第二話 泉くんは、優しい。(2)

***


「……ふう、」


 思うように色が重ねられなくなって、わたしは筆を置いて深く息を吐いた。


「………」


 時計を見上げれば、筆を手にとってから二時間が経っていた。


「今日はここまでかな…」


 ぱたりと切れてしまった集中力は、きっと戻ることはないだろう。色づいたパレットを近くの机に置いて、大きく体を伸ばした。


「んーっ」


 コンコンコン。


「はーい」


 控えめに扉をノックする音に返事をして振り向いた。先生が来たのかと思っていたのに、その扉を開けたのは。


「―――!」


「おつかれさま」


 一瞬にしてこの教室の空気を柔らかくしてしまった、宮内くんだった。


「ど、どうしてここに…?」


「うん。今日も描いてるのかなって思って美術室に行ったんだ。そしたら先生に瑞希さんはこっちだって聞いて」


 入ってもいい?


 そう首を傾げた宮内くんに、胸がきゅんと音を立てた。


「いつもここで描いてるの?」


「う、うん…ここの方が落ち着いて描けるから…」


 教室の隅から椅子を持って来てわたしの近くに座った宮内くんに、胸のどきどきはさらに増して。


「カフェオレかミルクティー、どっちがいい?」


「え?」


「これぐらいしかできないけど、差し入れ」


 宮内くんが両手に紙パックのジュースを持って、わたしにそう笑ってくれた。


「えっ、あのっ」


「もしかして、どっちも苦手だったりした?」


「ううん!えっと、ミルクティーで!」


「よかった。はい」


 そっとミルクティーが差し出される。受け取るときに少しだけ触れた宮内くんの手に、わたしの顔は熱を持った。


「……っ」


「瑞希さん?」


「なんでもないのっ。ありがとうっ」


 ごまかすように慌ててお礼を言えば、宮内くんは穏やかな顔で頷いてくれた。


「―――」


 紙パックにストローを挿しながら、ちらりと宮内くんを見る。


 わたしの好きな教室のひとつ――美術準備室に宮内くんがいることが信じられなくて。宮内くんの独特の雰囲気に飲み込まれたみたいに、ふわふわとした感覚に包まれていた。


「これ、昨日話してた風景画?」


「あ、うん」


 宮内くんの視線がわたしの前にあるキャンバスに移る。


「校庭の桜だ」


「うん。入学式前に見た桜が綺麗だったから…」


 空の青色や桜の桃色で色づいたキャンバス。それをしばらく見つめたあと、宮内くんがふっと笑った。


「瑞希さんには、世界がこんな風に見えるんだね」


「……え?」


「すごく優しい。泣きそうになるくらい、優しい」


 あまりにも宮内くんの声が、表情が、優しかったから。わたしは何も言うことができなくて、ただ黙ってミルクティーを一口飲み込んだ。


「俺、瑞希さんの世界に行きたいなぁ」


「わ、わたしの世界?」


「うん。温かさに満ち溢れた世界」


「そんな世界なら…わたしも行きたい」


「瑞希さんはもういるよ。瑞希さんが描く絵が、それを物語ってる」


 宮内くんがわたしの絵を見る目は、まるで愛しいものを見つめるように穏やかだった。


 宮内くんが見つめているのは絵のはずなのに…なぜかわたしが見つめられているような気がして落ち着かない。


「………」


 二人きりの教室に緊張しているのか、すごく喉が渇いて。また一口、わたしはミルクティーを飲み込んだ。


「やっぱり瑞希さんの絵、好きだな」


 好きという言葉に、どきどきする。


 宮内くんはミルクティーみたいだと思った。


 ほんのり甘くて、優しい。ミルクティーの色も、宮内くんにぴったりだ。それから飲んだ人をほっとさせるところも、宮内くんが持つ雰囲気に似たところがある。


「ねぇ、瑞希さん」


「は、はいっ」


 声をかけられて、ずっと宮内くんのことを考えていたのがバレたのかと思ってしまう。反射的に目が合った宮内くんは、やっぱり柔らかくわたしを見て。


「瑞希さんの目に、俺はどう映ってる?」


「―――!」


 すごく返事に困る質問を投げかけてきた。

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