レッスン8 扉の向こう

レインボーブリッジ(夏至の日)前編

 6/20(月) 芒種(注)、今日も梅雨時の灰色の薄雲が広がっている。第二体育館に隣接するバレーボール部の部室の前で、聡一郎が脚立に上っている。


「橘君、何してるの?」和香

「上野さん、ちょっと脚立支えてほしい」聡一郎


 屋根の下で壁にはりついている燕の巣の中で、3羽の雛が黄色い口を開けて鳴いている。


「可愛い、餌をあげたくなる」


 聡一郎が雛が鳴いている燕の巣の下に鴉除けの紐を張っている。


「下からジャンプして巣を蹴り落とすから、鴉除けの紐を張ってる。鴉には悪いけど、谷中の実家に居た時もこうしてた」

「手伝おうか?」

「大丈夫、雛の糞で汚れるし、もう終わるから」


「上野さん、知ってる?燕って益鳥なんだよ」

「害虫を食べるんだよね」


 燕は春にきて秋にいなくなるまで3回くらい子育てするけど、雛は凄く食べる。親燕は1日に300回くらい、空中を飛ぶ虫を口一杯にくわえて巣に戻ってくる。だから、燕は昔から田んぼの害虫を食べてくれる益鳥として歓迎されてきた。

 燕のほうも鴉や猫、ヘビなんかの天敵を避けて、人の出入りが多い賑やかな家に巣を作る、燕を喜こんで迎え入れる家には次の年も必ず帰って来る。そうやって燕は人と一緒に暮らしてきたし、燕が巣を作る家は栄えるって言われてきた。


 部室前、陸上競技のグラウンドを囲む舗装路に沿って咲いている紫陽花、その紫陽花をおおう梅雨の空で、2羽の燕が旋回しながら舞い降りて、低空飛行でお互いにクロスして、また空に舞い上がる。しばらくして、1羽の親燕が、脚立の上で雛を見ていた聡一郎の肩にとまり、くわえてきた餌を聡一郎に渡そうとする。


「お礼のつもり?ありがと、でも俺は虫は食べないから、早く雛にあげて」


 親燕に微笑む聡一郎、雛の黄色い口に餌を押し込む親燕、我先にと必死に親鳥に口を広げる雛たち。


「親子って良いな」聡一郎


 うつむいたまま脚立を支える上野和香(さすがに、これは橘君、凄いねって流してはいけない気がする。でも、主役だし燕と仲良くお話しするくらい当たり前か、天使って翼あるから鳥の仲間かも)、やっぱり見なかったことにしよ。


「そう言えば、Yeh-yeの8月号って先週の金曜日に発売されたらしいね、私たちには発売前に送られてきてたけど、橘君は七夕の特集を見た?」和香

「見てないよ」聡一郎

「見ておいた方が良いよ、色々と噂されると思う」和香


(注)芒種(ぼうしゅ)6/6-20日頃、稲や麦など穂の出る植物の種を蒔く頃のこと。稲の穂先にある針のような突起がのぎ。この頃から、雨空が増えていきます。紫陽花は梅雨時を象徴する日本固有の花です。「万葉集」にも名前が出てくるほど古くから知られています。


***


(午後の法学部講義棟)


 幾人かの男女が聡一郎をチラ見している。


「噂されてる気がする」聡一郎

「前もあったな、高1の時。おまえ写真だとキラキラになるからな」淳

「私も言われた、橘君って寝顔が可愛いねってさ、皆んな変わるわ」綾乃

「寝ぼけた顔しか見てなかったから、起きてる姿が新鮮だったんだろ」淳


 聡一郎は写真が好きでない。写真の自分は嘘っぽいと思う一方で、『おまえだってそうだろ』と見すかされているような気もする、とにかく落ち着かない。


「やっぱり写真が変なんだ、嘘っぽい」聡一郎

「おまえも変だよ、髪くらいとけば良いのに、いつもユネクロの部屋着きのままだし」神田淳


 それもそうだと思う一方で、面倒くさいと思う。本当は自分と向き合いたくないだけだが、そのことには気付いていない。


「まあ、皆んな直ぐに飽きると思うよ、世間ってそんなもんよ」綾乃

「それもそうだ。気にするな、おまえは何も変わっていない」淳

「あっくん、人ごとにしないで欲しい。気になって眠れない」聡一郎

「大丈夫だよ、おまえ眠ってたから。もう講義終わって部活行くとこなんだけど」淳

「ほんとだ、何でだろ」携帯で時間を確かめる聡一郎



(男子バレーボール部部室)


 秋葉悠一が当麻が持って来たYeh-yeの七夕特集を見ている。


「浴衣でデートしたんだ、羨ましい」悠一

「まあな、上野と片岡の浴衣姿は可愛いかったよ、ところで橘は?」当麻

「講義で居眠りしてたから置いてきた、淳が連れて来るよ」悠一


 上野と片岡の金魚と朝顔、桜と向日葵の浴衣姿を、もの欲しげそうな顔をして眺める秋葉悠一


「もうすぐ夏だな、早く梅雨明けて欲しい、海で花火したい」悠一

「無理だろ、おまえ部活だろ、それに彼女いないじゃん」当麻

「何でだろ、寂しいな。俺も瑞穂ちゃんと浴衣着て、手を繋いで、たい焼き食べたい。おにぎりも食べてる、可愛いな」悠一

「アイスとたこせん、紫芋まんじゅう、焼き煎餅、あと、みたらし団子も食ってたよ」当麻

「ほんとだ、昼食に鰻を食べて、おやつにたこ焼き、屋形船で夕食か、健気だな、笑ってるけど大変だったんだ。瑞穂ちゃん、大好き」悠一

「おまえ、片岡に告れば」当麻


 一番食ってたし、撮影だって橘と一緒に逃げ回ってたけどな。


「無理、告って振られたら傷つくだろ」悠一

「大丈夫だよ、おまえゾンビだから」当麻

「おまえ、酷い。自分だけ上野といい感じで遊んで、まさか、できてないよな?」秋葉悠一

「できてないよ、上野は橘の追っかけやってる。前から橘のファンだったって言ってた」当麻

「じゃあ、聡一郎とできてんのか?おまえ聡一郎にキスしてたけど」悠一

「できてないよ、キスもしてない。それも単なる読者サービス」当麻

「聡一郎って可愛いからな、男にしとくの勿体無い気がする」悠一

「だったら、おまえが告れば」当麻

「馬鹿言うな、可愛いくても女じゃない」悠一


「それより、何でおまえがバレー部の部室にいるんだ?」悠一

「俺、こっちで着替えてから、バスケ部の部室に行くことにした」当麻

「何考えてんだ、おまえ」悠一

「掛け持ちした方が楽しいだろ、バレー部好きだし」当麻

「おまえは聡一郎が好きなだけだろ(おまえ、分かりやす過ぎる)」悠一

「まあな、終わらない夏休みって感じ、いつまでも一緒に遊んでいたい気がする」当麻

「男と遊んでたいか、女好きの当麻がね」悠一

「悠一には悪いけど、俺は恋愛がつまんなくなった」当麻


 渋谷と部室に入って来た恒星、当麻と目が合う。


「何で藤原がいるんだ」恒星

「おまえ、ワンパターン、前も聞いたよな、俺は橘に会いに来たの、悪いか」当麻

「別に、俺には関係ない」恒星

「ああ、大和には関係ない。そうだ、これやるよ、七夕のデート特集してる。大和は相手には困らないだろ、どっか行ってこいよ」Yeh–yeを恒星に渡す当麻


 丁度、聡一郎が神田淳と部室に入って来て、当麻を見つける。


「当麻のせいで、眠れなかっただろ!」聡一郎

「だから、おまえはしっかり寝てたよ」神田淳

「御免、良く分からないけど、俺のせい?」当麻

「そうだよ、噂されてる気がして落ち着かない」聡一郎


「トラウマだな。高1の時にも聡一郎は雑誌で紹介されて、教室までJKが押しかけて来るし、盗撮されたり、男に襲われたり、大変だったもんな」淳

「盗撮に、男に襲われた?少女漫画みたいだな(ありなのか?)」悠一

「(ありでしょ)学園ドラマでも良くある。男子校なのにJKに囲まれて手作りのランチを食べてたし、男に襲われて不可抗力で怪我させて、病院連れて行って看病したり、盗撮も気付いちゃうから、一生懸命、愛想振り撒いてたよな」淳

「15歳で橘の家継いで、わけも分からずに騒がれて、ほんとに憂鬱だった」聡一郎

「そのうち聡一郎が寝起きで、部屋着のまま登校するようになったら、騒ぎもおさまった。思えば、あの時、今の聡一郎が誕生したんだな」淳


『いや、単に祖父ちゃんがいなくなって、身嗜みに気を使う必要がなくなっただけだって』聡一郎


「でも、中学のときから俺といる時はダラダラしてたよな、何でだ?」淳

「さあ」聡一郎、何でって、あっくんの顔かな。和むでしょ、気が抜けるって感じかな。


「分かった、ともかく俺の責任だ」黙って聞いていた当麻が口を挟む。「心配するな、しばらく俺が一緒にいる」

「良いよ、気にしなくて」聡一郎

「大丈夫、気にしてないから、むしろ俺は一緒にいたい」当麻

「大丈夫だって、それより、何で当麻がここにいるんだ?」聡一郎

「ここって部室だろ?着替えに来たんだけど」当麻


『ここで着替え?当麻、バスケ部だよな、まあ、良いか』聡一郎


「じゃあ、練習後で良いから、俺のアパートに寄れる?」聡一郎

「やっぱり不安だろ。大丈夫、泊まれるから、遠慮しなくていいから」当麻

「遠慮はしてないけど、泊まらなくていい。当麻と一緒の方が怖い」聡一郎


「そろそろ、練習の時間かな」、部室の壁にかけられた無表情な時計を見る秋葉悠一。

「当麻もいい加減にバスケ部に戻れ」悠一


***


(練習後、湯島天満宮近くの聡一郎のアパート)


 聡一郎のアパートのキッチンで聡一郎と当麻が並んで晩御飯の支度をしている。


「週末、実家で縞鯵をたくさん貰ったから、一夜干しにしたんだ」聡一郎


 縞鯵はこれからが旬で美味しいが、一夜干しだと日持ちしないので、聡一郎は当麻に食べるのを協力して貰うつもりだ。


「一夜干しって鱗落として、開いて、干すんだよな」当麻


 大学生が一夜干しつくってるのって良いかも、大谷さんに言っちゃおうかな、二人の特集組んでんくれるかも知れない、と密かに思う当麻。


 一夜干し作りは下処理から始まる。鯵の鱗と棘を落として、えらや内臓、血合をとって、水で洗い流す。水分を綺麗に拭って、腹開きにする。下処理が終わったら、鯵を海水程度の塩水に、日本酒をほんの少し加えて、1時間ほどつけこむ。また、塩水を洗い流して、水分を拭う。最後に屋外の小陰で半日から1日干せば出来上がりだ。


「貧乏学生が手作りの一夜干しで友人と晩餐か、やっぱ良い感じ、大谷さんに頼んで2人で特集組んで貰おうか?」

「おまえ、ほんとは俺のこと心配してないだろ」

「心配してるよ、だから一緒にいるんだろ」

「おまえと一緒にいたい彼女たちに恨まれてないのか(彼女たくさんいるよな)」

「そこまで期待されてないから大丈夫。それにしても、一夜干したくさんあるな」


 聡一郎の実家には旬の食材がたくさん贈られて来る。谷中の実家で料理教室を開く他、三浦の料理旅館をはじめ、地方で老舗旅館やホテルも経営しているからだ。


「縞鯵だと刺身が良いんだけど、一夜干しの方が日持ちするし、配り易いだろ」と聡一郎、『祖母ちゃんと2人では食べきれないからな』

「でもさ、干物って朝食だろ、俺、泊まるから朝食にしない?」と当麻

「朝食だと早いよ、2:45 a.m.に起きれる?」

「何でそんなに早いの?」

「日の出が4:26 a.m.だから。明日は夏至だろ、レインボーブリッジまで走るつもりなんだ」

「だったら俺も一緒に行くよ、別に1人きりになりたいんじゃないだろ」

「恒星と一緒だから」

「大和と一緒?」

「朝練だから。未だ言ってないけど、いきなり2:30 a.m.に起こしたら、怒るかな」

「怒るよ、そりゃ、何で言ってないの?」

「先に言うと1人で行けって言うだろ、当麻みたいに一緒に行くって言わない」

「だから俺と行けばって、、違うか」


『大和は真剣に練習してる。俺もあいつの邪魔をしたくない、俺は正々堂々とあいつに勝ちたいと思ってる』、仕方ないなと諦める当麻。


「朝は大和に譲るけど、昼からは俺と一緒だからな。明日は特別だから」

「特別って何?何か変なこと考えてないよね」

「何も考えてないよ、一年で一番長い昼を楽しみたいだけ」

「昼から楽しむか、恒星は来ないかも知れないし」

「来るよ、怒ってもほっとけばいい」


 大和は橘のためなら何だってするはずだ、、


***


 縞鯵の一夜干しと、フルーツトマトと梅干し、鰹節をトッピングした中華風お粥の晩餐。


「何これ、お粥が美味しい」当麻

「中華粥って上品な雑炊みたいでしょ」聡一郎


 生の米に胡麻油を絡ませて、ウェイパー(豚骨や鶏ガラをベースに野菜エキスなどが配合された中華スープの素)で薄味を付けて、圧力鍋でじっくり煮込んでる。できれば米が細かく崩れて溶けてしまうくらい煮込んだ方が中華粥らしくなる。トッピングのトマトと梅は季節のもの、鰹節は川越の中市本店で買ってきたものを使ってる。



「橘って料理にはこだわるんだ、すごく極端だな」

「恵まれてるだけかな、好きなことだけさせて貰ってる」

「大和もか?大和って面倒くさくないか」

「そうだけど、何となくほっとけない」

「嫌いじゃないんだ」

「好きだよ、当麻と似てる」

「俺も嫌いじゃないけど、ムカつくんだよな」


 それは聡一郎も良く分かっている。


「てっか、何で泊めてくれないの?」当麻

「おまえ、家は近いだろ。ここ狭いし、ベッドだって一つしかない」

「一緒に寝ればいいじゃん、俺は平気だよ。橘も俺を抱き枕だと思えば良い」

「思わないよ、おまえ変」

「変じゃないよ、俺は橘が誰よりも大事なの。一緒にいたいって思うだろ」

「酔ってないよな?晩御飯、一夜干しとお粥だし」

「いいじゃん、一夜干しと話し合ってる」

「話し合ってる?」

「多分な」


 唐突に、顎クイする当麻、「せっかくだから、壁ドンもしたかったけど、壁まで遠かったからな」、不意を突かれた聡一郎が呆れている。


「キスしてみる?」

「するわけないだろ」

「何で?友達ならキスくらいするだろ」

「それ、おまえとおまえの女友達とのことだろ」

「でも、男とか女とかどうでも良くないか?」

 

『どうでも良いのか?考えたことなかったぞ。やばい、橘が考えてる、、俺もドキドキしてきた』


「大和とだってキスしただろ」

「した、でも、今度にしよ(今日はあの日だ)」

「そうだな。今度でいいか(あの日って何だ?)」


『まあいいか、急いては事を仕損じる、だな』

『一度、キスしたら、何されるか分かんない』


 危険な気がする、と当麻から離れようとする聡一郎の腕を掴む当麻。


「じゃあ、指切り」と小指を立てる当麻。

「また?」

「俺のこと応援しなくてもいいから、ずっと一緒にいるって約束」

「指切りしなくても、一緒にいるよ」

「駄目だ、ちゃんと形にしないと」


「今日は帰るよな?」と念押しする聡一郎に、当麻が頷く。


「分かった、約束する(絶対、帰れよ)」

「俺も約束する」

 

 何があっても俺は橘の味方だ。俺は必ずおまえの側にいる。

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