第四話 泉くんは、気づかない。(1)

「三者面談の予定表、きっちりご両親に渡すように。都合がつかない場合は予定表の空いている時間で希望のものを先生に言うんだぞ」


 担任からの連絡事項に、はーいとカタチだけの返事がちらほらと聞こえる。そんな中でわたしは、自分の手にある予定表を少し憂鬱な気持ちで見ていた。


「………」


 三者面談は夏休みの間に行われる。内容は卒業後のこと――つまり進路に関する面談だ。


「――少し面倒だね」


 小さく溜息を零せば、左隣から聞こえてきた声。慌てて視線を向ければ、泉くんが笑ってわたしを見ていた。


「帰宅部の俺にとっては、わざわざ学校に来なきゃいけないんだよ?やっぱり面倒だなあ」


 そんな言葉とは裏腹に、泉くんの表情はいつもみたいに柔らかいままで。


「泉くん…進路、決まってるの?」


 卒業すれば離れ離れになると分かっていても、泉くんの行き先を知りたいとわたしは思ってしまうんだ。


「……んー、まだ決めてないかな」


 また、だ。


 泉くんに好きな人がいると知ったあの日から、泉くんはこんな表情をよく見せるようになった。


 ――苦しいような、甘いような、そんな顔。


 あの日以来お互いの好きな人の話はしていないけれど、泉くんが見せるこの表情は、いつもわたしの心をもやもやさせた。


「瑞希さんは決まってるの?」


「わたしもまだ…決まってないんだ」


「進学か就職か?」


「…ううん、大学が、かな…」


 そう曖昧に笑ってごまかす。


 本当は行きたい大学なんて決まっているのに。それを口にする勇気も、それを実現させる自信も、わたしにはなかった。


「瑞希さん、今日も準備室、行く?」


「あ、うん」


「俺も図書室寄ってから行くね。暑いし、何か飲み物持って行くよ。何がいい?」


「えっ、い、いいよ!」


「いいのいいの。俺は邪魔してる身分なんだから、これくらいは当然」


「でも…」


「それにほら。俺が一人増えたせいで、準備室を余計に暑くしてるだろうし」


「そんなこと…っ」


「いいから早く何がいいか言って。さーん、にー、いーち、」


「ミ、ミルクティーで!」


 いつだったか、似ていると言えば泉くんが幸せそうに笑った飲み物。


「ん、りょーかい」


 そして泉くんみたいで、わたしが好きな飲み物。


「じゃあ今日はこれでホームルームは終わりなー」


 その先生の一言で、一気にざわついた教室の中でもやっぱり。


 やっぱり綺麗に、そこだけを切り取ったみたいに穏やかな空気を纏わせて、泉くんは笑っていた。


 ***


「―――」


 白いキャンバスに青色を乗せる。少しずつ色を変えた青色を何度も何度も重ねて、たったひとつの色を描く。


「―――」


 わたしの見ている色はこんな色じゃない。もっと澄んでいて、もっと優しい色だ。


「―――」


 また色を重ねる。


 違う。


 また色を重ねる。


 違う。


 また色を――。


 コンコンコン。


「っ、」


 ノックの音に、はっと我に返る。そうして扉の方向を見れば、工藤くんが苦笑いをして立っていた。


「く、どう…くん」


「一回声かけたんだけど、瑞希、全然気がつかなくて。邪魔になるかと思ったけど…悪い、ノックしちまった」


「あ…ううん、大丈夫。何か用事あった?」


 パレットと筆を置いて立ち上がる。小走りで工藤くんに駆け寄れば、工藤くんはさらに苦笑いを深めた。


「や、用事、ってわけじゃないんだけど」


 よくよく見れば、工藤くんはサッカー部のユニフォームを着ていて。


「ちょっと練習中に怪我しちゃって、保健室からの帰りに絵を描いてる瑞希の姿が見たくなったから寄っただけ。だから用事なんてない」


「………!」


 くしゃり。


 工藤くんが掻き混ぜるようにわたしの頭を撫でたその手に、思わずわたしはときめいてしまった。


「あー、今日は…、宮内いねぇの?」


 撫でた手を下ろしながら、どこかぎこちなく工藤くんは準備室を見渡す。


「図書室に行ってから来るって…」


「……そっか」


「………」


 よく分からない沈黙。


「く、工藤くん、どこを怪我したの?」


「ダサいからあんまり言いたくないんだけど、ここ」


 そう言って工藤くんが指さしたのは右腕。手首から肘にかけて大きな擦り傷ができていた。


「い、痛そう…!」


「練習でこけたときに右腕で地面を滑りながら受け身とったから。こんなんなっちまった」


「ほ、他は?痣とかできてない?」


「今のとこはないけど…明日ぐらいにはできてるかも」


「その傷…お風呂にはいったら染みちゃうね」


「そうなんだよなー。それが地味に痛いからやなんだよなー」


 本当に嫌そうに工藤くんが顔をしかめる。それがなんだかおもしろくて、わたしは小さく笑い声を漏らした。

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