第五話 泉くんは、もういない。(1)

 ――夏休みに入ってから、一週間と数日が経った。


 窓の近くにとまっているのだろう蝉の鳴き声が響く。


 グラウンドからは運動部の練習の声が聞こえる。


 ――わたしの筆は、相変わらず何も描けなかった。


 今日も色が決まらない。真っ白なキャンバスを目の前に、ずっとパレットで色を合わせているだけだ。


「………」


 あの青空色のキャンバスは真っ白に塗り潰した。


 わたしが見ていたはずの空は、すっかりその鮮やかさをなくしていた。


 塗り潰したのは夏休みに入ってしばらくのこと。泉くんがぱたりとここへ来なくなった日だった。


「………」


 進路もまだ決まっていない。お母さんと話した次の日の朝、お父さんもR大がいいと思うと言った。それからずっとお父さんともお母さんとも、目を合わせられずにいる。


「――…だめだ」


 小さく溜息をついて、片付けを始めるために椅子から立ち上がる。あんなにも心地好かったはずの準備室の空気が、今では苦痛に感じつつあった。


 ミーンミーンミーン。


 蝉の声がやけに頭に響く。


 少し、頭が痛いような気がした。


***


 真っ直ぐ家に帰る気にもなれなくて、あてもなく街をぶらぶらする。


 夏の太陽は容赦なくわたしの体力を奪っていく。なのに周りのひとたちは笑いながら、とても楽しそうにわたしの横を通り過ぎていくから。


 ――綾乃に声をかければよかったなあ。


 そう思って、鞄から携帯を取り出そうとしたときだった。


「――あ、」


 視界に映った姿。たくさんの人の中からでも見間違えることのない、姿が見えて。


「泉、くん」


 誰にも聞こえないような声で呟いたはずなのに、行き交うひとたちの間で泉くんと目が合った。


「―――、」


 泉くんが驚いた顔をする。そして次の瞬間には柔らかく笑って、こっちへと歩いて来てくれた。


 こんなところで会えて嬉しい。


 純粋にそう思って、わたしも歩きだそうとした。そのときだった。


「瑞希さん」


 わたしの名前を呼ぶ泉くんのすぐ後ろに、女の子の姿が見えた。


 泉くんより頭ひとつ分くらい、小さい女の子。


 黒いもやもやがまた、胸に広がった。


「い、ずみ…くん」


 夏休みになってから、一度も準備室に現れなかった泉くん。


 ただ単に学校へ来るのが面倒なのかと思ってた。それなのに。


「こんなところで会うなんて思ってなかった」


 そう笑いかけてくれる泉くんの後ろに見える女の子のせいで。泉くんが準備室に現れないのは、その子のせいのように思えて苦しかった。


「今日も描いてたの?」


「あ…うん。でも、あんまり筆が進まなくて…」


 本当は『あんまり』なんかじゃなくて、『全然』だけど。


「じゃあ今は気分転換中なんだ?」


「そんな感じ、かな…」


 気分転換になるはずだった外出は思わぬ遭遇で、わたしの気分を落ち込ませるものになってしまったけど。


「―――、」


 ちらりと、泉くんの表情を盗み見る。


 今日の泉くんは一段と雰囲気が柔らかい気がする。心なしか声も弾んでいるような気もする。


 夏休みが嬉しいのか、それとも――。


「あ、そうだ。瑞希さんに紹介したいんだけど、」


 ――『好きな人』と一緒だから?


「ほら、恥ずかしがってないで顔出せって」


 泉くんが女の子の腕を引っ張る。そんな光景なんて、見たくもない。


「―――、」


 そうして姿を現した女の子の顔を見て、わたしは思わず息をのんだ。


「花、挨拶して」


「は、初めまして。花と言います」


 ぺこりと頭を下げた女の子――花ちゃんは、泉くんとよく似た顔立ちだった。


「もしかして…」


「うん。――ミルクティーが好きなやつ」


「妹さん、泉くんにそっくりだね!」


 花ちゃんが妹だと分かった瞬間、わたしの心に広がった安堵感。


 今ようやく、素直に笑えた気がした。

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