第五幕 学校が叫んでいる

 第一場


 タタリは思考します。脚をずらせば落ちる。こっちは踏んではいけない場所。敵は次の十二秒後にもう一度ここに周回してくる。塀が黄色く光ったら十六連射を使う。ここで二回ジャンプする。動く歩道に乗ったら走る。スピンジャンプ。撃つ。ジャンプ。乗り換えて。

 あ。落ちる。


 暗闇に落ちたってタタリは叫びません。彼は頭の中では結構おしゃべりですけれど、徹底して無口なのです。

 街に、『GAME OVER』の文字が赤く浮かびあがります。

 タタリはゴーグルを外して、赤いキャップ帽の上に載せます。

 ゲームオーバーか。また最初から。

「そこまで行くなんてすごいな! さすがタタリ!」

 弥生の、そうやって人を褒めるところ、すごく良いな。だけどぼくは、タタリじゃなくてタカシだ。

「もう疲れたし、今日はこの辺にしようよ。ゲームは一日一時間!」

 いや、ゴーグルが少し痛いけど。もう一度やる。弥生も目の周り、跡くっきりだ。パンダ。タヌキ。ぼくはどっちも結構好きだ。

「タタリもう一回やるの? もう無理だよ」

 シャトルはあれだな。ネガティブだ。それにもう少し痩せたほうが良い。でも良いやつ。だけどぼくは、タタリじゃなくてタカシだ。

 タタリが、ゲームのカセットに息をふっとかけて、博物館の庭にある銅像の台座に挿せば、街がバラバラと崩れて、そして再構築されていきます。そこは、知っている街だけど、知らない街。敵に支配された街。閃光銃を撃てる街。動く足場の街。いつもより早く走れる街。

「タタリがやるなら、アタシも行くぜ!」

「あーあ。僕も付き合いますよ。三機あった方が、クリアしやすいでしょ」

 今は一九九三年の四月です。ストⅡもマリカーも、面白いけれど、街が変化してできたこのゲームが、タタリには一番面白い。

 タタリの思考は止まりません。マリオとかって、激務だ。ゲームって実際やってみると難しいな。いや、ゲームはそれこそ毎日やってきた。でもゲームの中のボクは、ボクが操作していたんだけどボクじゃなかった。例えばソニックは青いハリネズミで、ボクじゃない。ソニックはボクのことなんて知らない。でもボクが動かさないとソニックは動かない。ソニックはソニックだけどソニックじゃない。ボクが憑依したソニック。ボクはソニックを演じる。

 あれ、それって祟りか?

 じゃあ今こうしてゲームをしているボクや弥生やシャトルは何だ? ボクらも誰かが憑依している? 誰かがボクらを演じている? それともボクらは何かを演じている?

 ボクたちって誰かに見られているのかもしれない。もしかしたら画面の向こう側っていうのが、あるのかもしれない。

 このゲームをクリアすれば全部わかるのかな。それとも?


 第二場


「本日の緊急学級会の議題だが、僕らの与えられた役割について話し合いたいと思う」

「役割ぃ?」

 昨日の宣言通り、翌日の昼休みになると、体操服を来た五年三組が校庭の隅にある大きな木の下に集まって、緊急学級会が開催されます。

 昨日、みんなの働きで見事勝利を収めたのに、セイジたちロボットのパイロットは、どこか苛立った様子です。

「昨日、僕たちの中でも話し合ったんだけど、みんなそれぞれ与えられた役割の中で戦っていくべきだと思うんだ。特に、他の人の邪魔をするようなことはしてはいけない」

「でも昨日はのり子ちゃんのアイデアのおかけで、みんなで協力したから勝てたんだろ?」

「協力するのが悪いって言ってるんじゃないんだ。だけど僕たちにはそれぞれやらなきゃいけない使命があって、そこから逃げたり、他の人の分まで戦って自分のやることをおろそかにすべきじゃないと言いたいんだ」

 委員長の言葉に賛同する者もあれば、反対するような様子もあります。ごちゃまぜに混じり合った空気の中で、モモエが苛立たしげに爪をいじりながら呟きます。

「ていうか昨日の御札、全然綺麗に剥がれないんだけど」

 のり子には、それが自分に向けられた言葉のように思われて、深く刺されたように傷つきます。なんだかモモエは、本当に嫌なやつになった。あんなロボットに乗って、変わってしまった。

「じゃあどうすれば良かったのよ」

 切り込むようにミコが冷たく言います。

「他に方法があった?」

 ミコに迫られれば、威勢の良いモモエもすっかり怯んでしまって、ミドリが慌てて言い返します。

「そもそもマキが自分の敵を倒せなかったことに問題があるんじゃないか? だいたい最初から逃げたりするから」

 その言いぐさに、小太郎がなんてこと、と怒りを顕にします。

「やめなさいよ!」

「そうよ! マキやミコがいなかったら、私たち今頃まだ空の上じゃない!」

「……でもさ、正直僕たち、自分のやることで忙しくって、他の人たちの面倒までみれないんだ。やっぱり自分の敵は自分で倒すべきじゃないかな?」

 槍玉に挙げられたマキが、苦しそうに俯きます。いけない。のり子が何か言い返そうと口を開きますが、呑気な声で邪魔が入ります。

「はいはいはい! だったらダイハモン組が調査のために、みなさんに同行してピンチの時は協力したいと思いまーす!」

「ダイハモン組?」

「オレとのり子と哲郎の三人で結成した調査団だ!」

「勝手に入れないでよ」

「却下だ」

 委員長が腕を組んではっきり言い渡します。

「忘れたのか? オレたち昨日力を合わせた仲じゃんよ」

「忘れたのか! お前が昨日僕の通信マイクをおかしくしなけりゃああはならなかったんだぞ!」

「あれは花がロボットのカメラに御札貼っちまったからだろ?」

 突然自分の名前が出たことに驚いた花が、素早くセイジの方へ振り向きます。

「セイさん、そうなんですか? ごめんなさい、私ったら……」

「どぅええ! 花は知らなかったから良いんだよぉ! そもそもハモンがマイクの音量いじらなきゃよかった話なんだから!」

 学級会はめちゃくちゃです。哲郎はこういう雰囲気が苦手です。誰かが怒って、みんな不満だらけで。とてもじゃありませんがこんな中で発言なんて出来ません。隣に座るらーめんも、争いには我関せずといった感じでつまらなそうな様子です。

 校庭の方を見れば、いつものように子どもたちが遊んでいます。昨日、教室がバラバラになって空を飛んだなんて、そんなこと最初から起きなかったようです。

「あんなことがあったのに、本当にみんな忘れちゃうんだ……」

 哲郎がぼやくのを、アカヤが拾います。

「……そうだよ。誰も僕たちがやってきたことなんて知らないし、忘れてしまうんだ」

 それが、五年生たちにはすごく寂しいことに思えて、みんな少し黙ります。こんなに頑張っているのに、自分たちの他に、誰も認めてくれないなんて。

「あのさ、昨日ちょっと考えたんだけど、忘れるっていうのは、ちょっと似てるけど、違うかも」

 虎に変身できる少女、美樹は、みんなの視線にちょっと緊張して、照れたように言います。

「えっと、忘れるっていうか、なんとなく覚えてるんだけど、その、夢だと思っているというか」

「どういうことだ?」

「一回敵をママの前で倒しちゃったときね。ママ、次の日、私が虎に変身して戦ってくれたことがあるって、そんなこと、夢か映画か、そういうの見た気がするって言ってた」

「夢か、映画?」

 美樹はうーんと考え込んで探るように答えを出します。

「うん、だから忘れてるっていうのとはちょっと違うのかな。実際に目の前起こっているんだけど、本当に起こったことだって信じてないっていうか。夢とか、映画とか、お芝居とかってそうでしょ?」

 弥生が笑います。

「なんか、それすごく嬉しいな。アタシたちが頑張ってること、全然ゼロにならないんだ」

「そうそう。良いことすれば、誰か見ててくれてるもんだよ。ま、私たちはヤイバのこといっつも見てるけどねー」

 オー! と声を上げながらポンポンを取り出して、動物娘三人衆がヤイバを囲みます。

「だー! お前らほんとそれやめろ!」

「静粛に! 話がそれたけど、とにかく今後一切他人の戦いを邪魔しないこと! これに対して他に意見は!」

 委員長が学級会を閉めかかる中で、すっと一人だけ手を上げた少年に、みんなが驚きます。だって彼はこういう学級会に参加することだって珍しい、あのサイバーでしたから。

「サ、サイバー……何か意見があるのか?」

「お互いに邪魔しないというのは賛成だ。だが調査にも賛成したい。こちらも情報が欲しい」

 新勢力に、学級会はざわめきます。

「サイバー、お前はどっちの味方なんだ?」

「味方? ここには馬鹿しかいないのか?」

 サイバーはぐるりと見回すように、眼鏡の奥で全員を睨みます。

「お前らが毎日戦っている敵の、目的はわかってるのか?」

「世界征服だろそんなもん」

「なんで世界征服するのに日本の、しかも東京でもないこの街なんだ」

「サイバーは敵が出てくるのはこの街に、何か原因があるって言いたいわけ?」

 サイバーがのり子の言葉に頷きます。

「オレは学校が怪しいと踏んでる。誰か、この学校で敵と遭遇したやつはいるか?」

 サイバーの問いかけにゆっくりと、様子を伺うようにぱらぱら、手が上がります。

「ほぼ全員か」

「ちょっと待て、何勝手に進めてるんだ! それに僕たちの敵は別に学校だけに攻めてくるんじゃない!」

「それはもちろんそうだ。だがクラスのほぼ全員が敵と戦っていて、そのほぼ全員が学校で戦ったことがあるとすれば、学校に何かあると仮定して調査はした方が良い。それで何もなければ、街の別の場所を調査する」

「学校ねぇ……でも調査ってどうするの? 敵だって街のどこにいつでるかわからないし、学校でいろいろ調べ回って、さすがに先生とか六年生とか、気づかれるのも嫌だし……」

 反対意見は山程出てきます。だけど。

「夜は?」

 いつもこうです。ミコがしゃべると、すっと波がひいたように静かになります。

「私の専門は妖怪退治だから。夜の学校にはよく行くけど、夜なら誰にも邪魔されないでしょ」

「そうか。次の退治はいつだ?」

「二十九日。学校休みだから、夜に先生もいないのよ」

 サイバーが腕時計を確認します。

「明後日だな。同行する。手は出さない。何時だ?」

「夜の八時よ。校庭で待ってる。リコーダー、忘れず持ってきて」

「お、おい」

「以上だ。菅山法子、お前も絶対来い」

 そう言うとサイバーは立ち上がって、校舎に向かって歩きだしてしまいます。

「ヒュー、何だアイツぅ」

 一部の男子が茶化しますが、クラスメイトの何人かは、じっと考え込んでいます。サイバーの最後の言葉に、のり子は誤って物を落とした後のような、ヒヤッとした後すぐやってくる熱さを感じます。何で私が?

 チャイムが鳴ります。

「あーもう! 五時間目は体育だ! みんな体育館へ移動してくれ!」

 クラスメイトが立ち上がって、ぞろぞろと体育館へ向かっていきます。のり子は走りさろうとするハモンの肩を掴んで詰め寄ります。

「アンタ、選ばれてもないのに勝手に調査団なんて作って、馬鹿なことしないでよ!」

 こちらがどんなに真剣に迫ったって、ハモンはおどけた調子を崩しません。

「おいおい、そんなんでも作んなきゃオレたち一生仲間外れだぜ? お前副委員長のくせに、クラスメイトが仲間外れにされてんの無視すんのかよ? じゃ、明後日八時、忘れんなよ」

 いつもと変わらないハモンにどんと肩を小突かれて、去っていくその背中をじっと見つめます。のり子は明後日の夜八時、校庭にいるでしょう。でもそれは決して副委員長としての役割でも、サイバーに呼ばれたから、という理由だけでもないのでした。


 第三場


「結局セイジたちも来たのかよ」

「ぼ、僕は委員長としてみんなが危険な目に合わないかどうか心配で」

 結局、祝日の夜七時五十五分の校庭には二十五人の小学生、五年三組の全ての生徒がリコーダーを持って集合します。抱き合って怖がる者、既に変身している者、集合すると妙にテンションがあがって走り回る元気な者もいます。ハモンなんかは遠足と勘違いしているのか、ぱんぱんに膨らんだリュックを背負って参加しています。

「このリコーダーって何に使うんだ?」

「邪を呼び寄せるためよ。なかなか妖怪が出てこない時に、吹いてサポートしてもらおうと思ってたの、まさかこんなに来るなんて思ってなかったから……」

 いつも冷静なミコも、この状況に呆然としています。こんな人数でリコーダーなんて吹いたら、もう音楽会です。

「それにこの人数でいっぺんに行動したら、出るもんも出ないんじゃねーか?」

「人数を分けるのはどう? グループに分かれて、それぞれ敵の目的を調査する」

 セイジが腕を組んで、うーんと唸ります。

「ミコ、五人一組、全部で五組はどうかな?」

「良いと思うわ」

「えー! キヨ、ミコちゃんと一緒が良い!」

 人数を分けるとなると、ここでこの問題が発生します。みんな妖怪退治のできるミコと同じグループになりたがるのです。

「これじゃ一生始まらないぞ」

「じゃあみんなにこれ渡すわ」

 ミコがまた、服の中から御札を出します。ただ今度のは、ロボットに貼り付けたものと、書かれている文字や図形が異なるようです。

「御札? またどっかに貼るん?」

 御札を受け取った熊の耳が生えた少女――ユイがその大きな熊の爪でつまむと、頼りなさげに夜風にぴらぴらなびきます。

「これを持ち物か、身体のどこかに貼れば、妖怪に攻撃が通るようになるわ。これならみんな戦えるでしょ?」

 それからモモエの方を向いて続けます。

「貼りたくない人は別に良いわよ」

「……貼るわよ!」

 モモエが慌てて上着に貼り付けます。

 グループ分けは、戦闘のバランスを考慮して、ダイハモン組と、ロボット無しでは戦えないロボット組を分散することにします。

「あの……グループ、どうしますか?」

 チャイナドレスの裾を開いて、太ももに御札を貼り付けている赤い女に、哲郎が恐る恐る尋ねます。

「んーもう何ぃ? アタシは哲と同じグループならどこでも良いに決まってるじゃない」

 女は機嫌が良さそうにぎゅぎゅうっと哲郎を抱きしめます。

「何かあった時のために、連絡を取り合う手段が合ったほうが良いわ。斎賀君、良いわよね?」

 ミコが促すと、サイバーの発明した通信機(飛ぶ教室封印作戦で使われたものです)が、グループに一つずつ配られます。

「偉そうなあいつらも、ロボットなけりゃただの人か」

「私たちだって一緒じゃない」

 ハモンがセイジを見て笑うので、のり子が釘をさします。そして、自分自身の発言が同時に心を貫きます。セイジたちも今夜は役たたずかもしれません。でもロボットに乗れば。私には、何もないけれど、セイジたちは、セイジたちには、ある。私とは決定的に違う。

 ハモンはどうしてこうも平気でいられるのだろう。その無神経さ、私には、全然理解できない。

「わ! 何アレ!」

 突然、校庭に揺れる光が乱入します。ジャリジャリと、金属が当たる音、校庭の土をざくざく踏む音。それが駆け足で近づいてきます。

「君たちもう帰んなさい!」

 警備員さんです。突然の大人の出現に、計画が早くも崩れそう。

「警備員のおっちゃんがいるのか」

「でもいつも一人だけよ」

「ミコちゃん今までどうしてたの?」

「普段なら私一人しかいないから、見つからないようにすれば大丈夫だった」

「一人で夜の学校に? げろげろー」

「何ごちゃごちゃ言ってんの! 早く帰んなさい!」

 警備員のおじさんが怒り出します。さすが警備員なだけあって、その声は大きい。

「こんな時は僕におまかせあれ!」

 ザザーッと校庭の砂を舞い上がらせて、勇者御一行様の三人――ヒロシ、トオル、ショーコが、警備員のおじさんの前に、仲良く横に並んで立ちふさがります。それからトオルが警備員に向かって人指し指を向けると、短い呪文のようなものを唱え始めます。

「スリプト!」

 哲郎はこの一瞬、時間が止まったのかと思いました。ただ実際は違います。自信たっぷりに詠唱したのに、トオルの声だけが虚しく校庭に響くばかりで、何も起こらなかっただけなのです。

「何だって?」

「あれ? スリプト!」

「こらこら、人に指を差しちゃいかん!」

「スリプト!」

「あのなあ」

 こんなやり取りがどのくらい続いたでしょうか。何度目かの「スリプト!」で、突然警備員のおじさんが地面に倒れます。キヨが叫びます。

「おじさん死んじゃった!」

 倒れたおじさんは熊の唸りのようないびきを立てて、胸を上下させています。

「僕の魔法で眠らせたんだ」

 いつも余裕たっぷりの様子のトオルが、疲れた声で答えます。

「眠るのに何ターンかかってるんだよ。おじさんって強いんだなぁ」

「でもこんなところに寝かせてられないぞ。せめて、校舎の中に運ばなきゃ」

「そうだな。よいしょっと」

 力持ちのミドリが警備員さんの両脇に手を入れて上体を起こすと、雪之丞がすかさず脚の方を持って持ち上げます。重い重いと言いながら、そのまま正面玄関の方へ運んで行く後ろを、みんながついていきます。

 ぞろぞろと校舎の中に入っていく背中を見て、哲郎はいよいよ、恐ろしくなります。夜の学校はいつもとは全然違います。学校はこんなにも大きかったでしょうか。校舎を照らす青白い照明。風が校庭の木々を揺らして、ごうごう唸るような音。どこかに人の白い顔が浮かんでいそうな窓。校庭に転がる片付け忘れたボールさえ、恐ろしい。静かなのに、本当は絶叫の中に包まれているような恐怖。

 学校が叫んでいる、と哲郎は思います。


 恐怖を感じているのは何も哲郎だけではありません。みんな少しでも明るく振る舞おうと、警備員さんを運ぶ二人を鼓舞するように「わーっしょいわーっしょい」なんて馬鹿騒ぎして恐怖に抵抗します。

 それでもやっぱり暗い校舎は恐ろしい。下駄箱から上履きを取るのだって、いつもと違って真っ暗です。廊下も消火栓の赤い光と、非常口の緑の光がぽつんと見えるだけで、永遠の闇が続くようです。子どもたちはとりあえず職員室を目指すと、警備員さんの腰についた鍵で、職員室のドアを開けます。職員室には喫煙用のソファーがあることをみんな知っていたのです。

「これで警備員さんは大丈夫だ。じゃあ、行くか……」

 委員長の言葉に、懐中電灯を持つものは懐中電灯を、通信機を持つものは通信機を、他はリコーダーを強く握りしめます。ついに始まるのです。ただの肝試しじゃない、妖怪退治が。

「待って」

 遠くから幽かな声がします。それだけで心臓が飛び跳ねそう。きょろきょろと声の主を探せば、いつの間にかミコが体育館に続く廊下の方に立っています。消火栓の赤い光が、彼女の全身を真っ赤に染めて、本当は学校に妖怪なんていなくて、彼女こそが本物の妖怪だとしたら、と変な想像が働くような恐ろしさがあります。

「ここ、何かおかしい」

 真っ直ぐに指を、壁に向かって差しています。

「こんなこと、今までなかった」

 のり子はあることに気がつきます。消火栓の前、ということは。

「あの男の子の壁!」

 思わず大声が出ます。

「何だよ、あの男の子って」

 ハモンが聞き返しますが、知らんぷりで通します。

「何でもない」

 ミコが指差す壁を確認すると、確かにいつもと様子が違います。ここは歴代の卒業生が自分の顔を掘った木製のタイルが嵌め込まれてできた壁になっていたはずです。それが昭和六十二年度六年三組、あの顔の無い男の子のクラスの壁だけ、生徒たちの姿が無くなって、代わりに全く別のタイルに変わってしまっています。新しいタイルは大まかにわけて四種類です。一から十の数字が小さく一つずつ彫られたタイルが十枚、鳥居の絵が彫られたタイルが七枚、何も彫られていないタイルがいくつか、何も彫られていない少し濃い色のタイルもいくつか。それぞれが謎の法則でばらばらに並んで、真っ赤に照らされています。これは、これではまるで。

「これってアレだな。クロスワードパズルだ」

 シャトルがそのことに一番早く気が付きます。そう、卒業制作の壁は、いつの間にかクロスワードパズルのように変わってしまっていたのです。

「もう出てるんじゃん妖怪!」

 怖くなってきゃあきゃあ叫ぶ声が廊下に響くので、大きな声で怒鳴るように弥生がシャトルに聞きます。

「じゃあ問題は?」

「問題って?」

「問題だよ。縦のカギ、横のカギ。言葉をマスに埋め込むための問題。それがないとパズルにならないだろ? 周りに書いてないのかな」

「冷静なんだな、弥生」

「だって、壁をクロスワードパズルに変える妖怪なんて、悪いやつじゃなさそうだろ」

 みんなあちこちを、廊下でわいわいぎゅうぎゅう詰めになって、それこそ歴代の卒業生の顔をじっくり見るくらいには探してみますが、クロスワードパズルの問題になるようなものはちっとも見つかりません。

「時間がなくなるわ。そろそろ退治に向かいましょ」

 ミコが出発を促すので、一番真剣になって探し回っていたのり子が慌てて提案します。

「あの私、ここで見張りしてても良い?」

 ミコは怪訝そうにのり子の顔を見ます。「見張り?」

「その……この壁、変なこと起きてるのに何にも無いなんて、なんかおかしいし。それにちょうど何かあった時のために待機しておく人、いると思ってたし……」

 のり子にはどうしたってあの男の子の壁が変化したことが重要に思えて仕方がありませんでした。名前も知らない、顔もわからないあの男の子がとっても特別に思えて、彼はのり子が持っていないものを持っているようで、ただ、しがみつきたいだけなのかもしれません。それでも。

「でも一人じゃ危険だろ」

 ハモンがいつになく真面目になって言うので、心が揺れそうになります。

「じゃあオレが一緒に残る」

 ええー、とどこからともなく声があがります。名乗り出たのはのり子を調査に誘ったり、飛ぶ教室事件で協力したりと、何かと様子のおかしいサイバーでしたから。

「サイバーとのり子って、何?」

 笑い声に混じって、憶測が飛び交いますが、サイバーはばっさり切り捨てます。

「うるせえ。通信機の不具合があったら、直せるのはオレだけだ。ここを中継地点にして、何か困ったことがあったらここに集合する。奥谷美子、オレはお前のグループから抜ける。良いか?」

 ミコは壁からじっと視線を外さないまま答えます。

「わかったわ」

 そうして、タイルの鳥居の一つを、人差し指でじっくりなぞるのでした。

「じゃあオレたちはこっちに」

「達者でな」

「みんな、無事でいてね」

 調査班が一組ずつ出発していきます。残された眼鏡の二人は、赤く照らされた壁の前で立ち尽くします。みんなの声や足音が遠ざかれば本当に二人きり。

 苦しい静寂です。一人っきりより幾分かマシですが、相手がサイバーでは、のり子も息が詰まりそう。何か声をかけたほうが良いでしょうか。例えば。

『サイバーサイバー! ねえねえ!』

「ぎゃあ!」

「うるせえ」

 サイバーの腕時計から、にょきにょき何か伸びたかと思うと、突然パタンと開いて、小さなモニターが現れます。

『サイバー、ボクものり子ちゃんに挨拶したいよぉ』

 サイバーが鬱陶しそうにモニターをのり子の方に向けます。そこにはドットの集積、デジタルの笑顔。

『のり子ちゃん? 始めましてボク一太郎! 良かった、折角の肝試しもサイバーだけじゃつまらないもんね』

 デジタルの笑顔が嬉しそうにびょいびょい飛び跳ねるので、つられてのり子も笑顔になります。

「ふふ、始めまして。私も一太郎がいてくれて良かった。夜の学校でサイバーと二人なんて、不気味だから」

「うるせえ」

 その後は明るい声の一太郎と話していれば良かったので気が楽でした。だけど彼がサイバーの元に来た経緯を尋ねれば、お話は暗いものに変わります。

 一太郎は、自分は兄弟たちに比べて、出来損ないのいらない子だったと語ります。お母さんに殺されそうになって、命からがら逃げ出した先が、サイバーの家のパソコンだったのです。

 出来損ないのいらない子、という言葉に、のり子は一太郎と深く繋がった気持ちになります。選ばれなかった子ども。出来損ないの、いらない子ども。一太郎のストーリーなんて飛び越えて、どんどんどんどん加速して、悲しみが暴走して。

「菅山法子、お前に確認したいことがある」

 感傷的な話を遮るように、突然サイバーが口を開きます。

「お前、嘘ついてないだろうな? 本当に選ばれてないのか?」

 サイバーはのり子が嘘をついていると思っているようです。それを問いただすために、この場に残ったのでしょうか。

「大野波紋は馬鹿だから選ばれないのはまあわかる。隠したり、嘘を突き通せる能力もないだろ。ただお前と宮口哲郎は、本当に何にもないのか?」

「う、哲郎は、らーめんと……」

「あんなのただ一緒にいるだけだろ。どうして、同じクラスでも選ばれる人間と選ばれない人間がいる?」

「わからない」

『あーあ、ボクものり子ちゃん家のパソコンに家出すれば良かったかなぁ』

「うるせえ。野垂れ死ぬとこだったくせに」

『ひぃぃん!』

「私は、私なんかは選ばれない。ううん、選ばれなかったから私は駄目なのよ」

 のり子が弱々しくうわ言のようにつぶやくのを聞いて、サイバーは不機嫌に返します。

「どうしてそんなことがお前を駄目にする」

 どうしてってそんなこと、誰かに選ばれないってことは自分には価値が無いってことでしょ。頭の中がいっぱいになります。何か言い返そうとしますがきっと涙がでてしまうので、やめます。

「サイバーは、何で私を指名したの?」

「何がだ?」

「一昨日! 学級会で夜の学校調査絶対来いって私に言ったじゃない」

『サイバーってば、のり子ちゃんのこと、好きなんじゃなあい?』

「うるせえ。そんなんじゃねえ」

 じっと黙って次の言葉が出てくるのを待てば、サイバーが諦めたように語ります。

「月曜日、お前あの状況で戦う方法を思いついただろ。感心した。お前なら他のやつらと違って話がわかると思ったからだ」

 あの教室が空を飛んだ日、サイバーが何故すんなり通信機の発明や御札貼りに協力してくれたのか、それはサイバーがのり子のその賢さに敬意を払っているからなのでした。クラスのみんなが馬鹿としか思えない、それ故にずっと孤独だったサイバーが、やっと本当の会話ができる相手、それがのり子かもしれないのです。のり子は、彼の物言いがやっぱり高圧的で、何を偉そうに、とは思いますけれど、誰かに選ばれたようで、少し救われた気持ちにもなります。

 選ばれる、ことにこだわる。のり子ちゃん、君の呪いは君にしか解けない。

「ねえ、クラスのみんなが戦ってる敵って、本当は共通の敵だったりする?」

「さあな。でもその可能性はゼロではない」


 第四場


 哲郎は旧校舎の前でため息をつきます。調査班はそれぞれ、ミコに指示されたスポットを調査するよう言われているのですが、哲郎たちの調査班はまさかの旧校舎だったのです。らーめん同好会との決闘で一度入った時、もうこんな恐ろしいところには、二度と入りたくないと思っていましたので、この割り当ては最悪です(とは言え、あの日のおばけの正体は、雪之丞とマキでしたが)。

「うーん、夜の旧校舎の怖さは格別だな!」

 救いなのは男勝りな弥生と、キョンシーにも負けない赤い女が同じ班にいてくれることです。他にシャトルとタタリがいますが。シャトルはすぐ諦めるようなことを言いますし、タタリにいたってはほとんどしゃべっているところを聞いたことがありません。彼は、話しかけても怒っているのか嬉しいのかわからないような、無の表情を貫きますから、決して悪い子ではありませんけれど、こういった状況であまり一緒にいたくないタイプです。

「旧校舎に入ったことある人って、この中にいる?」

 シャトルの質問も虚しく、哲郎以外誰も手をあげません。

「あは、じゃあ哲がリーダーね!」

 赤い女が嬉しそうに哲郎を後ろから抱きしめます。

「リーダーって、何するの?」

 哲郎の質問に、シャトルが当たり前だろ、という顔をします。

「そりゃ先頭を歩くんだろ」

 最悪です。

「大丈夫。なんかあったらアタシらの光線銃が火を吹くぜ!」

 弥生が御札を貼った光線銃の銃口を哲郎に向けて、バンと撃つマネをします。

「哲郎、これが鍵だ。ほら」

 シャトルが哲郎の手に鍵を握りこませます。眠ってしまった警備員のおじさんの腰にぶら下がっていた、鍵束から拝借して来たものです。その鍵のなんと重いこと。木造の白い扉が、照明で照らされているわけでもないのに、ぼうっと輝いて見えます。

 哲郎が鍵を差し込むと、目をぎゅっとつぶって回します。ガチン、と鍵が開く音が、やけに大きく聞こえます。

「じゃあ開けるよ……」

 哲郎が振り向いてみんなの表情を確かめます。赤い女、しかめっ面。弥生、どきどきわくわく。シャトル、青ざめて。タタリ、無表情。

 哲郎が扉に手をかけます。この扉を開けてしまったら、もう元には戻れない。古い扉が開く音は、叫び声のようです。やっぱり、学校は叫んでいる。

 扉の向こうには、ぽっかりと哲郎を飲み込んでしまいそうな闇の空間があります。懐中電灯であたりを照らせば、不十分な光の中で、決闘騒ぎの時に見た入り口のホールや木製の階段が確認できますが、前回来た時の怖ろしさとはまるで比較になりません。

「あー結構、やばいな……」

 弥生すら弱気なことを言い出す始末です。

「気味が悪いよ……僕、ついて来るんじゃなかった。家で楽しくテレビでも見ときゃ良かったな。そもそも祝日だってのに学校に来るなんて」

 さっそくシャトルが嫌なことを言い始めます。

「哲郎、先入ってくれ」

 促されて嫌々、哲郎を先頭にみんなが中に入ると、誰も触っていないはずの扉が、大きな音を立てて急に閉まります。一斉に背中が跳ねて、旧校舎の天井を突き破るような叫び声が出ます。始まって数秒足らずで、もう十分すぎる恐怖を味わいました。

「だー、もう帰りたい! そもそも妖怪退治と僕ら、関係あるのか?」

 シャトルのその大声で、このまま旧校舎なんて壊して欲しい、と哲郎が思います。

「でも、調査が大事だって、サイバー言ってたぞ」

「そんなもんサイバーに任せりゃ良かったんだよ!」

「ファミコン探偵倶楽部みたいで楽しそうだって、シャトルが言ったくせにさ」

 結局一行は、哲郎を先頭にして先に進むことになりました。何にもせずにのり子たちの場所に戻ってきたとなれば、さすがにクラスメイトたちのひんしゅくを買うでしょうから。

 哲郎の震える手から発光する懐中電灯の光が、ぐらぐら揺れて、なんとも頼りありません。後ろを歩くのだって怖いですが、やっぱり先頭の怖さは格別です。ただ、赤い女が右隣でくっつくように歩いてくれるのがたいへんありがたいことです。それにあの無口のタタリも左隣に並ぶように一緒に先頭を歩いてくれて、哲郎の左右が守られます。

「タタリ君……」

 タタリの優しさが、じわじわと哲郎の心に染み渡っていきます。先頭を押し付けられた者をそっとフォローする気遣い。無口で無愛想な彼が、何故弥生やシャトルに慕われているのか、哲郎にはわかったような気がします。ただ、この感動は哲郎の心を温めきるには短すぎる終わりを迎えます。なぜなら次の瞬間、タタリが、あろうことにリコーダーで「茶色の小瓶」を暗闇の廊下に向かって吹き始めたからです。

「ちょちょちょちょ何やってんのタタリ君!」

 哲郎が慌ててその肩を揺らしても、何食わぬ顔のまま「茶色の小瓶」は吹かれ続けます。なんと軽快で楽しげなメロディでしょうか。でもミコの話では、リコーダーを吹くと邪を呼び寄せるとのこと。そんなことをしたら。

「なんか、いる……」

 廊下の奥に、何かがみっちりと詰まっています。姿がしっかり確認できるわけではありませんが、相当大きい何かであることを、哲郎は感じ取ります。それの一部が、懐中電灯の光で鈍く表面を照らされると、ゆっくり、ずりずり音を立てながら、這うように近づいてきます。

 ずりずり、止まります。ずり、止まります。ずりずりずりっ。

 嫌な臭いがします。思わず袖で鼻を抑えますが、臭いはどんどんきつくなっていきます。

 そして、恐怖の正体が、ついにその姿を現します。

 哲郎は叫ぶことすらできませんでした。目の前には、その先が全く見えないくらい、天井から床まで、壁から窓まで、みっちりと肉が詰まっています。目があります。鼻があります。口があります。顔です。それもかなり大きな。

 その妖怪は、大きな黄色のぐりぐり目玉が、左目は上を、右目は左下を向いています。開かれた大きな口から、白い息のようなものが漏れ出しています。そして何より一番怖ろしくさせるのは、その鼻です。鼻だけが人間と全く同じ形をしていて、それが自分たち人間とは全く無関係の存在じゃないぞと主張してくるようです。

「リーダーどうする!」

「どうするって!」

 こんな怖いものの、調査なんてできっこありません。

「と、とりあえず聞いてみるしかないかもな」

「聞くって何を!」

「あなたたちの目的って何ですかって」

 どん、と背中を押されて、躓くように一歩前に出ます。妖怪の大きなぐりぐり目が、ごろんごろんと瞳を転がして、哲郎に焦点を合わせます。たったの一歩が、こんなにも怖ろしい。

「あ、あの、あなたたちの目的は何ですかぁ?」

 その後、哲郎には何が起こったのかわかりませんでした。でも次の瞬間には妖怪の肉のヒダから生えた白い束のようなものに、首を閉められ身体を持ち上げられていたのです。

「哲!」

 赤い女が絶叫しながら、扇子でその白い束を切り落とします。支えが無くなった哲郎はそのまま尻もちをつくと、締められた首を抑えながら苦しそうに大きな咳を何度もして、廊下に唾液を吐き出します。白い束が首の周りでうねうねと動き続けますが、赤い女がそれを力づくで外していきます。その後方でタタリと弥生がすかさず射撃します。

「あんなのに言葉なんて通じないわよ! こっの、よくも哲を!」

 赤い女の目が怒りに燃えて、力の限り扇子を振りますが、生まれた嵐は古い窓ガラスを割るだけで妖怪はびくともしません。きっとあの顔は重すぎるのです。

「そんな……!」

「おい! 妖怪もHP、ゴーグルでわかるぞ!」

 大きなゴーグルを付けたシャトルが、哲郎と赤い女の理解を置いてけぼりにして嬉しそうにはしゃぎます。シャトルの目には、大きな顔の前に色のついた横長の棒線が見えているのです。それがタタリや弥生が光線銃を撃つたびに、赤い数字の明滅と一緒に少しずつ縮んでいきます。ゴーグルをかけているシャトルの目がどのように輝いているか、わかりません。でもその口は大きな喜びに大きく開かれます。ゴーグルをかければ、夜の旧校舎だって彼らの世界なのです。

「喰らえ! 僕の溜め撃ち!」

「ちょっと邪魔! 哲の敵が討てない!」

 シャトルを押しのけた赤い女が、妖怪の前に飛び出るとドカドカ重い蹴りを何発も叩き込みます。柔らかい肉に脚が沈み込むのが、気持ち悪い。

「おー、ほんとだ見える。凄い勢いで減ってる」

「おい、らーめん動き回るなよ、撃てないだろ!」

 赤い女は無視して攻撃を続けます。するとさっきまで無反応だった妖怪が、突然またあの白い束をびゅっと、ものすごい勢いで伸ばします。女が避けますが、光線銃の光にぶつかりそうになることに気をとられて、向かってくるもう一束を、見逃します。

「危ない!」

 弥生の射撃が間に合いません。赤い女が寸前で避けようとしますが、無念にも身体を絡め取られて、廊下の床に叩きつけられます。

「ティウンティウンティウン」

「うっさい!」

 血が沸騰するような怒りで、赤い女が白い束を引きちぎります。そうして力強い唸りをあげて相手に飛びかかろうとしますが、叶いません、

 突然、暗闇の廊下が、目を開けていられないくらい明るくなったのです。大きな狙撃音が、何発も何発も連続して鳴り響きます。

「やっちゃえタタリ!」

 無数の光に貫かれて、妖怪の顔から、限界の音が鳴り始めます。白い束がでたらめに力なく伸びますが、どれも光線銃を激しく撃ち込むタタリを捕まえることは出来ません。そのうち光線の一弾がついに致命傷になって、大きな顔がばん、と破裂すると、廊下を塞いでいた肉の塊は跡形もなく姿を消してしまいます。

「ゲームクリア! さっすがタタリの十六連射×3!」

 シャトルが歓声をあげながらゴーグルを外します。赤い女が哲郎の元に駆け寄ります。

「大丈夫、哲?」

 廊下から、つい先程まで妖怪がいた緊張感や、嫌な臭いがすっかりなくなります。戦いが身体から抜けて、すっかり優しくなった赤い女が、背中をさすりながら一緒に深呼吸をしてくれます。哲郎の身体は、命の危機の到来を遅れて理解して、やっと震え始めます。喉の奥に詰まったものを追い出すように何度も唾液を吐き出すと、勝手に涙が溢れます。結局自分は、廊下にうずくまってこうして苦しむだけで、何の役にも立たないのに、なんで、なんでこんなこと。

 心配そうに赤い女が顔を覗き込みます。心配なのはきっと赤い女だけじゃありません。タタリも弥生もシャトルも、みんな哲郎を急かすことなくじっと黙って待ってくれます。そうなれば、早く立ち上がらなきゃ、と自分を責めるのが哲郎です。

「あ、ありがとう。もう立てるよ」

 哲郎が立ち上がると、笑う時の手前のような安堵の息を、みんなが吐きだすのが聞こえます。

「とにかくこれでミッション終了! なあ、早く帰ろう」

 シャトルが言い終わる頃に、弥生が何かに気づいて声をあげます。

「おい何だあれ?」

 彼女が指差す先を見れば、さっきまで大きな顔がいた辺りに、ぼうっと光るような真っ白い小さな紙が、一枚落ちています。

「何か、紙切れが落ちてる」

 さっきまで、こんなものはなかったはずです。

「御札……かな?」

「きっとさっきのが落としていったんだ」

「呪いの紙切れかも」

 赤い女が怖ろしいことを言うので、哲郎が思わず後ずさりますが、入れ替わるように前に勇み出る者がいます。

「タタリ!」

 タタリです。彼は何の迷いもなく、まるでお昼間の学校の廊下を歩くように、すたすた進んでいきます。

「タ、タタリ君気をつけて!」

 一度も振り返ることなく、ついさっきまであの妖怪がいた気持ち悪い場所まで進んだタタリが、難なく紙を拾い上げてみんなのところに戻ると、全員に見せるように突き出します。紙は燃えたり、爆発したり、噛み付いたり、叫んだりはしませんでした。代わりに大きく「二の横の鍵」という文字と、意味不明なひらがなが羅列してあります。

「二の横の鍵? これって、クロスワードパズルの問題か?」

「たぼくたの? 何書いてるの、これ?」

 紙に書かれた意味不明なひらがなの羅列はこうです。『たぼくたのたたすたきなたどたたうぶつなたたたーたんだ?』

「これ、のり子たちに報告した方が良いんじゃないか?」

 弥生に促されて、通信機を持っていた赤い女がスイッチをひねって報告を始めます。

「あー、あー、こちら旧校舎班。メガネザル、聞こえる?」

『……どうしたのよ』

 メガネザルと呼ばれて明らかに不機嫌そうなのり子の声が聞こえます。

「妖怪一体撃退したわ。なんか言葉通じなさそうだったし、調査は無理っぽいんだけど、紙切れ一枚落としていったわ」

『紙切れ?』

「そう、二の横の鍵だって。みんな、クロスワードパズルの問題じゃないかって言ってるけど」

 その言葉に、のり子がずいと前のめるような勢いのある声を出します。

『なんて書いてるのその紙!』

 通信機からキーンと耳をつんざくような音がして、赤い女が顔をしかめます。

「言われなくたって読むわよ! 良い? 行くわよ。二の横の鍵、たぼくたの、たたすたき、なたどたた、うぶつな、たたたーたんだ?」

『……なんて?』

「だから! たぼくたの、たたすたき、なたどたた、うぶつな、たたたーたんだ?」

 しばらくの間、沈黙が続いて、のり子の代わりにサイバーの冷たい声が返ってきます。

『お前、新免蘭子か? もっとはっきり話せ』

 赤い女が癇癪を起こして「たたたーたんだ!」なんて叫びながらもう一度読み上げますが、通信機の向こうのサイバーにはその強烈さが伝わらないのか、『意味がわからん』と一蹴されます。

「あの、これってタヌキのやつじゃないかな?」

 髪を乱して怒れる赤い女の機嫌をそっと伺うように、哲郎が恐る恐る言います。

「タヌキのやつぅ?」

 きょとんとして弥生が返します。

「タヌキ、つまり『た』を抜いて読むんだ。貸して、ぼ・く・の・す・き・な・ど・う・ぶ・つ・な・―・ん・だ?」

「本当だ……」

「ぼくって誰だ?」

「じゃあタタリにタヌキをすると……リ?」

「哲ってば、天才なの?」

 赤い女が感動したように哲郎のほっぺを通信機ごと両手で包みます。

「そ、そんな、『た』が不自然に多すぎるからわかっただけだよ……サイバー、二の横のマスに入る言葉ってタヌキじゃないかな?」

 哲郎が女の手と自分のほっぺの間にある通信機に向かって伝えます。

『……確かに三マスだ』

「すげえ! やったな哲郎!」

 弥生が哲郎とハイタッチしようと手をあげるので、ぎこちなく、タッチに応じます。

『これで一問だな。全員、通信聞こえるか? こちら斎賀。妖怪一匹倒せばクロスワードパズルの問題を一問落とす。問題を手に入れたらチャンネル1に連絡しろ』

 サイバーが全員の通信回線を開いたので、雑音の中に遠く、どこかのグループの悲鳴が混じります。

「じゃあ、ボクたち、そろそろそっちに戻るね」

 でもこれで旧校舎の冒険は終わったのです。ほっぺを包む赤い女の手は、暖かい。哲郎は、安心しきった声でサイバーに帰還の旨を伝えます。でもサイバー司令はそんなに甘くはありません。

『何言ってる。これで終わりじゃねえ、はりきって次探せ』

 ブチッと音を立てて、通信が一方的に遮断されます。

「あーあ、まだやんのかコレ」

 哲郎とシャトルががっくりと肩を落とします。

「そうこなくっちゃな!」

 弥生に背中をバシンと叩かれたタタリが、静かにリコーダーを構えます。そうして暗闇に向かって、すうっと息を吸い込みます。


 第五場


「後ろの正面だーあれ?」

 ハモンとミドリが、家庭科室のテーブルの下で息を潜めます。

「後ろの正面だーあれ?」

 暗い家庭科室のテーブルの間を、クモのように広がった無数の足が、一本一本動きながらゆっくりと歩き回ります。だらんと下げた手も、何本もあります。明らかに妖怪です。

 妖怪は狂ったように何度も「後ろの正面だーあれ?」と繰り返します。その声は、不気味でネチネチといやらしい、男の声です。

 妖怪はハモンたちを探しているのです。ハモンの横のミドリは、図体は大きいのにかなりの怖がりのようで、ハモンを抱きしめたまま震え上がります。息の詰まる緊張感。すると突然、ミドリの腰につけた通信機から雑音が鳴り始めます。

「おい、ミドリ何してんだ。切れよ」

 小さな声でハモンが注意すると、ミドリは涙を浮かべて通信機を触りますが、通信はオフのままです。

「ち、違う、俺は何にもしてない」

 そして今度は、無神経なくらい大きな声。

『全員、通信聞こえるか? こちら斎賀。妖怪一匹倒せばクロスワードパズルの問題を一問落とす。問題を手に入れたらチャンネル1に連絡しろ』

 雑音の奥から、サイバーの声がします。だけど今、大きな音なんて鳴らしたら。

「後ろの正面だーあれ?」

 無数の手足の持ち主が、ハモンたちのいるテーブルの前にゆっくり移動してくると、ぴったり止まります。もう逃げることは出来ません。ついに見つかってしまったのです。相手はゆっくり腰を屈めて机の下を覗き込んできます。妖怪とハモンが、ばっちり目を合わせます。その醜い顔を、ハモンはよく知っています。だってそれは六年生の担任の、あの最悪な鈴木先生でしたから。

「ぎゃあああああ!」

「ぃででででで!」

 図体のデカいミドリに、力いっぱい抱きしめられて、ハモンの身体が絞られるように痛みます。

「山本君、相手に背中を向けては駄目!」

 鋭い声が、恐怖の向こう側から届きます。鈴木先生は人間の身体の作りを無視して、腰をねじ切るように振り向こうとしますが、紐のついた二枚の手裏剣が、先生の両肩に紐を引っ掛けてハモン達のいるテーブルの上に深く刺さったので、振り返る事ができません。複雑に指を結んだミコが、鈴木先生の背後にあるテーブルの上に立って言い渡します。

「さあ、後ろを取ったのはこちらよ。後ろの正面だーあれ?」

 ミコに後ろを取られた鈴木先生が、どっと大きな音を立ててひっくり返ると、その多すぎる手足をじたばたさせて苦しみだします。それが机の下にいるハモン達に何度もぶつかって、ミドリが大声で泣き出します。鈴木先生はそうして苦しみぬいたあと、ついには少しも動かなくなって、しゅうしゅうと音を立てて縮んで、最後には跡形も無く、消えてしまいます。

 家庭科室の床には鈴木先生の代わりに、一枚の真っ白な紙切れ。

「さっき電一殿が通信で言っていた問題でござるな」

 ミコの背後を守るようにクナイを構えていた雪之丞が、前に出て紙切れを拾い上げます。紙には五の横の鍵、と書いてあります。

「百本の足、これなーんだ? はあ?」

「百本足といえば、ムカデでござる」

 号泣しながら鼻水をすするミドリの手から通信機を取り上げると、雪之丞がチャンネル1との通信を始めます。

「えー、こちら雪之丞でござる。五の横の鍵を発見、問題は百本の足、これなーんだ? 答えはムカデ。のり子殿どうでござるか?」

『五の横の鍵……ム・カ・デ。ええ、ちょうどぴったり。すごいわ』

「なあに、忍者は暗号を解くこともいっぱい勉強するのでござるよ」

 通信を切られた頃には、既にミコが家庭科室のドアからさっさと廊下に出ていて、振り返ってメンバーの三人を急かします。

「次は屋上よ。急いで」

「まだ行くのか!」

 ミドリが泣き叫んだってお構いなしに、ミコは暗闇の中に溶けるように先に歩いてしまうので、みんな慌てて追いかけます。ミコの横に並んだハモンが、さっきの戦いの興奮を消化するように尋ねます。

「なあ、さっきのって鈴木だろ。鈴木の正体って本当は化け物だったってことか?」

「違うわ。普段の鈴木先生からは、妖気を感じない。あれは鈴木先生の形をした妖怪なのよ」

 ミコの素っ気ない態度にも、負けずにハモンが続けます。

「じゃあ何で鈴木の形なんだよ?」

 屋上に続く階段に差し掛かります。ミドリがぎゅうぎゅうくっついてくるのが、なかなか鬱陶しい。

「この中で鈴木先生のこと嫌いな人はいる?」

「嫌い」

「嫌い」

「嫌いでござる」

 ミコがじっと黙ってしまったので、「じゃあミコは好きなのかよ」とハモンが煽ります。

「嫌いよ」

「嫌いなのかよ」

「さっきのはおそらく、多くの人のそういう気持ちが生み出した妖怪なのよ」

 理解を放棄したハモンが、つまならそうに言います。

「気持ちって。妖怪ってそんな人の好き嫌いで出てくんのか。なんかアレだな。てっきり鈴木が死んだのかと思ってせいせいしたとこだったのによ」

「違うわ。あれは幽霊じゃなくて妖怪なのよ」

「幽霊じゃなくて妖怪、ということは、幽霊と妖怪って違いがあるのでござるか?」

 階段を登りきって、屋上の扉の前にたどり着くと、ミコがやっと立ち止まって答えます。

「死んだ生き物がなるのが幽霊、生きている人や社会が作り出すのが妖怪」

 扉のノブに手をかけてミコは続けます。「妖怪とは本当は存在しなかったり、そのものの本当の姿とは違っても、人や社会から作られてしまうもの。そうしてそれが力を持って暴れだすもの」

「作られてしまうものぉ?」

 ハモンにはやっぱりまだ良くわかりません。だけど例えばそれは、役割、とか。

「要するに、俺にはどっちも怖ろしい……」

 ミドリが涙を流したまま言います。

 ミコが屋上の扉を開くと、外の風が階段に吹き込みます。その風にまた何か始まる予感がして、ハモンの身体がぞくぞくします。夜の学校の最上階。給水塔の上に、何かがいる気配。

「次はどんなだ?」

 それが蠢きます。それが唸ります。学校という、子どもの社会が生み出した妖怪が。


 幕。

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