第二章 妖精の花嫁 其の二、

 第二章 妖精フェアリー花嫁ブライド


 其の二、


 偃師は清が主催した闘蟋を開催した翌日から、朝夕の蟋蟀の世話を一人でやっていた。


 なぜか?


 偃師にも理由は判らなかったが、それまで闘蟋を学びたいと手伝いに来ていた清が、『五色茶館』にも別館にも、姿を見せなくなっていたからである。


 清からは今にも至るも連絡はなかったが、これと言って理由はないのかも知れない。


 いつ手伝いに来るかは向こうの都合に任せていたし、毎朝、毎夕、来なくてはならないという決まりもない。


 茶館に来ている他のお客の話によれば、『上海神農堂医院』はいつも通りやっているそうだし、清は何事もなく過ごしているのだろう。


 お互いに、以前の日々に戻っただけの事である。

 

 ただ偃師の脳裏には、清が闘蟋でダッシュウッド卿に敗北した瞬間が焼き付いていた。


 清は普段は穏やかだったが、あの時は憮然とした表情をしていたのが印象的だった。


 あれ以来、何か嫌な予感がした。


 清が茶館に来なくなってからというもの、更に胸騒ぎを覚えた。


 だが、清はお客の一人に過ぎず、個人的な思いを切り出すのは躊躇われた。


第一、まだ何も起きていないのだから、何かしようにもどうしようもない。


 ——自分がやりたい事、やるべき事は何だろう?


 どうする?


 ——自分は、どこで何をすべきか?


 どうすればいい?


 あれこれ思い悩んでいるうちに、清の方から久しぶりに連絡がきた。


 ——今度、ダッシュウッド卿の〈ヘルファイアクラブ〉に遊びに行こうかと思っているんですが、偃老板も一緒にどうですか?


 清は電話の向こうで、いつもの穏やかな口調で言った。


 ——前回はダッシュウッド卿に勝ちを譲りましたが、今回はイギリス式の『血生臭いスポーツ』で雪辱を晴らしたいと思っているんですよ。そこで立会人というとちょっと大袈裟ですが、偃老板に観客になってもらいたくて。お願いできますか?


 偃師は少し考えてから、『五色茶館』が休みの日なら、と承諾した。


 何か適当な理由をつけて断る事もできたし、特定のお客と懇意にするのはどうかと思うので、断るべきだったかも知れない。


 それでも誘いを受けたのは、胸騒ぎが収まらなかったからである。


 何しろ、ここは上海租界だ。


 その上、相手はよりによって、イギリス人ときた。


 最初はただのお遊びだったかも知れないが、負けず嫌いの清と、イギリス人のダッシュウッド卿では、刃傷沙汰に発展する可能性もある。


 偃師は何かあった時には仲裁に入ろうと、清の誘いを受けたのだった。


 数日後、偃師は中折れ帽と縞模様の背広姿である清と、いつもの青い長袍に紺色の馬掛姿で、一緒に出かけた。


 彼らの行く先は、共同租界、〈ヘルファイアクラブ〉の集会所である。


〈ヘルファイアクラブ〉は、『クラブ』とは言っても、歓楽街にあるようなナイトクラブではない。


 十八世紀、イギリスの文学者である〝文壇の大御所〟、サミュエル・ジョンソンは、『クラブ』をこう定義している——『ある規則のもとに集まる親しい仲間内の寄り合い』、と。


 十八世紀のイギリスにどんなクラブがあったのかと言えば、単純に社交を目的としたクラブ、文学や政治、音楽、スポーツを目的としたもの、たちの悪い悪戯や悪ふざけに興じるクラブも珍しくなかった。


 例えば〈ファンクラブ〉は、労働者の住宅に放火し、住民が着の身着のままで飛び出してくる様を楽しんでいた。


〈シートライティングクラブ〉は、仮面を付けた全裸の紳士淑女がダンスパーティを開き、乱痴気騒ぎをしていた。


 ここ、上海にも、イギリス人のクラブはいくつかあるが、最も有名なのは、〈上海クラブ〉だろう。

〈上海クラブ〉は、マティーニと、中国人と女性は入会できないという厳しい規則と、世界一長いと言われる、三十メートルのバー・カウンターがある事で知られ、クラブハウスとして使われているのは、外灘の三番地に建つ、ギリシャ神殿のような趣きのビルである。


「ところで、〈ヘルファイアクラブ〉はどんなクラブなんですか?」


 偃師は〈上海クラブ〉の敷居の高さを連想し、気後れしたのか、少し不安げに聞いた。


「〈上海クラブ〉に比べたら入りやすいところだし、何も心配は要らないと思いますよ」


 清は偃師の不安を察したらしく、安心させるように言った。


「それならよかった」


 偃師は苦笑いした。


「ダッシュウッド卿の話だと賭博を楽しむ為に作ったクラブみたいだし、クラブハウスも賭博場として建てたって話ですからね。堅苦しい事は抜きにして、楽しむとしましょうよ」


「そうですね、そうしましょう」


 偃師は気を取り直して言ったが、一番心配なのはダッシュウッド卿と再び勝負したとして、ただのお遊びで済むのかという事だった。


「見えてきましたね」


 偃師の気持ちを知ってか知らずか、清は〈ヘルファイアクラブ〉のクラブハウスを指差した。


 石畳の路地の先に見えてきたのは、どう見てもクラブハウスには見えない、まして、賭博場にはもっと見えない建物だった。


 目指す建物は、なんと、キリスト教の教会だった。


「教会?」


 偃師はクラブハウスが思ってもみない建物だったので、面食らった。


「老朽化した本物の教会を買い取って、改装したらしいですよ」


 教会の玄関まで行くと、山高帽を被り、ラウンジスーツを身に纏った、先客らしきイギリス人の若者がいた。


 教会の玄関前でイギリス人の若者が何事か口にすると、分厚い木製の扉が開いた。


 どうやら教会の中に入るには、合言葉が必要らしいが、偃師は合言葉など知らなかったから、清の顔を見た。


「心配しなくても大丈夫ですよ」


 清は笑って、分厚い木製の扉をこんこんと叩いた。


「合言葉は?」


 分厚い木製の扉の覗き口が開き、くぐもった男の声が聞こえた。


「『汝、望む事をなせ』」


 清がまるで常連客のように慣れた調子で答え、教会の扉が重々しく開いた。


 偃師達を出迎えたのは、緋色の頭巾を目深に被り、顔は見えなかったが、白衣を身に纏った聖職者のような人物だった。


 無言の聖職者に恭しく招き入れられ、教会の中に足を踏み入れると、思ったより天井が高く、広々としていて、大勢の参加者で賑わっていた。


 見上げればシャンデリアのクリスタルが美しく輝き、床には足が沈みそうなぐらいふかふかした豪華な絨毯が敷き詰められていた。


 奥には金色の祭壇と巨大なパイプオルガンこそ残っていたが、礼拝に訪れた参列者が座る会衆席は撤去され、その代わり、大きなテーブルがいくつか設置され、どこのテーブルを見ても、サイコロ賭博、ルーレット、ポーカーなどで、参加者が盛り上がっていた。


 壁際のテーブルには、各種のパン、牛肉、鶏肉、豚肉、羊肉といった肉料理、形も匂いも様々なチーズ、色鮮やかなサラダ、デザートのプディング、ゼリー、カスタード、ブランマンジェ、オレンジ、グレープフルーツ、パイナップル、無花果、干し葡萄、胡桃と、食べ物が載ったお皿が所狭しと並び、飲み物は、ビール、ウィスキー、シャンパン、赤ワイン、白ワインと、アルコールも揃っている。


「おいおい、噂には聞いていたが、こいつは本当に凄いじゃないか。あんた達も今日、初めてやって来たのか?」


 興奮気味に話しかけてきたのは、一足先に教会に入っていった山高帽のイギリス人青年だった。


「君は?」


 清は嫌な顔一つせず、笑顔を浮かべて聞いた。


「仲間内からは、〝向こう見ずエドリック〟なんて呼ばれている。あんた達もこんなところに来るぐらいだし、博打好きなんだろう?」


 エドリックは親しげな顔をして言った。


「まあね——私の名は、清だ。よろしく」


 清が握手を交わそうと手を差し出すと、エドリックは肩を竦めて笑った。


「合言葉は?」


 エドリックは、おどけた調子で言った。


「『汝、望む事をなせ』?」


 偃師と清は、二人揃って答えた。


「そう! 〈ヘルファイアクラブ〉は他の賭場にはない特別な賭けもやっているっていう話だし、俺達も普通の挨拶はなしだ! 自分の心に素直になって、やりたい事をやろうぜ! ここで出会ったのも何かの縁、景気付けに三人で乾杯と行こうじゃないか!?」


 エドリックは結局、清と握手を交わさず、壁際のテーブルからウィスキーのボトルを一本と、グラスを三個持ってきて、ご機嫌な様子で言った。


「いいじゃないか、偃老板もどうぞ」


 清はエドリックからグラスを二つ受け取り、偃師に一つ手渡した。


「話が判るな、そうこなくっちゃな」


 エドリックは嬉しそうな顔をして、三人分のグラスに琥珀色の液体を注いだ。


「乾杯!」


 彼は音頭を取ると、清とともにグラスの中身を煽った。


「…………」


 偃師は戸惑いがちに、ちびちびとやっていた。


「ところで、他の賭場にはない特別な賭けというのは?」


 清はエドリックが言っていた事が気になったようで、彼のグラスに二杯目を注ぎながら聞いた。


「……そう言えば?」


 偃師はふと何かに気付いたように、辺りを見回した。


 教会で行われているのは、テーブルゲームばかりだ。


 ダッシュウッド卿が一番人気だと言っていた、闘鶏が行われていない。


「あんた達、知らないのか?」


 エドリックは拍子抜けしたように言った。


「〈ヘルファイアクラブ〉が賭博を楽しむ為に設立されたのは知っているよな?」


 それすら知らないという事はないだろうと、半分、呆れ顔だった。


「それぐらいは知っているよ。私達は二人とも、ダッシュウッド卿とは知り合いだし」


 清は特に気分を害した風もなく、何気ない顔をして言った。


「このクラブハウスは、ダッシュウッド卿が古い教会を買い取って改装したらしい。ご覧の通り、入ってすぐの一階は、各種テーブルゲームの賭博場だが、これぐらいなら上海のどこにでもあるよな?」


 エドリックは勿体つけるように言った。


「だが驚くなかれ、このクラブハウスには他にもまだ、それこそ官憲に見つかったら厄介な、秘密の賭博場があるのさ」


 エドリックが嬉しそうに絨毯を踏んだのを見て、偃師は秘密の賭博場がどこにあるのかピンと来た。


「この下に、地下にあるんですか?」


 偃師は足元を見やる。


「クラブハウスの一階じゃ、『血生臭いスポーツ』はやっていない」


 清は最初から気づいていたように、冷静に言った。


「ご名答。秘密の賭博場は地下にあって、『血生臭いスポーツ』はそこで行われているって話だぜ? そしてそいつが、俺の今日のお目当てって訳だ」


 エドリックは悪戯っぽくウィンクすると、ぐいっと酒を煽った。


「闘鶏か?」


 清は興味深そうに聞いた。


「いいや、闘鶏だけじゃわざわざ地下まで引っ込まないだろうよ。博打仲間から聞いた話じゃ、世界中から集めた危険な獣を戦わせているらしい。おまけに地下の最果てじゃ、色っぽいお楽しみまであるらしいし、そろそろ地下の入り口がどこにあるのか、探しに行くとするか!」


〝向こう見ずエドリック〟とはよく言ったもので、地下にあるという秘密の賭博場の入り口を探して、グラスを片手に歩き出した。


「あ、ちょっと?」


 偃師が慌てて声をかけたのも、無理はなかった。


 彼が歩いて行った先は、教会の一番奥、金色の祭壇と巨大なパイプオルガンがある場所——行き止まりだったからである。


「隠し階段、か」


 偃師はエドリックが祭壇の床下に姿を消したのを見て、感心したように言った。


 床下には隠し階段があり、地下に続いているのである。


「私達も行きましょう」


 清はもう一度、偃師と乾杯すると、嬉々とした様子で言った。


「今日、私達がここに来る事は、ダッシュウッド卿は知っているんですか?」


 偃師が何となく聞くと、清は質問に答えず、偃師が飲み残したグラスを貰い受け、自分の空になったそれと一緒に、テーブルに片付けに行った。


「もちろん」


 と、グラスを片付けた後、一言言って、今度は祭壇に向かって歩いて行く。


「ダッシュウッド卿はなんと?」


 偃師は清の後についていって、彼の背中に質問した。


 ダッシュウッド卿と連絡を取っているのなら、クラブハウスのどこで何時に待ち合わせするか、約束ぐらいしているのではないか。


「電話を受け取ったのはダッシュウッド卿の執事で、『その日の夜、クラブハウスの賭博場でお待ちしております』、とだけ」


 清は祭壇のところまでやって来て立ち止まり、足元を見つめて言った。


 足元にはぽっかり穴が空いたように、小さな階段が地下に続いていた。


 一言、『賭博場』と言っても、地下まである。


 今の所、一階には、ダッシュウッド卿の姿は見当たらなかった。


 ダッシュウッド卿を探し出すのには、もうちょっと時間がかかりそうである。


 偃師は清の後をついていき、石造りの階段を、一歩、また一歩、下りていく。


 石造りの階段は狭く、下りるにつれて、薄暗くなっていく。


 ふいに広い場所に出たかと思えば、目の前には人工の洞窟が口を開けていた。


 天井近くの岩肌には石碑が埋め込まれ、偃師には読めなかったが、『汝、望む事をなせ』とクラブの合言葉が刻まれていた。


 両脇を固めているのは、古代エジプトの太陽神ホラス——ギリシャ・ローマ時代に沈黙の神とされた、ハルポクラテースの石像と、古代ローマの沈黙の女神である、ヴォルピアン・アンゲローナのそれだった。


 つまり、〈ヘルファイアクラブ〉では自分の望む事をなし、クラブの事は他言無用という事である。


 偃師達が洞窟の入り口をくぐると、天井は高く、今度はゼウスと、アフロディーテの交歓の白亜像がこちらを見下ろしていた。


 広々とした通路には深々とした絨毯が敷かれ、壁には蝋燭の燭台が設置され、洞窟内は明るかった。

 更に奥に行くと、岩肌には無数の横穴が穿たれ、穴の中には石の棺が収まっていた。


 墓地を通り過ぎると坑道は二手に分かれ、右手に広大な円形の空間が広がっていた。


 円形の空間は、宴会場として使われているらしく、やはり岩肌には灯りが、床には柔らかな敷物が、中央には大きな板石のテーブルが置かれ、百人ぐらいの参加者が石造りの椅子に座り、豪華な料理と美酒を楽しんでいた。


 どうやら左手にあるのが、偃師達が目指す地下賭博場らしい。


 偃師達が坑道に向かって進んでいくと、歓声が聞こえてきた。


 いや、人間の歓声だけでなく、野獣の雄叫びも混じっていた。


 さながら熱帯地方の密林に迷い込んでしまったように、獣の咆哮と鳥の鳴き声が響き渡り、その上、どこかから血の匂いまでしてきた。


 果たして、秘密の地下賭博場で行われている、『血生臭いスポーツ』とは、いったい、どんなものなのか。


「これは!?」


 偃師は初めて見る光景に、目を見張った。


 地下賭博場には、ちょっとした動物園のようにいくつか鉄の檻が設けられ、鉄の檻の周りを参加者が囲み、檻の中では動物達が死闘を繰り広げていた。


 偃師達の一番近くにある鉄の檻の中では、鎖で木の杭に繋がれた巨大な一匹の熊と、闘犬——番犬として知られる、大型の犬種、マスチフ犬——が数匹、戦っていた。


 偃師は知る由もなかったが、イギリスでは一般的な『血生臭いスポーツ』であり、いわゆる、『熊いじめ』と呼ばれるものだった。


『熊いじめ』は、まず一、二メートルぐらいの長さの鉄の鎖で熊を木の杭に繋ぎ止めて自由を奪い、それから熊の目を潰して、失明させる事もある。


 なぜ、そんな事をするのかと言えば、いかに勇敢で大型のマスチフ犬と言えども、さすがに自分よりも何倍も大きな熊を前にしては、まともな戦いにならないからである。


 更には対戦相手の熊が一匹であるのに対して、マスチフ犬は数匹おり、戦いで傷つき疲労したら、交代する事ができる。


 賭博の参加者は、どのマスチフ犬が一番勇敢に戦うかを賭けるのだが、さしもの熊もここまで不利なお膳立てをされれば最後には力尽き、マスチフ犬によって噛み殺される事になる。


 他にも熊の代わりに、雄牛、穴熊、豚を使う事もあるが、〈ヘルファイアクラブ〉は、一通り揃っているようである。


 この手の『動物いじめ』は、十六世紀、イギリスのロンドンにおいて国民的な人気があり、イギリス王室も奨励していたぐらいだった。


 そして、二十世紀の上海租界、ここ、〈ヘルファイアクラブ〉においても、人気は些かも衰える事はなく、参加者は熱狂の渦に包まれていた。


「あっちに闘鶏場がある」


 偃師が呆然たしていると、清は独り言のように言って、さっさと歩き出した。


 しかも、初めて来たとは思えないような足取りの早さだった。


「そう言えばダッシュウッド卿が言ってましたよね、一番人気は、闘鶏だって!」


 偃師は清の事を追いかけ、周囲の大歓声に負けまいと声を張り上げたが、清は返事をしないどころか、振り返りもせずに、人混みの中をかき分けて進んでいく。


 偃師は清の事を追いかけているうちに、ますます心配になってきた——前回の雪辱を晴らす為に、ダッシュウッド卿と勝負したとして、ただのお遊びで済むのか?


「凄いな」


 偃師は闘鶏場に入っていった清にようやく追いつき、息を飲んだ。


 偃師達の目の前、すり鉢場の闘鶏場の中央には円形のステージが用意され、観客席はたくさんの人々で埋まっていた。


 心なしか、『熊いじめ』よりも会場は盛り上がっている気がした。


 実際、『動物いじめ』で最も人気が高いのは、闘鶏である。


 ルールは単純明快、試合の組み合わせは体重によって決められ、選手である鶏は、蹴爪を付けて戦う。


 両者ともに戦意を失えば新たな二羽が放たれ、時には数十羽の鶏を放ち、バトル・ロイヤルが行われる場合もある。


「ぱっと見、ダッシュウッド卿はいないみたいですね。この辺で、ちょっと休みますか」

 

 偃師は歩き通しだったので、休憩を提案した。


「ええ」


 清は何かに取り憑かれたようにダッシュウッド卿の姿を探していたが、一旦、諦めたように言った。


「ダッシュウッド卿が言っていた通り、何となく闘蟋とルールが似ていますね」


 偃師はすり鉢場の観客席の一番高いところから観戦し、ふと思い出したように言った。


「そうですね」


 清も隣の席で一緒に眺めていたが、どうも関心が薄い気がした。


「…………」


 偃師は眉を顰めた。


 愛想の欠片もない、清にではない。


 視線の先では、鶏が一羽、血みどろになって戦っている。


 いくら傷ついても、一向に闘争心を失わないし、倒れる気配がない。


 まるで清の蟋蟀と対戦した時の、ダッシュウッド卿の蟋蟀のように……。


「清大夫」


 偃師は改まった様子で言った。


「私はあまり勝ち負けにこだわらない方ですけど、だからと言って、八百長やイカサマは許せません。つまらないですからね」


「突然、どうしたんですか?」


 清は偃師が言わんとしている事が判らず、困惑気味に聞いた。


「この前は清大夫の知り合いで初対面だったし、怪しいとは思いながらも、試合を中断してまで確かめる事はしなかったんですよ——でも、ここに来て確信しました。ダッシュウッド卿は、イカサマをしてますね」


 偃師は心苦しそうな顔で言った。


「…………」


 清は『イカサマ』という言葉に反応し、深刻な顔になる。


「当たり前というのもおかしな話ですが、闘蟋にもドーピングというものがあって、蟋蟀に試合前に興奮剤を食べさせると、どんなに傷ついても平気で戦い続ける事ができます。言うまでもなく、反則行為です。そういう蟋蟀は『薬水虫』と言うんですが、あの晩、ダッシュウッド卿は、『薬水虫』を使っていたと思いますよ」


 だからダッシュウッド卿の蟋蟀は、どんなに噛みつかれ、投げ飛ばされても耐え抜き、最後には勝利したのだ。


「……そうですか」


 清の表情は暗く沈んでいた。


「とは言え、何の証拠もないし、言うべきかどうか迷いました。けれど、ここの動物達を見て、決心がつきました。この前のダッシュウッド卿の蟋蟀と同じで、普通ならいつ倒れてもおかしくない傷だらけの状態で戦っている動物達が何匹かいますね。単なる勘ですが、十中八九、何か薬を使っていると思いますよ」


 偃師は清の気分を害してしまった事に、申し訳がなさそうな顔をした。


「偃老板は何も悪い事はしてないんですから、そんなに気になさらないで下さいよ。それに……」


「それに?」


 偃師は訝しげな顔をした。


「私もあの夜、試合をしている時から、薄々そうじゃないかと思っていたんですよ。でも闘蟋経験もまだ浅いし、自信もなかったんで、言わなかったんです。向こうも素人同然だし、まさかドーピングなんかしないだろうと思ってね——だから今日、偃老板に教えてもらってよかったですよ」


 清はダッシュウッド卿がイカサマ行為を働いたのではないかという疑念に確信が持てたので、感謝しているようだった。


「それなら、もう帰りませんか? 清大夫には負けず嫌いな所があるから、雪辱を晴らしたいのは判りますが、イカサマをするような相手と戦っても、何も面白くないでしょう」


 偃師は苦笑いをして言った。


 清が負けず嫌いな事は前々から知っていたし、それだけに、あの日からずっと心配だったのである。

 何しろ、お相手はイギリス人の、それも貴族様で、ここは何と言っても、上海租界なのだ。


 租界の支配者であるイギリス人とやり合っても、一つもいい事はない。


 逆らっても損をするだけなのは、中国人ならば身に染みて知っている。


 イギリス人に楯突けば、日本人でも結果は変わらないだろう。


「偃老板、心配してくれるのはありがたいですが、それじゃ私の気が収まらない。実はダッシュウッド卿には何も知らせず、ここに何度か下調べに来たんですよ。『血生臭いスポーツ』で再戦した時の為に、イギリス式のゲームに慣れておこうと思って。今度はイカサマされても、確たる証拠を掴めるようになろうと思ってね。そのお陰でしばらく、『五色茶館』に蟋蟀の世話をしに行けなくなりましたけど。しかし、私は約束を守らない人間っていうのが人一倍嫌いなんで、こうなるとますます許し難いな」


 清はふいに立ち上がり、偃師に構う事なく闘鶏から出て行く。


「どこに行くつもりですか」


 偃師はどう考えても頭に血が上っているとしか思えない清の事を、このまま一人にはしておけなかった。


「ここにもダッシュウッド卿がいないのなら、行く先は決まっているじゃないですか。さっき、〝向こう見ずエドリック〟が言っていたでしょう?」


 清は地下賭博場を出ていき、更に奥に向かって歩いていく。


 ダッシュウッド卿は『色っぽいお楽しみ』があるという、地下の最果てにいるに違いない。


〝向こう見ずエドリック〟は、初めて訪れた地下賭博場の『動物いじめ』で一儲けし、今夜の自分は、ついていると思った。


 この勢いで、地下の最果てにあるという、『色っぽいお楽しみ』でも勝利を掴みたいと、地下賭博場から、食料品の貯蔵庫や調理場がある区画まで、意気揚々と歩いていった。


 行く先には、細い川が流れ、小さな石の橋がかかっていた。


 石橋を渡った向こう側には、フランス式の人工的な庭園ではなく、イギリス式の、自然な風景を思わせる、色鮮やかな花が咲き乱れたそれが広がっていた。


 博打仲間に聞いた通りなら、色鮮やかな花が咲き乱れる庭園の行き止まりが洞窟の最果てであり、色っぽいお楽しみは庭園の中にあるという。


 庭園の中にいる、と言った方がいいかも知れない。


「へっへっへ」


 エドリックは石橋を渡っている途中、周囲に展示されたギリシャ神話の神々の大胆な裸像を見て、鼻の下を伸ばした。


 庭園には、至る所に男女が密会するのに都合がよさそうなギリシャ風の四阿が建てられ、川には二人乗りのゴンドラが浮かんでいた。


「いよいよだな」


 エドリックは鼻息も荒く石橋を渡り切り、どこか淫靡な雰囲気漂う、色鮮やかな花が咲き乱れる庭園の奥に入っていく。

 

 庭園には人っ子一人いないようでいて、鬱蒼と茂った木々の間からは、じゃれ合うように重なり合う男女の人影が見え隠れした。


 耳を澄ますと聞こえてくるのは、情欲に塗れた男女の熱い吐息だった。


「いるいる」


 エドリックは嬉しそうな顔で、辺りをきょろきょろと見回した。


 どうやら、〈ヘルファイアクラブ〉の地下では『血生臭いスポーツ』の他にも、上流階級の奥様やお嬢様と火遊びを楽しむ事ができる、という噂は、本当だったらしい。


 彼は今晩、『血生臭いスポーツ』はもちろんの事、『火遊び』も楽しむつもりでやって来ていたのである。


 エドリックは自分好みの美女を探して庭園を歩き回っているうちに、苔むした大小の石が階段のように連なる細い道に来た。


 苔むした大小の石でできた不揃いの階段を上った先には、やはり石で作られた祭壇めいたものがあったが、その先はごつごつとした岩肌があるばかりで、行き止まりだった。


 よくよく見てみれば、岩肌だと思ったのは錯覚で、目の前にあったのは深い茂みだった。


「まだ、この先があるのか?」


 エドリックが困惑するのも無理はなかった。


 いくらか酔いが回っているとは言え、確かに岩肌だと思ったのだが、深い茂みの向こうには、明かりまで灯っているではないか。


 ——私の祖父はロックスバラ公。私を引き取ってくれたのだが、ある日の事、私の身の上に不幸が降りかかったのだ。


 ふと、若い女の歌声や、賑やかな音楽が聞こえてきた。


 ——ある日の事、それは肌を刺すような寒い日だったが、猟からの帰りに、私は馬から落ちた。


 エドリックが覗き見た木の間の暗がりの向こうから聞こえてきたのは、誰かがお祭り騒ぎに興じているらしく、『バラッド』、イギリスの民謡のようなものだった。


 ——妖精の女王は私を捕らえ、あの緑の丘に住まわせたのだ。


「お客様、ようこそおいで下さいました」


 ふいにエドリックのすぐそばで、年配の男の嗄れた声がした。


「あ、あんたは?」


 エドリックは少し驚き、飛び上がるような格好で、声をかけてきた相手を見た。


「私は当クラブの主宰者、ダッシュウッド様に仕える、執事のホワイトヘッドと申します」


 ホワイトヘッドは白髪混じりの初老の男だったが、身長優に一八〇センチ以上はあり、体格も大柄、深々とお辞儀したものの、どこか剣呑な雰囲気が感じられた。


「さて、エドリック様はどなたをお選びになりますか?」


 ホワイトヘッドは顔を上げるなり、脈絡のない事を聞いてきた。


「選ぶ?」


 エドリックは何を言われているのかすぐに理解する事ができず、ホワイトヘッドが視線で示した茂みの向こうを見やる。


 あまりに自然に名前を呼ばれたものだから、初めて会ったにも関わらず、ホワイトヘッドがなぜ自分の名前を知っているのか、これっぽっちも疑問に思わなかった。


「どうぞ、こちらへ」


 ホワイトヘッドはエドリックに声をかけると、茂みをかき分けて進んでいく。


「お、おい?」


 エドリックは躊躇いがちに彼の後について行き、目の前に広がる光景に唖然とした。


 茂みをくぐり抜けた先には、不思議な事に、地下の洞窟にあって、淡い月明かりにぼんやりと輝いたような、美しく広大な野原が広がっていた。


 金髪の乙女達が真っ白な薄衣を身に纏っただけの格好で、仮面をつけたクラブの使用人らしき楽器隊が奏でる曲に合わせ、輪になって踊っている。


 ——妖精の国は住みよいところ。


 金髪の乙女達は見目麗しい顔立ちで、手足はすらりと伸び、身のこなしの一つ一つが、うっとりするぐらい美しい。


 ——でも、不気味な話だが、七年目のおしまいに、地獄に生け贄(ティーンド)を払う事になっている。


 金髪の乙女達が笑みを浮かべて真っ白な薄衣を翻し、月明かりに輝くような野原で軽やかに舞い踊る姿は、ここが地下の洞窟だという事を忘れさせた。


「こ、こいつは……」


 エドリックは子どもの頃に読んだ、絵本の挿絵に描かれた妖精を思い出した。


 まるでこの世のものとは思えないような光景を目の当たりにして、嫌が応にも期待が高まり、ごくりと息を飲んだ。


「あ、あの中から一人、選んでいいんだよな!?」


 エドリックは目の色を変えて、ホワイトヘッドに確認した。


「はい……エドリック様がお好きな女性を、お一人お選び下さい。そのお方の為ならば、命を賭しても構わないという女性を」


 ホワイトヘッドは何が楽しいのか、薄笑いを浮かべていた。


 エドリックは羊の群れを見つけた狼のように興奮し、〝妖精の乙女〟達の元に、一直線に走っていった。


〝妖精の乙女〟達はエドリックに気づき、歓声とも悲鳴ともつかぬ甲高い声を上げ、小さく可愛らしい混乱がさざ波のように広がっていく。


 エドリックは第一印象でこれはと思った〝妖精の乙女〟を一人選び、乱暴にその細く白い手を掴んで、輪の中から引きずり出した。


 その途端、〝妖精の乙女〟達は今まで慌てふためき、逃げ惑っていただけだったが、エドリックに向かって、興奮した猫のように低い声で唸り出したかと思えば、一斉に牙を剥き、爪を立ててきた。


「くそ! 何なんだ、こいつら!?」


 エドリックは目星をつけた〝妖精の乙女〟の白い手は放さず、必死になって邪魔者を振り払った。


「おい、あいつらいったい、何のつもりなんだよ!?」


 エドリックは、元いた場所の茂みまで戻り、ホワイトヘッドに叫んだ。


「貴方様が、本当にそのお方の事がお好きだというのなら、これから課される試練に堪えなければなりません」


 ホワイトヘッドは執事らしからぬ、いやらしい笑みを浮かべて言った。


「何?」


 エドリックは訝しげな顔をした。


「お忘れですか? 当クラブの設立目的は、賭博を楽しむ事にございますれば。ゲームのルールはこうです。エドリック様には、ご自身が選ばれた女性から様々な試練が課されます。試練が終わるまで、手を繋ぐでも、抱き締めるでも構いません。女性を放さなければ貴方の勝ち、放せば負けです。また、エドリック様には試練に耐える事しか許されていません。つまり、抵抗した場合も負けと見なされます。もし勝てば、その方は晴れてエドリック様のものという事に、負けた場合は残念ながら、その方とはお別れしなければなりません」


 ホワイトヘッドは相変わらず底意地の悪そうな笑顔で、ルールの説明をした。


「試練、だって?」


 エドリックは戸惑いの色を隠せなかった。


 目当ての女と寄り添ったまま受ける試練、それも当の目当ての女から課される試練というのは、いったい、どんなものなのか。


「何か問題でも?」


 ホワイトヘッドは臆病者を見るような、小莫迦にしたような視線を向け、明らかに挑発していた。


「!?」


 エドリックは頭に血が上ったようだった。


「やってやろうじゃないか! 俺も伊達に博打仲間から、〝向こう見ずエドリック〟なんて呼ばれちゃいないさ!」


 エドリックはまんまと挑発に乗り、威勢よく勝負を受けた。


 何しろ、今晩はすでに『血生臭いスポーツ』で一発当てていたから、今日の俺はついていると自信を持っていた。


 だがしかし、エドリックはまだ気づいていなかった。


 なぜ、初対面のホワイトヘッドが、自分の名前を知っていたのか?


 本当はここがどこで、自分が誰を相手にして、これからどんな試練を受ける事になるのか?


「では、改めまして……ようこそ、〈ヘルファイアクラブ〉へ!」


 ホワイトヘッドはぱちんと指を鳴らした。


「……!?」


 エドリックは直後、自分のすぐ近くで禍々しい気配が膨らんだのを感じた。


 はっとして見れば、気配の主は今も固く手を繋いでいる、〝妖精の乙女〟だった。


 最早、目は釘付け、背筋に寒気が走った。

 

 信じられない事に、彼女の均整が取れた細身は、ジャムのようにどろどろと溶け始めていた。


 ——私は色白く、肉付きもいいので、その生け贄にされそうなのだ。


 エドリックの耳には、果たして、誰の歌声か、バラッドの一節が木霊し、全身からどっと冷や汗が吹き出した。

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