第二章 妖精の花嫁 其の一、

 第二章 妖精フェアリー花嫁ブライド


 其の一、


 偃師の朝は早い。『五色茶館』の老板、偃師は茶館の二階を住まいとしていて、毎朝、五時半には起床し、身支度を整えたら、中庭を抜けて別館に向かう。


 別館も本館と同じ古民家を思わせる屋敷で、主に将棋や麻雀、闘蟋とうしつを行う遊技場として使われているが、本館と同様、お茶も提供している。


 闘蟋は、蟋蟀が体重別に分かれて闘う相撲のような競技である。


 偃師は闘蟋の選手である蟋蟀を、別館の奥に設えた一室で飼っていた。


 最初から飼育室として作られた室内には、出窓の前に作業台が置かれ、洗面台とガス台、テーブルと椅子が用意されている。


 壁には温度計が掛けられ、硝子戸付きの本棚のような棚が備え付けられている。本棚のようなそれには蟋蟀の住まいである養盆が保管され、無数の養盆に一匹ずつ入れられた蟋蟀達が大合唱していた。


 蟋蟀の飼育は別館を利用するお客の為に仕事としてやっている事だが、偃師はいわゆる『蟋蟀迷こおろぎマニア』だった。


 蟋蟀迷としては、蟋蟀の数はそこまで多くなかったが、毎日、世話をするのは、手間がかかる。


 朝は開店まで時間を目一杯使って、蟋蟀の水やりと餌やりをし、養盆の掃除をする。


 まず最初に丼にご飯を入れ、米粒が水を吸って柔らかくなってきたら、専用の小さなお匙を使って、磁器の餌皿に、米粒を二、三粒ずつ、盛っていく。


 蟋蟀一匹につき、一皿必要なので、作業台には、ずらりと餌皿が並ぶ。


 朝ご飯の準備が終わったら、養盆の蓋を開けて、昨日の夜から雄の蟋蟀と一緒に入れていた、雌の蟋蟀を取り出し、別の養盆に移す。


 雄蟋蟀は交尾させる事で強くなるが、雌とずっと一緒に過ごしているのもよくないからである。


 養盆の蓋を開けたら、窓辺に行って、雄の蟋蟀の様子を明るい場所で確かめる。


 前日の餌は食べているか、糞の量や状態はどうか、牙や爪は折れてはいないか、体の色も確認する。


 蟋蟀の色は秋の初めは何色か見定める事はできないが、白、黒、赤、青、黄に大別され、色によって性質が異なる。


 どんな選手に育つのか、ある程度、色で判る訳である。


 その後は竹のピンセットを使って、養盆から餌皿と水皿を取り出し、餌の滓と糞を取る。


 あまりに汚れがひどければ、蟋蟀を別の養盆に移して、主人のいなくなった養盆を引っくり返して、掃除をする。


 養盆を乾いた布で拭いたら、新しい米粒を載せた餌皿を入れる。


 水皿は古い水を捨てて丼に入れ、新しい水を汲んだら、水滴を拭き取って、養盆に戻す。


 雌を入れた養盆にも、同じように餌皿と水皿を用意し、養盆一個分の作業が終了となる。

 

 最後に養盆から取り出した大量の古い餌皿を洗って乾かせば、朝方の飼育作業は終わりだった。


 夕方になったら、朝、取り出した雌の蟋蟀を、雄が入った養盆に戻す作業が待っている。


 いくら仕事だとは言っても、好きでなければできない、地味で大変な作業だった。


 その為、茶館の店員として雇っている少女、劉鳴凛も、こればかりはあまり手伝ってくれなかったが、最近、偃師には同好の士が一人増え、たまに蟋蟀の世話を一緒にしていた。


 彼が初めて『五色茶館』を訪れたのは、劉鳴凛が茶館で働き始めたのと同じ時期だった。


「すみません」


 偃師が別のお客にお茶を運んでいた時、声をかけてきたのは、歳の頃なら二十代前半だろうか、身長は一六〇センチぐらい、丸縁の眼鏡を鼻にかけ、縞模様の背広を身に纏った、小柄な青年だった。


「ここで闘蟋ができると聞いてやって来たんですが」


 丸縁眼鏡をちょこんと鼻にかけた青年は、しばらくお茶を味わった後、偃師の事を捕まえて、興味深そうに言った。


「はい、奥にある別館でできますよ。秋に週三回、定期的に行っています。お好きなんですか?」


 偃師は愛想よく、概要を説明した。


「少し興味があるぐらいで。こちらの事は前々からうちの患者さんから聞いてまして、この前も行こうかなと思ったんですけど、やっぱり患者さんからしばらくお休みだという事を聞いて、今日初めてやって来たんですよ」


 丸縁眼鏡をかけた青年が言っているこの前のお休みというのは、〈龍幇〉といざこざを起こした時の事だろう。


「急な用事ができて遠出していたものですから……失礼かも知れませんが、お医者様ですか?」


 偃師は単刀直入に聞いた。


「はい、漢方が専門です——しかし、秋限定ですか」


 丸縁眼鏡をかけた青年は、少し残念そうに言った。


「蟋蟀が成虫になるのが秋なので、それまで、八月は採集、九月は飼育に勤しむ事になります」


 偃師は笑顔で説明したが、中国人なら、闘蟋の季節が秋である事は、子どもでも知っている。


   してみると。


「失礼ですが、生まれは?」


「日本ですよ。共同租界で『上海神農堂医院』という病院を開いています、清水八十郎しみず・はちじゅうろうと言います。患者さんからは、『清』というあだ名で呼ばれてます」


    最初は中国人だとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。


「ところで遠出していた間は、どなたが蟋蟀の世話をしていらしたんですか?」


「……業者が」


 偃師は咄嗟に嘘をついた。


『剪紙成兵の術』——まさか、神仙術を使って作り出した人形が、代わりに世話をしていたなどとは言えない。


「へえ、お金を払えば世話してくれる業者がいるんですね」


 清は何の疑いも持たず納得してくれたようだった。


「はい」


 偃師はこれ以上、留守中の話をするのは、あまり気が進まなかった。


 何しろ、龍姑娘を巡る話はオカルトじみている——と言うよりも、オカルトそのものだった。一般人に話したところで、到底、信じてはもらえないだろう。


 偃師はこの後も留守にしていた時の話が続くようなら、蟋蟀の採集に出かけていた事にでもしようと思った。


「蟋蟀の世話をしてくれる業者がいるのなら、どこかにお金を払えば闘蟋を教えてくれる場所はありませんかね」


 清は思わぬ方向に話題を変えた。


「お金を払えば闘蟀を教えてくれる場所ですか? ちょっと興味があるどころか、かなりやる気じゃないですか?」


 偃師は闘蟋に対して清が並々ならぬ興味を抱いているのを感じ、感心したように言った。


「あはは。いや、と言うのも、異国の地で病院を開いて、毎日一生懸命、仕事していたら、気づいたら結構な月日が経ってしまって。そろそろ、趣味の一つでも見つけようかと思っていたところなんですよ」


 清は苦笑いを浮かべて言った。


 この様子だとおそらく独り身なのだろうが、そこで蟋蟀に興味が行くのだから少し変わっている。


「こう見えても私、博打に目がないんですよね。闘蟋には歴史上の人物にもその魅力に取り憑かれた人がいて、国民を振り回した『蟋蟀皇帝』や、一国を滅ぼす事になった『蟋蟀宰相』もいたっていうし、それだけ魅力的な遊びだっていう事でしょう?」


 清は博打打ちらしく、子どものように目を輝かせて言った。


「もしよければ、蟋蟀の飼育ぐらいなら、朝夕、別館に来てもらえれば、うちでも見学できますよ」


 偃師は少し考えてから、善意で言った。


「本当ですか?」


 清は思いがけない提案に、嬉しそうな顔をした。

「普段はお客さんに見学してもらうなんて事はやってませんから、何もおもてなしする事はできませんが——ああ、見物料は取りませんから、安心して下さい。今日のところは闘蟋の専門書が何冊かありますから、お茶と一緒にご自由に楽しんでいって下さい」


 偃師は目の前にいる清が、まさか〈龍幇〉の黒幕だという事に気づく由もなく、親切に言った。


 清はその日から、『五色茶館』に頻繁に出入りするようになった。


 最初は見学だけだったが、清は勉強熱心で、いつの間にか、蟋蟀の世話まで手伝うようになっていた。


 偃師は嫌な気持ちはしなかったし、実際に蟋蟀の世話に携わる分、話も弾み、自分が知っている事は、出し惜しみせずに教えた。


 毎日、清と闘蟋について話し、一緒に蟋蟀を飼育しているうちに、自分と清が闘蟋に感じている魅力には、違いがある事に気づいた。


 偃師は闘蟋ももちろん嫌いではなかったが、どちらかと言えば、蟋蟀という昆虫そのものに惹かれていた。


 それ故、蟋蟀の世話をするのは大変だったが、決して、苦ではなかった。


 と言うよりも、やり甲斐を感じている。


 例えこの世に闘蟋がなかったとしても、蟋蟀の飼育をしているのではないかとさえ思う。


 一方、清は大前提として、闘蟋の試合に勝つ事を目的として、強い選手を育てる為に、蟋蟀の世話をしている。


 それが証拠に、闘いには向かない気が弱い蟋蟀やひ弱な蟋蟀には、関心を示さなかった。


 偃師はしかし、どんな蟋蟀であれ大事に育てたし、愛着もあった。


 偃師にとって毎日の餌やりや水やりは仕事の一環であると同時に、純粋に楽しんでやっている事なのである。


 清にとって毎日のそれは、闘蟋で試合に勝つ事ができる強い選手を育てる為の、単なる作業の一つでしかない。


 別にどちらがいいか悪いかという話ではない。


 闘蟋に勝つ為に、強い選手を育てようとするのは何も間違った事ではないし、むしろ、当たり前の事である。


 闘蟋を趣味とする者の中には、試合をする時や飼育する時に使う、専用の道具に傾倒する者もいるぐらいだ。


 よく言われる人それぞれというやつで、偃師はだから、お互いの違いについて、わざわざ口にはしなかった。


 そうこうしているうちに、季節は秋となった。


 闘蟋の秋である。


 上海共同租界、『五色茶館』の別館には、週三回、夕方になると好事家が集まり、闘蟋が開かれた。


 清はこの頃には、自宅で蟋蟀を育てるまでになっていて、偃師以外にも、同好の士を増やしていた。 

 その日は清が声をかけた初めてのお客ばかりが十人近く、『五色茶館』の別館を訪れていた。


「こんばんは、皆さん。私はこの店、『五色茶館』の老板、偃師と申します。今夜は貸し切りですから、気兼ねなく楽しんでいって下さい。闘蟋に関して判らない事があれば、どんどん質問して下さいね」


 偃師が挨拶している間、劉鳴凛は参加者全員に、せっせとお茶とお茶請けを配っていた。


 参加者は皆、品のいい調度品に囲まれた広間で、壁際に置かれたゆったりした長椅子で寛いだり、中国格子の飾り窓の前で談笑していた。


 偃師は広間の片隅に設置した作業台の前に、劉鳴凛とともに並んで座り、早速、蟋蟀の体重測定を開始した。


 作業台の前に順番に並んだ参加者から蟋蟀壺を受け取り、蟋蟀を取り出すと、吊籠と呼ばれる竹筒に入れ、竿式の天秤にかける。


 偃師が体重を読み上げると、隣の席に座った劉鳴凛が筆を使って短冊に書き記した。


 蟋蟀は体重測定が終わったら、また蟋蟀壺の中に戻すが、その際、体重を書き記した短冊を壺の蓋に挟み、傍らに設置した別の作業台に並べていく。


「今夜お招きしたのは、私が日頃から親しくさせて頂いている方々ばかりでして。ご紹介しましょう、美術商のシュテファン・ド・ヴォーカンソンさん。こちらはヴォーカンソンさんが営む、『ギャラリー・キャビネ・ド・キュリオジテ』にお勤めされているスタッフの方々です」


 清は参加者全員の蟋蟀の体重測定が済み、一旦、区切りがついたところで、作業台の前に座る偃師に対して、今回の参加者の面々を紹介した。


 清がまず紹介したのは、フランス人と思しき柔らかそうな金髪をした優男と、彼に付き従うようにそばに佇んだ五人の黒髪の女性達だった。


「初めまして。私はフランス租界で『キャビネ・ド・キュリオジテ』というギャラリーを開いています、シュテファン・ド・ヴォーカンソンと言います」


 ヴォーカンソンはいつも微笑んでいるような顔にすらりとした細身で、両手に革手袋を嵌めた背広姿がよく似合っている。


 ギャラリーの従業員だという五人の女性陣達は、下は十代から上は二十代まで、それぞれ髪型や背丈も違うが、みんな、美しい黒髪に、お揃いのダークスーツ姿で、室内にいるにも関わらず、サングラスをかけている。


「こちらにいらっしゃるのは、フランシス・ダッシュウッド・ル=デ・スペンサー男爵です」


 清が次に紹介した口髭を生やした威厳がある中年男性は、いかにも英国紳士といった仕立てのよい三つ揃いのスーツに身を包み、傍らには執事らしき白髪交じりの初老の男性まで控えていた。


 清が英語で何か話しかけると、ダッシュウッド卿は舞台役者のように、大袈裟な身振りで何か言った。


「『初めてお目にかかります、お会いできて光栄です』、と」


 清はダッシュウッド卿の言葉を、にこやかな顔で通訳した。


「こちらこそ初めまして、今日はよろしくお願いします——ところで皆さん、闘蟋はいつから?」


 偃師は日本人の漢方医、フランス人の美術商、それにイギリス人の貴族と、人種も多様なら、職業も多彩な顔触れに質問をした。


「私が自宅で蟋蟀を飼育し始めて、皆さんにお誘いの声をかけてからだから、つい最近ですね。私の方で基本的なルールを説明した上で何度か手ほどきさせてもらってますから、試合をする分には困らないんじゃないかと」


 清が答えると、ヴォーカンソンとダッシュウッド卿はこくりと頷いた。


「これだけ色んな国の方々に興味を持ってもらえると、なんだか嬉しいですね」


 偃師は今夜集まった錚々たる顔触れを見て、嬉しそうな顔をした。


「私は仕事柄、珍しいものに目がなくて、うちのギャラリーにも世界中から集めた色々な品物を並べているんです。前々から闘蟋の道具には興味があったので、今晩は実施で勉強させて頂こうと思って、お邪魔しました」


 ヴォーカンソンは客商売を営んでいるだけあり、愛想のいい笑顔で言った。


「ヴォーカンソンさんには、闘蟋自体はもちろん、闘蟋の試合や蟋蟀の飼育に使われる道具も、きっと気に入ってもらえるんじゃないかと思うんですよ。ダッシュウッド卿は賭博が趣味だと聞いていますし、今日はお金までは賭けませんが、試合を楽しんで頂けるんじゃないかと——」


 清が更に何か言おうとした時、ダッシュウッド卿が制止するように片手を挙げた。


「皆さん、賭博の起源についてご存知ですかな?」

 ダッシュウッド卿は参加者の視線が自分に集まるのを待ってから、質問を投げかけた。


「賭博の起源?」


 偃師は些か戸惑いを覚えた——ダッシュウッド卿の突然の質問にも、質問の内容にも、そして、彼が巧みに中国語を操っている事にも。


 なぜなら、偃師は身に染みて知っていたからである。


 イギリス人の中には、阿片戦争以来、ここ、上海租界でずっと暮らしている者もいるが、彼らはこの国を、野蛮で未開の土地だと思っている。


 その為、上海の住宅、オフィス街の建物も、本国イギリスの首都、ロンドンそのままにし、着る物も、食べる物も、何もかも全て、イギリスのそれを頑なに守っていた。


 彼らは、この国の風俗や慣習に合わせるつもりなど、全くないのだ。


 それ故、いくら中国の伝統的な競技である闘蟋に興味を抱き、中国語で礼儀正しく話しかけてきたからと言って、何も不安を感じないと言えば嘘になる。


「……残念ながら」


 肩を竦めて答えたのは、清だった。


「よろしい、賭博の起源は人類が文明を築き始めた頃まで遡る。ヨーロッパでは中世の後半からサイコロ賭博が、年齢、貴賤を問わず、隆盛を極めたが、サイコロ賭博と同じぐらい、人々が熱中した賭博が、もう一つある」


 ダッシュウッド卿は、思わせぶりに周囲を見回したが、誰も何も言わなかった。


「『血生臭いスポーツ』、だよ。我が国にも、闘蟋ならぬ闘鶏があり、『血生臭いスポーツ』の中でも、一番人気の競技だ。私が主宰するクラブでも、毎晩、大盛況だよ」


 ダッシュウッド卿は機嫌がよさそうに言ったが、何が言いたいのか、少々、回りくどかった。


「つまり?」


 清は苦笑いを浮かべ、先を促した。


「賭博は乗馬や狩りと同じく、紳士の嗜みの一つだ。闘蟋も『血生臭いスポーツ』として、実に興味深いものがある。今晩は賭けはやらないそうだが、私も皆さんと一緒に、大いに楽しませてもらうつもりさ」


 ダッシュウッド卿は、自分の気取った物言いに対して、周囲が呆れている事に気づいているのか、いないのか、期待に胸を膨らませているように言った。


「…………」


 偃師は思わず清と視線を合わせ、苦笑した。


 参加者と談笑した後、彼らが持参した蟋蟀の体重を比較し、なるべく同じ体重の者で試合を組んで行く。


 今夜の対戦表が完成したら、蟋蟀を二匹、養盆から闘盆に移して、試合開始となる。


 闘蟋は、高さ一メートル、広さ一メートルの正方形の台にフェルトを敷き、その上に設置された平らなお盆、闘盆の上で行われる。


 蟋蟀を闘盆の上に移す際は、両端が開いている筒に、長い柄が直角についた、『過籠』、という道具を使う。


「まず最初の試合は、清大夫とヴォーカンソン先生!」


 偃師は審判役として闘盆の前に立ち、清とヴォーカンソン、二人の選手を紹介し、彼らがそれぞれ所有する二匹の蟋蟀が、周囲の参加者から注目の視線を注がれる中、闘盆の上で向き合った。


 過籠を使って蟋蟀を闘盆に落としたら、『茜草』という面相筆のようなもので蟋蟀の闘争心を掻き立てて、試合を行う。


 蟋蟀は茜草の穂先が身体に触れれば、相手の触覚が触れたと勘違いし、戦意が湧いてくる。


 茜草の使い方が上手ければそれだけ蟋蟀の戦意は高揚し、試合を有利に運ぶ事ができるという訳である。


『闘蟋は、虫の良し悪しが六、正しい飼育が三、茜草の扱いが一』、と言われる所以である。


 勝敗の見分け方は素人にも判りやすいもので、試合に勝利した蟋蟀は翅を振るわせ勝鬨を上げ、敗北を喫した方は背中を見せて負けを認める。


 清は試合直前だというのに落ち着き払っていたが、ヴォーカンソンは今夜は見るもの全てが初めてで興奮が収まらないといった様子である。


 清とヴォーカンソンはお互い茜草を使って自分の蟋蟀の闘争心を燃やし、いよいよ第一試合の開始となった。


 偃師は審判として闘盆の前に立ち、感心したような顔をしていた。


 彼らは今回の為に、わざわざ虫市に行って蟋蟀を買ってきたらしいが、いずれもよく育っていた。


 清の蟋蟀は特に立派な体格で、顎も大きく、牙も鋭く、触角は京劇の武将役がつけるような雉の尾羽のように綺麗な放物線を描き、後ろ足ははち切れんばかりに発達していた。


 対するヴォーカンソンの蟋蟀も悪くはなかったが、清の蟋蟀の前では見劣りした。


 はっきり言って、誰の目から見ても、勝負の行方は明らかだった。


 当のヴォーカンソンは闘蟋に使われる道具に興味津々な様子で、試合の行く末はあまり気にしていないようだった。


 二匹の蟋蟀は、お互いに飛びかかる機会を窺っているかのように、睨み合いを続けた。


 次の瞬間、勢いよくぶつかり合うと、お互いの身体にがぶりと嚙みつき、そのまま力比べをするように踏ん張る。


 突然、弾かれたように、一匹は対戦相手とは反対方向に駆け出し、もう一匹はその場に佇み、「りりり!」、と蟋蟀特有の鳴き声を響かせた。


 勝鬨の声を上げたのは、清の蟋蟀だった。


 一試合目が終わった後も、人種、社会的地位に関係なく、試合は、対戦表に沿って行われた。


 闘蟋の試合は、対戦する前からすでに始まっていると言っていい。


 自分の蟋蟀が人熱れに当てられないように廊下に出る者や、雌の蟋蟀を同じ壺に入れ、戦意を高揚させようとする者、参加者は皆、蟋蟀が万全の状態で試合に臨めるように、それぞれ工夫を凝らして調整していた。


「これは……」


 偃師は思わず息を飲んだ。


 闘盆の上で、今、睨み合っているのは、清の蟋蟀と、ダッシュウッド卿の蟋蟀だった。


 ダッシュウッド卿の蟋蟀もなかなかどうして、堂々たる体躯をしている。


 二匹の蟋蟀が甲乙つけ難い実力なのは、一目見ただけで判った。


 取っ組み合い、くるくると立ち位置を変え、距離を取り、再び睨み合う。


 双方、相手の様子を窺うように触覚を上下させ、いつでも攻撃できるように足を踏みしめ、どちらからともなく、がっぷり四つに組んだ。


 まるで時間が止まったように静止していたが、一方の蟋蟀が、力任せに相手を投げ飛ばした。

 

 勝負を制したのは、清の蟋蟀だった。


「ふむ」


 偃師はなかなかの名勝負に小さく唸り、参加者達は歓声と拍手を浴びせた。


 次の瞬間、偃師は驚きに目を見張った。


 周囲の参加者達も目の色を変え、一度目のそれよりも大きな歓声を上げた。


 すでに勝負はついたように思われたが、ダッシュウッド卿の蟋蟀は全身傷だらけにも関わらず、再度、清の蟋蟀に立ち向かった。


 触角は片方、半ばからぽっきりと折れ、満身創痍でありながら、戦意を失っていない。


 不屈の精神で戦いを継続するのは賞賛に値するが、いかんせん、著しく体力が低下している。


 ダッシュウッド卿の蟋蟀は、どう足掻いても勝ち目はない。


 案の定、思うように動く事ができず、何度も噛みつかれては、簡単に投げ飛ばされ、いいようにやられた。


 驚くべき事に、その度に起き上がってきては、試合を続ける。


 圧倒的に優勢だと思われていた清の蟋蟀はだんだんと傷が増え、気づいた時には目に見えて疲弊していた。


 偃師は他の参加者が熱狂する中、一人静かに勝敗の行方を見つめていた。


 ついに決着の時を迎え、一匹の蟋蟀が精魂尽き果てたようによろよろと倒れ込んだ。


 清は憮然とした表情で、ダッシュウッド卿は余裕の笑みを浮かべていた。


 どちらが勝利したかは言うまでもない。


 ダッシュウッド卿の逆転勝利——室内は割れんばかりの歓声と、惜しみのない拍手に包まれた。


 偃師はどんなにぼろぼろになったとしても何度となく立ち上がり勝利を掴んだ、ダッシュウッド卿の蟋蟀を難しい顔をしてじっと見つめていた。


 全ての試合が終わった頃には夜もすっかり更け、時刻はすでに、二十一時を回っていた。


「皆さん、お疲れ様でした! 今晩は楽しんで頂けましたか?」


 偃師は参加者達に労いの声をかけ、試合を終えた感想を聞いた。


「はい! 闘蟋はもちろん、闘蟋に使う道具にも、まるで小宇宙のような煌めきを感じましたよ。明日早速、闘蟋に使う道具を買い揃えて、すぐにでもギャラリーに飾りたいぐらいですね!」


 ヴォーカンソンは余程、感動したらしく、興奮冷めやらぬ様子だった。


「闘蟋に使う道具には一個一個専門の職人がいるし、美術品のように手が込んでいるものもありますからね。興味があるならきっと楽しめると思いますよ」


 偃師は嬉しそうに言った。


「私は闘蟋の試合そのものに惹かれたな。蟋蟀は見た目が同じように見えても、一匹ずつ闘い方が違う。試合内容が多彩で飽きない。なあホワイトヘッド、うちのクラブでも闘蟋を始めたらメンバーも喜ぶんじゃないか?」


 ダッシュウッド卿は傍らに控える老執事に、ご機嫌な様子で話しかけた。


「はい、旦那様。皆様、きっとお喜びになる事でしょう」


 ホワイトヘッドは執事だからか、本心からか、主人の思いつきに深く頷き、賛成した。


 一見すると好々爺のようだが、眼光鋭く、体格も大柄で、或いは、荒事もこなすのかも知れない。


「偃老板は闘蟋のどこがお好きなんですか?」


 ふと聞いてきたのは、清だった。


「うーん、一言じゃ言えないかも知れません。闘蟋には色んな魅力がありますからね。でも今夜みたいにみんなで集まってやれば盛り上がるし、やっぱり単純に楽しいからやっているところもありますよ」


 偃師は、一番、素直な気持ちを答えたつもりだった。


「試合の勝ち負けにはこだわらない、そういう事ですか?」


 清はなぜか、不機嫌そうな顔で聞いてきた。


 偃師は闘蟋に対する価値観の違いが、こんな形で露わになるなどとは思っていなかったので、答えに窮した。


 考えてみれば、清は今晩、最も観客を沸かせる試合をしながら惜しくも敗北を喫し、その後も負け惜しみの類は一切、言わなかったが、内心、相当、悔しいのではないか。


 だとしたら、普段よりも神経質になるのは、仕方がないかも知れない。


「ミスター偃は、平和主義者という訳ですな」


 偃師と清の会話に入ってきたのは、ダッシュウッド卿だった。


「しかし、『血生臭いスポーツ』は、どちらが勝つか負けるか大金を賭ける、それが醍醐味だ。次回、集まる時は、私のクラブハウスに皆さんをご招待しよう。そこでイギリス式の『血生臭いスポーツ』を、心ゆくまで堪能して頂きたい。絶対に退屈はさせませんよ?」


ダッシュウッド卿は、自信満々の様子で言った。


「それじゃお言葉に甘えて、次回はイギリス式の『血生臭いスポーツ』でお手合わせを願いましょうかね」


 清は微笑みこそ浮かべていたが、偃師にはそれが作り笑いに感じられ、言い知れぬ不安を覚えた。


 本人に直接、聞いた事はないが、彼が負けず嫌いなのは、今日まで一緒に過ごす中で、薄々感じていた。


 ダッシュウッド卿との試合で、一度は勝利を掴んだはずが、なぜ、最終的には負ける事になったのか、事の真相を知ったら、ダッシュウッド卿に対して決闘さえ申し込みかねない。


「クラブハウスと言うのは?」


 偃師は清とダッシュウッド卿がこれ以上、緊迫した状態にならないように間に入った。


「私が主宰する〈ヘルファイアクラブ〉専用の集会所ですよ」


 ダッシュウッド卿は得意そうに言った。


「〈ヘルファイアクラブ〉?」


 偃師は思わず、聞き返していた。


 主宰者、ダッシュウッド卿の陽気な印象とは裏腹に、恐ろしげなクラブ名だった。


「左様! ミスター偃、次回は当クラブのお客様としてお会いできる事を楽しみにしているよ」


 ダッシュウッド卿は不敵な笑みを浮かべた。


「是非、機会があれば」


 今度は偃師が作り笑いをする番だった。


 偃師はダッシュウッド卿には何となく裏がありそうな気がして、お近付きになりたいとは思えなかった。


 実際、偃師の判断は正しかった。


 もし、この場にイギリスの歴史に詳しい者がいたら、彼の名前と、彼が主宰するクラブ名に、警戒心を抱いていたのではないか。


 なぜなら、『フランシス・ダッシュウッド』という人物は、十八世紀、イギリスのバッキンガムシャー州にも存在し、〝ダッシュウッド家の放蕩息子〟と言えば、地元では有名だった。


〈ヘルファイアクラブ〉という名の組織もまた、十八世紀、イギリスに生きたフランシス・ダッシュウッドが主宰する、夜毎、黒ミサを行い、悪魔を崇拝していたという、秘密結社の事だったのである。

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