第一章 龍姑娘 其の三、
第一章 龍姑娘
其の三、
上海租界には、ここ二、三日、雨が降り続いていた。
上海はこの頃、中国政府が治める華界、フランスが治めるフランス租界、日本と各国列強が治める共同租界に分かれていた。
上海に行くにはパスポートもビザも要らず、租界は治外法権、それ故、犯罪が横行し、中でもフランス租界は阿片の取り締まりが緩く、多くの煙館が営まれていた。
『フランス租界』と一口に言っても、東部と西部とでは、大分、毛色が異なる。
東部は賑やかで活気がある下町といった雰囲気で、西部はそれこそ『東洋のパリ』さながら、瀟洒な雰囲気が漂う、高級住宅地が広がっていた。
上海随一の総合娯楽施設、『
〈青幇〉の首領、
とは言え、規制が緩いフランス租界では他では許されないような犯罪を犯したとしても、処罰が下される事もなければ、そもそも逮捕自体されなかった。
それ故、〈龍幇〉のアジトもフランス租界にあるのだが、史進はどうやって無数にある煙館の中からアジトを見つけたのか?
何の事はない。
煙館は数限りなくあるが、最近できた店舗と言えば、かなり数は絞られる。
〈青幇〉といざこざを起こしている所などそう多くはないから、その気になればすぐに探し出せるという訳だ。
無論、周囲を嗅ぎ回る事で目をつけられ、命を狙われる危険を気にしなければの話だが。
ここにもう一人、史進と同じ糸を辿って、フランス租界東部の無数にある煙館の中から、〈龍幇〉のアジトを見つけ出した者がいた。
男はなぜか、お祭りの時に先頭に立つ盛り上げ役の人間が被る張り子のお面、〝
〝大頭頭〟は人々が寝静まった夜、〈龍幇〉のアジトに、正々堂々、正面玄関から入っていった。
その上しかも、『五色茶館』を見張っていたはずの〈龍幇〉を二人、引きずりながら、である。
〝大頭頭〟にこてんぱんにやられたのか、〈龍幇〉は二人とも、ぐったりとしていた。
〝大頭頭〟は身長一七五センチぐらいで、青い長袍に紺色の馬掛を羽織り、右手の手首には腕輪が二つ、銅製の腕輪と数珠状の棗の腕輪を嵌め、やはり右肩から、分厚い布に包んだ長物を提げていた。
「何だ? うちは見世物なんか呼んでないぞ?」
〝大頭頭〟が煙館の中に入ると、店番らしき〈龍幇〉がすぐに気がついた。
〝大頭頭〟は店番が立つ帳場に向かって、引きずっていた二人の見張りを、一人ずつ、力任せに放り投げた。
「うわ!?」
店番が突然の事に動揺している間に、長物の包みを解く。
包みの中から取り出したのは、穂先が燃え盛る炎のように波打った一本の槍だった。
「この野郎、どこのもんだ!?」
店番は咄嗟に〈龍人〉に変身したが、あっという間に串刺しにされた。
〝大頭頭〟は、店番の断末魔の悲鳴を聞きつけて奥から現れた〈龍幇〉を次々と返り討ちにし、散歩でもするように進んでいく。
「この所、ずっとだな」
〝大頭頭〟は雷鳴を耳にして、なんだか胸騒ぎがして立ち止まった。
煙館の営業時間はとうに過ぎ、迷路のように入り組んだ廊下にお客の姿はなく、両側に並んだ個室から人の気配はしなかった。
「さっさと仕上げにかかるとしよう」
〝大頭頭〟はお祭りに使うお面を被っているせいか何となくひょうきんな印象を受けるが、彼が通り過ぎた後はなぜか何かが焼け焦げたような匂いがしてきて、歩いてきた後ろの方からは、〈龍幇〉の呻き苦しむ声が聞こえてきた。
「どうした? いくら〈龍人〉だなんだと言っても、所詮は紛い物か!?」
〝大頭頭〟は周囲に誰もいないというのに、挑発するような事を言った。
「下手な小細工は私には通用しないぞ!?」
〝大頭頭〟は廊下の突き当たりに向かって真っ直ぐ歩き、阿片の煙が染み付いた黄ばんだ壁で行き止まりだというのに、構わず歩を進めた。
「どこに隠れようが無駄だぞ、目眩ましなんて時間稼ぎにもならない」
〝大頭頭〟は案の定、黄ばんだ壁にぶつかったが、途端に黄ばんだ壁は蜃気楼のように揺らめき、掻き消えた。
幻の壁が消えた先には、煙館の細い廊下がまだまだ続いていた。
「どこに隠れようが無駄だって言っているだろう!」
〝大頭頭〟は個室から突然、〈龍人〉が鉤爪を振り上げて飛び出してきたので、穂先が炎の形をした槍で迎え撃った。
「てめえ、どこのどいつだ!?」
〈龍人〉は槍捌きに押されながらも、声を張り上げた。
「こっちも聞きたい事がある。混江龍はどこにいる?」
「誰がてめえに教えるかよ!」
「死ね!」
〝大頭頭〟の背後にある個室から、〈龍人〉がもう一匹、カーテンの向こうから姿を現し、襲いかかってきた。
「〈火尖槍(かせんそう)〉!」
〝大頭頭〟は不意打ちしてきた〈龍人〉に怯む事なく、穂先が炎のような形をした槍——〈火尖槍〉を向けた。
すると、〈火尖槍〉の穂先から、紅蓮の炎が噴き出したではないか。
「ぎゃあ!?」
一瞬にして〈龍人〉は激しい炎に包まれ、全身、黒焦げ、床に這いつくばって、ぴくりとも動かなくなった。
「そこ!」
〝大頭頭〟は次いで、今度は誰もいないはずの黄ばんだ壁に狙い定め、〈火尖槍〉の穂先から火炎を放射した。
これも〈応龍の一族〉に備わっているという神通力、特別な力による幻術なのか、カメレオンのように壁と同化していた〈龍人〉が一匹、姿を現し、がっくりと膝をついた。
〈龍人〉は火傷を負ったせいか、見る見るうちに人間の姿に戻っていく。
〈龍幇〉の首領、混江龍だった。
「やっと見つけたぞ、混江龍!」
〝大頭頭〟は目の前に跪く混江龍に、〈火尖槍〉を突きつけ、嬉しそうに言った。
「貴様、何者だ!? 何の為にこんな事をする!?」
混江龍は怒り心頭といった様子である。
当然だ、〝大頭頭〟の〈火尖槍〉で、〈龍幇〉の構成員は皆、黒焦げにされ、組織は壊滅的な打撃を受けたのだから。
「ご覧の通り、お祭りの賑やかしですよ」
〝大頭頭〟はからかうように言った。
「この辺で一つ、私から提案があります。貴方のお仲間はみんな黒焦げだ。もちろん、貴方方の生命力には凄まじいものがあるが、私の力をもってすれば殺すのは難しい事じゃない。それをしないのは、やっぱり皆殺しにするのは気が進まないし、時間もかかるんでね」
〝大頭頭〟は本題に入らず、勿体つけるように言った。
「お前の望みは、提案というのは何だ?」
混江龍は、〈火尖槍〉を額に突き付けられたまま、脂汗を浮かべて聞いた。
「一度しか言いませんよ……いいか、今後、〈応龍の娘〉には、一切、手を出さない事だ」
〝大頭頭〟は、噛んで含めるように言った。
「貴様、〈応龍の娘〉とどういう関係だ!? 貴様は、あの女をどうするつもりだ!?」
混江龍は〈応龍の娘〉という言葉を聞いた途端、〝大頭頭〟が何者なのか、今一度、問い質した。
「答えるべきは、『はい』か『いいえ』の二つに一つだ。それと、〈応龍の娘〉に追っ手を放っているのなら、今すぐここに呼び戻して——!?」
〝大頭頭〟が最後まで言い終える前に、混江龍が一瞬の隙をつき、右手だけを〈龍人〉のそれに変化させ、〈火尖槍〉を鋭い鉤爪で跳ね除け、襲いかかってきた。
「!?」
間一髪、鋭い爪の直撃は避けたが、その拍子に、お面を弾き飛ばされてしまう。
「き、貴様は!?」
混江龍は〝大頭頭〟のお面が弾き飛び、素顔を目にして驚いた。
〝大頭頭〟のお面を被っていたのは、『五色茶館』の老板、偃師、その人だった。
「貴様、なぜ、また私達の邪魔を!? いや、それよりも、〈応龍の娘〉をどこに隠した!?」
混江龍は矢継ぎ早に質問した。
「〈応龍の娘〉を隠す? 何の事ですか?」
偃師は身に覚えがないので、困惑した。
「しらばっくれるなよ、あの日の夜、私の部下から報告があったわ! 〝九紋龍〟の史進は野垂死にしたが、肝心要の〈応龍の娘〉は逃したとな!」
「…………」
偃師は史進の死を知って顔色が変わる。
——混江龍が言うように、史進先生が本当に死んだとして、劉先生は今も自害して果てる為に、たった一人で逃避行を続けているのか?
或いは、史進が今際の際に、本当は自殺などさせたくないという本心を伝えていたとしたら、彼女も心変わりをして、なんとか生き延びようとしているだろうか?
「…………」
そこまで考えてから苦笑いをした。
——真っ直ぐな性格の彼女の事だ、それはないだろう。
自分の身体に眠る〝応龍の神通力〟を〈龍幇〉が悪事に利用しようとしているのを知っていながら、生き延びようとする訳がない。
——きっと劉先生は今、中国南方の奥地、恭丘山にあるという、『相柳の沼地』に向かっているに違いない。
だとしたら、どうする?
どうすればいい?
「何がおかしい! さっさとあの小娘をどこに隠したのか言え! さもなければ、地獄を見る事になるぞ!?」
混江龍は火傷を負った〈龍人〉達が回復し、駆けつけてきたのを見て、また強気を取り戻した。
「性懲りもない人達だな」
偃師は〈火尖槍〉の穂先から紅蓮の炎を発射した。
「どうした! 〈応龍の一族〉は、強靭な生命力が取り柄だったんじゃないのか!?」
偃師は激しい炎に焼かれた廊下を見て、混江龍達を挑発した。
「貴様のような人間の若造に、あの小娘が持つ〝応龍の神通力〟を渡してなるものか!」
混江龍には偃師が劉鳴凛を純粋に助けようとしているという考えは、これっぽっちもないらしい。
とは言え、偃師は一度は史進の頼みを断ったはずなのに、なぜ、〈龍幇〉のアジトを襲撃したのか?
「私はあの子を自分のものにしようだとか、〝応龍の神通力〟を手に入れようだとか、そんな事は考えていませんよ。ただ、ちょっと証明したい事が——」
「ならば貴様はいったい何の為に、その身を危険に晒してまでこんな事をしているというのだ! 貴様もあの娘が持つ〝応龍の神通力〟を利用し、絶大な権力と巨万の富を手中に収めようとしているんだろう、違うかッ!?」
混江龍は最後まで偃師の話を聞かずに、まくし立てるように言った。
「私はあの子にちょっと証明したい事と、聞いてみたい事があるだけですよ」
偃師は鼻からこうと決めてかかっている混江龍に対して、苦笑いを浮かべた。
「かかれ!」
混江龍は偃師の答えなど初めから聞くつもりなどなかったように、〈龍人〉達に号令をかけた。
「何度やっても無駄ですよ!」
偃師は〈火尖槍〉から火炎放射器のような激しい炎を放ち、〈龍人〉達を薙ぎ払った。
すると、混江龍は偃師達が戦っている脇をすり抜け、逃げ出した。
「この期に及んで、自分一人だけ逃げるか!」
偃師は〈龍人〉達を一掃し、一計を案じた。
「おい、そこの〝蛇野郎〟! あれだけ偉そうな事を言っておきながら、自分一人だけ逃げるのか!?」
偃師が語気荒く言った瞬間、混江龍はぴたりと足を止めた。
「……蛇、だと?」
怒りに肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
「ああ、蛇だよ! あんたは伝説にある、〈応龍〉の末裔なんかじゃない! 地べたを這いつくばる、薄汚い蛇野郎だ!」
偃師はかかったなと言う顔をして、混江龍を口汚く罵った。
自分が〈応龍の一族〉だという事に、自尊心を高く持っている混江龍の事だ。
その辺をつけば、気を引く事ができるのではないかと考えての事だったが、思った通りだった。
「決して伝説にある、誇り高い〈応龍〉の眷族なんかじゃ——!?」
偃師がそこまで言った時、混江龍の〈龍人〉のそれに変化した鋭い爪が、鼻先まで迫ってきた。
「おっと!?」
偃師は造作もなく避けた。
「おのれえ、ちょこまかと!」
混江龍は怒りに任せて、鉤爪を何度も振り翳した。
「貴方が判りやすいだけですよ!」
偃師は難なくよけて、軽口を叩く。
「死ね!」
混江龍は偃師の喉元を狙い、鉤爪の突きを入れた。
「!?」
偃師は〈火尖槍〉で喉元を庇い、鉤爪の直撃だけは避けたが、受け止めきれず槍を取り落とした。
再度、同じ場所を狙い、混江龍が攻撃を仕掛けてきた。
偃師は今度は己の右腕を差し出して、鉤爪を防いだが、まるで何か、硬いもので受け止めたような音がした。
おまけに、鉄か、木の欠片のようなものが飛び散ったように見えた。
だが、偃師が右手の手首にした銅製の腕輪や棗のそれが、混江龍の鉤爪を運よく弾いたという訳ではなかった。
「な、何だ!? その腕は!?」
混江龍は偃師の右腕を見て、思わず叫んでいた。
今さっき自分が切り裂いた偃師の右袖から覗いていたのは、傷つき血に塗れた右腕ではなかった。
「その片腕といい、妙な武器の数々といい、き、貴様は……!?」
混江龍はまだ名前も知らない謎めいた青年を前にして、ごくりと生唾を飲んだ。
「貴様は、何者だ!?」
どこからどう見ても、人間にしか見えなかったが、絶対に人間ではない。
混江龍の耳には先程から歯車やばねがぎっしりと詰まった時計が規則正しく動くような、機械的な作動音が微かに聞こえていた。
「実は私自身、よく判っていないかも知れませんよ」
当の本人である偃師は何が楽しいのか、笑顔を浮かべていた。
「ふ、ふざけやがって!」
「確かに私は生まれつきそういうところがあるみたいで、前にも一度、公の場で調子に乗って、その時、仕えていた主人に迷惑をかけた事がありましたよ」
偃師は自嘲気味に言った。
「ちぃ、何を訳の判らん事を! まあいい、人間じゃないのなら、手加減無用という事だな! 〈龍人〉の力、思い知らせてくれる!」
「あれで手加減してくれていたんですか? お優しい事で。でもね——私には最初っから、貴方方と真っ向からやり合うつもりなんかないんですよ!」
偃師は床に落ちた〈火尖槍〉をさっと拾い上げると、煙館の天井や廊下、四方八方に向かって、紅蓮の炎を発射した。
「血迷ったか、貴様も死ぬぞ!?」
混江龍の言う通り、このままでは何もかも炎に巻かれ、燃え尽きてしまう。
「生憎、私は〈霊符〉に護られてましてね」
偃師は右手にした数珠状の棗の腕輪を見せつけ、にやりと笑った。
霊符は紙に限らず、特殊な文字や図形が書き記された呪物であり、天災や人災を断り、邪を払い、病魔にも効果を発揮すると言われている。
棗の木でできた玉にはびっしりと細かな彫り物がなされ、これが偃師を守護してくれているらしい。
〈龍人〉達を相手にほとんど手傷を負っていないのも棗の腕輪が効果を発揮していたのか、今も燃え盛る炎は嘘のように偃師を避けていた。
「こ、こいつを殺せ! いや、今すぐ壊せ!」
混江龍自身、偃師に飛びかかろうとしたが、時すでに遅し、炎の回りは早く、煙館はがらがらと音を立てて崩れ始めた。
混江龍達は折悪しく天井が落ちてきて足止めを食ったところに、〈火尖槍〉の穂先から放たれた火炎放射をまともに食らい、まるで地獄の業火のような炎に、あっという間に飲み込まれた。
「……く、くそ! 混江龍様に、〈エス機関〉に早く知らせなければ……!」
混江龍は炎に焼かれ、瓦礫に埋もれながら、うわ言のように言った。
次の瞬間、燃え盛る炎が混江竜の顔を舐めると、その顔は、混江龍と似ても似つかぬ男のそれだった。
偃師は知る由もなかったが、混江龍の影武者を務める、幻術の能力を持つ〈龍人〉、翻江蜃(ほんこうしん)という男だった。
すでに混江龍は煙館から、一足先に逃げていたのである。
「……よし、これで劉先生は晴れて自由の身だな」
偃師は炎上した煙館からいち早く脱出し、野次馬に紛れて焼け落ちていく様を眺めていた。
時刻は早朝、近隣住民の誰かが呼んだのだろう、消防車も何台か到着した。
いかに〈龍人〉と言えども、あれだけの火災と瓦礫に埋もれてはどうにもならないだろう。
例え黒幕がいたとしても、ここまで組織が壊滅状態になっては、再編成する事はできまい。
「休んでいる暇はないな」
偃師は自分が引き起こした火事の現場を尻目に、駅に向かって歩き出した。
鉄道に乗り、旅の果てに向かうは、中国南方の奥地、恭丘山にあるという、『相柳の沼地』である。
なぜなら、『相柳の沼地』に浸かる事で自害して果てようとしている劉鳴凛に、〈龍幇〉の壊滅を知らせなければ、何の意味もない。
その上、彼女には、追っ手がかかっているかも知れないのだ。
だが、偃師は一度は史進の遺言のような頼みを断ったはずなのに、どうしてここまでする気になったのか?
偃師が彼女に対して証明したい事、聞いてみたい事とは何なのか?
今や〈龍幇〉は壊滅し、首領の混江龍もどこかへ逃げ出し、問いかける者は誰もいなかった。
偃師もまた、フランス租界の雑踏に姿を消した。
『上海神農堂医院』——共同租界の片隅にある、漢方を専門とする小さな病院である。
『上海神農堂医院』の漢方医の本名は、近隣住民も、患者も、不思議と知らなかった。
彼の素性について、誰も気にしていないという方が正しいかも知れない。
歳の頃なら二十代前半といったところか、丸縁の眼鏡をちょこんと鼻にかけた、優しそうな顔をした青年である。
彼は、中国人かも知れないし、日本人かも知れない。
中国語はもちろん、日本語、英語も流暢に喋れるが、今までどこにいて、何をしていたのか、誰一人知らなかった。
馴染みの患者からは、誰がいつから呼び始めたのか、『
清はどんなに怪しい人間だろうと、診察代さえ払えば患者として扱った。
要は闇医者のような事をしていたのだが、お金に汚いのかと言えばそうではない。
相手がどこの国の人間でも、例え犯罪者でも診察をするが、診察代は、良心的なものだった。
周りからすれば、それだけ判っていれば充分だった。
あえて素性を詮索する者もいないし、反感を持つ者もおらず、『清大夫』などと呼ばれ、地元の住民にすっかり馴染んでいた。
『上海神農堂医院』はすでに看板を下ろし、夜も更けていたが、清は白衣を着たまま、診察室で来訪者と向き合っていた。
「こんな時間にどうしたんですか?」
診療時間はとうに終了していたが、いつものように椅子に座って笑顔で言った。
「そうそう、近々うちに連れてくるはずだった、〈応龍の娘〉はどうなりました?」
清が相手にしているのは、なんと、〈龍幇〉の首領、混江龍だった。
「そ、それが先日、〝九紋龍〟の史進の手引きでアジトから脱走した〈応龍の娘〉を、史進ともども、街中で発見したまではよかったんですが、偶々出くわした妙な男に邪魔されまして。今夜もその男の襲撃を受けて、総出で迎え撃ったんですが、今頃は、もしかしたら……」
混江龍は冷や汗をかき、言い淀んだ。
「で、〈龍幇〉の首領ともあろうお人が、自分一人だけおめおめと逃げてきたんですか? その上、私に助けを求めにきたと?」
清は柔らかな物腰こそ崩さなかったが、混江龍に向けた眼差しには、温かみなど欠片も感じられなかった。
「い、いえ、それは」
混江龍は答えに詰まったが、清は机の上にあるカルテに視線を落としただけで何の反応も示さない。
「奴は昔話に出てくる仙人や道士が持っているような不思議な武器を使うんです。宙に浮いたまま無数の熱線を放つ煉瓦や、穂先から火を放つ槍、考えようによっては、奴は〈応龍の娘〉よりも……」
混江龍は自分達の邪魔をし、アジトまで襲撃してきた相手が、いかに手強いかを訴えた。
「考えようによっては〈応龍の娘〉よりも、何だって言うんですか?」
清は興味が湧いたのか、僅かに視線を上げた。
「は、はい、〈応龍の娘〉よりも価値があるかも知れません。奴が持っている不思議な武器は、軍事利用できるかも知れませんし……」
「深く考えもせず、思いつきでものを言うもんじゃないよ。まさか、忘れたとは言わせないよ。『応龍国建国計画』の要である、『〈龍人兵〉製造計画』の最重要研究対象、それが〈応龍の娘〉だ。その能力は、天候を操るという神にも等しい力だよ? それ以上に価値があるなどと……」
清は辟易したように言った。
「確かに、彼の持っている武器は軍事利用できるかも知れない——〈金磚〉、〈火尖槍〉。だが、所詮、対人兵器だ。天候操作に比べれば、たかが知れている」
清の口ぶりは、混江龍の言う『奴』がいったい誰の事なのか、よく知っているようだった。
「あ、あの男の事を、知っているのか?」
混江龍は清があの妙な男の素性を知っているなどとは思わず、驚きのあまり、普段の居丈高な口調に戻っていた。
「私はこれでも特務機関の機関長だよ?」
清は当たり前だと言わんばかりだった。
特務機関——日本陸軍の、暗殺、諜報、工作を行う、特殊な組織である。
「それも、数ある特務機関の中でも、非常に特殊な、君達、妖怪変化や魑魅魍魎から政府の重要人物や一般の日本人を守る事を目的とし設立された、『エス機関』のね」
つまり、〈龍幇〉の裏で糸を引いている黒幕は、この丸縁の眼鏡をかけた小柄な青年、清、という事になる。
「君達〈応龍の一族〉を研究し、〈龍人〉になれる血清を作り出したのも、こちらの科学力があってこそだし、私達の力はすでに承知しているものとばかり思っていたけどね。ところで君は任務の途中のはずだが、いつまで油を売っているつもりかな?」
清は嫌味ったらしく言った。
「私はここに〈応龍の娘〉を連れてこいと言ったはずだぞ? 例え〈龍幇〉が壊滅し、君一人になったとしても、約束は果たせよ」
清は平然とした顔で言った。
「そ、そんな、私一人で?」
混江龍は戸惑いの色を隠せなかった。
「応龍国を建国し、皇帝になろうという男が、どこの馬の骨とも判らない相手に怖気付いているのか? いいだろう、少し情報を与えよう。彼は確かに、普通じゃない。不思議な力を発揮する武器も古めかしいものなら、彼自身も骨董品だしね」
清は思わせぶりな事を言った。
「骨董品?」
混江龍はどういう意味だろうと、訝しげな顔をした。
「そう。だから、彼と戦う時は人間を殺すつもりじゃなく、ものを壊すつもりで戦った方がいいかも知れないね。そうだな、突き刺したりとか、斬ったりするんじゃなくて、叩き壊すという感じかな?」
清は『骨董品』との戦いを想像しているのか、何かものを叩くような仕草をして言った。
「…………」
混江龍は清の話を聞いていて、あの男には自分達が束になっても敵わなかった理由が、なんだか判った気がした。
今もまだその正体ははっきりしなかったが、要するに自分達、〈応龍の一族〉と同じか、それ以上に、人間とは異なる存在だったという訳である。
「うん、どうした? 行かないのか?」
清は混江龍が呆然と立ち尽くしているのを見て、不思議そうに聞いた。
「し、しかし、私だけでは……!」
混江龍は困ったように言った。
この広い中国で、自分一人だけで、どうやって〈応龍の娘〉を探し出し、あの不思議な武器を使う謎めいた青年を相手に戦えというのか。
「なら、仕方ない。この辺で用済みだな」
清はため息交じりに言った。
「何?」
混江龍は思わず聞き返した。
「私は約束を守らない人間が、人一倍嫌いなんだ。約束を果たす気がないのなら、用はないよ」
清は野良犬でも追い払うように、片手でしっしっとやった。
「お、俺は、〈応龍の一族〉だぞ!? 世が世なら、貴様ら、人間の力なんか借りちゃいない! 逆に貴様ら人間どもに味方し、神々と戦い争った、伝説の竜の末裔! 応龍国を興した暁には、その玉座に座る事になる男だ!」
混江龍はついに激昂し、堰を切ったように叫んだ。
「だから何だ? 大事なのは信頼に足るかどうかだ」
清は眉一つ動かさずに言った。
「い、言わせておけば! たかが人間風情に何ができる!?」
混江龍は〈龍人〉に変身し、清が座るカルテが広げられた木製の机を、叩き壊した。
曲がりなりにも〈龍幇〉の首領というだけあって、他の者に比べて龍としての印象がより強い外見をしていた。
それこそ大型の肉食恐竜を思わせ、全体に逞しい体つきで、爪も牙も大きく鋭いものだった。
「よし、賭けをしようじゃないか? 君が勝てば、〈応龍の娘〉を捜索するのにも、協力は惜しまない。だが負けた場合は、私の前から、上海から消えろ。悪くはないだろう、勝っても負けても命までは取られないんだからな——
清は混江龍が今にも襲いかかって来そうな殺気を放っているにも関わらず、診察室の外、受付がある待合室に声をかけた。
「…………」
清に対して返事もせず、黙って扉を開けて診察室に入ってきたのは、骸骨のように痩せた身体を白衣に包んだ、陰気な青年だった。
清の助手らしき、高野と呼ばれた青年は、自分を警戒する混江竜の横に、何も言わずに並んだ。
「彼は私の直属の部下で、高野という。約束しよう、君が高野君と戦って勝てば、〈応龍の娘〉の捜索に協力しようじゃないか」
清が言うや否や、混江龍は雄叫びを上げて高野に飛びかかった。
「はっはっは、やる気充分だな」
清は機嫌がよさそうに笑って、戦いの行方を見守った。
「殺してやる!」
混江龍は高野の脳天に鉤爪を振り下ろした。
「…………」
高野は何の躊躇いもなく、右手で、素手で、混江龍の鉤爪を受け止めたが、当然の如く、右手はぱっくりと裂けた。
次いで混江龍は高野の左腕を鷲掴みにして、まるで蟹の足のように引っこ抜いた。
「くっくっく!」
清は混江龍が一方的な戦いを繰り広げているというのに、これは愉快とばかりに笑っていた。
「何がおかしい!? 見ろ、こいつの命は風前の灯だぞ!?」
混江龍は高野を軽々と頭の上まで抱え上げ、壁に向かって放り投げた。
診察室の壁に容赦なく叩き付けられ、ぼろ雑巾のように床に倒れ込む。
だが、次の瞬間には、何事もなかったかのように立ち上がった。
「こいつ!?」
混江龍はどれだけ痛めつけても悲鳴一つ上げない高野に対して一瞬怯んだが、すかさず首を絞めにかかった。
「…………」
高野は混江龍に首根っこを掴まれ、床から足が浮いていたが、呻き声一つ上げず、平然とした顔をしていた。
「——今から千年前、日本の、平安時代の事だ」
清は脈絡もなく話し始めた。
「高野山の僧侶が、花や月の情緒を分かち合う相手が欲しいと、山で野垂死にした人骨を集めて、話し相手を作る事にした。だが、完成したそれは、残念ながら容姿は醜く、声音も壊れた楽器のようだったという」
清は今この瞬間にも、高野の息の根が止められようとしている時に、淡々と話した。
「人骨から作られた人間だと!?」
混江龍はなぜかはっとし、自分が首を絞めている相手を確かめた。
「ば、莫迦な!?」
混江龍はそこで、今更ながら気づいた。
高野はいくら鉤爪で身体中を引き裂き、片腕をもいでも、一滴も血を流していないという事に。
「こいつ、まさか!?」
混江龍は、自分自身、伝説にある〈応龍〉の眷族でありながら、にわかには信じられなかった。
この高野という男は、本当に清が言うような存在なのか?
「いくら〈応龍の一族〉でも、最初から死んでいる者を殺す事はできまい?」
清は混江龍が驚いているのを見て、北叟笑んだ。
「き、貴様らは、いったい!?」
混江龍は、清に、そして、高野に、言い知れぬ恐怖を覚えた。
丸縁眼鏡の奥にある黒瑪瑙を思わせる瞳は一段と深みを増し、彼からもまた、人ならざる気配が感じられた。
「……!?」
混江龍は暗闇を湛えた二人の双眸にじっと見つめられ、本当の所、いったい、彼らが誰か、何なのか考えた。
清は不敵な笑みを浮かべて椅子に座っていた。
自分が渾身の力を込めて首を絞めている高野はどうかと言えば、何も感じていないかのように、涼しい顔をしている。
「さあ、どうする、どう出る? 最後まで頭を使い、力を振り絞って戦うか! それとも、賭けをふいにして、私に襲いかかってくるか? はたまた、全てを捨ててここから逃げ出すのかな? いずれにしても、楽しませてもらおうじゃないか!」
清は楽しそうに言って、高笑いをした。
「東洋鬼(トンヤンクイ)が何を偉そうに! さっきから大人しく聞いていれば、出鱈目ばかり言いやがって!?」
混江龍は怒り心頭だったが、得体が知れない恐怖を感じて、清に手を出すのは躊躇われた。
かと言って、同じように不気味な高野も、これ以上、相手にしたくない。
清の言った通り、高野が本当に最初から死んでいるとしたら、とどめも何もあったものではない。
が、本当に死んでいたとしても、作り物なら、粉々に破壊すれば、勝ち目はあるのではないか?
「出鱈目だって? そいつは心外だな。君の国にも同じような伝説はあるはずだし、第一、君は実際に会っているじゃないか」
清に遠回しに指摘されても、混江龍はぴんと来なかった。
「この国の伝説に語られている彼は、今は共同租界で茶館を営みひっそりと暮らしている。君の邪魔をしてきた、彼だよ」
清は先日、〈応龍の娘〉を手助けし、今晩、〈龍幇〉のアジトを襲撃したあの妙な男も、人間とは異なる存在なのだと、仄めかした。
「あ、あいつが!? あいつも、この高野という男と同じ……!?」
混江龍はこの国に伝わる、自動人形の伝説を思い出した。
伝説は、こんな始まりだったはずだ。
周の穆王の時代、ある細工師が自作の自動人形を、穆王の元にお披露目しに来た、と。
細工師の名前は、確か——?
「その話が本当だとしたら、俺はいずれ、この国の新たな皇帝になる男だ! どいつもこいつも、人間のふりをした人形なら、伝説にある通り、ばらばらに分解してくれるわ!」
混江龍は高野を投げ捨てると、清に襲いかかった。
「やっぱり、約束を守る気はないんだな。それに、全くもってつまらん権力志向だ」
清は混江龍の振り下ろしてきた鉤爪を、席から立って難なく避けた。
「まあ、少しは楽しませてもらったよ。自分の欲望に突き動かされるままに隠れ里を抜け出してきた君のお陰で〈応龍の一族〉の存在を知る事ができたし、君達、分家の血でも、『〈龍人兵〉製造計画』は、一定の成功を見た。いい暇潰しになったよ」
清は混江龍の攻撃を避けつつ、平然とした顔で言った。
「さようなら」
と、混江龍にそっと重なるように身を寄せ、彼の耳元で、別れの言葉を口にした。
「がはっ!?」
その途端、混江龍は苦悶に満ちた表情を浮かべ、ぴたりと動きを止めた。
ちょうど清に抱き締められたような格好になった混江龍の左胸は、清の手刀によって穿たれていた。
清の透明な触手のように変化した右手に左胸を貫かれ、生きたまま心臓を抜き取られ、次の瞬間、糸が切れた操り人形のように床に倒れ込み、二度と起き上がってくる事はなかった。
「後始末は頼んだぞ」
清は右手にどくんどくんと脈打つ心臓を握り締めたまま、高野に言った。
「あの自動人形についてはどうしますか? 早急に身柄を拘束し、何の目的があって我々の計画を邪魔したのか吐かせますか? それとも?」
高野は初めて口をきいたが、表情というものがない顔から想像できる通り、抑揚のない冷たい口調で、壊れた楽器のように耳障りな声をしていた。
「いや、わざわざ南方の奥地にまで行く気にはなれないな。しばらくは新しい机でも買いに行って、また茶館が開くまで待っているとしよう」
清は押し入り強盗でも入ったように机が粉々になり、壁や床に鮮血が飛び散った診察室を見回し、のんびりした顔で言った。
「茶館が開いたら、彼がどんな目的があってこんな事をしたのか、直接、調査しようじゃないか」
清は混江龍の心臓を手にしたまま再び椅子に座り、雷雲が唸る窓の向こうを見た。
「了解しました」
高野は右手は裂け、左手はもがれ、全身打撲もしているだろうに、顔色一つ変えずに返事をした。
ぱっくり裂けていながら一滴の血も出ていない右手に、人間に戻った混江龍の屍体を引っかけて、ずるずると引っ張って別室に運び込む。
「偃師、か——これより楽しませてくれるといいんだけどな」
清は不定形なゼリーを思わせる右手で、混江龍の心臓をごみ箱にぽいと投げ捨てると、酷薄な笑みを浮かべた。
『上海神農堂医院』には、まともな人間は一人もいなかった。
上海租界にはそもそも、まともな人間など一人もいないのかも知れない。
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