第四話 泉くんは、気づかない。(2)

「なんだよ、笑うなよ。本当に地味に痛いんだからな」


「ふふっ、うん、ごめんね」


「絶対謝ってないだろ、それ」


 怒っているような口調でも、工藤くんからは全然そんな気配はなくて。そっとその顔を見れば、工藤くんは嬉しそうに笑っていた。


「じゃあ俺、そろそろ練習に戻るわ」


「うん、気をつけてね」


「ありがと。瑞希も休みながら描けよ」


 軽く手を振りながら駆けていく工藤くんの後ろ姿を見送る。


 さっきまでの根詰めていた気持ちは、いつの間にか消えていた。


 ――工藤くんは本当にいい人だと思う。


「あれ?今の、工藤くん?」


「!」


 急に背後からかけられた声に、大きく体が揺れてしまった。


「い、泉くん!」


「ごめん、びっくりさせた?」


 わたしの驚き方が予想以上だったのか、泉くんが少し気まずそうに笑う。


「う、ううん…大丈夫」


 未だに驚きでどきどきする胸を抑えながら、わたしはいつも通りを装った。


「準備室、入ってもいい?」


「あ、うん、どうぞ」


 泉くんと二人で準備室に入る。


 泉くんは窓際の椅子に。


 わたしはキャンバスの前に、それぞれいつもの場所へと座った。


「はい、どうぞ」


 手を伸ばし、泉くんがわたしの近くの机にミルクティーを置く。


「ありが、とう」


 同じように手を伸ばし、そのミルクティーを手に取る。


 およそ腕二つ分の距離。


 そんな些細なことで高鳴る胸を、上がる体温を、冷たいミルクティーは少し冷ましてくれた。


「どういたしまして」


 そう笑って泉くんが自分の分を飲む。それは泉くんが初めてここに来たときと同じ、カフェオレだった。


「…い、泉くん、カフェオレが好きなの?」


「うん?」


「よく飲んでる…気がする」


「……うん、」


 わたしの言葉に少し苦笑いをした泉くん。もしかして、あまり聞かれたくないことだったのかもしれない。


「あ、あの…、ごめ、」


「俺、中学入った頃ぐらいから、早く大人になりたくてさ」


 ぽつりと、泉くんは話し出す。


「今思えばすごい単純なんだけど…コーヒーを飲めば大人になれるもんなんだって思ってた」


 泉くんの目線は、遠く。寂しそうな、二人になるとよく見る表情だった。


「ミルクも砂糖も入ってない、真っ黒なコーヒー。毎朝、仕事に行く前に父さんが飲んでて、それが大人の証拠なんだって思ったんだ」


 ――聞いちゃいけない。なぜか、そう思うのに。


「それで真似してコーヒーを飲みはじめたんだけど…どうにも俺には苦くて。でも大人になりたくて、毎日無理して飲んでた」


 ――もっと聞きたい。


「妙に意地張ってコーヒーを飲みつづける俺に両親は呆れて何も言わなくなったんだけど、ある日妹がコーヒーに牛乳を入れて飲み出してさ」


 ――もっと泉くんのことを知りたい。


「『泉とわたしは大人でもないし子供でもないから。これぐらいがちょうどいいの』って。俺のコーヒーにも牛乳を入れたんだ」


 ――もっともっと知りたいと、思ってしまう。


「牛乳を入れたら急においしく感じてさ。それから朝は毎日妹と一緒にカフェオレを飲むようになって」


 ――そうしてまた、知ってしまうんだ。


「言うの恥ずかしいけど…今でもコーヒーは飲めなくて、カフェオレなら飲めるんだよね」


 ――泉くんがカフェオレの話をしながら好きな人のことを思い出している、ということを。


「―――、」


 わたしが泉くんを好きだから分かってしまうんだろうか?それとも泉くんが分かりやすいだけなんだろうか?


 どちらにしろ…神様は、意地悪だ。


 こんなこと、気づきたくなんてないのに。


「瑞希さん…?」


「わ、わたしも!わたしもコーヒーなんて…飲めないな」


 返事をしないわたしを不思議そうに見た泉くんに、慌ててごまかすように笑ってみせる。


 うまく笑えたと、自分では思う。


「あ、ごめん!俺、邪魔しないって言ったのに…」


「ううん!楽しいお話してくれてありがとう!気分転換になったし、いい絵が描けそう!」


 そう笑ってパレットと筆を持ち上げた手は震えていた。


「それなら…よかった」


 泉くんはそんなわたしに、気づかない。ただ心から安心したような笑顔を見せてくれた。


「………」


 泉くんからキャンバスへと視線を移す。爽やかに広がる青空色のキャンバスを、今すぐに黒く塗り潰したくなった。


 黒く、黒く、どこまでも真っ黒に。


 ――二度と、他の色が重ねられないほどに。

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