玄鳥至(つばめきたる)

 -朝練1日目-


 翌朝、陸上競技用のグラウンドに面した部室前のベンチで懺悔する聡一郎。神様、許してください。自分から来てしまいました、起こされると思うと眠れませんでした。


「おまえ、何してる?」

「懺悔だ、邪魔するな」

「無駄だ、神様なんていない、はやく終わらせろ」

「そうなのか?」


 じゃあ、仏様でも構いません。助けて下さい。呪われています。


 恒星は懺悔を続ける聡一郎を気にせずに、ストレッチをしている。朝が気持ち良い季節になった、これからもっと日は長くなる。


『また、夏が来る』


 桜の咲く季節だが、恒星には夏の記憶しか思い浮かばない。秋であれ、冬であれ、鮮やかに甦る太陽の記憶だけがこの男を支配している。


 聡一郎は相変わらずベンチに向かって手を合わせて懺悔している。『駄目だ、心の中の仏様より、体が温かい朝ごはんを欲している、集中できない』、懺悔にも飽きて、もう帰りたいと思っている。

 あ〜あ、と虚ろにグラウンドを眺めていると、うすい黄色い花が目に入る。陸上競技用のグラウンド沿いの歩道で月桂樹の花が咲いてる。

 月桂樹だ、花言葉は「栄光」「勝利」だったかな、どうでもいいや、それより、煮込み料理の香辛料に使える、やばい、エビときのこのグラタンが食べたくなってきた。


「いい加減にしろ、悔いを残したくないなら努力しろ、懺悔よりましだ」


 黙って頷く聡一郎、ささっと終わらせよ。


「走るぞ」走り出す恒星。聡一郎が素直になって、飼い主の後を追う犬のように走り出す。なんだ、走るだけか、走るのは嫌いじゃない。


 ***


 10分後、グラウンドで仰向けに倒れている聡一郎。バテた、10分も持たなかった、、


 雲ひとつない青空を小さな黒い影が横切るのが見える。つばめが飛んでる、帰って来たんだ。

 見渡す限りの海をたった一羽で飛び続けるつばめの姿が目に浮かぶ。つばめは冬のあいだは暖かい東南アジアの島々で過ごして、春になるとバラバラに一羽づつ海を渡って帰って来る。

 つばめは海鳥のように海に浮かんで途中休息することはできないが、半休睡眠という睡眠能力で脳の半分を眠らせながら、2千キロメートル以上もの距離を飛び続けて戻って来る。


『凄いよな、つばめって』と仰向けのまま、青空を眺めている聡一郎、その視界を恒星が遮る。


「大丈夫か?」聡一郎の顔色を伺う恒星

「大丈夫じゃない。、、、おなかが空いてる」

「、、、、、」無表情のままの恒星

「気のせいかも知れない」

「サボってたのに飛ばすからだ(おなかが空くほど走ってないだろ)」

「仕方ないだろ、久しぶりに走ったら気持ち良かったんだから」

「取り敢えず、水分を補給しろ」

「グリーン・エナジーだ、これ好き」


 恒星からスポドリを受け取る聡一郎。


「ついて来いとは言ってない、もう少しゆっくり走れ(それも一気に飲むな)」

「ありがと、もう少しはやく言って貰えると嬉しかったのに」無理やり微笑む聡一郎

「はやく言えば良いのか?分かった。今朝の練習メニューだ。ランニング5周、これは終わった。この後は腕立て50、腹筋50、スクワット30、ストレッチ、その後で1セット目の休憩だ」


 今朝の練習メニューを伝える恒星。聡一郎は『何それ』と人ごとのように聞いている、恒星は構わずに続ける、だんだん早口になる。


「そのまま2セット目、ランニング7周、ラスト2周はビルドアップ(スピードを上げていく)、インターバル3分、腕立て100、腹筋100、スクワット50、ストレッチで休憩」


『聞いてないな、こいつ』と思いながらも早口で捲し立てる恒星。


「3セット目、ランニング3周、ラスト1周はダッシュ、インターバル3分、腕立て50、腹筋50、スクワット30、最後にストレッチ、以上だ。嬉しいか?(はやく言っても頭に入ってないと意味ないな)」


「おまえが嬉しいならな(相変わらず変な奴)」、ともかく、はやく終わらせよ、と思う聡一郎。


 ***


(法学部1年講義室)


「聡一郎、朝から疲れてないか?」淳

「2セットで力尽きました。結局、真面目にやってしまった」聡一郎

「朝練してたんだ、あの大和恒星と。偉いね」悠一

「あいつは軽く3セットしたけどね、ほんと、嫌な奴。あっくん何見てるの?」聡一郎

「大和恒星ってググると結構出て来る。あいつ凄い、今更だけど」淳


 -薬師高校3年 大和恒星やまとこうせい

  OH/身長191㎝/最高到達点354㎝


 全中選抜に選ばれ、中学時代から世界を相手にプレー。高校1年春高で全国大会デビュー、最高到達点354㎝の打点から打ち込むスパイクは超高校級。今年度の竜王学院とのインターハイ決勝では前衛後衛問わずスパイクを決め、チームは敗れたものの、両チーム最多得点をマーク。


 -今度の春高注目選手-


 薬師高校3年/大和恒星/身長191cm、竜王学園高校3年/物部大獅/身長201cmと並ぶ高校バレー界のスーパースター。高さとスピードを生かした超高速スパイクだけでなく、柔らかいプレーも持ち味、、


「橘聡一郎はどうなんだ?」 

 、、悠一、俺をググるな


「結構出て来るぞ、茶の湯とお花の記事が」

 、、大和恒星、ほんと、嫌な奴だ。


 ***


 -翌朝(朝練2日目)-


 午前5:20。日が昇ると聡一郎は目が覚める。窓の外は曙色の空に朝焼けの雲が棚びいている。その空が白光を浴びて徐々に青く変わっていく。目を瞑って横になっていても、体が目覚めて行くのが分かる。仕方ない、練習に行くか。


 午前6:25。聡一郎がバレー部室の鍵を借りるため警備所に立ち寄る。鍵はもうない。そのまま部室に向かう。扉はすでに開けられていたが、部室の中に恒星はいない。目の前のグラウンドに目を凝らす。


 朝の澄んだ空気に融けこみ、整然と正確にステップを刻む人影が目に入る。あるがままの自然の上に立つ理性的な美しさ、一切の無駄を削ぎ落として磨き抜かれた肉体、精神と肉体の理想的な均衡がそこにある。


『嘘みたい、神話に出てくる英雄みたいだ』


 一昨日、昨日の恒星とは別人のように思える。たった一人で走り続ける今の方が彼らしい、太陽が沈まない白夜の世界でも、恒星ならきっと永遠に走り続けることができる。何故だかは分からないが、聡一郎は初めて恒星を身近に感じた。


『まあ、気のせいだ』と空を見上げて息を吐く。


 午前6:45。軽くストレッチをしてベンチに座る恒星。携帯を取る、聡一郎の携帯が鳴る、振り返る恒星。


「来てたのか?」

「ああ、で、今日も同じことすればいいのか?」

「ああ、おまえは2セットだ」


 グラウンドに立って組んだ腕を空に突き上げて背筋を伸ばす、朝の冷たい空気が肺を透して体に沁み込んでくる。気持ちが良い、じっとしていられなくなる、「先に行く」と走り出す聡一郎、陽光がそのあとを追う。

 スポドリを飲みながら聡一郎を目で追う恒星。『気まぐれな奴』、陽光を浴びた背中がどんどん離れて行く。振り返って、青空に輝く透明な太陽に目を凝らす。それは記憶の中で輝く真夏の太陽とは違うが、どこか新鮮で懐かしい。

 スポドリを口に含み、小さくなった聡一郎の背中を追って恒星も走り出す。グラウンドを一周もしないうちに聡一郎に追いついてしまう。


「なんだ、来たのか。先に言っておくが、俺について来なくていいからな」聡一郎

「大丈夫だ、俺の方が先に行く」恒星


 いないのか?振り返る恒星。すぐ後ろにいるはずの聡一郎が立ち止まって、空を見上げている。すると空から小さな黒い影が降って来て、聡一郎の目の前を掠めて、また空に舞い上がっていく。燕か、それを確かめると、恒星はまた無機質な時計のように正確にステップを刻む。


 漂う雲の下で狂いのない時を刻む時計、その表面を小さな影が通り過ぎる。その瞬間、世界は呼吸を止め、時計の針が石化して止まる。減速する世界で聡一郎が恒星を追い越して、トラックの真っ直ぐな直線で更に加速する。

 恒星が気がつくと、聡一郎が恒星より先を走って小さな燕の影を追っている。小さな黒い影を右足で大きく踏みしめる聡一郎、交代!

 

『交代するのか?』


 今度はUターンして戻ってくる、本気で追いかけるな!笑顔で弾ける聡一郎と聡一郎を猛然と追う燕が、また、恒星の目の前を通り過ぎて行く。


『、、、したみたいだ』


 3セット終了して体を伸ばす恒星。聡一郎は未だトラック内の芝生の上で、犬と戯れ合うように燕と遊んでいる。『今日は1セットも無理だな、気が済むまでやってろ』、恒星が部室に戻る時、もう一度、聡一郎の動きを確かめる。燕の動きは見切ったか、まあ、昨日よりは動けるようになった。


 ***


 午後7:45、練習後の男子バレー部室、聡一郎がベンチで横になっている。神田淳、秋葉悠一、大塚湊、渋谷智裕が聡一郎に声をかける。


「聡一郎、帰るぞ」

「悪い、先に帰って、ちょっと休んで帰る」


「恒星とペア組むの、俺には絶対無理だな」智裕

「聡一郎だけだな、あいつの相手できるのは」悠一

「大体、大和恒星がうちにいるのが間違いだ」湊

「でも、去年のインターハイ決勝で竜王に負けた後、大学バレーは竜王の物部大獅がいれば十分だって言って、スカウトも全部断ったらしい」淳

「別にバレーで食ってくつもりはないんだ、レベル高い建築学科だし」悠一

「なら、そのうち恒星も気づくさ、俺たちは楽しむためにバレーやってんだって」湊


 午後8:00、は〜、グラウンドのベンチでため息を吐く聡一郎、『燕は夜はお休みか、良いよな』、とりあえず朝の2セットのやり直しだ、と一人で走り始める。

 グラウンドを走る聡一郎が目に入って、体育館から出てきた恒星が立ち止まる。しばらく聡一郎の様子を眺めて体育館の中に引き返す。また戻って来ると、グラウンドのベンチにスポドリを置いて黙って帰る。


 ***


 -翌朝(朝練3日目)-


 午前5:55。恒星が時計を確かめる。いつも通りの時間、俺は遅れてない。聡一郎がグラウンドでランニングしている、恒星が戻ってきた聡一郎のストレッチを手伝う。


「ちょっとはマシになった」

「ああ、大事なのはやる気だ」


 やる気?今日は何をする気だ、空を見上げる恒星、燕はいない。


「昨日のは何だったんだ?」

「昨日?」

「燕のことだ」

「ああ、鬼ごっこのことか」

「鬼ごっこだったのか」

「隠れんぼは無理だろ、隠れるとこなかったし。おまえもやりたかったのか?」

「いや、俺はいい。燕って人に懐くものなんだ」

「暇だったんだろ。彼女、未だ日本に帰って来てないみたいだった」

「そうなのか?」

「ああ、ちょっと不安そうにしてた。気晴らしにはなったと思う」

「(燕の気晴らしだったのか)ついでに聞いても良いか?」

「いやだ。おまえ、さっきから煩い。ちゃんと集中しろ、俺の邪魔をするな」

「(だから、やる気になった理由が知りたいんだが、まあ良いか)」



 午前8:30。朝練後。


「何、探してる?」恒星

「今朝はなしか、昨日のドリンクは何だったんだろう?」聡一郎

「昨日のは特別だ、おまえが残って練習するとは思わなかった」

「おまえだったの?」

「他に誰がいる?」

「ガッカリ、ぜんぜん可愛くない。早く来て頑張ったのに」

「それで早く来たのか?」

「それ以外に来ないだろ?俺のやる気を返せ」

「良く飲めるな、誰が置いたか分かんないものを」

「深く考えない方が幸せだろ」

「今度、躾のために、毒でも盛ろうか?」

「マジじゃないよね?俺、犬じゃないし」

「深く考えるな、マジに決まってる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る