第一章 龍姑娘 其の四、

 第一章 龍姑娘


 其の四、


 中国南方の奥地——石灰岩によってできた凸凹のカルスト地形で構成される恭丘山の麓に、〈応龍の一族〉の隠れ里はある。


 伝説にある〈応龍〉の眷属が住む隠れ里とは言っても、神仙境や桃源郷ではない。


 結界に守られている以外はどこにでもあるような里で、彼らは慎ましく質素な暮らしを営んでいた。


 だが、劉鳴凛にとってはこの世にたった一つしかない、生まれ故郷である。


 彼女はまだ子どもと言っていい年頃だったが、彼女の人生は〈龍幇〉が隠れ里を襲撃してきた時から、戦いに次ぐ戦いだった。


 劉鳴凛は血生臭い逃避行の中で、生まれ故郷で過ごした幸せな日々を、時々、思い出していた。


 彼女がもっと幼い頃の事、その夜は月明かりもなく、隠れ里は暗闇に沈んでいた。


 もうそろそろ、季節は夏だというのに、辺りはしんとしていた。


 いつもなら鬱陶しく飛び交っている羽虫も、突然、鳴き出す梟の姿も、不思議と見かけなかった。


 まるで、夜の底だ。


 まだ年端もいかない少女が、手にした提灯の灯り一つを頼りに、真っ暗闇を歩いていた。こんな人けのない夜道を歩いていたら、大の男でも不安に駆られる事だろう。


 代わり映えのしない暗闇に包まれた景色を見ていると、同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚に陥る。


 ふと立ち止まり、夜空を見上げると、星々は僅かに煌めくだけで、分厚い雲ばかりが広がっている。


 思い詰めたような顔をして天を仰いだのは、劉鳴凛だった。彼女の年相応の華奢で小さな身体にはしかし、〈応龍の一族〉の血がしっかりと流れ、普通の人間相手なら、大人にも負けない、身体能力を有している。


「阿鳴凛」


 彼女の名を呼んだのは、先を歩いていた、優しそうな顔をした中年の男性だった。


『阿』というのは、中国南部で、家族が子どもを呼ぶ時に、名前の前につける言葉である。


 彼の名は、劉王進りゅうおうしんという。


 劉鳴凛の父親であり、〈応龍の一族〉の党首だった。


「阿鳴凛?」


 劉王進は、不安そうな顔で空を見上げたまま返事をしない愛娘に、もう一度、声をかけた。


 娘が身に纏っているのは、〈応龍〉の刺繍をあしらった真っ赤な旗袍である。


 劉王進の目には、一族に生まれた女の宿命を考えると、鮮血に染まっているように見えたし、夜の闇は、目には見えない、鉄の鎖に縛りつけられているようにも感じられた。


 劉王進はふと思った——もしかしたら空を見上げた娘は、自由を求めているのではないか、と。


 と言うのも、劉王進は早くに妻を亡くし、劉鳴凛にしてみれば、早くに母を亡くした事になる。


 元々、〈応龍の一族〉には女性が少なく、劉鳴凛には母親代わりの女性もいなかったし、同い年の同性もいなかった。


 今日まで男手一つでどうにかやってきたつもりだったが、父親一人ではやはりどこかで無理が生じていたのかも知れない。


 実際、本当に娘に必要な事は、何一つやってあげられなかったのではないか。


 娘が本当に話したかった事も、聞きたかった事も、何もやってあげられないままに、ここまで来てしまったのではないか。


 思えば、一人娘に、料理一つまともに作ってやる事もできず、化粧の仕方はもちろん、草花の名前もろくに教えてやれず、不自由な思いをさせてきた気がしてならなかった。


 それ故、この子は、ここではないどこかに行きたがっているのではないか?


 なぜなら、〈応龍の一族〉の、それも本家に生まれた女は、鮮血に染め上げられたかのような真っ赤な旗袍とともに、辛く厳しい道程を歩んできた。


〈応龍の一族〉は人間の戦いに関わる事は、掟で禁じられている。


 では、掟を守ってきた隠れ里が平和だったのかと言えば、否だ。


 いつの時代、どんな場所であっても、戦い争い、諍いは生じる。〈応龍の一族〉も長い年月の中で、血で血を洗う戦いは皆無ではなかった。


 数少ない女を巡る、醜い争いなら、尚更、珍しくもない。


 ある時、〈応龍の一族〉の女は、男達の戦いに否応なしに巻き込まれ、武器を手に取らざるを得なかっただろう。


 またある時は、いやらしい男の視線に堪えかね、懐に小刀を忍ばせていただろう。


 またある時は、我が身を狙う男達が手ぐすね引いて待っている戦場に、秘めた想いを剣に託し、たった一人で赴いただろう。


〈応龍の一族〉に生まれた女達の、目には見えない時代時代の積み重ねが、知らず知らずのうちに、彼女の足取りを重くしているのかも知れなかった。


 劉王進の男の目から見ても、〈応龍の一族〉の隠れ里は女達の憎しみの炎に焼かれ、あちこち焦げつき、黒ずんでいるのだ。


 何しろ、この世に生を受けた事を恨み、女に生まれた我が身を悲しみ、『相柳の沼地』に身を投げたという女の話は、昔からよく聞く。


 ——だとしたら、私はこの子に対して何ができる? 父親である自分は何をすべきなのだろうか?


「父上?」


 劉鳴凛が、ようやく返事をした。


「空なんか見上げて、どうした?」


 劉王進は、不思議そうに聞いた。


「月明かりがないから、星明かりを頼りにしようと思ったの」


 劉鳴凛は朧空が広がる夜空を眺めて言った。


「星の光も微々たるものだし、それこそ道に迷ってしまうんじゃないかな」


「うん、あんまり真っ暗だから心配で——この先、どうやって歩いていけばいいのか」


 劉鳴凛は、恥ずかしそうに笑った。


 いくら父親がついているとは言え、やはり年端もいかぬ少女が、夜、出歩くのは、あまり気持ちがいいものではないのだろう。


 劉王進は再び天を仰いだ娘の横顔に、今は亡き妻の面影を見て微苦笑を浮かべた。


 劉鳴凛は蕾が花開くように、少しずつだったが、大人の女性になろうとしている。


「よし、いい機会だ。お前に星読みを教えてやろう」


「星読み?」


「星読みができるようになれば、今、自分がいる場所や行きたい方角を知る事ができるし、四季折々の星座には、色々な伝説や神話があるから、気になった星を調べるのも楽しいぞ?」


「はい。でも……」


「うん、何だ?」


「私にできるかな? もし、できなかったら……それにこの先、父上がいなくなっちゃったら、どうしよう?」


「大丈夫だよ、すぐに覚えられるから。第一、私は今もここにいるし、ずっとそばにいるからね。隠れ里に帰れば史進もいるし、みんなも待っている。ほら見てごらん、もうすぐ村に辿り着く。お前にも、みんなの家に明かりが灯っているのが見えるだろう?」


 劉王進はこれ以上、娘を不安にさせまいとして、優しく言った。


「大丈夫だよ。私はいつもお前のそばにいるからね」


 劉王進は紅葉のような娘の手を、何があっても放さないつもりだった。


「はい」


 と、彼女は素直に頷いたものの、なぜか浮かない顔をしていた。


「どうした?」


「……父上、ちょっと痛い。もうちょっと、ゆっくり歩こうよ」


 娘に申し訳なさそうな顔で言われ、はっとした。


 まるで夜の底にいるような真っ暗闇から一刻も早く抜け出そうとして、一番大切にしなくてはいけない彼女の歩幅を忘れていた。


「すまない」


 自分はいつまで経っても駄目な父親だと苦笑いを浮かべ、素直に頭を下げた。


 ——大丈夫だよ。


 ふいに脳裏に甦ったのは、凛とした女性の声音だった。


 ——私がぎゅうって抱き締めているから、大丈夫だよ。


 もう二度と会う事は叶わない、今は亡き妻の声だった。


 ——今はちょっとお休みして、また少しして元気になったら、ゆっくり歩こうよ。


「ちょっと休むか」


 劉王進は随分昔、半人前の自分に妻が温かい声をかけてくれた時の事を思い出し、優しく言った。


 娘は妻と似てきた切れ長の目で、じっと見つめてきた。


「ちょっと休んで、また少しして元気になったら、ゆっくり歩こう」


 劉王進は、いつも自分の事を見守ってくれていた彼女のように、優しい気持ちを込めて言った。


 自分の気持ちが娘に伝わったのか自信はなかったが、一人娘の手だけはしっかりと握っていた。

  

 ——何があっても、絶対にこの手は放さん。


 決して、放してなるものか。


 ——お前がいつも私の事を安心させてくれたように、今度は私がこの子にそうする番だ。


 この子は、私とお前の、愛の証なのだから。


「…………」


 劉王進は今は亡き妻がしてくれたように、娘の身体をぎゅっと抱き締めた。


「もうすぐお前の行きたいところに、みんなが待っているお家に着くからね」


 ——大丈夫だよ。


 劉鳴凛の脳裏に木霊したのは、母の言葉か、父の言葉か、それとも?


 彼女は恭丘山を登り、『相柳の沼地』の、目と鼻の先まで来ていた。


 たった一人で、濃い霧——瘴気が立ち込める、恐ろしげな湿地帯を歩いていた。


 もうすぐ、辿り着く。


 ——私がどうしても行きたい所、行かなければならない場所。


 我が身が骨も残らず溶けて消える毒の沼、『相柳の沼地』に。


 偃師は劉鳴凛に遅れて、中国南方の奥地、恭丘山は、〈応龍の一族〉の隠れ里に着いた。


 手首に嵌めた棗の腕輪の前には、隠れ里の結界も無意味に等しく、難なく歩を進める事ができた。


 先に行くにつれ、周囲は乳白色の霧に覆われ、瘴気が立ち込めているせいか、息苦しさを覚えた。


 いよいよ霧が濃くなり、目を凝らさなければ、一寸先も見えない。


 そのうち、何か腐ったような臭いがしてきた。


 ——地獄の釜が開いたか?


 偃師は、一歩、歩くごとに、死地に近づいているかも知れないと思い、苦笑いをした。


 実際、劉鳴凛が自分の死に場所と思い定めた場所であり、そこに行こうとした結果、史進が、〈龍幇〉が、何人もの人間が命を落とした。


 ここは、毒に塗れた土地だ。


 今度、命を落とすのは、自分かも知れない。


 偃師は正しく、死地に赴いていると言えた。


「それでもやりたい事が、やるべき事がある」


 自分に言い聞かせるように呟き、更に奥へと進むと、依然として乳白色の霧が視界に広がっていたが、鬱蒼と茂った木々はだんだんと少なくなってきた。


 やがて周囲の風景は、話に聞いていた通り、草木の一本も生えていない、荒涼とした大地に変化した。


 いや、


「ここが『相柳の沼地』、か?」


 偃師は緊張した面持ちになる。


 初めて目の当たりにした『相柳の沼地』は、まるで血の池地獄のように真っ赤に染まっていた。


 おまけにどこかに屍体の山が築かれているように、ひどく臭う。


 そのくせ、毒素のせいか、生き物の姿は全く見当たらなかった。


 ただ、沼地のあちこちに、偃師の身長と同じぐらいある、雪のように白い大輪の花が咲き誇っていた。


 不気味なぐらい赤い沼地の水をたっぷりと吸っているはずなのに、汚れひとつない真っ白な花が満開だった。


 血の池地獄のような沼地に、純白の花弁が彩りを添えた様はどこか浮世離れして、幻想的な景観をなしていた。


「…………」


 偃師はあの世に迷い込んだような気がした。


 名も知らぬ雪のような大輪の花も、まるで苦しみに喘ぐ人間の顔に見えた。


 ——あの子はたった一人で、こんな所にやって来たのか?


 偃師は呆然と立ち尽くした。


「劉先生!?」


 視線の先で、濃霧が僅かに揺らいだようだった。目を凝らすと、小柄な人影がぼんやり見えた。


「劉先生、そこにいるんでしょう!?」


 偃師は声も枯れよとばかりに叫んだ。


「——大哥!?」


 一呼吸置いて、劉鳴凛の声がしたが、なぜかしまったとばかりに、あっ、という声が聞こえた。


「劉先生!」


 偃師は一先ず彼女の無事を確かめ、ほっと胸を撫で下ろした。


 とは言え、安心するのはまだ早い。


 このまま何もせず手をこまねいて見ていれば、元も子もない。


「今すぐそっちに行きますから、絶対、早まった真似はしないで下さいよ!」


 偃師は霧の向こうに呼びかけるや否や、彼女の声がした方に向かって走った。


「大哥!? なんでこんな所に、大哥が!?」


 彼女は濃霧に隠れて姿こそ見えなかったが、信じられないという風に言った。


「そこにいて! 待っていて下さい!」


 偃師はそこら中に咲き誇った、薄気味悪いぐらい雪のように白い花を避け、霧の中を走った。


 上海租界での偶然の出会いからこっち、ずっと探し続けていた、少女の声が聞こえる方へと。


「劉先生……!」


 偃師はようやく、再会を果たした。


 劉鳴凛は血溜まりのような沼地に、その身を腰まで沈めていた。


「大哥」


 彼女は額から血を滲ませて、全身、青痣と擦り傷だらけだった。


 上等だった衣服はぼろ雑巾のように薄汚れ、沼地の毒であちこち溶けかかり、これまでの道程がいかに辛く厳しいものだったかを、如実に物語っていた。


 だが、彼女は雪のような大輪の花に囲まれ、なぜか晴れ晴れとした顔で微笑んでいた。


「劉先生?」


 偃師は晴れ晴れとした笑顔に只ならないものを感じた。


 その間も、『相柳の沼地』の毒によって、彼女の華奢で小柄な身体は溶け始めていた。


「私、大哥に会えてよかったです」


 劉鳴凛は笑顔で言った。


「だって、爺が死んで一人ぼっちになっても、大哥のお陰で、大丈夫って思えたから! だから、ここまで一人で戦って、なんとか生き延びる事ができました」


 まるで何かやり遂げたとでも言うように、すっきりした顔で言った。


「!?」


 偃師は直感した——あれは、死ぬ気だ。


「大丈夫だよ! もう、何も心配は要らないんだ! だから、この先もまた生きていこうよ!?」


 偃師はほとんど悲鳴を上げていた。


「…………」


 劉鳴凛は黙って、首を横に振った。


「……いくら謝っても取り返しがつくような事じゃないけど、私なんかが生きているばかりに、父上が、爺が、隠れ里のみんなが死んじゃった。この上、大哥まで死ぬような事があれば、私にはもう、どうしたらいいのか……だから」


 劉鳴凛は泣き笑いのような顔で言った。


「だから、死ぬのはもう、私で最後です。本当はちょっと怖いけど、大丈夫」


 劉鳴凛は、いったい、何がどう大丈夫だと言うのか、『相柳の沼地』にその身を沈めて、死ぬ気だった。


「…………」


 ——不出来な自動人形の自分でも、彼女に証明したい事、聞きたい事があったから、〈龍幇〉を壊滅させ、ここまで来た。


 ならば、ここで何をする?


 どうする?


「今すぐ、私もそっちに行きますから!」


 偃師は言うや否や、毒の沼に足を踏み入れ、彼女と同じように、腰まで浸かった。


「大哥!? なんて事を!?」


「劉先生は、私の事を死なせたくなかったんですよね? だったら見て下さい! 劉先生のやっている事は何の意味もないですよ!? だから、そこからさっさと出てきて下さい!」


 偃師は毒の沼の深みに嵌りながら、彼女の元に少しずつ近づいていき、すっと手を差し伸べた。


「やめて下さい! 大哥は人間なんですよ! これ以上入ってきたら、大哥の方が私よりも先に死んでしまいます!?」


「でも、今こうしなければ、劉先生が死ぬ事になる! そんな事、貴方のお父さんも、史進先生も、誰も望んじゃいませんよ!」


「……だって、そうしなければ、私の大切な人達はみんな、私のせいで、死んじゃうんだもの。みんな、殺されちゃうんだもの」


「私は絶対に死なないし、もう、誰にもそんな事はさせないよ!」


 偃師は彼女の事を安心させようとして真っ直ぐ目を見て言った。


「ううん! 私のせいできっと、大哥も死んじゃいます! 今までだってそうだったし、今も私のせいで、こんな事に!?」


 偃師の制止の声も聞かず、幼い子どものように涙を流しながら、いやいやをして、沼地の奥へと後退っていく。


 彼女の身体はじゅうじゅうと焼けるような音を立てて、瞬く間に溶けていく。衣服が消えて、皮膚が赤くなり、筋肉が見えるほどに剥げていく。


 劉鳴凛は覚悟を決めたようにその場に立ち尽くし、目を閉じた。


「大丈夫だよ——初めて会った時も、そう言いませんでしたか?」


 偃師の声はなぜか、頭の上から聞こえた。


「大哥?」


 彼女は、自分がいつの間にか偃師の腕の中に、まるでお姫様のように抱かれている事に気づいた。


「何も怖がる事はないし、不安に思う事もないからね。なんたって私は、壊れる事はあっても、死ぬ事なんかないんだから」


 偃師は『相柳の沼地』の赤い泥水で、髪の毛も、服も汚れていたが、涼しい顔をして言った。


『相柳の沼地』に、一旦、全身を沈めて、勢いをつけてから、彼女の身体を、鮮血のような汚泥の中から掬い上げたのだ。


「大哥……」


 偃師に抱かれた状態で、絶句するのも無理はなかった。


 偃師の青い長袍の胸の辺りは布が溶け、皮膚も溶け、内臓まで見えていた。だが、鋼鉄や木材で作られたと思しき大小様々な歯車やばねがぎっしりと詰まっていて、機械部品がまるで精巧な時計のように規則正しく動いていた。


 偃師は見た目こそ人間そっくりだったが、その実、人間ではなかった。


「そう、私は人間のふりをした自動人形……『大哥』なんて呼んでもらう資格はないんですよ。それでも、貴方に関わった誰もが死ぬ運命にある訳じゃないって、どうしても証明したくてね」


 偃師は今もお姫様を扱うようにして、彼女の事をしっかりと抱きかかえていた。


「まあ、貴方の力を私利私欲の為に利用しようとした〈龍幇〉は、壊滅させてやりましたがね」


 偃師は全身、あちこち溶けても、平然としていた。


 何しろ絡繰り仕掛けの自動人形なので、痛みなどないのである。


「大哥」

 劉鳴凛は不思議と恐怖心は湧かなかったし、それどころか目に一杯の涙を浮かべ、何度もこくこくと頷いた。


「そろそろ出ましょうか」


 偃師は優しく微笑んだ。


「大哥!」


 劉鳴凛は、緊張の糸が切れたのか、偃師にひっしと抱きついて、大声を上げて泣き出した。


「ここから抜け出したら、これから先の人生は、本当に自分の行きたい所に行きましょう!」


 偃師は劉鳴凛を抱いて、『相柳の沼地』から、一歩、また一歩、確実に抜け出していった。


「……でも、私にはもう、行く所なんかないし、行きたい所だって」


 偃師の言葉に天涯孤独の身になった事を意識したのか、俯きがちに言った。


「その事なんですけど、一つ聞きたい事があるんですよ。もし劉先生が上海まで来て、働くつもりがあるのなら——」


 偃師は自分の腕に抱かれながら思い悩む彼女に、ある提案をした。


『五色茶館』に、新しい顔触れが増えた。


 いつも愛想のいい笑顔を振りまき茶館を手伝っているのは、歳の頃なら十四、五歳ぐらいだろう、切れ長の目をした、凛々しい顔つきの少女だった。


 今や看板娘として可愛がられている彼女は、聞けば南方の奥地から荷物一つ持たずに出てきたのだという。


 偃師がなぜかそう呼ぶ事から、常連客からも同じあだ名で呼ばれている。


 少女のあだ名は、『龍姑娘ロンクーニャン』——あだ名の由来を知る者は、偃師を除けば誰もいない。


 彼女は天涯孤独の身だという話もあったが、茶館に身を寄せてからは、孤独に震える事もなく、安心して暮らしているという。

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