第五話 泉くんは、もういない。(5)

***


「お忙しいところお時間をいただきありがとうございます」


 薄っすらと冷房がかかった教室で、担任の先生がお母さんに小さく頭を下げた。


「いえいえ、先生も暑い中大変ですね。今日はよろしくお願いします」


 今日は、ずっと来てほしくなかった三者面談の日だ。結局わたしは、進学する意思だけを進路調査票に書いた。希望校は空欄のままだ。


「瑞希さんはどの教科も安定していますからね。大学のレベルを上げても、しっかり勉強すれば問題ないと思います」


「実は、私も夫もR大を推薦してるんですけどね。どうも娘にはしっくり来てないみたいで」


「そうなのか?どこか他に行きたい学校があるのか?」


「、」


 行きたい学校を聞かれて、体が妙に緊張した。


 隣に座るお母さんの視線を感じる。


 ――まだ美大に行きたいなんて思ってるのかしら?


 ――美大に入ったとして、それから何ができるのかしら?


 ――そもそもこの子も実力で、美大になんて受かるのかしら?


 そんな声が、聞こえてくるようだった。


「進路のことを悩むのは当然だ。自分がどう生きていくのか、聞かれているようなものだしな」


「……はい、」


「とにかく進学すると決めたなら、勉強は続けることだ。進学先にどの学校を選んでも、勉強をしておいて損はないからな」


「はい…」


 わたしにはただ、先生の言葉が重かった。


 進みたい道があるのに自信を持ってそれを言えないわたしは、自分の生き方に自信がないと言われているようで。


「他に、先生のお勧めする学校はありますか?」


「そうですね…。R大の他となると――」


 先生が薦めるのは、R大と並ぶか、それより少し偏差値が上の学校だった。


「………」


 お母さんと先生の話す声が遠くなる。


 ――この行き場のない感情を絵にぶつけたい。


 わたしはただそれだけを考えて、この苦しいだけの時間が終わるのをじっと待っていた。


***


 ――わたしの絵は『特別』じゃない。


 やりたいことがあるのに、それを口に出す勇気がない。自信もなければ、これから必死で頑張ると言い切る根性もない。


 わたしに絵を描く『才能』はない。ただ少し、人より『上手なだけ』だ。


「…そんなの、自分が一番分かってるよ…っ」


 悔しさ、不甲斐なさ、後悔。自分の中に渦巻く負の感情全てか滲み出ているように、わたしの足取りは重かった。


 それでも足が自然と美術準備室へと向かうのはどうしてなんだろうか。それでも絵が描きたいと訴えるわたしの体は、どうして足掻こうとするんだろうか。


 ――筆などどうせ、進みはしないのに。


「――っ、」


 そうして感情に任せていつもより乱暴に美術準備室の扉を開けて、思わず息を呑んだ。


「――来ちゃった」


 開けた窓から吹き込む夏の湿った風に髪を靡かせ、泉くんがそこに立って笑っていた。


「…い、ずみ…くん」


 どうして、ここに?


 最初に出た疑問は、次の瞬間には別の感情にかき消されていた。


 ――会いたく、なかった。


 こんなに暗い感情に満たされた自分で会いたくなかった。こんなに余裕のないときに会いたくなかった。こんなに苦しいときに会いたくなかった。


 ――泉くんの『秘密』に気づいてしまった以上、しばらく会いたくなかった。


「一昨日、花は帰ったよ」


「っ、あ…」


「瑞希さんと話せてよかったって言ってた。――ありがとう、瑞希さん」


 そう言って、泉くんは花ちゃんと同じように優しく微笑んだ。

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