第一章 龍姑娘 其の二、

 第一章 龍姑娘ロンクーニャン


 其の二、


 一八六三年、スコットランドの庭師が設計し、『中国人と犬は入るべからず』と記された看板が立っていたここも、現在は解放され、人々の憩いの場になっている。


 共同租界、外灘(バンド)の北端に位置する、鉄柵と夾竹桃で囲まれた、『黄浦公園パブリック・ガーデン』。


 夜の帳が下りた黄浦公園には、あちこちで電灯が煌々と輝いていた。


 偃師は、公園の片隅、電灯の近くに備え付けられた長椅子に座って、一息、ついていた。隣には史進が座り、史進の傍らには少女が横になり、すやすやと寝ている。


「ここまで来ればもう大丈夫でしょう」


 偃師は史進を安心させるように言った。


「もし連中に見つかったとしても、人目がある。そんな派手な真似はできないはずですよ」


「お陰で命拾いをした。お嬢様に変わってお礼を言わせてくれ、ありがとう」


 史進は昼間の乱闘騒ぎで疲れ切っているのか、電灯が作り出す陰影のせいか、げっそりしているように見えた。


「このご時世、せめて同じ国に生まれた者同士ぐらい、仲よくやりたいですからね。ついでに近所の病院まで案内しましょうか?」


 偃師はなるべく、気を使わせないように言ったつもりだったが、返事はなかった。


 いや、


「必要ない」


 史進は素っ気なく答えた。


「じゃあ今度やって来た時は、是非、うちの店に寄って下さいね。歓迎しますよ」


 偃師は立ち上がり、返事を待つまでもなく、出口に歩き出した。


 まあこの辺が引き際だろう、親切も度を過ぎればお節介になる。


 第一、これ以上深く関われば、厄介事に巻き込まれるのは想像に難くない。


「偃老板」


 だが、史進が立ち上がり、声をかけてきた。


「……もしかしたら、偃老板になら判ってもらえるかも知れない」


 偃師が振り返ると、史進は深刻そうな顔をしていた。


「——こちらにいらっしゃるのは、〈応龍の一族〉、劉家の一人娘、劉鳴凛りゅうめいりん様だ」

 史進は長椅子に寝そべっている少女、劉鳴凛の事を起こさないように、静かに言った。


「貴方は?」


 偃師は元いた場所に座った。


「儂は劉家に長年仕えている、ただの使用人だよ」


 史進も再び長椅子に腰掛ける。


「劉家は随分、頼もしい使用人を雇っているんですね」


 偃師は少し笑ったが、劉鳴凛が起きる気配はなかった。


「茶化さんでくれよ……その名の通り、〈応龍の一族〉は神話に登場する〈応龍〉に連なる一族で、今となってはその血は薄れてしまったが、未だに普通の人間にはない特別な力が備わっている。本家の、それも数が少ない女性なら、尚更な」


 史進は複雑な表情を浮かべて、劉鳴凛の寝顔を見やる。


「例えば、普通の人間よりも頑丈な身体、高い自然治癒能力、本家筋の人間なら、それこそ神通力とも言うべき、特別な力を持った〈龍人〉に変身する事ができる」


「——昼間の連中は、〈龍幇〉は本家筋なんですか?」

「連中は分家筋だよ。本来、変身能力も、それに付随する神通力とも言うべき、特別な力も持ってはいない」

「それじゃ、彼らはなぜ?」

「自分達だけで何とかしたのか、誰かの力を借りたのか、はっきりした事は判らないが、いつの間にか〈龍人〉の力を手に入れていたのだよ。しかしこんな話をしてもすんなり受け入れてくれるとは、やはり只者ではないな」


「またそんな大袈裟な。そういう伝説や昔話は、どこの土地にも何かしらあるじゃないですか」


 偃師は苦笑いを浮かべた。


「残念ながら、れっきとした事実だよ。我々、〈応龍の一族〉が隠れ里の外で、無闇に力を振るう事はなかったから、世間に知られる事はなかったがね。神話の時代、〈応龍〉が人間の黄帝に味方し、天に昇れなくなってから以後、人間の戦いには関わってはならないという掟があるのでな」


「できれば、同族争いを禁じる掟も欲しかった所ですね」


「同感、だ。我ら一族は下界と隔絶している上、女性の数が少ないから人口も少ない。だから特別な力があったとしても、仲間を失うような戦争は避けたいと考え、日々、穏やかに暮らす事を望んできた。どこから嗅ぎつけて来るのか、たまに各国の諜報機関が隠れ里の調査に乗り出して来る事はあったが、結界に阻まれ、正確な場所を知る事すら叶わん。だが、〈龍幇〉は同胞だ。いくら結界に守られていたとしても、中から襲われたらどうしようもない。奴らはお嬢様のお父上だけでなく、自分達の言う事をきかない者も、一人残らず、その手にかけた。それだけでは飽き足らず、劉家、最後の生き残りである、お嬢様の事も狙っているという訳だな」


 史進は深々とため息をついた。


「いわゆる、御家騒動、派閥争いってやつですか」


「ああ、身内の恥を晒すのは心苦しいがね」


「実際、〈龍幇〉はどんな組織なんですか。せっかく、本家を追い落としたっていうのに、なんでまたわざわざ、上海租界なんかに?」


「秘密結社、〈龍幇〉。活動目的は、『応龍国の建国』だというが、首領である混江龍を始めとして、連中は皆、一族の傍流。本来なら普通の人間と大して変わらない者達が作った、黒社会の組織だよ。隠れ里を出た後、連中はここ上海で〈青幇〉の縄張りを荒らし、阿片を売り捌いて資金源にしているが、ろくに隠れ里から出られない一族の人間にしては、手並みが鮮やかすぎる」


「いつの間にか〈龍人〉の力を手に入れていた事といい、連中だけでできる事ではない、と?」


「その通り。まず、〈龍人〉の力をどうやって手に入れたのか? 次に、〈青幇〉の阿片を奪うのは、〈龍人〉の力でどうとでもなるとして、奪った阿片を市場に流す流通経路は、誰がどうやって確保したのか? 隠れ里の出入りは、そこに住む人間にしても自由ではない。成人を迎えた者が大人になる為の通過儀礼として下界に行くか、一年ごとに世相の調査をしに行く時ぐらいで、詰まる所、一族の人間は下界に疎い。なのにこれだけの事をするのは、ちょっと難しいだろう」


「誰かが協力している、裏で糸を引く黒幕がいるという事ですか?」


「そのお陰で、混江龍達は〈龍人〉に変身する事ができるようになり、組織の運営もできるようになった、と儂は考えている。今も尚、魔都、上海で暗躍する、〈龍幇〉は、正真正銘、化け物の群れだ。旦那様のお命を守れなかった儂は、せめてお嬢様だけはと思っていたのだが……情けない事にこの体たらく」


 史進は自嘲気味に笑った。


「それにしてもいくら本家の生き残りとは言え、貴方方、子どもと老人二人に、なぜ、混江龍は自ら出張ってまで、躍起になっているんですか?」


 混江龍は隠れ里を壊滅させ、本家の人間も劉鳴凛以外は、全員殺害したようだし、今更、自ら手を下す必要などないのではないか。


 いかに本家最後の生き残りとは言え、たかが子どもと老人、後始末は誰かに任せてもよかろう。

 

 組織の首領としてやるべき事は、他にも色々とあるはずだ。


「奴らはどうしてもお嬢様が、正確に言えば、お嬢様が〈龍人〉になった時、意のままに操る事ができる、〝応龍の神通力〟が必要なのだ……そう、劉家の女性に、代々、受け継がれるという神通力がね」


「〝応龍の神通力〟……いったい、どんな凄い力なんですか?」


「古来より〈応龍〉は風雨を司る。天候を操る力こそ、〝応龍の神通力〟だ。お嬢様も〈龍人〉に変身できるようになれば、風雨を意のままに操れるようになる。混江龍はお嬢様を捕まえて、全身を隅々まで研究し、〝応龍の神通力〟を手に入れようとしているのだ。天候を操るなどという神にも等しい力を我が物とした暁には、〈龍幇〉を率いて応龍国を建国し、世界の覇権を狙うつもりだよ」


「〝秘密結社〟だの〝世界の覇権〟だのと聞くと何となく勇ましい気がしますけど、ただ単に、権力欲に取り憑かれた連中が、自分の欲望に任せて人殺しをしているだけじゃないですか。大した連中だな」


 偃師は聞いているだけで気分が悪くなってきた。


「でも、そういう事情なら、この先も劉先生には貴方の力が必要なんじゃないですか? いくら時間稼ぎとは言え、自分の命を捨てるような真似は感心できませんよ」


 偃師は昼間、史進が〈龍幇〉に向かって、命の危険も顧みず、たった一人で飛び込んでいった事を思い出した。


「……儂らは生き延びる為に逃げている訳ではないよ」


 史進は深刻な顔をして言った。


「どういう意味ですか……?」


 偃師は怪訝そうに質問をした。


「〈応龍の一族〉は普通の人間よりも生命力が強く、滅多な事では死にはしない。儂らが今日、倒した連中も、今頃はけろりとしているはずだよ。連中はまたすぐに追いかけてくるだろうさ、逃げ切れる訳がない」


 偃師は、そう言えば、劉鳴凛は足を挫いていたはずだが、〈龍幇〉から逃げる時、平気な顔をして走っていた事を思い出した。


 自分が、かくなる上は舌を噛み切って死ぬつもりか、と聞いた時も、彼女は目に涙を浮かべるだけで、何も答えようとしなかった。


 それに史進を病院に案内しようとした時も、行く必要はない、などと言っていた。


「だからこそ、混江龍は隠れ里で虐殺を行った時、一人一人、寄ってたかって痛ぶるように殺したんだ。まず複数で取り囲んでから、手足を潰して身動きを封じ、次に胸を貫き、腹を掻っ捌いて腸を引きずり出し、とどめに鈍器で思いっきり、頭を叩き割る……そこまですれば、さしもの〈応龍の一族〉も死に至るからな。そうして、旦那様もお嬢様のお父上も、奴らの手にかかって、無残に殺されたのだ……あれだけ大勢の〈龍人〉を相手にしては、いかに旦那様でも……」


 史進は無念そうに言った。


「今の儂らも同じさ。どこまで逃げたとしても〈龍幇〉の魔の手は伸びてくるし、儂が奴らの手にかかれば、お次は……」


 お次は間違いなく、劉鳴凛である。


「だったら、尚の事、劉先生とどこまでも逃げた方がいいんじゃないですか?」


 偃師は心配そうな顔をして言った。


「だから、こんな老いぼれとお嬢様の足でどこまで逃げ切れる? 奴らの足に敵うものか。儂らに待っているのは、死だけさ」


 史進はやけになったように言った。


「……貴方は劉先生を逃がそうとして、時間稼ぎの為に、あの場に残ったんじゃないんですか?」


 偃師はあれだけ無茶をして時間稼ぎをしようとしていたはずの史進が、今はまるで何もかも諦めているような口振りだったので、思わず、疑問を口にした。


「言っただろう? 別に儂らは生き延びる為に逃げている訳ではない、と」


「それじゃ貴方達は、いったい……?」


 いずれは捕まって、殺されるのが判っていて逃げているとでもいうのか?


「もし、お嬢様が混江龍に捕まれば、研究材料として弄ばれた挙げ句、奴らは〝応龍の神通力〟を手に入れる事になる。そんな事になるぐらいなら、お嬢様も儂も、死んだ方がマシだと思っているが、生憎、自害するには、〈応龍の一族〉は生命力が強すぎる……だから、な」


 史進は意味ありげに言った。


「だから?」


 偃師は何か嫌な予感がした。


「……だから、お嬢様は決めたのだ。〈応龍の一族〉の隠れ里に古より存在する、『相柳の沼地(そうりゅうのぬまち)』に向かうと」


「……なぜ?」


「相柳——これも伝説の龍、毒龍の名前よ。その名を冠した沼地も、毒の沼でな。辺りには動物も寄りつかんし、草木一本生えていない血のように赤い沼に入れば、例え〈龍人〉でも、たちまち骨も残らず、全身、溶けてしまうという。何も苦しまずに一瞬でな」


「…………」


 偃師の顔から表情が消えた。


 目の前の優しそうな老人が、孫娘のような少女とともに命懸けで逃避行を続けているのは、少女を自殺させる為?


 今も傍らで可愛らしい寝顔を見せている少女自身、辛く厳しい逃避行の果てに、自ら命を絶つつもりでいるという事か。


「…………」


 偃師は心の底からふつふつと怒りがこみ上げてきたが、それがいったい、何に対しての、誰に対しての怒りなのかは、自分でもはっきりとは判らなかった。


「当たり前だが、儂もお嬢様の事をむざむざ死なせたくはないさ。自殺させるなど以ての外だ」


 史進は偃師と同じように、胸のうちに激しい怒りを秘めているようだった。


「……こんな時、お主ならどうする?」


 史進は意外な事に、笑っていた——と言うより、最早、笑うしかないという風だった。


「実を言えば、儂一人で奴らに向かって行った時、時間稼ぎするつもりなどなかったのだよ。何を莫迦なと思われるかも知れんが、儂の命に代えても〈龍幇〉を全滅させてやるつもりだったのだ。何せ、そうする以外に他に、お嬢様の事を救う手立てが思い浮かばなかったのでな」


 史進は冗談めかして言ったが、深い皺が刻まれた顔は本気だった。


「…………」


 偃師は何も言えなかった。


 ——逃げる事ができない訳があるんでな。


〈龍幇〉の壊滅……それができれば確かに、〈応龍の一族〉本家最後の生き残り、劉鳴凛の命を救う事ができるだろう。


 だがしかし、いくら腕に覚えがあるとは言っても、史進、たった一人の力では、不可能だ。


「残念ながら、結果は偃老板も知っての通り」


 史進はため息交じりに言った。


「そこでだ。偃老板に頼みたい事があるんだが、聞いてくれるか?」


 偃師は改まった様子で言われ、興味深そうな顔をした。


「儂が見たところお嬢様は偃老板の事を『大哥』と呼んで慕っているみたいだし、これも何かの縁だと思ってこれからもお嬢様の事を守ってくれんか? 偃老板のような男なら、お嬢様と夫婦になってもらいたいと思っているぐらいだよ」


「な、何を急に言い出すんですか!?」


 偃師は素っ頓狂な声を上げた。


「隠れ里にいたせいか世間知らずな所はあるが、都会に暮らしていればそのうち一般常識も身に付くだろう。きっと、いい奥さんになると思うぞ?」


「いや、自分で言うのもなんですけど、こんなどこの馬の骨とも判らない相手に、そんな事……」


 偃師は困り果てていた。


「もちろん、今日出会ったばかりの相手に言う事じゃない事ぐらい、重々承知しているよ。だが、残念な事に、儂に残された時間はあと僅かでな」


 史進は衣服を捲って脇腹を見せると、苦笑いを浮かべた。


「史進先生、それは!?」


 偃師は史進の脇腹を目にして、唖然とした。


「二、三日前、上海にある〈龍幇〉のアジトから、お嬢様を救い出した時にな」


 史進の脇腹には包帯が幾重にも巻かれ、真っ赤な血が滲んでいた。


「なぜ、もっと早く言ってくれなかったんですか?」


 偃師は痛ましそうな顔をした。


「うん? もっと早く言っていたら、儂を病院に連れて行って、儂の代わりにお嬢様の事を守ってくれたか? やはり、儂の目に狂いはなかったみたいだな」


 史進は余程、自分で言った事がおかしかったのか、乾いた笑いを漏らした。


「こんな時にふざけないで下さいよ。大体、〈応龍の一族〉は、普通の人間より生命力が強かったんじゃないんですか?」


「ご覧の通り、儂は老いぼれでな。しかも、一族の人間としては傍流も傍流、普通の人間と大して変わらんのだよ」


 史進は何が面白いのか、にこにこと笑っていた。


「史進先生」


 偃師は絶句した。


 史進は表情こそ明るかったが、その顔には生気というものがなく、死相が表れていた。


「偃老板、混江龍達〈龍幇〉は、権力を欲して生きているようだが、お主は、なぜ生きている?

 史進は落ち着いた声音で問いかけてきた。


「史進先生の方こそ、なんでまたこんな生き方を選んだんですか?」


 偃師は聞かずにはおれなかった。


 史進は、権力を欲する事もなく、金銭を求める事もなく、どう考えても、茨の道だ。


「お主はなぜ、生きている?」


 史進は穏やかな笑みを絶やさずに、繰り返し聞いた。死の間際だというのに、なぜか笑っていた。


「わ、私は……」


 偃師は鬼気迫る迫力に圧倒されたかのように、答えあぐねていた。


「私はお恥ずかしい話ですが、まだ生きるという事がどういう事かよく判らないんですよ。ただ毎日、茶館に立って、うちに来てくれるお客さんにおいしいお茶を淹れて、花に水をやり、蟋蟀こおろぎの世話をして、なんとなくやり過ごしているだけですから。もちろん、お客さんの事は、心からおもてなししようと思っていますけどね」


 偃師は本当に自信がなさそうに、俯きがちに言った。


「お陰様で常連のお客さんもついてよくしてもらってますけど、お客さんはお客さんですからね。自分で言うのもなんですけど、天涯孤独の身で、友だちと呼べるような人は一人もいませんから」


 偃師は言い難そうに続けた。


「……だから分不相応な話ですよ、私みたいな奴には。これからも劉先生を守るとか、ましてや、夫婦になるなんて事は……すみません」


 偃師は何か重い罪でも犯したかのように、申し訳なさそうに言った。


「偃老板、今更、こんな事を聞くのもなんだが、生まれは?」


 史進は〈龍幇〉相手に一歩も引かないどころか、出し抜いたほどの男が、あまりにも自分を卑下する為に、思わず聞いていた。


「私の生まれについて話せば納得してもらえるんじゃないかと思いますよ。私には劉先生と一緒にいるような資格なんかないって事が」


 偃師は身の上話というには、あまりにも壮大な、遥か昔の出来事を語り始めた。


 時は、周王朝、第五代の王、穆王の時代——


「……そう、か。そういう事なら、残念だが仕方ない、か。しかしまた誰かがいなくなる事で、お嬢様が寂しい思いをしなければいいが」


 頼みを断られ、身の上話を聞かされた史進こそ、寂しそうな顔をしていた。


「私はいつでも茶館にいますから。そこでいつでも、お待ちしていますよ」


 偃師は自分で頼みを断ったというのに、寂しげな顔をしていた。


 ——本当に、それでいいのか?


 偃師の脳裏に、自分自身に対する疑問が過ぎった。


 ——自分がやりたい事、やるべき事は何だろう?


 どうする?


 ——自分は、どこで何をすべきか?


 どうすればいい?


 いや、一度は彼らの手助けをしたのだ。


 それにあの傷では、史進の命を救う事はできない。


 ——儂が見たところお嬢様は偃老板の事を『大哥』と呼んで慕っているみたいだし、これも何かの縁だと思ってこれからもお嬢様の事を守ってくれんか?


 では、史進の頼みはどうする?


 ——偃老板のような男なら、お嬢様と夫婦になってもらいたいと思っているぐらいだよ。


 駄目だ……普通の人間ではない自分が、彼女のそばにいる事などできない。


 第一、あの子の気持ちはどうなる?


 結婚云々を抜きにして彼女に力を貸して、よしんば〈龍幇〉から守る事ができたとしても、彼女の人生まではどうしようもない。


 彼女は史進が亡くなった後、いったい、どこでどうやって生活していくのだ?


〈龍幇〉から助け出したとしても、あの若さだ、路頭に迷うのが関の山だろう。


「…………」


 偃師は自動人形である自分にはこれ以上できる事はもう何もないと、無言で立ち上がり、彼らに背を向けて歩き出した。


 もし、何かできる事があるとすれば、いつかまた彼彼女が何かの折に茶館にやって来た時に、お店の主人として心からもてなし、お茶を淹れてやる事ぐらいだろう。


「偃老板、達者でな!」


 史進は黙って遠ざかって行く偃師の背中に声をかけると、眠るように目を閉じた。


 夢、だ。


 史進が見ていたのは、自分がまだ若い頃の夢、だ。


 史進も、今でこそ『爺』などと呼ばれているが、当然、生まれた時から老人だった訳ではない。


 まだ白髪も皺もなく、武術の腕を買われ、下界の動向を探る為に、街に行った時の夢、である。


 史進は中国南方の奥地から出てきて都会に行く為に、故郷である〈応龍の一族〉の隠れ里では見た事もない、蒸気機関車に乗り込む所だった。


 これまで何度か下界の調査に出向き、その度、都会に出るまでに色々な交通手段を使うのだが、鉄道だけは慣れる事ができなかった。


 鉄鋼と木材で作られた巨大な箱に車輪を付けたものがどんな名馬よりも速く走るという事が信じられなかった。


「……?」


 電車内はそれほど混んでいなかったが、車両の半ば、四人掛けのボックス席に、ふと視線が吸い寄せられる。


 窓際に一人でぽつんと座っていたのは、黒目がちな女だった。彼女が窓の向こうをじっと見つめている横顔は、とても綺麗だった。


 別に、彼女が美人だったから興味を覚えた訳でもないし、人影が疎らだったから目についた訳でもない。


 ましてや彼女の傍らに、青磁の骨壷が置かれていたからでもない。


 史進が興味を惹かれた理由は、他でもない——黒目がちな女から、自分と同じ独特の匂いがしたからである。


——〈応龍の一族〉特有の、雨と風の匂い、だ。


 まさか、こんな所で同族の女性と出会うとは思ってもいなかったが、彼女は〈応龍の一族〉に間違いなかった。


 それに、もう一つ。


「——もし、小姐?」


 史進は相手を刺激しないように、慎重に声をかけたつもりだった。


「…………」


 黒目がちな女は気怠そうに振り向いた。


「!?」


 史進は一瞬、狼狽えた。


 彼女の近くに行くまで気付かなかったが、ぽっかりと穴が開いたように虚ろな瞳をしていた。


「何だい、あんたは? 私の隣に座るつもりかい? 私が嫌だって言っても隣に座ってやるって顔じゃないか。だったら最初から聞かないでもらいたいよ」


 黒目がちな女は取りつく島もなく、不機嫌そうに言ってそっぽを向いた。


 史進はあまりと言えばあまりな態度に面食らって、黒目がちな女の様子を窺った。黒目がちな女は暗く沈んだ顔をして、相変わらず窓の向こうをじっと見つめていた。


 次に車両に乗り込んだ時から気になっていたそれ、彼女のそばに置かれた、青磁の骨壷を、ちらりと見やる。


 果たして、肉親か、恋人か、或いは、夫のそれが入っているのか?


「……やっぱりねえ。あんた、これが気になるんだろう?」


 彼女は窓の向こうを見つめたまま含み笑いをした。


「い、いえ……すみません」


 史進は無遠慮な視線を向けた事を恥じ、立ち去ろうとした。


「待ちなよ? これはあんたが思っているようなもんじゃないんだよ? これはね、私の弟なんだよ」


 黒目がちな女は骨壺をそばに引き寄せて、頬擦りせんばかりに言った。


「そう、骨壺の中身は恋人でもなければ夫でもない、私の弟。例えこんな風になってしまったとしてもね」


 黒目がちな女は母親が赤子を抱くように骨壷を優しく撫でたが、虚ろな瞳はどこを見ているのか判らなかった。


「これで少しは安心したかい?」


 黒目がちな女が冷め切った顔をして言った言葉の意味が、史進には判らなかった。


「安心、だって?」


 史進は我知らず、聞いていた。


 ——この女が抱いた骨壺の中身が恋人でもなければ夫でもない、弟だからって、なんで私が安心しなければいけないんだ?


「とぼけるんじゃないよ」


 黒目がちな女は不愉快そうな顔をして言った。


「あんたも私と同じ、〈応龍の一族〉だろう? 黙っていても、匂いで判るよ。それに、私達の一族には女が少ないからね。あんた達、男どもは、いつだって、盛りのついた雄犬さながらじゃないか!」


 史進は初対面にも関わらず、散々な言われようだったが、心臓を鷲掴みされたような思いがした。


「もし、この骨壷が恋人や夫のものだったとしたら、傷心の私をモノにするのは難しい、できれば手荒な事はしたくない。はてさて、この骨壷の中身は、いったい誰だろう? 大方、そう思ったんだろう?」


 黒目がちな女は、いったい何が面白いのか、お腹を抱えて笑い出した。


「私達は、早くに両親を亡くしちまってねえ。弟はあんた達みたいな連中から、私の事をずっと守ってくれていたんだけどね」


 ふと真顔になり、恨めしそうに言った。


「……あんたの功夫は、どれぐらいになるんだい?」


 彼女は顔を伏せ骨壷をかき抱き、今にもわんわん泣き出しそうになるのを堪えるように、震えながら深呼吸し、聞いてきた。


「?」


 史進は相手の意図する所が判らず、答えに窮した。


「何、黙ってんのさ! 自慢じゃないけど、言われなくたって、立ち居振る舞いを見ればある程度は判るよ。あんたには、武術の心得がある。それも相当な功夫の持ち主だね?」


 史進は突然、聞かれ、戸惑いがちに頷いた。


「私の弟もそりゃもう、強いのなんのって! 私はいつも一番近くで弟の事を見ていたからね、強いか弱いか見れば判るよ。でも、笑っちまうよね。あんなに強かったはずの弟が、私よりも先に死んじまうんだからさ!」


 彼女は窓の外を見ながら自嘲気味に言った。


「さあ、ここで問題だよ。私よりも強かったはずの弟は、なんで私よりも先に、死んじまったんだと思う?」


 史進の事を横目で見て、からかうように言った。


「…………」


 史進は思いがけない出題にまたしても答える事ができなかった。


「私の弟はね、私の事を手篭めにしようとした一族の男達から私の事を守る為に、命懸けで戦ってくれたんだ。私と違って、一族の血だって薄いのにさ……ううん、だからこそ死に物狂いで戦ってくれたんだよ。ある時は片目が潰れ、またある時は片腕が折れ、またある時は足首が折れ曲がって、そうして、最後には死んじまったよ」


 黒目がちな女は、窓の外に、ぽつりと言った。


「ねえ、聞いてもいいかい? あんた達の拳は、女を襲う為にあるのかい?」


 彼女は、心底、嫌気が差しているようだった。


「……私の事を守る為に拳を振るってくれたのは、弟だけだったよ」


 と、視線を落とし、ひどく疲れたように言った。


「これから、どこに行くつもりなんだ?」


 史進はそれまで美しいとばかり思っていた黒目がちな女の目元が、よく見れば寝不足のように隈が目立ち、疲れ切って落ち窪んでいる事に気づいた。


「はてさて、どこに行こうかね」


 先程までと違って、楽しそうに言った。


「いっその事、『相柳の沼地』にでも行こうかねえ!」


『相柳の沼地』——いかに生命力溢れる〈応龍の一族〉だろうと、そこに身を沈めればひとたまりもないという、猛毒の沼地である。


「うん、そうだ、そうしよう。もう、こんな世知辛い世の中で一人ぼっちで生きていくのなんか、真っ平御免だからね! ねえ、あんたもそう思うだろう!?」


 史進に対してか、死んだ弟に対してか、どちらなのか判らなかったが、骨壷を撫でながら言った。


「……そりゃ、なんだい?」


 史進が懐から紙切れを取り出し、何か認めるのを見て、訝しげな顔になる。


「要らぬお節介かも知れないが、紹介状だよ。私が住む集落には、一族の誇りを忘れて畜生道に堕した者は、一人もいない。あそこならきっと——!?」


 史進がそう言って、紹介状を差し出すと、彼女は乱暴に手で払いのけ、紹介状ははらりと床に落ちた。


「今まで、あんたみたいに甘い言葉を囁いて私を騙そうとしてきた奴が、何人いたと思っている!?」


 憎しみに顔が歪んでいた。


「別に騙すつもりなんかないさ。でも、君の弟さんは、君の事を死に物狂いで守ったんじゃないのか?」


 史進は足元に落ちた紹介状を拾って、黒目がちな女の顔をじっと見つめた。


「君が『相柳の沼地』に行って命を落としたら、君の事を守って死んだ弟さんはきっと悲しむよ。そんな事になるぐらいならと、俺はただ……」


 史進が口にできたのは、情けない事にそこまでだった——そこから先は、黒目がちな女が弟とともに辿ってきたであろう過酷な運命を思い、言葉にならなかった。


「……あんた、何で私に近づいてきた?」


 ここに来てようやく、史進がその辺の男とは違う事に気づいたらしく、訝しげな顔をして聞いた。


「この車両に乗ってから、すぐに気づいた事が二つある。一つは、君が私と同じ、〈応龍の一族〉だという事」


「ああ、そうさ、私はあんたと同じ〈応龍の一族〉だよ。それもあんたみたいな男どもが助平根性丸出しで狙っている、女のね!」


「だから尚更、気になった。これがただの人間の女だったら、そっとしておいただろう」


「ほれ、見た事か。それで二つ目っていうのはなんなんだい?」


「自分じゃ気づいていないのか?」


「は? あんた何言ってんだい?」


「私がこの車両に乗ってきた時から、君は泣いているんだよ、ずっとね。だから私は、ハンカチを差し出そうとして話しかけたんだ」


 史進は心苦しそうに言った。


「…………」


 黒目がちな女は信じられないという風にぽかんと口を開けて、自分の頬に手を伸ばした。


 白魚のような指先には、とめどなく頬を伝うさらさらとしたものが触れた。


「わ、私は……!?」


 ようやく自分が泣いている事に気づき、言葉を詰まらせた。


「う、ううう!」


 途端に嗚咽を漏らし、子どものように泣きじゃくる。


「…………」


 史進は黒目がちな女のそばに屈み込み、ただ黙って見守っている事しかできなかった。


 彼女は一人ぼっちで、孤独の淵にいた。


「貴方の名前は?」


 黒目がちな女は、自分に寄り添うように屈み込んだ相手に、一頻り涙した後に聞いた。


「史進」


 史進は彼女の頬をぽろぽろと流れ落ちる涙の一粒一粒をハンカチで拭ってやったが、いつの間にかハンカチはその手から消えていた。


「……!?」


 史進のハンカチで涙を拭っていた手は気づけば拳を握り、〈龍幇〉の〈龍人〉を殴り倒していた。


 どうやら戦いの最中、一瞬、意識が飛び、若かりし頃の夢を見ていたようである。


 史進の傍らにいるのは、黒目がちな女ではなく、〈応龍の娘〉、劉鳴凛。


 史進が立っているのは電車内ではなく、フランス租界東部にある煙館の迷路のように分岐した細い廊下であり、廊下の両側には、黄ばんだカーテンで仕切られた個室が並び、阿片特有の、甘ったるい匂いが漂っていた。


 廊下に出れば異形の者が雄叫びを上げ、乱闘を繰り広げているというのに、カーテンの向こう側ではお客が呑気に阿片を楽しんでいた。


 彼ら阿片客は、知る由もなかったが、ここは〈龍幇〉のアジトだった。


 史進は今夜、劉鳴凛を救出する為に、〈龍幇〉のアジトに奇襲を仕掛け、今は彼女を連れてアジトから脱出しようとしている所だった。


 老体に鞭打ち、次々と現れる〈龍人〉と激しい戦いを繰り広げていたが、個室で阿片を吸引しているお客は酩酊状態のせいか、誰も関心を示す事なく、部屋から出てくる事もなかった。


 史進と劉鳴凛は必死の形相で戦い、二人の足元には叩きのめした〈龍人〉達が、折り重なるように転がっていた。


 倒しても倒しても獣のような咆哮を上げ、どこからともなくわらわらと現れる。


 ——なんとしてもここから、お嬢様を救い出さなければ!


 史進は〈龍幇〉によって隠れ里で虐殺が行われたその日から、彼らを追って上海租界に辿り着き、朝も夜もなく、街中を駆けずり回って、アジトを探し出し、今夜、ついに劉鳴凛を取り戻した。


 あとは〈龍幇〉の包囲網を突破し、ここから脱出すれば救出成功である。


 史進は行く手に立ち塞がる〈龍人〉の群れに果敢に飛び込み、劉鳴凛もまた少しでも力になろうと、史進の背中を守って戦っていた。


 目指す出口はすぐそこまで迫っていたが、それが果てしなく遠い。


 ——儂は旦那様の事を守れなかった……今また、ここでお嬢様の事を守れなくてどうする!?


 史進は劉鳴凛を庇いながら自分自身を鼓舞した。


 ——お前の弟もきっと、何度となくこんな修羅場をくぐり抜け、お前の事を守ったに違いない。


 史進は今は亡き妻の事を思い、彼女の事を守って幾度となく戦いに身を投じ、その度傷つき、ついに逝ったという、顔も知らぬ義弟に思いを馳せた。


 ——例えこの身がどうなろうと、お前の弟のように、儂も、お嬢様の事を守り抜いてみせる!


 史進は、同時に、自分の限界を呪った。


 ——よしんばここから脱出できたとしても、〈龍幇〉の壊滅、それ以外にお嬢様の未来はない。


 史進と劉鳴凛の行く手には、今も〈龍人〉が立ち塞がり、彼らの鋭い牙が、爪が、尻尾の一撃が、これでもかこれでもかと、先に行こうとするのを邪魔していた。


 ——せめて、お嬢様が、混江龍の研究材料にされる事だけは避けねば!


 その為には一刻も早くここから脱出し、中国南方の奥地、恭丘山にある『相柳の沼地』に行かなくてはならない。


「…………」


 史進は悔しげに下唇を噛んだ。


 やはりどうしても心のどこかで、それ以上の事を夢見ていた。


(初めて会った時、お前が孤独の果てに『相柳の沼地』に行こうとしていたのと同じように、お嬢様も好き好んで『相柳の沼地』に行きたい訳ではないはず)


 史進にはそれが判っていても、どうする事もできなかった。


(今はただ、お嬢様を守る為に、この拳を振るうしかない!)


「貴様らには指一本、お嬢様には触れさせん!」


 史進は〈龍人〉達相手に、今一度、力を振り絞って戦った。


〈龍人〉の鉤爪に脇腹を深々と引き裂かれながらも、なんとか突破口を開き、劉鳴凛を連れて、街中に逃れた。


 例えそれが自分と自分が守りたいと願った少女の、死出の旅路に繋がる入り口だったとしても……。


 ——私にはこうする以外に他に手はない……だが、もしかしたら?


 もしかしたら、自分以外の誰かがお嬢様の前に現れたら、お嬢様には『相柳の沼地』に身を沈める以外にも、他に未来があるのではないか?


 史進は逃避行の最中、ふとそう思った。


 彼女と一緒に、租界の公園や、路地裏に隠れ、仮眠を取り、身体を休めている時に、夢見るように考えていた。


 そして。


 史進は、共同租界の人けのない路地にある古民家のような茶館で、一人の男と出会った。


 ——もしかしたら、あの変わり者の男なら、孤独の淵にいるお嬢様の事を救い出してくれるのではないか?


「お嬢様」


 史進は『黄浦公園』の長椅子に俯きがちに座ったまま、夜の闇にぽつりと呟いた。


 電灯の下、心なしか、微笑んでいるように見えた。


「——爺?」

 劉鳴凛は寝台代わりにしていた長椅子から身を起こし、不安そうに声をかけた。


 傍らに座っている史進は俯いたまま、微動だにしない。


「……目が覚めましたか、お嬢様」


 史進は疲れ切った顔をしているが、昔、平和に暮らしていた時と変わらない、優しい声で返事をしてくれた。


「大哥は?」


 平静を装ったつもりだったが、微かに声が震えていた。


「偃老板なら自分にできるのはここまでだと、お嬢様が寝ている間に帰りました。今度、茶館に来てくれた時は、歓迎すると言ってましたよ」


 史進は劉鳴凛の事を気遣うように、微笑んで言った。


「そう、ちゃんとお礼を言っておきたかったな」


 劉鳴凛が寂しそうな顔をしたのを見て、史進はふと思った。


 彼女が寂しそうな顔をした理由は、偃師にお礼を言えなかった事だけではないかも知れない。


 もっと一緒にいてもらいたかった、そう思っているのではないか。


「お嬢様のそばには私がいますから。追っ手が来る前に、そろそろ行きましょうか」


 史進は元気付けるように言ったが、なぜか、なかなか立ち上がろうとしなかった。


「爺?」


 劉鳴凛は様子がおかしいと気づいて、史進の顔を見てはっとした。


「……父上も、爺も、みんな、私の事を置いてきぼりにして行っちゃうんだね……」


 彼女がいくら話しかけても、史進は今度こそ微動だにしなかった。


 もう二度、返事をする事はなく、長い眠りに就いた。


「…………」


 劉鳴凛は小さな背中に老人の亡骸を背負って、大きく蛇行する黄浦江を歩いていた。


 対岸には、真っ暗闇に包まれた浦東(プードン)、夜の波間には、木造帆船(ジャンク)の灯火が揺れていた。


「爺」


 ふと立ち止まり昼間は琥珀色の川面に向かって呟くように言ったが、彼女が話しかけた相手は背中で冷たくなっていた。


「…………」


 しばし、呆然と立ち尽くした。


 その間、夜の暗闇に染まった川面は、音もなく揺れていた。


 上海の動脈である黄浦江は、中国最大の河川、長江に繋がり、やがて、海へと辿り着く。


「……さようなら、爺。今までありがとう……」


 劉鳴凛は、自分の背中で眠っていた老人の遺体を、そっと川に流した。


 彼女の白い頬にはきらりと一筋の光が伝い、今にも泣きじゃくりそうになるのを堪えて、涙を拭う。


 目の前には、暗く澱んだ川面がゆらゆらと揺れているばかり、ここは、魔都・上海の夜の底だった。


「やっと見つけたぞ、〈応龍の娘〉」


 夜の静寂は、あっさり破られた。


「こんなところで何をしているんだ、劉家のお嬢さんよ?」


「もう逃がさねえからな」


「覚悟しろよ、この餓鬼」


 劉鳴凛が振り返ったそこには、〈龍幇〉が五、六人、立っていた。


「ふん、上海のアジトからこっち、よくも手こずらせてくれたな」


「なんで自分がここにいる事が判ったのか、って顔をしているな。俺達が分家の人間だからって、舐めてもらっちゃ困るぜ」


「俺達、傍流も、お陰様で〈龍人〉に変身する事ができるようになってな、こいつは他人より鼻がきくのよ」


「おう、劉家の鏢師、〝九紋龍〟の史進の死臭もぷんぷん臭ってきたぜ!」


〈龍幇〉は自慢げに話している間にも、劉鳴凛の事を取り囲んだ。


「いい加減、大人しくついて来てもらおうか——あん? 劉家の箱入り娘が生意気にも俺達とやる気って訳か?」


 彼女が中国拳術の構えを取ると、嘲笑うように言った。


「てめえはまだ〈龍人〉に変身できねえんだってな!」


「今まで分家だからって肩身の狭いを思いをしてきたが、今日こそ俺達の力を思い知らせてやる!」


「今や俺達〈龍幇〉こそ、〈応龍の一族〉なんだからな!」


〈龍幇〉は、人間と爬虫類を掛け合わせたような、全身を翡翠色の鱗に覆われた異形の者、〈龍人〉に変身した。


「言いたい事はそれだけか!?」


 劉鳴凛はそれまで口を噤んでいたが、切って捨てるように言ったかと思えば、先制攻撃を仕掛けた。


 一番近くにいた〈龍人〉の足を素早く掬い、転倒させ、顔面に掌底打ちを立て続けに二発、三発と叩き込み、地面に打ちつける。


 とどめだとばかりに〈龍人〉の頭を足蹴にすると、ぐしゃりと、西瓜が潰れたような嫌な音がした。


「お前達がどうやって〈龍人〉の力を手に入れたのか知らないが、調子に乗って油断などするからこうなる!」


 劉鳴凛の気迫には、凄まじいものがあった。


 いかに〈龍人〉と言えども、頭を潰されてはひとたまりもないようで、起き上がってくる気配はなかった。


「こ、このアマ!」


 残った連中は仲間が叩きのめされたのを見て、色めきだった。


「さあ、どこからでもかかって来るがいい! 鏢師、〝九紋龍〟の史進から授かりし秘拳、不成龍拳(ふせいりゅうけん)が奥義、〈九生龍子(きゅうせいりゅうし)〉! お前達に、とくと味合わせてやる!」

 劉鳴凛は鋭い目つきで〈龍幇〉を見据え、凛とした声を響かせた。

「相変わらず、威勢がいいお嬢ちゃんだな」


 ふいに暗がりから姿を現したのは、身長一九〇センチはあろうかという、堂々とした偉丈夫だった。


「しゅ、出洞蛟(しゅつどうこう)様!」


 劉鳴凛の気迫に押され気味だった〈龍幇〉は、安心したような声を上げた。


「新手、か」


 彼女は顔を顰め、独りごちた。


『出洞蛟』と呼ばれた男は、一目見ただけでも手強い相手だという事が判った。


「世間知らずの劉家のお嬢ちゃんが、いっぱしの鏢師気取りか。その減らず口、きけなくしてやろう」


 出洞蛟は何となくのんびりとした様子だったが、その目には危険な光が宿っていた。


「何を!?」


 劉鳴凛は頭に血が上ったのか、出洞蛟が〈龍人〉に変身したにも関わらず、食ってかかっていった。


 案の定、出洞蛟の剛腕に、簡単に叩き伏せられる。


「思い知ったか、小便臭い小娘が!」


 出洞蛟は足元で四つん這いになり、苦しげに呻く彼女を口汚く罵った。


「おい、てめえら、〝九紋龍〟の史進はあの世に逝っちまったし、茶館の老板も臆病風に吹かれて、どこかに雲隠れしたらしい。俺達の邪魔する奴はもう誰もいねえって事だ、思う存分、痛めつけてやれ!」


 劉鳴凛の胸に出洞蛟の情け容赦のない台詞は、ぐさりと突き刺さった。


「…………」


 彼女がそれでも立ち上がり、唇の端から流れた鮮血を片手で拭うと、出洞蛟達〈龍幇〉は、全身から殺気を放ち、じりじりと囲いを狭めてきた。


「…………」


 劉鳴凛は呼吸を整え、偃師の事を思った。


(大哥)


 彼女は出洞蛟達を警戒していたが、偃師の事で頭は一杯だった。


(大哥が私を、私達を助けてくれた事は、一生、忘れません!)


 自分にしか見えない偃師に、感謝の気持ちを述べた。


(ここから先はちょっと怖いけど、私一人でやってみせます!)


 心の中で一生懸命、話しかけた。


(ううん、本当はすごく怖くて不安だけど、私は大哥に言ってもらったから)


 ——大丈夫だよ。


「私はこんなところで、お前達なんかにやられはしない!」


 劉鳴凛は自分に言い聞かせるように叫び、果敢に〈龍幇〉に立ち向かって行った。


「私にはやりたい事が、やるべき事があるのだ!」


 ここにはいない涼しげな目をした青年に思いを馳せて、圧巻の大立ち回りを演じる。


(大哥! 私は『相柳の沼地』に辿り着くまで、決して死ぬつもりはありません!)


 次々と群がってくる〈龍人〉を寄せつけず、雄叫びを上げた。


その姿はなぜか、子どもがわんわん泣いているように見えた。


 彼女が仰ぎ見た空にはどんよりとした黒雲が立ち込め、雷鳴が唸っていた。


 まるで伝説にある〈応龍〉が咆哮し、怒り狂っているかのように。

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