝しげな顔をして聞いてきた。


「うーん、清大夫はジャネット姫に誘われたら、殺し合いに興じるつもりなんですか?」


「私は約束を果たさない人間は人一倍嫌いですから。一度ならず二度までも、しかも二度目に至っては、背後から拳銃で騙し討ちだ。今度はこっちもそのつもりでやりますよ。いかに連中がイギリスの幽霊だ、妖精だと言っても、前もって準備さえしていれば、この世から滅する方法はいくらでもありますからね」


「つまり、やられたらやり返す、相手を殺しさえすれば、清々すると?」


「特務機関として見過ごす訳にもいきませんし、個人的にもそうです。何かいけませんか?」


 清はいかにも不満そうな顔をして言った。


「貴方個人に関しては、正直、疑問ですよ。現にジャネット姫にしても、心から笑っているように見えないですし。あの人はいつも誰かを騙して、陥れて、夜毎、他人の命を弄ぶ事で、顔こそ笑ってますが、その目は全く笑ってない」


「あれが面白くなさそうにしているのは、本当にその手にかけたいのは自分を裏切ったタム・リン以外にいないからでしょう?」


「ジャネット姫を裏切ったあと、タム・リンがどうなったのかは知りませんが、彼女はたぶん、タム・リンを殺した所で、何も満足はできないと思いますよ……清大夫」


 偃師は清の名を呼び、ふと立ち止まった。


「清大夫も、約束を果たさない人間が人一倍嫌いなのは判ります。でも、本当に望んでいるのは相手をやり込めたり、ましてや、殺害する事なんかじゃないんじゃないですか?」


 偃師は改まった様子で、疑問を投げかけた。


「前にも同じ事を聞きましたが、偃老板が闘蟋に惹かれている理由は、本当にみんなと集まって試合をする事が楽しいと感じているからなんですか?」


 清はむっとしたような顔をして、偃師の質問を無視して聞いてきた。


「〝快織クワイジー〟!」


 偃師はにっこり笑ったかと思えば、突然、大きな声で言った。


「〝快織〟! 〝快織〟!」


 偃師が繰り返しているのは、『早く旗を織って寒さに備えよ』、という意味の言葉だった。


「……!?」


 偃師が突然、大声を出し始めたので、清は訳が判らず、唖然としていた。


「清大夫、蟋蟀は闘蟋の選手としての他にも、人々から親しまれている事をご存知ですか?」


 偃師は清が戸惑っている様子を見ても気にする風もなく質問した。


「…………」


 清は驚きのあまり、声を失ったように首を横に振った。


「『蟋蟀』という単語が、初めて文献に出てきたのは、中国最古の詩集、『詩経』においてです。どの詩を見ても、蟋蟀が季節の移り変わりを知らせる、『時令虫』として認識されている。いつからか人々の耳には、蟋蟀の鳴き声が、『快織』、と自分達を急かしているように聞こえた」


 そこから蟋蟀の事を、『促織そくしょく』と呼ぶようになったのだという。読んで字の如く、『機織を促す』、という意味だった。


「私は昔、部屋に引きこもって、まるで人間のように自分が何者なのか悩んでいた時期がありましてね。ある日、ふと気が付いたんですよ。どこかで蟋蟀が鳴いている事に——〝快織〟! 〝快織〟! それ以外は、誰の声も聞こえなければ、何の物音もしない」


 偃師は昨日の事のように、なぜか嬉しそうに言った。


「その時、ようやく判ったんです——『ああ、自分は孤独だったんだ』、とね。それと同時に、本当は自分が何をしたかったのか、いったい、何をすればいいのかも判りました」


 偃師は曇りのない眼を向けて、神妙な顔をして言った。


「たぶん、ジャネット姫も、タム・リンに裏切られた孤独を持て余し、清大夫も何かしら、孤独を内に抱えているんじゃないですかね……でも、その孤独を解消する手段として、私にはジャネット姫のような方法が相応しいとは思えないし、それが証拠に彼女は心から笑っていないんじゃないかと思うんですよ」


 偃師は自分の過去でも見ているように、遠い目をして言った。


「そう、人それぞれ、何かしら事情はあるでしょうが、みんな、孤独である事に変わりはない。もちろん、人間、誰とでも仲よくするというのは難しいでしょうが、幸か不幸か、私は自動人形だ。人形ぐらい、誰にでも優しくたっていいんじゃないですかねえ。イギリスの幽霊も、妖精も、日本の人造人間だって、私にとってはみんな、おいしいお茶で、ほんの一時、孤独を忘れて頂きたい、大切なお客様ですよ」


 偃師は、イギリスの幽霊と妖精に殺されかけたばかりだというのに、何事もなかったように笑った。


「——蟋蟀はいつも、私に大切な事を教えてくれる。だから私は、闘蟋が好きなんですよね」


 偃師は朝靄を眺め、感慨深げに言うと、また歩き出した。


「…………」


 清はたった一人、立ち尽くしていた。


 もしかしたら、蟋蟀の鳴き声が聞こえたのかも知れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る