第五話 泉くんは、もういない。(6)
「夏休みに入ってから瑞希さんと全然話してないし、なんとなく話したくなって今日は来たんだ」
「………」
「夏休みだから、もしかしたら瑞希さんが来ない日もあるんじゃないかって思ってたけど…会えてよかった」
「………」
「瑞希さん…?」
「…あ、うん。夏休みもちょくちょく描きには来てて…」
「そっか。また、見ててもいい?」
「……うん」
すっかり定位置となった窓際の椅子に泉くんが座る。絵を描く準備をしながらわたしは、今度は別のことでひどく焦りを感じていた。
パレットと絵具を準備して、キャンバスと向かい合う。それでも手に持った筆は――変わらず進めることができなかった。
「―――、」
いつまでも筆の滑る音が聞こえないからか、泉くんの視線がわたしの方に向いた気がした。
「っ、」
筆を持つ手が震える。目の前のキャンバスの白さに、眩暈さえしそうだった。
――わたしのキャンバスは、白く塗りつぶしてからずっと、色づくことはなかった。
夏休みも終わりが迫ってきているというのに。わたしの足は絵を描きたいと、ここへと勝手に向かうのに。
いつまで経ってもわたしは、絵を描くことができなかった。
「――瑞希さん、」
「…っ、あ…」
気づけば泉くんは、わたしのすぐ隣に立っていて。
「今日は俺、たくさん話したい気分なんだ。よかったら瑞希さん、相手をしてくれる?」
震えるわたしの手を落ち着かせるように、その大きな手で筆ごとわたしの手を覆ってくれた。
「泉、くん…っ」
こんな風に優しさを分けてくれる泉くんが、好き。ほっとするような微笑みを向けてくれる泉くんが、大好き。
――でも、その温かさを一番にわたしに向けてくれない泉くんが、だいきらいだ。
「瑞希さんもこっちにおいで」
わたしから美術道具を全て引き剥がし、窓側の椅子へと促す。そして別の椅子を持ってきて、泉くんもまた、わたしの隣に座った。
「――瑞希さん、俺の昔話を聞いてくれる?」
泉くんの話なら、なんだって聞きたい。泉くんのことなら、なんだって知りたい。
でもその話がわたしを苦しめることも、泉くんの雰囲気から、なんとなく分かっていた。
「――俺の中の一番古い記憶は、花だった。何歳のときか分からないくらい小さいときの記憶なんだけど、俺の隣にはいつも、もう一人いたんだ。ご飯を食べるときも一緒にいて、風呂に入るときも一緒にいて、寝るときも一緒だった。どんなときも俺は、一人じゃなかった」
それから少し大きくなって、そのもう一人が自分の妹だということ。名前を花と言って、妹とは自分より後に生まれた女の子のことだということを知った。
「小学校に上がって、友達が増えて、遊ぶ場所も広がって。花といる時間は減ったけど、家に帰ればまた一緒にご飯を食べて、一緒に寝てた。小学校にもなると
そうして中学生になって、心身ともに大人に向かっての過程を踏み始めたとき。泉くんと花ちゃんは大きなことをして、自分たち以外をたくさん、壊してしまった。
「―――、」
そう言った泉くんの声が今までに聞いたことがないほど暗くて。まるで自分を責めるような、自分をわざと傷つけているような、そんな声だった。
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