第四話 泉くんは、気づかない。(3)

***


「ただいま」


 キッチンにいるであろうお母さんに、聞こえるか聞こえないかぐらいの声。結局あれから筆が進むことはなくて、いつもより早く切り上げて自宅へと帰ってきた。


 ――わたしはうまく笑えてたんだろうか?


 いつものように駅まで泉くんと一緒だったけど、何を話していたかよく思い出せない。


 泉くんと過ごす時間はどんなものであれ、わたしの中で宝物だったはずなのに。


 なのに、よく思い出せないなんて――。


「ばちが当たったのかなあ」


 思わずそう、言葉が零れてしまった。


「そんなところで何してるの?早く着替えてらっしゃい」


 いつまでもリビングに現れないわたしを不思議に思ったのか、ひょこりとお母さんが顔を出す。


「あ…うん。すぐ行く」


 心なしか、体が重いような気がする。わたしの胸にある黒いもやもやは、いまだに晴れずにいた。


「―――」


 体を引きずるように部屋に戻って、着替えを済ます。そうして鞄から三者面談の予定表を取り出して、やっぱり体を引きずるようにしてリビングへと向かった。


「もうご飯できるから座ってて」


「うん、」


 お母さんに言われた通りにダイニングテーブルに着く。


 進路のこと…お母さんになんて言えばいいんだろう?


「お父さん、今日は遅くなるみたい。先に食べてましょう」


 テーブルの上に料理を並べ終わって、お母さんはわたしの前に座った。


「…いただきます」


「はい、いただきます」


 お父さんは遅くなる。お母さんと二人なら、まだ話しやすいだろうか?


「あのね、お母さん」


「なあに?」


「これ…」


 差し出された予定表をお母さんはまじまじと見つめる。そしてお味噌汁の入ったお椀をテーブルに置いて、そっとそれを受け取った。


「三者面談?」


「うん。進路のことを面談したいって」


「夏休みね」


「うん」


 わたしの名前が書かれた日時を確認するお母さん。そして予定表をテーブルにそっと伏せ、わたしを見た。


「進路は進学でいいのかしら?」


「うん」


「行きたいところは決まってるの?」


「それは…」


 わたしには、それを口にする勇気も実現する自信もない。


 泉くんにさえ言えなかった。


「お母さん、R大がいいと思う」


「………」


 それはわたしの思っている学校とはもちろん違っていて。


「評判もいいし、就職率もいいって。あなたの成績なら難しくないと思うんだけど、どうかしら?」


「……う、ん」


「他に気になるところがあるの?」


「………」


 だんまりなんてダメだ。わたしなら大丈夫なはず。だって泉くんが褒めてくれた。


「わ、わたし…美大に行きたい…」


 お母さんの顔が見れなくて、俯いたままそう答えた。


 無意識で握った両拳が微かに震えていて。


「―――」


 お母さんは何も言わなかった。


 美大に入ったところで、実際にそれを活かして働いている人なんてほんの一握りだ。きっとお母さんはそれを気にしている。


 そして――。


「……できるの?」


 わたしの実力も信じてはいないんだ。


「………」


「夏休みまでもう少しあるわ。一緒に考えましょう」


「………」


「お父さんにも相談しなくちゃね?」


「……うん…」


 それから食べたご飯は、味がしなかった。


***


「……はあ、」


 ぽふり。


 部屋の電気をつけることなく、わたしはベッドの上へと寝転がった。


「R大、か…」


 そこは、全国的にもそれなりに名の通っている大学だった。


「………」


『……できるの?』


 お母さんの声が、蘇る。お母さんの言いたいことは分かってるつもりだった。


 わたしの絵は『特別』じゃない。


 確かに何度か賞をもらったことがある。でもそれは、一番に輝く色ではなくて。その色をもらったことなんて、一度もなくて。


「――分かってるもん、」


 目の奥が熱い。


「自分が一番、分かってるもん…っ」


 わたしの絵は『特別』じゃない。


 ただ少し。


 ほんの少し、周りよりうまく描けるというだけなんだ。


「……ふぇ、」


 涙が零れる。


 今日は何をやってもうまくいかない日だ。


 思うように絵が描けなくて。泉くんの他の誰かへの想いを突き付けられて。自分の将来が見えなくて。


「ふぇぇええ…っ」


 そして次から次へと欲しがる自分の貪欲さにも、気づきたくなかった。

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