レッスン5 努力が足らないだけだ
千鳥ヶ淵(漫ろ雨)
6:00 a.m.、雨で白くかすむグラウンドに、静かに描かれる無数の小さな雨の輪。
聡一郎が男子バレー部部室入口の扉の隣りでベンチに座って、雨を見ている。体育館から出て来た恒星が聡一郎に気付く。
「おまえ来てたのか」
「走りたくて来たのに、この雨で走りに行けない」
「今朝は諦めろ、俺は体育館でサーブでも打ってる」
生まれては消える雨の輪を見ている聡一郎。
「そんなに走りたかったのか?」
「走ると気持ち良くならないか?風を感じると体が軽くなる。止まっていた世界も動き出す、そういう瞬間はドキドキする」
「走るのは嫌いじゃないが、おまえの走り方は気紛れすぎる。突然、行き先を変える、遠回りしたり、近道したり、急に速く走ったり、ゆっくり走ったり。むらが多いから余力も残せない、途中でバテて歩いて帰る、滅茶滅茶だ」
「気まぐれなのは悪いことじゃない」
「流されなければな、おまえはもう少し地道に努力した方が良い」
「おまえがもう少し気まぐれになる方が先だ」
「気まぐれって難しいのか?」
「難しいか?おまえの質問の方が難しい気がする」
「おまえ、未だ走りたいのか?」
「走りたいよ、でも雨で行けないだろ」
「走りに行くか?」
雨の中、東大寺学院正門から聡一郎と恒星が濡れた路面を蹴って表通りに飛び出して来る。
「そんなに嬉しいか?」
「嬉しいよ、誰も走ってないし、雨も気持ちいい」
「好きにしろ、それで何処に行くつもりだ」
「分かんない、ともかく真っ直ぐ行こう」
本郷通りを秋葉原に向かい、湯島聖堂が見えたら左に折れて、神田明神で手を合わせ折り返す。神田明神から聖橋で神田川を渡り、千代田線新御茶ノ水駅を右折、甲賀通りに入る。
明治大学キャンパスが見えたら左折して明治通り、千代田通りを直進、神田警察通りで右折。左手に神田税務署、一橋大学千代田キャンパスを越え、九段下で左折して靖国通りに入る。
左手に武道館、右に靖国神社第一鳥居、直ぐに左折して、千鳥ヶ淵緑道に入る。
『ほんとに誰もいない、貸切だ』
水たまりも気にせず、濡れた靴で地面を蹴る、聡一郎のスピードが少しづつ上がる、
「飛ばすな(聞いてないな)」、恒星もスピードを上げる。
千鳥ヶ淵のお堀に漫ろ雨が降りそそぐ。雨が濡らす桜の枝葉、緑のトンネルをくぐり抜けて走る聡一郎、恒星があとを追う。
緑道を抜けて半蔵門へ、高台にある半蔵門からは内堀と霞ヶ関のビル群が見下ろせる。そこから桜田門まではなだらかな下りが続く、聡一郎のスピードが落ちるまま自然に上がる。
『シャワーみたいだ、向かって来る雨、風と一緒に通り抜けて行く』
止まらない、体が軽くなる、どんどん加速する、、気持ちいい、、、最高だ!
『飛ばすなと言っても無駄か、マジだと付いていくのはキツいか』少しづつ離れていく恒星。
右手に永田町、国会議事堂、さらに下ると三重の白い電波塔を持つ霞ヶ関の警視庁。
桜田門をくぐり、皇居外苑へ、正面に丸の内の高層ビル群、内堀通り、左手に二重橋。さらに進むと右手に御幸通り、東京駅正面、そして右手に和田倉噴水公園、パレスホテル。
内堀を左手に皇居東御苑を反時計回りで回る、竹橋を過ぎて北の丸公園に入り、北の丸公園内をしばらく走って武道館の時計台の前で止まる。そのまま仰向けに倒れる聡一郎、空から雨が降ってくる。
『気持ち良かった』
しばらくして恒星が追いつく、聡一郎が水たまりの中で倒れたまま空を見上げている。
「こんなところで良く寝れるな」
「ごめん、もう限界」
「見れば分かる」
空を見上げる聡一郎と目が合う。
「良かったな、気持ち良く走れたみたいだ」
「最高だった」
「俺はこのまま先に走って帰る」
「そうしてくれ、俺は歩いて帰る」
「ちょっと起きろ」
恒星が片膝をついて、着ていた上着を聡一郎に着せる。
「防水だ、少しでかいが我慢しろ。体を冷やすよりましだ」
「おまえは?」
「俺は走って帰るから要らない、じゃあな」
恒星が来た道を引き返して行く。
静かに降る白い雨の向こうに、恒星の影が消えて行く。あいつ、それでわざわざこんなの着てたのか、『本当は優しい』片岡瑞穂の言葉を思い出す。俺も知ってた、本当は優しいって。
***
男子バレー部部室に戻った聡一郎、恒星はいない。いないか、着替える聡一郎、少し震える。
やばい、寒気がした、この上着、もう少し借りておこう。
***
(法学部講義室)
神田淳の額に手をあてる聡一郎、自分の額も触れてみる。
「やっぱりちょっと熱っぽい、寒気がする」
「嘘だろ、馬鹿は風邪ひかないって言うぞ」
「俺もあっくが風邪ひいたの見たことないけど」
「なるほど、迷信みたいだな。で、風邪ひいたのか?」
「風邪じゃないと思う、今朝のランニングで濡れて冷えたのが良くなかった気がする」
「朝から雨の中走ったのか?やっぱり馬鹿が風邪ひくんだ」
「どっちでもいいけど、今日は暖かくして寝ないと不味い」
背中を丸め、机に頭をのせて腕を組む聡一郎。
「枕が欲しい、あっくん持って来てないよね」
「悪い、俺は講義を受けるつもりで来てる、たまにはおまえも講義を聞けば」
「あれ、そのゴアの上着デカくないか?しかもノースフェイス、ユネクロじゃない」
「オーバーサイズなのは仕方ない、恒星のだから、あっくんノート頼むね」
「仕方ないって、何で恒星の着てんだ」
「借りてる、朝は上着なしで来た」
「おまえ、恒星のこと嫌ってなかったか?」
「嫌ってないよ、嫌な奴だけど。あっくん、ちゃんと講義に集中したら、俺は寝るから」
***
(東大寺学院大学学生食道)
今どきの学生食堂はヴォリュームだけでなく、栄養バランスも考えられていて、味も悪くない。東大寺学院の学生食堂では、和洋中に加えてエスニックの7つの専門店が550円均一で日替わり料理を提供していて、ランチタイムには1000弱の席が学生でほぼ埋まってしまう。
ランチタイム、先に席についていた渋谷智裕に聡一郎と神田淳が合流する。
「あれ、恒星がカレー食べてない、どうして?昨日はチキンカレー、その前がグリーンカレー、前の前がキーマカレー、前の前の前がカツカレーだったよな?」聡一郎
「どうしてって、良く覚えてるな。でも、今日は恒星とあってないぞ」智裕
「智裕と恒星は建築学科で講義も同じだよな?」
「ああ、でも恒星は今朝の講義に来なかった、あいつにしては珍しい」智裕
「どうしてだろ、今朝は皇居まで一緒に走ったけど、恒星の方が先に戻ったのに」
「この雨の中?良くやるね、でも、聡一郎はともかく、よく恒星が付き合ったな」智裕
午前中の講義をサボっていた秋葉悠一、大塚湊もランチに加わる。
「そう言えば、目黒顧問が新入生の練習試合を考えてるって」湊
「新歓とか合コンとかで、俺らあんまりバレボールしてなかったもんな」智裕
「確かに、バレーボール・シーンも必要だ。どうでも良い話しが多いからな」淳
「ああ、俺なんか合コンで元カノの前で元カノとの初体験の告白だぞ、有り得ないだろ」悠一
「ほっとくと脇役の俺ら何させられるか分かんないな」智裕
「脇役だけじゃないよ、俺だって新歓で恋するフォーチュンクッキー踊らされて、合コンのポッキーゲームで男とキスだぜ。雨の中も走ってるし、主役だって大変なんだ、まともなバレーボールがしたい」
「聡一郎は無理だろ、これからの方が滅茶滅茶な設定になってる気がするわ」悠一
「なんか食欲なくなる、あっくんは良く食べるね」
「頭を使ってるからな、講義で」淳
「じゃあもっと使って、俺の分もあげる」
食べかけのハヤシ玄米オムライスを神田淳の皿に盛る聡一郎。
「あっくん、悪いけど午後は部室で寝てるから」食器を持って先に席を立つ聡一郎。
恒星にラインする聡一郎。
今、どこ?返事が来ない、何してんだろ?あ、来た、保健センター?
***
(保健センター医務室)
大学保健センターの看護師に恒星が何処かを訊ねる聡一郎。保健センター2階北側の大部屋でベッドを見回して、恒星を見つける。
「どうして寝てるんだ?」
「体を冷やしたから休んでるだけだ。気紛れに行動すると碌なことはない、おまえが面倒に巻き込まれる理由が分かった気がする。今朝、大学に戻る途中で、迷子の面倒を見て、お年寄りを駅まで連れて行ったら、ずぶ濡れになった」
恒星の額に手をあてる聡一郎、自分の額も触れてみる。
「心配してるのか?」
「おまえの上着を俺が着てる、悪いって思うだろ」
「半分はおまえのせい、半分は俺の気紛れだ。それで良いだろ」
「悪かったな、ついでだから頼んでもいいか?ちょっと隣りで寝かせてもらいたい、実は俺も寒気がしてる」
「ふざけてるのか?」
「ふざけてない、もう少しつめてくれ、有難う」
恒星の隣りに潜りこむ聡一郎。
は〜っ、とため息を吐く聡一郎。
「落ち着いてきた。大学に保健センターがあるなんて知らなかった。講義室よりこっちの方が良く寝れそうだ」
「寝るのは良いが、何で俺と一緒なんだ?」
「この方が早く温もるだろ、変な奴。それより、何で雨なのに迷子になったんだ?」
「今朝、京都に帰る前に家族と一緒に皇居に来たみたいだが、二重橋辺りで親と間違えて、似たような傘をさしたカップルにくっついて行って、はぐれたらしい」
「親って気づかないんだ、お年寄りの方は?」
「話しを聞くのは良いが、近すぎないか?」
「近すぎる?」
目の前の聡一郎を見る恒星『いらないことを言った』
「遠すぎだろ、この前はもっと近かった」わざとらしく顔を近づける聡一郎。
「おまえ何で抱きついてくる、やめろ、俺で暖を取るな」
「二人で一緒に寝ててもいいけど、静かにした方が良いよ、病人もいるから」と何故か目黒准教授が二人のベッドの傍らに立っている。
***
「二人とも大人しくしてたね、2時間くらい眠ってたかな、気分はどう?」目黒准教授
「悪くないです、練習で汗でも流せば治ると思います」恒星
「目黒先生って何処にでもいますね、どうして医務室にいるんですか?」聡一郎
「僕は心理学の准教授だけど、心療内科医でもあるからね、たまにここの面倒見てる。取り敢えず、二人とも熱測ってみて」目黒准教授
「そう言えば、練習試合するんですか?」聡一郎
「試合したいでしょ?僕も見てみたいしね、この週末で考えてる」目黒准教授
「37.2℃と37.1℃か、二人とも微熱だね、未だ寝てた方が良いよ、一緒に寝る必要はないけどね」
「俺は練習に行くけど、おまえはどうする?」恒星
「寝てるよりましか、俺も練習かな」聡一郎
「まあ、二人とも丈夫そうだからいいけど、注意はしとくから。未だ5月だから雨の中を走るんだったら、低体温に気を付けた方が良い。寒くて震えるのを軽くみない方が良いし、微熱なのも免疫力を高めるためで、高強度の運動で汗を流して、無理矢理、熱を下げるのもどうかと思うよ」目黒准教授
「注意します」恒星
「君はね、心配なのはもう一人の方だけど。まあ、気を付けてあげて、彼は普通とは違うから」目黒准教授
***
(男子バレー部部室に向かう二人)
「目黒先生って誰かに似てる気がする」と聡一郎
「誰に?」と聞き返す恒星
「分かんないけど、何処かで会った気がする」
「目黒准教授はうちのバレー部の先輩らしい。うちの医学部を卒業した後は、カリフォルニア大学バークレーで心理学の講師を務めていたそうだ」
「優秀なんだ。茶道部の顧問まで引き受けてるし」
「茶道部の顧問なのか?」
「あれ、おまえ知らなかったんだ」
新歓で紹介されたはずだけど、おまえも主役なんだからしっかりして貰いたい。
「俺も茶道部なんだけど、今更だけど知ってた?興味ないよな。そう言えば、雨もあがってる」
いつものグラウンドに生まれた幾つもの水たまりは空を映し出し、雨上がりの空には虹が架かっている。オーバーサイズの袖から、恒星のTシャツの裾を掴む聡一郎。
「虹だ」
幾つもの虹が空を映すグラウンドで輝いている。
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