ベスコン(大茶会)
(お茶会の案内デモのライブ配信)
「今週の木曜日に、本学院茶道部がベスコン記念の大茶会を開催します」悠一
選りすぐりのミス候補が集い、橘流13世宗匠の橘聡一郎が点てるお茶と、和敬清寂の茶道精神に華を添えます。期待して下さい。
その前に少しだけですが、茶道の基本について、橘流宗匠の橘聡一郎さんと橘流講師の山背汐音さんに解説して貰います。ちなみに2人は従姉弟だそうです。
(勝手にライブチャット)
顔面偏差値、めっちゃ、たかっ!
従姉も美人、心理学部の2年らしい
彼氏いるのか?
いないみたいだ、性格がキツイらしい
噂だろ、センシティブな情報は控えた方が良い
確かにな
そう言えば、起きてる橘を見るのは久しぶりだな
ほんと、動いてる!超ラッキー
2人とも和服が似合ってるね
さすがに名家は違うな
山背汐音が凛として、最初に茶道の精神とお手前について説明する。
茶道の基本精神は「和敬清寂」という言葉で表されます。「和やかな心、敬い合う心、清らかな心、動じない心」です。また、茶道は禅宗や幽玄能と深く関わり「侘び寂び」という精神文化を生みだしました。寂びは時間の経過と共に色あせて劣化することで出てくる味わいや趣きある美しさをいいます。侘びは寂びの味わい深さを美しいと思う心や精神の豊かさを表します。侘び寂びは静かで質素な、枯れたものから趣を感じる精神文化です。
お茶を点てる一連の作法・流れのことを点前といい、大まかには5つの手順に分けられます。
道具の運び出し
道具を清める
お茶を点てる
しまいつけをする
道具を拝見に出す
稽古を重ねることで、作法の意味を知り、自然で美しい所作を体得します。
『汐音ちゃん、説明が長い』、汐音の説明に飽きてきた聡一郎が、茶菓子をつまむ。
「あんた、何で勝手に茶菓子を食べてるの?」
「朝練したから、甘いものが欲しくて」
「まずは清めでしょ。あんたも、ちゃんと作法を説明しなさいよ」
「仕方ない、清めます、、こうかな、あれ、こうだったかな、、何か面倒くさい。こっちを見て下さい(悠一、ここに清めのURL、テロップで流して)」
「流せるかよ、ライブ配信だっつーの」悠一
「ライブなの?じゃあ、取り敢えず笑顔で、作法なんてどうでも良いよねって感じ」聡一郎
「誤魔化さないで説明しなさいよ」汐音
「汐音ちゃんが説明した方が早くない?」
「あんたが説明しないと話しにならないでしょ」
「無理、だって俺ちゃんと教わったことないから」
「あんた宗匠でしょ?」
「面倒臭いから汐音ちゃんにあげる。よ!14代目」
「いらないわよ、あんたのお下がりなんて」
(勝手にライブチャット)
やっぱ、宗匠ってお飾りか
お飾りにもなってない、講師の方が偉そうだ
和やかに敬い、清く動じずじゃないのか?
夫婦漫才いだな
酷い、聡一郎君、負けないで!
負けてるよ、こいつ顔だけだな
顔だけで十分よ、笑顔で救われる
聡一郎君の笑顔で死人の目が開いたって聞いた
嘘吐くな!笑顔なんか見れないだろ!
疑う人は悲しいね
私も聡一郎君が天使を連れて飛んでるのを見た
マジか?むしろ、笑える
うわぁー、すげぇ適当なこと書き込んでる、悠一がライブチャットを確認している。
汐音の頬を引っ張るハル『聡一郎を虐めるな!』
『あんたたち、出てきちゃ駄目でしょ』汐音
聡一郎と一緒にいる時は、汐音にも普段は見えないものが見えてしまう。子供の頃から、汐音は聡一郎がハルやアキ、鴉天狗と遊んでいるのを不思議な気持ちで見ていた。
『汐音ちゃん以外には見えないから大丈夫』聡一郎
『秋葉君がいるじゃない』汐音
『悠一は馬鹿だから平気』聡一郎
『それにしても、何で双子なのよ、鬱陶しい、ウロウロしないで』汐音
『おまえばちが当たるぞ、子供だけど神様だからな』ハル
『神様じゃなくて、精霊でしょ?』汐音
『あれ、精霊じゃないだろ、ハルも、アキも妖怪でしょ?』聡一郎
ぎゃああああ!と泣き喚くアキ
『いくら聡一郎でも今のは許せないぞ、アキが可哀想だ』ハル
『嘘だよ、冗談、神様だ。妖怪のわけないだろ』聡一郎
(勝手にライブチャット)
何かこの2人、怪しくね?
ああ、独り言多すぎ
所作も何か変、落ち着かね〜
「そろそろ、お茶を点てますね」聡一郎
『やばい、鴉天狗も来た。俺のせいじゃないから。汐音ちゃんがハルとアキと騒ぐからだよ』
久しぶりと汐音に手をあげる3羽の鴉天狗。鴉大の大きさしかない大鴉天狗が羽ばたきながら、汐音に近寄ってくる。
『相変わらず、別嬪さんやなあ、あんたは』大鴉
『あんた、また来たの?お茶なんて飲めないでしょ』汐音
『そやから、姉ちゃんの口移しでええで』大鴉
鴉天狗を平手打ちして叩き落とす汐音。
『叔父貴、大丈夫か?』
『哀れなやな、大鴉も老いたもんやで』
『あんた幾つなの?』と汐音
『1254歳やで、姉ちゃん、もっといたわってや』
『あんたら、何で関西弁なのよ?』汐音
『わしらは元々、鞍馬の天狗やで、聡一郎が生まれたから引越して来たけど、あかんねん、東京の言葉は気持ち悪うて、喋られへん』大鴉
『鞍馬から来たの?』汐音
『そやで、昔、牛若なんちゃらにも稽古つけてやったわ』大鴉
『叔父貴、牛若丸やろ』鴉天狗
『そうや、おっ、おっ丸って言うとったわ』大鴉
汐音ちゃん独り言多すぎ、ライブ配信を見てる人に怪しまれる、さすがに悠一だって気付く、と汐音に目で訴える聡一郎。
『そうだ、うるさいぞ、聡一郎モドキ』ハル
『こんなのに囲まれてるのに、静かにしてられないわよ』汐音
『モドキ、モドキ』アキ
『モドキは聡一郎でしょ、私の方が年上なのよ』汐音
何とか誤魔化さないと、と考える聡一郎、『やっぱ、あれかな』
「何よ、その笑い?」汐音
「アルカイックスマイル」聡一郎
おお、さすがやで、よう拝んどけ、斑鳩中宮寺の菩薩半跏像より本物の弥勒菩薩に近いんやで、3羽の鴉天狗が集まって拝みだす。
「どう、これ?鴉天狗に教えて貰ったんだけど、相手の煩悩が祓われるらしい」聡一郎
『悠一で試してみるか』
「あれ、何でだ、聡一郎に拝みたくなってきたぞ」
「やばい、効いてるみたい。悠一が手を合わせて泣いてる」聡一郎、『でも、俺に拝んでも無駄だからな、拝んでも、悠一に彼女が出来るわけない』
聡一郎がお手前で清めた茶碗に湯を注ぎ、茶筅でお茶を点てはじめると、騒がしかったハルもアキも鴉天狗も、静粛な空気を感じるのか、静かになり居住いを正して、聡一郎の所作に見入っている。
そして精霊が舞い降りる、、
どんなに否定しても、汐音はこの瞬間を愛している。聡一郎の手から茶碗を受け取り、神仏に祈りを捧げ、幾つもの魂が重なりあう透明な天体に身を浸し、淡雪のような茶を唇に含ませる。
星屑のように舞い降りる光が、溶けるように汐音の体をすり抜けて、精霊の魂が汐音の心とかさなり合う時、汐音は精霊が生きてきた何千年もの歴史を感じることが出来る。この世界で唯一人、聡一郎に一番近い汐音だけが見ることができる不思議な世界。聡一郎も時間を旅している時の汐音が好きだ、とても綺麗だと思う。
(勝手にライブチャット)
お茶ってすっげ〜、何か泣けてきた
汐音さん聡一郎君、とても美しい
印象が変わった、汐音さんは清楚で素敵です
心が洗われた、なんだか救われた気がする
私も救われた
亡くなった婆ちゃんが目の前に現れた
手を合わせるだけで、願いが叶うらしい
マジか、俺も拝むぞ、彼女欲しい
私も、お願いします。早く奥さんと別れて欲しい
俺は酒・煙草・賭け事・諸事、禁断かな
どうか、お母さんの病気を治してください
未だ未だ、沢山の願いごとが寄せられています、簡潔に紹介しておきますね、
悠一がライブ画面に流れるチャットをピックアップする。
開運招福、大願成就、無病息災、安産祈願、金運向上、心願成就、身心健康、試験合格、必勝祈願、成功成就、旅行安全、病気平癒、交通安全、芸道上達、結婚成就など
***
(目黒准教授の研究室)
「何なのか良く分からないけど、反響が凄いね。救われたとか、願いごとが多いんだけど、何かあったの?」圭介
「別に、聡一郎が笑っただけです」悠一
これで、うさぎちゃんを攻略できる。手を合わせるだけで、懺悔もオシオキもなし。万人受けする、絶対、勝てる。
「ともかく、木曜日の大茶会まで時間があるから、実験を続けてみよう」圭介
(実験4)返報性の原理
笑顔には笑顔を返す「返報性の原理」という心理的効果がある。何かをしてもらった時に、こちらも何かを返さなくてはいけないと感じてしまうという心理だ。気になる異性にプレゼントして、相手の気を引いたり、食料品売り場の試食販売などが例に挙げられる。試食したから買わないと、という心理が働くので、試食販売は売上に影響する。
ライブ配信の反響が大きかったから、今度はリアルで、汐音が聡一郎君を応援して、にっこり笑って握手会する。聡一郎君も読モの写真にサインして、握手して手渡しすれば、返報性の原理だけでなく、ハロー効果(※1)、アンカリング効果(※2)も期待できる。
「秋葉君は、ここで汐音と握手しなくて良いんだよ」圭介
「圭介さん、ふざけてるの?」秋葉悠一の手を振り解く汐音
「社会科学と秋葉君のために協力してくれない?」圭介
聡一郎君と同じ顔してるだけあって、ライブ配信後の汐音の人気はうなぎのぼりだ。汐音と聡一郎君が二人で並べば、お互いのオーラで相乗効果が得られる。しかも、聡一郎君の伝説の読モ・スマイル写真がサイン入りで付いてくるって知ったら、きっと女子が殺到するよ。今の聡一郎君は寝ぼけてても可愛いって言われてるからね。
「聡一郎が私に似てるの。私の知ったことじゃないわ。アイドルでもないのに、にっこり笑って握手会なんてしないから」汐音
(※1)ハロー効果: ある対象を評価するとき、その一部の特徴的な印象に引きずられて、全体の評価をしてしまう効果のこと。「halo」は、聖人の頭上などに描かれる後光などを意味することから、後光効果ともいわれます。例えば、商品のCMに好感度の高いアイドルを起用するのは、アイドルが後光の役割を果たすことにより、商品そのものまで自ずと魅力的に感じられるからだ。
(※2)アンカリング効果: 最初に受けた情報や印象が物事を判断するときの基準になるという心理的効果を指す。例えば、値引き前と値引き後の金額がどちらも表示されていて、元々1パック980円の牛肉が480円まで値下げされていたら、「これは得だ」と考えて購入する心理だ。
「まあ、汐音がああ言うのは分かってた。どうする、秋葉君?」圭介
「先生を信じています。何とかして下さい」悠一
「秋葉君って、本当は確信犯だろ?さりげなく人を使ってる。まあ良いよ、乗りかけた船だ、最後まで付き合う。差し当たり、学院内SNS上で人海戦術を駆使して、心理戦を展開してみよう」圭介
(実験5)ウィンザー効果
利害関係者から直接伝えられた情報よりも第三者を通して伝えられた情報のほうを信頼してしまう心理的効果がウィンザー効果だ。インフルエンサーマーケティングは、この効果を利用したものとされている。
ベスコン掲示板に、聡一郎君が13世宗匠を襲名した時の記事を写真と一緒に投稿しておいて、ウィンザー班が各々のアカウントに再投稿して拡散する。「祖父は人間国宝だった橘慶一、15歳で宗匠になり、その所作は歴代宗匠の中で最も美しいと言われている」と紹介されていたはずだ。人は権威にも弱いから効果を期待できる。それに笑顔が国宝級だと騒がれた高校生の時の写真だ、きっと話題になる。女性が可愛いって言えば、男性だってそう思うはずだ。
(実験6)ザイオン効果、バンドワゴン効果
ザイオン効果とバンドワゴン効果も試してみよう。慣れ親しむことで好感が増してくるという心理効果がザイオン効果だ。初めは何とも感じなかったとしても、毎日顔を合わせていると次第に良い印象を持つようになる心理的効果だ。ふれあい班には、毎日、大和君と聡一郎君の練習中の動画をベスコン掲示板にアップして貰う(注1)。初めて見る人は怖いと感じるかも知れないけど、好きになるまで慣れて貰う。
(注1)部活中の動画及び写真等に関わる肖像権は本学院に帰属しますが、広く一般に公開されていない動画及び写真等、または、本人の承諾を得ない動画及び写真等は個人情報保護のため、複製禁止で24時間以内に削除されます。
バンドワゴン効果の方は、多くの人が支持するものは更に人気が高まるという心理効果のことで、楽隊を先導するバンドワゴン(車)にちなんでバンドワゴン効果と呼んでいる。わざわざ行列の出来てるレストランに並んだり、人が集まるところに野次馬が集まるのも、そういう心理からだ。野次馬班には、SNSで拡散された情報をフォローして貰い、共感したら「良いね」して貰う。
「変わった名前の効果が多いんですね」悠一
「簡単に言えば、だんだん慣れてくると最初より好きになる。人が集まっていると、何だろうともっと多くの人が集まってくるって感じだから、実は当たり前だよね。だからかな、行動心理学では敢えて格調高くネーミングして整理している。当たり前のことでも、何故かって考えると、案外、奥が深いからね。人の心理は余り合理的ではない」圭介
「当たり前のようにしていることが、合理的だとは限らないってことですか」悠一
「合理的だと当たり前のようにはしないってことでもある。だから、僕にはウィンザー効果もザイオン効果もバンドワゴン効果も働かない気がする」圭介
「マジですか?」悠一
「どうだろね。とりあえず、SNSベスコン投票がどうなっているか確かめてみようか」圭介
(注目のミス候補)
1位 福島愛(女子卓球部) 4219 points
2位 チュッパチャップス(アイ研) 2835 p
3位 天満うさぎ(オタ研) 2761 p
4位 大阪オスカル(演劇部) 1275 p
5位 橘聡一郎(男子バレー部) 1234 p
6位 天王寺蝶子(テニス部) 806 p
「不味い、愛ちゃんが独走している」悠一
「自然な成り行きだろうね。ひょっとして、秋葉君も愛ちゃんに投票してるんじゃないの?」圭介
「何で分かるんですか?」悠一
「分からないと思ってただろ、そこまで分かるよ。聡一郎君は5位か。案外、頑張ってる」圭介
「先生、なに呑気なこと言ってるんですか」悠一
「あれ、秋葉君に言われたくないな。まあ、それはともかく、聡一郎君は健闘してるよ。しっかりオスカルと票を二分してる。2位から5位のマニアック候補の得票数は合計すると1位と6位のノーマル候補の約2倍だ。殆んどの学生は他人の考えに流されず、自分の好みで選んでいるみたいだ」圭介
「つまり心理的効果が働かないってことですか?」悠一
「多分ね。結局、カップルを選ぶという考えは浸透しないみたいだし、聡一郎君のグランプリ獲得は絶望的かも知れないね」圭介
『このままだと、夏合宿に行けなくなる。目黒先生の心理学はあてならない。こうなったら、なりふり構わずにやる、男子バレー部の面子にかけて!』悠一
『秋葉君の目の色が変わった。何をしてくれるのか、楽しみだな』圭介
***
(男子バレー部の実力行使、決起集会)
夏合宿の獲得に向けて、なりふり構わず実力行使だ、と秋葉悠一が拳を握っている。
「まずは愛ちゃんの弱みを握る。前々から魔性の女だという噂がある。俺の直感だが、多分、本当だ。徹底的にマークして密会現場をスクープする」悠一
「チュッパチャップスはどうする?」智裕
「投票日当日の午前中に解散させる、解散したら三人の普通の女の子に戻って票が割れる。普通の女の子なら怖くないぞ」悠一
「本当に解散するのか?」湊
「演劇部から白馬とシンデレラの馬車を借りて、乗せてしまえばいい。演劇部はきっと協力する」悠一
「うさぎちゃんはどうする?」智裕
「ミサで聡一郎のアルカイックスマイルの映像を流せばいい。オシオキを封じてしまえば、ただのコスプレ・オタクだ。秋葉のメイド喫茶にでも出勤しとけだ」悠一
「最後にオスカルとの一騎打ちに持ち込んで、どっちらかを選ばせる。さすがにオスカルとだと、聡一郎だろう」悠一
「よし、いけるぞ。その前に聡一郎もブラッシュアップだ。例の美容院に連れて行く」悠一
「さすがだな、やっぱり、悠一が一番怖い」湊
(男子バレー部の実力行使、途中経過)
「愛ちゃん、本当に魔性の女なんだろうな?」湊
「百万%、間違いない。絶対、男がいる」悠一
「どこから来るんだ、その自信は」湊
「じゃないと困るだろ、いざとなったら、何でもいいからでっちあげる。それくらい常識だ」悠一
「白馬と馬車の手配は出来てるのか?」悠一
「演劇部が喜んで貸してくれるそうだ」智裕
「うさぎちゃんのミサには、俺が直々に乗込んで、うさぎちゃんをオシオキしてやるぞ」悠一
「後は、聡一郎を美容院に連れて行くだな、聡一郎は?美容院に行った?自分から?」悠一
一人になって考える秋葉悠一。『おかしい。愛ちゃんには絶対に男がいる。可愛いのに色気があり過ぎる。なのに、彼氏がいない?何か隠してる。確かめてみるか』
第3体育館卓球部練習場で、福島愛と本田雛子がダブルスの練習をしている。女子卓球会のアイドル福島愛の陰に隠れた存在だが、雛子の実力は愛に勝るとも劣らない。福島愛にとってかけがえのないパートだ。
愛ちゃんって、やっぱり凄い。可愛いし、必死な姿に心が打たれる。魔性の女って、根も葉もない噂なのかも知れない、と思う秋葉悠一。
「サーー」
『おっと、3回祈らないとな』
でっちあげるのやめようかな、なんてことは考えないぞ。手段を選ばずが、俺のポリシーだ。やると決めたら、とことんやる。後で謝れば済むことだ。
1時間半後、練習後も体育館の外で秋葉悠一は福島愛を見張っていたが『今日は収穫なしだな』と引きあげようとしていた時、体育館から本田雛子が男と手を繋いで出て来た。
「じゃあ、雛ちゃん」鈴木康介
「康介君、バイバイ」本田雛子
『鈴木康介、確か3年の男子卓球部エースだよな。2人は付き合ってるのか。羨ましい』
雛子を見送り、もう一度、体育館に引き返そうとする鈴木康介の前に、福島愛が現れる。
「バイバイ、雛」
鈴木康介が福島愛を抱きしめる。
***
その翌日のSNS掲示板に、秋葉悠一が匿名で二人の写真をアップして「2人のお幸せをお祈ります」と書き込む。
これって目隠ししてるけど、愛ちゃん?
他に誰がいる、卓球部のユニフォームだ
さりげなく、あざとい投稿だな
魔性の女って噂、本当だったんだ
相手は親友の彼氏か
可愛い顔してるのに、裏切られたな
「本当に二人の幸せをお祈りしてる?秋葉君でしょ、この書き込み」圭介
魔性の女か。完璧でありたいから一生懸命なのに、天然でどこか抜けている。可愛いから守ってあげたい。男の方は放ってはおけないけど、本人は自由奔放でマイペース。愛ちゃんはそういう女性なのかも知れないよ。
「そうかも知れませんね。でも、相手の鈴木康介は親友の彼氏です。自由奔放でマイペースではすまされない」悠一
「なるほどね。でも、秋葉君はちゃんと事実を確かめないと駄目かな。君にはその責任がある」圭介
「分かってます」悠一
***
(藤原当麻の参戦)
カフェテリアのオープンテラスでブルマンを飲みながら、当麻が携帯を片手にSNSのR&J Game掲示板の投稿を確認している。
なにこれ、滅茶滅茶、凄くね?
大和のスパイク、速すぎ、見えねぇー
消える魔球か?ボールが消えてる!
鳥肌たつぅー、やばくね?
橘、なんで拾えるの?
これってCGか?
CGだな、ありえんわ
スパイクも滅茶滅茶、曲がってる
マジらしい。バレー部に確かめた
もはや人じゃないな、神だな
大和の神と橘の神か
神、尊死。天使も泳いでる
それって平泳ぎか?クロールじゃないよな
どっちにしろ、溺れる、沼堕ちするわ!
そうだね、もう、この世に未練はないな
カップのブルマンを一口飲み、SNSのグループ投稿も確認する。
「当麻も動画見た?大和橘がやばいぞ!」
不味いな、大和と橘の動画と噂が拡散してる。
***
当麻がオスカルの演劇部を訪ねると、ちょうど、オスカルが『愛あればこそ』を歌っていた。
『マジか、演技とは思えない』当麻
愛、それは尊く
愛、それは気高く
愛、愛、愛
(歌詞: 愛あればこそ)
「何だ、おまえ一人か、どうせならアンドレと一緒に来れば良いものを、気の利かぬ男だな」
「橘は生粋の日本人、茶道の家元だ。アンドレじゃないからな」
「そうか、アンドレは茶の湯を嗜んでおるのか、是非一服所望したいものだ」
「だから、アンドレじゃないって。人の言うこと聞いてないのか?」
「そこまで言うな、私だって流石に分かっている。分かっいて、言っておるのだ。私の勝手であろう」
「なるほど、だったら俺は聡一郎をマライヒと呼ばせて貰う」
「何者だ?マライヒとは」
「その前に、俺のことはバンコランと呼んでくれ」
「バン、コラン?何だ、それは?」
「MI6の敏腕エージェント、長い黒髪と天然のアイシャドウが特徴の変態だ!」
「その者はおまえと全く似てないのではないか?」
「厚化粧して無表情に振る舞えば大丈夫だ。それに、大事なのはインパクトだ」
『このくらいじゃないとベル薔薇と釣り合わない。まあ、大事なのはマライヒの方だけどな』当麻
「俺はパタリロでも良いんだけどな」
「パタリロ?良い名だ。そっちの方が良いのではないか?」
「失言だった、さすがにパタリロは無理だ、冗談にもならない」
「結局、マライヒとは何者なのだ」
「バンコランの愛人だ、つまり俺の愛人だ」
「ところで、さっきの歌は練習か?」
「単なる趣味で歌ってただけだ、次の公演はウェスト・サイド物語と決まっておる」
***
SNS R&J Gameの掲示板を眺める秋葉悠一たち。
「何これ?新感覚の2.5次元か?何か分かんないけど凄い」湊
「藤原君、捨て身で来てる。オスカルと手を組んだんだ。さすがだわ」上野和香
「オスカル、アンドレ・マライヒ、バンコランのスリーショットだそうだ」不機嫌な秋葉悠一
「バンコランって、プラチナブロンドのショートカットでも良いのか?」智裕
「でも、バンコランに見えるぞ、韓国アイドルばりの厚化粧と無表情でなりきってる」湊
「しかも、当麻の奴、この3人できつねダンス!そこまでしてどうすんだ!」悠一
「橘君も凄いよ。オスカルとバンコランの間で、平然とセンターで踊ってる」和香
「しかも、バレー部のジャージで、2人に引けを取っていない。さすがだわ」綾乃
「何だかんだと言っても断らないのが凄い」湊
「関心してる場合じゃない、せっかく、いい感じになってた大和橘のイメージが台無しだ」悠一
「オスカル、おまえやるな、良い動きしてる」当麻
「貴様もだ、アンドレに引けを取っておらぬわ」オスカル
「ともかく、大和とのカップルだけは阻止する、あいつは危ない奴だ」当麻
「分かった。私の票は誰かに回そう。大和には誰が良いのだ」オスカル
「うさぎだな、大和にはオシオキが必要だからな」
「なるほど、良い考えだ」オスカル
「ふふふ、ふ、ワッハッハ、ハハハハハー」
動画を睨んでいた秋葉悠一が、突然、不敵に笑いだす。
「やばい、とうとう壊れたみたいだ」智裕
「ちょうど良い、捨ててしまおうぜ」湊
「私も協力する」和香
『そうだ、この際、本物のマライヒになって貰う』悠一
***
短い梅雨が明けると、夏が訪れる。眩しすぎる太陽、青い空からは蟬の声が降り注ぎ、山の木々は緑を深める。暑気が充満した街から、大人たちの人影は消え、子供たちが裸の季節を支配する。聡一郎が陽射しを避けながら、表参道駅から徒歩5分、南青山にある一里のヘアサロンに向かう。
ジャージ姿で、花瓶を入れたリュックを背負った聡一郎が、両手で花束を抱えたまま、ヘアサロン「Ichi ri」の扉を押す。ベスコン疲れで気分転換するために、花を生けさせて貰おうと、やって来た。
「ご予約されてますか?」店員が怪訝な顔をして、聡一郎に尋ねる。
「いえ、花を生けに来ただけです。一里さんと約束したので」
「一里さんとですか?」
花束を抱えた聡一郎に気づいた一里が近づいて来る。
「橘君、やっと来てくれた」
「遅くなってすみません。花を生けにきました」
「髪も切るんだよ、君の友達にも頼まれてる」
波もようの三つのガラス花瓶に花を生ける聡一郎
「一里さん、あの人、Yeh-yeの読モに似てる」と店のお客から聞かれる。
「似てないよ、彼は僕の従兄弟、たまに花を生けて貰って、バイト代あげてる」
「違うのか、ヘアメイクは一里さんって書かれてたから、そうかなって思ったけど」
「ごめんね、僕も撮影で頼まれただけだから、名前も知らないんだ」
「でも、当麻君の友達なんだよね。凄いよね、2人で一緒にいるのって、考えるとドキドキする」
「帽子貸してあげるから、かぶってて。お客さん、君が気になるみたいだから、ごめんね」一里
「すみません」聡一郎
「何だか大変なことになっているみたいだね。聞いたよ、カップル・コンテストに出てるんだってね、しかもミス候補で」
「俺だけじゃないですよ、オスカルとか、うさぎちゃんとか、チュッパチャップスとか、変なのばかり出てる。滅茶滅茶です。当麻に頼まれてオスカルと当麻と一緒に、きつねダンスも踊っちゃいました」
「それ、当麻君に見せて貰った。楽しそうに見えたけど、ごめん、人ごとだよね」
「ダンスは楽しかったです」
【花器】波もようのガラス花瓶 × 3(大、中、小)
【花材】花材
白 涼感を誘うクレマチス「精神の美」
白 エキゾチックなプロテア「甘い恋」
白 風に揺れるトラノオ「不滅」
白 野山に咲く大文字草「誠の愛」
黄 目覚めのアフリカンマリーゴールド
「逆境を乗り越えて生きる」
オレンジ 鮮烈なピンクッション「降り注ぐ愛」
赤 夏の風物詩、鬼灯(ほおずき)「自然美」
赤 可憐な大和撫子「純粋な愛情」
紫 棘のある球状の花、ルリタマアザミ
(エキノプス)「傷つく心」
青 球状の青い花、エンジリウム「秘めた恋」
青 夏の青い星、ブルースター「信じあう心」
細葉物(銀色) ユーカリ多種
葉物(緑) 月桂樹
大葉物(緑) モンステラ
さっきから一里に見られてるが、聡一郎は気がつかない。花を生ける時は集中して、周りが見えなくなる。
『凄い、生け花ってこんなに凄いのか』一里
都会的な洗練された空間そのものが、自然なものに作り変えられたように思える。まるで、草や花が、目に見えない空間の隙間や壁に、自生して育っていくようで、新鮮な空気さえ透けて見えてくる。それは聡一郎そのもの姿とも思える。
「良く知らないけど、綺麗な花が沢山ある、連続する3つのフラワーベースの波もようも素敵だ」一里
「生け花は、こんなに沢山の花を使わないんですけど(※1)、お店がお洒落なので、フラワーアレンジメントっぽくした方が良いかなって思って、いつもより盛っちゃいました」聡一郎
「何故かな、それでも、凄く自然な気がする」
「花は野にあるように生け、夏は涼しく、そんな風になれば良いかなって、生けてみました」
(※1)生け花は花や草木を器に生けて作品を作り上げます。起源は僧侶が仏さまに供える花でした。また、花の活けかたは日本の生け花と欧米のフラワーアレンジメントでは異なります。
生け花はできるだけ少ない草花を使って、空間美(余白との調和)・自然美を表現します。花だけでなく草木も使用し、剣山に非対称に活けます。生け花は「引き算の美学」です。欧米で生まれたフラワーアレンジメントは「足し算の美学」、花をたくさん使って空間を埋めます。吸水スポンジに左右対称もしくは非対称に活けていく。
***
「そうなんだ。2人でグランプリを取れば、皆んなで夏合宿に行けるんだ。良いじゃない、楽しそうだよ」一里
「俺、男ですよ、恒星だって嫌がりますよ。まあ、グランプリなんか取れるわけないけど」聡一郎
「それで、ジャージを着てるんだ。ユネクロの部屋着よりも冴えないと思った?だとしたら、残念だけど、君のジャージ姿は魅力的だと思うよ」
「一里さんだけですよ、そう思うのは」
「僕は諦めた方が良いと思うよ、これから君はもっと魅力的になる。僕の手でね」
「一里さん、悠一から何か頼まれてますか?」
「君をマライヒにして欲しいそうだ、心配しないで、そんな馬鹿なことしないから。花は野に咲くようにだよね、僕は君をありのままの君にする」
店を閉めて一人で聡一郎の髪を切る一里。
『何か、ありのままと違う気がしてきた』聡一郎
一里が聡一郎の髪をネジって、スパイラル状に巻きあげている。
「一里さん、野に咲く花ですよね」
「野に咲く花も色々だよ、捻ったり、巻いたり、パーマかけたりもするんじゃないかな」
「パーマかけるんですか?」
「ダイヤがダイヤになるためには磨くよね。人が手を加えた方が、自然な場合もある。色もつけたりしてね」
「色もつけたりって、ヘアカラーもですか?」
「大丈夫。ブリーチなしでアッシュブラウンに染めるから、ナチュラルな感じに仕上がるよ」
鏡に映るもう一人の聡一郎、いつからか、聡一郎はその姿から目を逸らし、その声に耳を塞いできた。けれど何故だろう、今日は見ていられる、その声が聞きたいと思う。聡一郎の知らないところで、何かが変わり始めている。
終わった。ツイストスパイラルパーマ×マッシュウルフ。ヘアカラーはアッシュブラウン。素敵だよ。ツイスト(捻る)とスパイラル(螺旋状)をミックスさせたパーマ。ツイストだけだとネジみたいに尖った印象になる、スパイラルパーマだけだと巻毛の優しい印象になる。ミックスするとシャープだけど優しい、可愛い印象になる。マッシュウルフは今のトレンド。ヘアカラーは、ブリーチなしのアッシュブラウン。ナチュラルなブラウンに灰色のくすみを混ぜてる。
「地上に降りたエンジェルをイメージした、君のためのヘアメイクだよ。どうかな?」
「とても似合ってますね。何か怖いです」
***
「聡一郎、いや、マライヒ!嬉しい、感動した!一里さんにお願いして良かった」悠一
「悠一、抱きつくな。暑苦しい。それにマライヒじゃない、一里さんは野に咲く花をイメージしたって言ってた(さすがに恥ずかしくて、地上に降りたエンジェルとは言えない)」聡一郎
「いや、どう見てもマライヒだ」当麻
「偽バンコランにそう言われてもね。一里さんの為に言っておくけど、マライヒじゃないから」聡一郎
「見かけは関係ない、俺たちなら本物を超えられる」当麻
「おまえ、馬鹿じゃないのか。おまえも暑苦しいから、抱きつくな」聡一郎
「無理。おまえ滅茶苦茶、可愛い」当麻
『野に咲く花でも、マライヒでもどっちだって構わない。ともかく、聡一郎に票が集まれば、何でも良い。いや、きっと聡一郎に票が集まる。こんな男は他にはいない』悠一
***
「なかなか思うようには行かないね。想定以上に、盛り上がってしまったのが原因だと思うけど。取り敢えず、SNSの投票状況を確認してみようか」圭介
1位 うさぎ 3705
2位 チュッパチャップス 3512
3位 橘聡一郎 3128
4位 アンドレ 2978
5位 福島愛 2712
6位 マライヒ 2688
7位 オスカル 1505
「票が割れてる。何故、アンドレが聡一郎と競ってるんだ」悠一
「それだけじゃない、マライヒも聡一郎を猛追してる。何なんだこれは?」悠一
「聡一郎君、個性豊かな女性たちを差し置いて、アンドレとマライヒも含めて、3人足すと他を寄せ付けていない。さすがだな」圭介
「結局、ただの人気投票じゃない」汐音
「だとすると、うさぎ君がトップなのは解せない。オタクの裾野は広くないから、チュッパチャップスより票を集めてる理由が分からない」圭介
「簡単なことですよ、オスカルが自分の票をうさぎに回してるからです。そんなことより、どうしてマライヒがアンドレに負けてるんだ。おかしくないか?」当麻
「何で当麻がここにいる」悠一
「悠一を見張ってんだよ」当麻
『俺を見張っている?』
「あなたは確かバンコラン、聡一郎の彼氏だったかしら」汐音
「気が合いそうですね、それにとても綺麗な方だ。正確に言えば、マライヒの愛人がバンコランで、聡一郎の彼氏が僕です。藤原当麻です」
「初めまして、聡一郎の従姉弟の汐音です」
「綺麗なわけだ、それに橘と違ってとても知的だ」
『さすが、当麻だ。相手のツボを外さない。しかも、従姉弟を味方に付けておこうと言う下心が見え見えだ。いや、そんなことより当麻は人の先を読む、当麻を何とかしないと不味いことになりそうだ』悠一
***
再び男子バレー部部室、秋葉悠一、渋谷智裕、大塚湊が密談している。
幸いオスカルは戦線を離脱してくれた。チュッパチャップスには本当に普通の女の子に戻って貰う。夢の夏合宿が近づいている。
「問題はうさぎちゃんだ」悠一
当麻はうさぎちゃんにグランプリを取らせるつもりだから、俺が何も出来ないように見張っている。あいつは勘が良い、と二人に状況を説明する悠一。
「まあ、悠一が何かするって思うわな」智裕
「そうだ、俺たちはやる」悠一
投票日前日のうさぎちゃんのミサで、聡一郎を使って懺悔を無力化し、うさぎちゃんの票を俺たちで横取りするつもりだ。
「俺たちじゃなくて、聡一郎だろ」智裕
『そうだ、俺は泣きっ面のうさぎちゃんにオシオキするつもりだ』と思う悠一
「結局、当麻はどうするんだ?」湊
「簡単なことだ。ミサの間、当麻と聡一郎を一緒にしておけば良い。そうすれば、当麻は聡一郎のこと以外のことは考えない」悠一
「聡一郎に頼むのか?」大塚湊
「ああ、駄目だったら、でっちあげれば良い」悠一
「またか」智裕
「聡一郎は殆どスマホを使わないから、簡単に貸してくれる。こないだ、バッテリーが切れた時、二つ返事で貸してくれた。プライバシーとかも、気にしないみたいだ」悠一
「今時、そんな奴がいるのか」湊が変に感心する。
「まあ、恒星と聡一郎くらいだな、隠すようなプライベートがないのは」悠一
いざとなったら、聡一郎の携帯から、当麻をバレー部の部室に呼び出す。念の為、ミサが終わるまで、外から鍵をかけて当麻を閉じ込めてしまうつもりだ、と説明する秋葉悠一。
「良いのか、そんなことして」智裕
「大丈夫、どうせ鍵を閉めても気づかない」悠一
気づいても、聡一郎がくれば開くから気にしない。聡一郎の携帯も電源をオフにしておく。当麻は見かけと違って、ピュアで、真っ直ぐで、凄く良い奴だから、聡一郎を疑うようなことしない。待てと言えば、ハチ公なみにいつまでも平気で待つはずだ、と説明する秋葉悠一。
「そんな奴をよく騙そうと思うな、悠一は」湊
「これはゲームだ。本気で騙すわけじゃない」悠一
それに、当麻を部室に閉じ込めたとしても、聡一郎が助けに来ればハッピーエンドになる。
■ベスコン(大茶会)
7月21日(木)ベスコン前日、快晴。
(2:00 p.m. 茶室兼持仏堂)
数奇屋風の書院と茶室兼持仏堂が一続きになった茶道部。先程まで、縁座敷のある広間で大寄せの茶会で、聡一郎は、汐音と交代で、訪れた茶道部の部員や一般の学生に、茶菓子や薄茶を振る舞っていた。
今は広間の奥にある4畳半の茶室の阿弥陀如来像の前で、うさぎちゃんとオスカルと向かい合って正座している。うさぎちゃんは夜のミサのコスチューム、オスカルはフランス近衛連隊長の正装、聡一郎は東大寺学院バレー部のジャージを着ている。其々は正装のつもりで座っているが、とても茶会とは思えない景色だ。
それでも、秋葉悠一は気にせず動画をライブ配信している。
チュッパチャップスは6:30 p.m.からの大茶会メモリアル・サヨナラコンサートの準備のため、肝心のお茶会には出席しない。福島愛も卓球部からの取材・撮影お断りで、お茶会ライブには参加しない。
やっぱり、何か落ち着かない。ジャージ姿の聡一郎がオスカルのサーベルとうさぎちゃんの鞭を無理やり没収する。
「構わぬだろう。サーベルがないと絵にならぬ」
「私も鞭がないと落ち着かない」
「サーベルは演劇用だし、うさぎちゃんもオリジナルは鞭を使ってない」
お茶会は神聖なもので、持ち込みは禁止だと構わずに没収する。
「そのジャージはどうなのだ?神聖なものなのか」
「 、、上着は脱ぎます」
渋々、上着を脱いで、改めてうさぎちゃんとオスカルと向き合う聡一郎。本当にここでお茶を点てて良いのだろうかと考えながら、2人に微笑むと、うさぎちゃんとオスカルも微笑み返しで、聡一郎に応える。
これが噂の読モ男か、可愛いすぎるぞ。不味い、禁断症状で手が震えてきた、オシオキしたい、と聡一郎を食い入るように見つめるうさぎ。
「あの、何か悔い改めることはありませんか?」うさぎ
「ないよ。後悔したこともない。それって楽しいの?」聡一郎
「そこから悔い改めませんか?」うさぎ
「だったら、先ずはオスカルに悔い改めて貰いたい」聡一郎
「何を言う、私とて悔いることなど何一つない。未だ私のことを思い出せぬのか?」オスカル
「何か揉めてますか?」うさぎ
「揉めてはおらぬ、私のアンドレの記憶が戻らぬのので悩んでいるだけだ」オスカル
「何でも良いから、オシオキして貰えませんか?」聡一郎
「そう言うわけにはいかないんです。本人が悔い改めてくれないと、趣味が犯罪になる」うさぎ
「そうなんだ、ちゃんと考えてるんだ」聡一郎
「私たちも2人の将来を考えるべきではないのか」オスカル
「将来ではなく過去でしょ、2人の問題は」聡一郎
「何か思い出してくれたのか、アンドレ」オスカル
「アンドレじゃないから、自信あるよ。言っとくけど、マライヒでもないから」聡一郎
何、この2人。ゾクゾクする。2人まとめてオシオキじゃない?何でも良いから、懺悔させたいわ。
「あの、今夜はお暇でしょうか?ベスコン前夜祭の特別ミサに、是非、お二人で、ご一緒に」
***
4人が正座して畳の上に並べられたスウィーツを眺めている。
悠一に、ライブ配信しなくて良いのかと尋ねる聡一郎。チュッパチャップスの録画を流してるから、大丈夫と応える悠一も一緒に座っている。
茶菓子として、聡一郎は2種類のケーキを作ってみた。オスカルをイメージした薔薇のレアチーズケーキには、レアチーズに無農薬の薔薇から抽出したローズシロップを練りこみ、ラベンダーの香りを加えている。
うさぎちゃんをイメージした苺のショートケーキには、あと口がさっぱりするように、生地にジンジャーとローズヒップを混ぜて風味を付けている。
三人に先に薔薇のレアチーズケーキの方から食べた方が良いと薦める。
薔薇のレアチーズケーキを口にするオスカル、口に広がる華やかな薔薇の香りと、慎ましいラベンダーの香り。まるでお花畑にいるようだ、と立ち上がるオスカル、一人、軒先に詰め寄ると聡一郎の方に振り返る。
「ああ、アンドレ、おまえはどうしてアンドレなのだ?」と吐露するオスカル
「だから、聡一郎だって」
「家を捨て、名を捨ててくれ。そうすれば、私も家を捨て名を捨てよう」
「無理だって、これでも当主なんだから」
『聡一郎、ここが見せ場だ。今更、当主って自覚するな、もっと気の利いたこと言ってくれ』
いつのまにかライブ配信している秋葉悠一、オスカルがジュリエット、色々と倒錯してるが新しい。
『元はと言えば悠一のせいだ、責任取れ』
『まあ、怒るな、アンドレ』
***
「苺のショートケーキも美味しかったです」うさぎ
アンドレさんはパテシエさんでもあるのでしょうか?と尋ねるうさぎ。
「パテシエでも、アンドレでもないから。うさぎちゃんはオシオキされたいのかな?」
「掟破りの逆オシオキですか、順番に交代してくれるなら考えても良いです」
「貴様、良い覚悟をしているな。私のアンドレに手を出せば、貴様の命は保障できぬぞ」
黙って茶碗にお湯を注ぐ聡一郎。『早く終わらせたい』
***
どうぞ、うさぎとオスカルの其々に茶碗を差し出す聡一郎
うさぎには、朧な月の模様が浮かぶ黒い茶碗を、オスカルには、華やかな清水焼の茶碗を渡す。
夜に月が浮かんでる。手にある黒い茶碗を眺めるうさぎ、それは深い緑のお茶の水面を照らしているようにも思える。そのまま月まで飲みたくなる。
「茶碗を回せば良いのですよね、100回くらい回せば良いですか?」
「好きなだけどうぞ」
「回した方が良いのか」華やかな桜模様の茶碗を眺めるオスカル
「回さない方が良い。正面の絵柄を少しずらせば良いだけ」
茶碗を回し続けるうさぎ、『不味い、抹茶の渦を見てたら酔ってきた。あと、何回まわせば良いんだっけ?』、茶碗のまわりで回り始めるうさぎ。
うさぎの隣りで、気高く優雅にお茶を飲むオスカル。淡雪のような抹茶が口の中で溶けると、その苦味は消えて、爽やかなペパーミントの味が広がる。更に一口飲むと、泡立てられた抹茶が、真紅に変わる。
「美しい、ルイボスティーか?抹茶の苦味とルイボスティーの甘みのハーモニーが素晴らしい。アンドレにはティーソムリエの才能もあったのだな。私は幸せ者だ」
歌いたくなってきた、愛、それは、と両手を広げるオスカルを、聡一郎が、茶道では歌謡曲は禁じられていると適当なことを言って制止する。
「それはつまらぬが、仕方ない。ところで隣りの女は大丈夫なのか?」オスカル
「気がついた?見なかったことにしない?」聡一郎
オスカルの隣りで、うさぎが目を回して倒れている。
***
立ち直ったうさぎが茶碗を傾け、緑の薄茶を飲み干す。
「結構なお手前でした」
「いやー、お手前というほどのものでは」
「私も初めてだったが、お茶とは良いものだな」
「いやー、お茶というほどのものでも」
「いや、気に入ったから、また頼むぞ、アンドレ」
「私も好きです。また、お願いします、アンドレさん」
「一期一会にしましょう」
終わりかな、何か知らんが、落ちも付いたみたいだ。さすがだな、アンドレ、秋葉悠一がライブ配信を終了する。
***
「え、未だやるの?」聡一郎
「頼む。愛ちゃんを慰めてあげて欲しい。和服も借りてる」悠一
(3:30 p.m. 持仏堂)
慣れない和服を着た福島愛が、気まずそうに畳の上で正座している。卓球選手の割りには、なで肩で、色白の可愛い顔をしている。和服が良く似合う。髪はショート・ボブのサイドをただ耳に掛けただけだが、明るい瞳がひときわ綺麗に見える。魔性の女というより、可愛いらしい女学生そのものだ。
茶杓を清めながら、微笑む聡一郎
「着物が似合いますね。今日は可愛いです」
聡一郎を見返す福島愛。
「緊張しないで下さい。ただ湯を沸かし茶を点てて飲むだけだと利休も言ってる。作法なんかも気にしなくて良いです。作法は僕も苦手です」
「苦手なの?茶道って形式美だと思ってた」
「茶の湯が素晴らしいのは、日常から離れて、時間を共有できるからだと思います。ほんの束の間ですが、お互いの人生が素肌のまま重なり合う。その人生は誰一人として同じではないから、その瞬間は二度と繰り返されることはない、かけがえのないものだと思います」
誰なのだろう、福島愛が知らない聡一郎がそこにいる。曇りのない瞳は、世界を覆う空のように澄んでいる。けれど、近くて遠い、深くて浅い。その瞳の奥には、静寂が深い森のように続いているようにも思う。何故か分からないが、心が静まるのを感じる。
「どうしてかな、橘君といると落ち着く」
聡一郎の周りには、双子の座敷童子が幾重にも結界を張っている。一切の邪気を寄せ付けない。
***
湯を茶碗に入れ、茶筅で点てる聡一郎。
「不思議です。何で何も言わないんですか。魔性の女とは思えませんよ」
諦めたように微笑む福島愛。
「わざとだから、、秋葉君が練習を見に来ていたのを知っいて、康介に抱きしめられた。抱きしめられて、ホッとしたの」
「ホッとした?」
「もう、終わりにしたかった」
ショックだった。大和と橘君が練習している動画、あの無愛想な大和恒星が生き生きと輝いていた。私と雛も、2人で一緒に夢を見ていたのに、私が嘘をついたから、何もかも駄目にしてしまった。
何故だろう、何もかも話したくなる。聡一郎は何も言わずに聞いてくれる。幼い頃に遊んだ神社、その鳥居から眺めた、懐かしい空や雲を思い出す。高校の頃、雛と一緒に見上げた空、学校の屋上から眺めた景色、何の疑いもなくな、ただ、眩しかった。胸があつくなる、ただ、話しを聞いて欲しい、、
私は本気ではなかった。ただ、誰かに側にいて、頑張ってるねって慰めて貰いたかった。お互いに気まぐれだから、いつかは終わる、嘘をつき通せば、何も無かったですむはずだった。彼が本気だなんて思わなかった。
雛に謝りたいけど、そんな資格はない。許して貰いたい、そう願ってる私自身も許せない。もう、どうしようもない、どうしたらいいのか分からない、だから、全部、私のせいで構わない、ただ、もう、雛を傷つけたくない。
黙って話しを聞いていた聡一郎が、何故か優しく微笑んだように思う。
「もう傷ついてるよ、2人とも。嘘を終わりにしたいなら、すべてを話すしかない。逃げたら駄目だ、きっと後悔する。許して貰うためじゃない、傷つけた人のことを思うなら、できるよ」
私を信じてくれるのだろうか、聡一郎を見返す福島愛、いや、信じてくれなくても構わない。私が分かっている。雛のためなら、私は何だってする。今も昔も、その気持ちだけは変わらない。
聡一郎が差し出した茶碗を受け取る福島愛。
「過去は変えられない。もう、やり直せないかも知れない。それでも、嘘を吐くのを止めれば、いつかは分かって貰えると思う」
茶碗の中の深い緑の抹茶を見つめる福島愛。
「何も考えずに、一気に飲み干せばいい」
「抹茶って苦い」
「でしょ」聡一郎が笑っている
その笑顔に癒される福島愛、聡一郎の姿が形を失くし、滲んでゆく。
「橘君の笑顔に救われるって本当だね、涙が止まらない」
涙を拭い、ベスコンはどうするの?と尋ねる福島愛
「恒星とカップルなんてあり得ない。俺、男だし。それに、誰かを好きになるってことが良く分からない」
「私もベスコンなんて、もう、どうでも良い。私には無理」
聡一郎の目をまっすぐに見る福島愛。
「私には、大和には橘君が必要だって分かった」
***
(5:00 p.m. 茶室兼持仏堂の縁側)
聡一郎が、軒先でハルとアキが遊んでいるのを見守りながら、蝉が鳴くのを聞いている。
お邪魔しても良いかな、目黒圭介がその隣りに座る。
「今日は何だか疲れました。個性って暑苦しいものですね、蝉の声が涼しく聞こえます」
「大変だったね。でも、僕はベスコンが明日でお終るのが寂しい気がする。結局、ベストカップルを選ぶという名目のお祭りでしかないけど、ここまで盛り上がるとは思わなかった」
「盛り上がってるんですか?」
「知らなかったんだ。面白いね、君は」
「皆んな変わってる。何が良いのか、さっぱり分からない」
そうなんだ、と人ごとに言う圭介を、眉をひそめて興味深く眺める聡一郎
「そうか、目黒先生って汐音ちゃんに似てるんだ」
「似てる?」
「似てますよ、見かけだけでなく、良く分からないところも」
「君に言われたくないな」
「そうですか?」
少し考えごとをする聡一郎
「そうだ、お茶でも飲みますか。ずっと一緒にいたような気がするのに、一度も一緒に飲んでませんよね」
***
「薄茶を点てますね。せっかくだから、清めてみます。道具が汚れてるのは可哀想だから、拭いたり、洗ったりしてるので、清める必要ないんですけど」
袱紗で棗をさっと拭くと、茶杓を取り、目を瞑り、祈りを捧げる。幾重にも張り巡らされた結界を潜り抜け、人知れず、精霊たちが舞い降りる。茶杓を拝んでいる聡一郎の表情が、手のひらに落ちた雪の結晶のように、優しく溶けてゆく。祖父ちゃん、
「すみません、直ぐに戻ります」と席を立ち、茶室を離れる聡一郎
主人が居なくなった空間で、阿弥陀如来像が変わることのない微笑みをうかべている。元々、この茶室兼持仏堂は、戦後、橘家から寄贈され、東大寺学院に移築されたものだ。この阿弥陀如来像もそれと一緒に寄贈されたものだろう。
しばらくして、聡一郎が茶碗を手にして戻って来た。鉄絵で竹が描かれた織部焼の茶碗、目黒圭介にとって懐かしい茶碗だった。
「祖父が普段、愛用していたものです。祖父は黒竹と呼んでました」
黒竹に茶杓で棗から抹茶を掬い入れ、柄杓で湯を注ぎ、茶筅で泡立てる。ふり注ぐ光のように、流れ落ちる水のように、欠けることもなく、余ることもない所作。
亡くなった橘慶一宗匠に似ているようで違う。圭介の脳裏に橘慶一の言葉がはっきりと蘇る、『聡一郎は、橘の茶の湯を極めるために生まれてきた』
目黒圭介が、聡一郎に初めて会ったのは、20歳の学生の時だった。「聡一郎といると不思議なものが見える」と汐音が言うので、聡一郎と茶の湯に少しばかり関心を持ったのがきっかけだった。実際の聡一郎は愛らしい子供でしかなかったが、大宗匠橘慶一の茶の湯の方には惹かれた。
枯れた侘び寂びとは違う、透き通る空のように理性的で、翳りがない静寂は、自分そのもののように感じられた。意識のみが物質に対峙する、あるがままの世界。それは色即是空、空即是色という、この世の真理の断片を圭介に見せてくれた。
目黒圭介が再び聡一郎に会ったのは、聡一郎が13歳の時だった。大学の新学期が始まる前に、カリフォルニアから日本に里帰りした際、橘慶一に挨拶に来た時だった。合わせたい人がいると言われ、紹介された少年が聡一郎だった。
聡一郎は不思議な少年に成長していた。どこまでも透き通る瞳は、深く底が知れず、華やかな笑顔の裏に、夜明けまえの空のような静けさを感じた。太陽のように透明で、植物のように冷めている。目黒圭介の理性が世界を映す鏡とすれば、聡一郎は透き通るほどに透明な太陽だと思えた。照らすものと、照らされるもの、何ものをも必要としない、あるがままの純粋な輝き、目黒圭介にとって、本当は否定すべき存在だったのかも知れない。
慶一は聡一郎に、ただ、圭介は汐音の従兄妹だと紹介し、聡一郎は丁寧に挨拶だけして席を離れた。それで終わりにすることができたかも知れない、けれど、その時、圭介は橘慶一と、聡一郎を見守ると約束してしまった。
誰よりも愛されるはずなのに、誰も愛することが出来ない。事故で両親が亡くなった時から、現実を受け入れないまま、聡一郎は心を閉ざし、自らを封印している。橘慶一が圭介に告げたことだ。涙を流し泣くことも、自らの言葉も失い、聡一郎は、変わる季節の中で、透き通るように生きている。けれど、慶一は信じていた。聡一郎はいつか必ず自分を取り戻す。誰かを愛さない限り、愛されることもない。本当の空の青さは、激しい嵐の後にしか訪れない。この世界の本当の美しさを聡一郎が知った時、その時こそ、橘の茶の湯は完成する。
- それまで、見守ってくれないか ー
何故、そんな大事なことを、圭介は頼まれたのか?定めだと言われた。頼むも、頼まれるもない、そういう定めだと。何故かは分からない、ただ、圭介はためらいもなく、その定めを受け入れてしまった。この少年の魂に触れてみたい、そう思った。その時、圭介はようやく汐音の言葉を理解した、精霊たちが聡一郎と共にいる、彼は目に見えない世界に生きていて、人知れず守られている。彼がいつか目覚めるその時まで、、
去年、東大寺学院の准教授に招聘され、圭介は日本に戻って来た。バレーボールのインターハイが東京で開催され、聡一郎が出場すると知り、見に行くことにした。茶の湯では聡一郎は既に特別な存在だった。華美を遠ざけ、侘び寂びの美意識、洗練された精神性を求めた利休の茶の湯とは違い、無為自然な華やかさの内に、心の静寂を見出した橘流。その橘宗匠たちの中でも、聡一郎には天地の精霊までが宿る、時間さえ止めると噂されていた。
インターハイ初戦で聡一郎の飛鳥高校は、絶対王者の竜王学園と対戦していた。そこに大和恒星がいた。これも定めかと圭介は思った。それはほんの束の間だったが十分だった。圭介は扉が開かれる瞬間を見た。その扉は直ぐに閉ざされた、けれども、大和恒星は必ずまた扉を開ける。聡一郎は必ず目覚める。
透き通るほどに透明な太陽は、今も翳りない。
圭介の脳裏に浮かぶある哲学者の一節、「汝、大いなる天体よ、汝にして照らすもの無かりせば、汝の幸福はそもいかに」
そして思う、太陽が恋をして、海に溶けて沈む時、そこに永遠があるのかも知れないと。恐らく、太陽は未だ沈まない。それは今でない。
「先生は面白いですね、ずっと一人で考えていられる。鷲みたいに空を舞い、世界を眺めている。僕はかじのない船のように、ただ流されていくだけ、全く違うのに、僕は先生とどこか似ているような気がする。不思議です」
どうぞ、と聡一郎が黒竹を圭介に差し出す。
「祖父の心です。飲めば分かります」
手に取ると、黒竹が自ら圭介に語りかけてくる。
『たかが一生、夢の如く生き、幻の如く逝く』
酒を好み、晴れやかに話す鷹揚な人だった。茶碗を上げ神仏に祈り、一口だけ口に含む。
『人は幾らでも生まれ、死んでゆく。たまたま生まれ、死ぬまで生きる、それで十分、それ以上、この世に何の意味が必要か』
その言葉を深く味わうように飲む。慶一宗匠の言葉が圭介の心の奥に浸み込んでゆく。移り行く季節を愛し、人を愛し、愛されたまま、夢の如く去っていった。そのまま、二口、三口と一気に飲み干す。
目の前の聡一郎を残して、、
夜明けの空を、太陽の船に乗り、時の波を渡って、旅を続ける、誰かの姿が圭介にも見えたように思う。幻なのだろうか、圭介の理性が問う、けれど圭介は知っている、幻ではないと。それは精霊たちの記憶の断片。
「祖父は、僕には茶の湯のことは何も教えてくれなかった。唯一教えてくれたのが、初心忘るべからずです。でも、出鱈目です。空が青いのは、誰のためでも、誰のせいでもなく、ただ青いからだ、僕は僕のままがいい、それが僕にとっての初心忘るべからずだと繰り返してました」
「大宗匠にしか、言えない言葉です。月並みなことしか言えないけれど、僕は心から大宗匠を敬愛していた。それは今も変わらない」
「祖父も先生のことを、とても信頼していたんですね。僕には分かります。祖父は今も僕の中で生きているから」
「その茶碗は先生に差し上げます」
「とても貴重なものだよ」
「ええ、祖父の心です。先生が持っていた方が、きっと祖父は喜ぶ」
***
(6:25 p.m. )
目黒圭介が茶室を離れた後、聡一郎は、今日は色々なことがあり過ぎて、疲れた、ぼんやりしたいと、茶室兼持仏堂から広間に続く縁側に出ると、夕暮れの苔むした庭の陽だまりの中で、木陰と飛び石が戯れるのを、ハルとアキがじっと見つめていた、上野和香と手をつないで。
「え、何で?」
聡一郎に気付いて微笑む上野と双子の座敷童子。
「見えるの?」
「何が?」
「いや、何でもない。ハルもアキも、そろそろ家に帰らないと、皆んな心配するよ」
取り繕う聡一郎を睨んで、「和香ちゃんといる」と上野にしがみつくハル
「橘君に似てるよね、従兄弟かな?いつも和服を着てるから、橘君と関係のある家の子だと思ってた」
「違うよ、ハルもアキも聡一郎の子供だよ」
「だったら良かったよね、ハル」
「違うの?じゃあ、和香ちゃんの子供かな」
「ごめんね、あまり躾が良くなくて」
「いいよ、二人とも凄く可愛い」
懐いている、どうして?汐音ちゃんにさえ懐かないのに、
***
(10:00 p.m. 男子バレー部部室)
最後にここか、外からかけられた鍵を開ける聡一郎。部室に入ると、暗闇に目を凝らして当麻を探す。屋根の採光窓から入る月明かりを浴びて、待ちくたびれたのか、当麻は眠っていた。
「まあ、騙された俺も悪い。悠一の奴、人の弱みに躊躇なく付け込む。ある意味、尊敬するわ」
「悠一にスマホを貸すんじゃなかった。壊れたって嘘まで吐いて、俺はもう悠一を信用しない」
「別に良いんじゃないか、俺は悠一のそう言うとこ、嫌いじゃない。それに、橘も来てくれた」
「おまえ。怒ってないの?」
「怒ってないよ、橘に会いたかっただけだし、今あってる。待った甲斐があった」
「寝てたじゃん、おまえ。まあいいや、お腹すいてる?」
「すいてる」
「じゃあ、何か作るよ。俺のアパートに行こ」
「待って、もう少しここにいたい」
「いいよ」と、当麻の隣りにしゃがみ込む聡一郎
「何か、色んなこと詰め込んじゃってるけど、話し膨らませ過ぎじゃないかな。キャラも変だ、オスカルに、うさぎちゃん、バンコランもだ、作品のカラーが最初と違ってる」
「バンコランは仕方ないだろ、オスカルに負けないキャラってなかなかいないぞ」
「まあな、話しの筋は変わっていないから、気にしていないんだろうけど、もう少し登場人物に気を使って欲しい。結構、戸惑ってる」
「でも、その髪、似合ってる」
「髪?」そう言えば、髪を切ったなと思い出す。
「ありがと、寝起きのままでも気にならない。楽になった」
聡一郎に寄りかかる当麻。
「俺たち、ずっと一緒にいような」
「当たりまえだろ」
「俺さ、橘が変わるのが、怖いと思った。だから、本当に橘が来るのを待ってた」
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