第4話 新しい生活の始まり
会ったばかりの人間を信じるのはひどく危険で、甘い人間だと思われるだろう。特に、身分が上位の者はいとも簡単に身分が低い者を切り捨てる。どんな些細なことで態度を変えるかわからないのだ。
花梨はマルティンを真っ直ぐ見つめながら、今の自分たちの状況を説明した。
元々は東大陸、
両親と共に西大陸にやってきたが、父が質の悪い金貸しから借金し、返せなくて母を連れ去られ、挙句に父は亡くなってしまったこと。
10歳になったばかりの花梨と、2歳の弟は金貸しに身柄を囲われ、この3年間、南の区域にある花街の中の安宿で下働きとして働いていたこと。
13歳になった途端、男のもとに差し向けられ、乱暴されそうになったが逃げ出して、そのまま弟を連れて追手を巻き、この西の区域まで来たこと。
話していて、これがたった一日で起きた出来事なのかと自分でも驚くが、考えればあの金貸しからここまで逃れられたのは奇跡だ。
しかし、それはあくまでも、マルティンが花梨たちの味方になってくれたら……だが。
花梨の長い話の間、マルティンは言葉を挟まずに黙って聞いていた。時折頷く様子も見え、話が終わると大変だったねと言ってくれた。
その言葉を聞いた途端、花梨の目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。母がいなくなり、父が死んでから、誰も頼る人間はいなかった。幼い
しばらく泣き続けたが、高まった感情が収まってくると今度は猛烈に恥ずかしくなった。面倒な子供だと思われたらどうしよう……そう考えてしまい、恐る恐る目の前のマルティンに視線を向ける。
だが、目が合った彼は笑みを深くしたかと思うと、少し身を乗り出してきた。
「君に、一つ提案がある」
「提案、ですか?」
「さっきも言ったが、ここには私しかいない。通いの料理人と小間使いの夫婦を雇っていたんだが、料理人が腰を痛めてしまってね。面倒を見るために小間使いにも暇を出さなくてはならなくなった」
それが、10日前のことだったらしい。
「じゃあ、食事や掃除はどうしているんですか?」
「食事は外でもできるし、1人ならそれほど汚れない」
なんだか自信たっぷりに言われてしまったが、花梨はチラッと視線を向けた部屋の隅に、埃が落ちているのが見えてしまった。いくら住む人数が少なくとも、生活しているのなら汚れてしまうのは当たり前だ。それに、外食ばかりでは健康にも悪い。
「料理はできるかな?」
そう聞かれ、花梨は反射的に頷いた。
「はいっ」
本当は、料理なんてしたことがなかった。安宿での花梨の仕事はもっぱら掃除で、食事は出されるものを食べていた。言い訳が許されるなら、前世ではそれなりに家事はしていたのだ。1人暮らしだったので自炊もしていたし、一時は菓子作りにも凝った。
だからと言って、ぶっつけ本番で料理ができるかどうかは怪しいが……それでも、ここは肯定の一択しかない。
欠片の躊躇いもなく返事をした花梨に、マルティンは何かを堪えきれないようにフッと声を出して笑う。嘘がバレたかと焦ったが、花梨はできるだけ平然とした表情で彼を見返した。
「それは良かった。じゃあ、条件だ」
今休んでいる使用人たちが戻ってくるまでの間、花梨はこの屋敷の掃除洗濯、料理など、家事一般を引き受ける。
報酬は給金ではなく、花梨と秀英の衣食住の保証。
期間がいつまでとわからないのが難点だが、これ以上ない好条件の申し出だ。せめて半月、ここから出ることなく暮らすことができれば。
金貸しの男も花梨たちが野垂れ死んだと思ってくれるかもしれない。
花梨はそのまま頷こうとしたが、あっと気づいて小さく手を挙げた。
「何だい?」
「あの、勝手なことを言いますが、今おっしゃったことを一文にしてくださいませんか。突然現れた私たちに手を差し伸べてくださったこと、感謝してもしきれません。でも、ここで契約の不履行はないのだと安心したいんです」
一筆書けなんて、花梨の立場から言えることじゃない。それでも、人の気持ちというのはいつ変化するのかわからないものだ。一文書いてもらったからと言って、途中で放り出される可能性はあるだろうが、抵抗する術はできるだけ講じておきたかった。
花梨がそう言った時、マルティンは一瞬驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間声を上げて笑い出す。
「まさか、子供に雇用契約書を請求されるとは思わなかった。ははは、君たちを見つけて本当に良かった」
どうやら、生意気なことを言ってと怒ってはいないらしい。
花梨はホッと息をつき、隣で心細そうに服の裾を掴んでいた秀英ににっこり笑った。
「秀英、この方が新しいご主人様よ。一緒に頑張って仕えようね?」
「うん」
こくりと頷く秀英の顔も、どことなく安心しているように見える。
花梨は椅子から立ち上がり、マルティンに向かって深く頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
花梨たちの新しい生活が始まった。
掃除や洗濯は問題なかった。マルティンの屋敷は確かに広いが、それでも持て余すほどの豪邸ではない。それに、マルティンは結構おおらかというか……無頓着な性格らしく、問題なく暮らせるのなら完璧な掃除をしなくてもいいと言った。
洗濯も、大人1人と子供2人分ならそれほど量もない。広い庭に紐をはり、たなびく洗濯物を見るのは気持ちが良かった。
秀英も、少しでも花梨の手伝いをしたいと思っているようで、洗濯物を取り込む時手伝ってくれたり、絨毯に見えるほど積み重なった落ち葉の掃除を率先してしてくれる。
それに。
「ねえちゃっ、クプル!」
玄関の掃除をしていた花梨のもとに走ってきた秀英の手には、真っ赤に熟れたトマト……いや、クプルが握られていた。そう、この屋敷の敷地内には小さな家庭菜園があり、日常よく食べる野菜が植えられていたのだ。
手入れをしていたのは今休んでいる料理人だったようで、彼が休んでからは当然のごとくほったらかしになっていたらしい。初めて見た時は雑草も伸びていて、野菜との区別がつかなかったくらいだ。
秀英と一緒に手入れをしていると、面白がったマルティンもやってきて世話を始めた。今では秀英とマルティン2人が畑仕事をしている状態だ。
雇い主であるマルティンにそんなことをさせていいのか迷ったが、本人が希望しているので止めることも躊躇われる。今では祖父と孫のように、2人は楽しそうに畑で遊んで……いや、働いていた。
色も味も、前世のトマトと同じクプル。花梨は秀英の手からそれを受け取る。
「美味しそうね。今日はこれでお昼を作ろうか?」
「うん! ぼく、ドラノエさまにいってくる!」
一応、秀英の中ではきちんと線引きはしているらしく、たどたどしく敬称でマルティンの名を呼んでいた。こっそり、マルティンが「おじいちゃんでもいいのになぁ」と言っていたのを聞いたこともある。
花梨は、自分以上に秀英を可愛がってくれているマルティンに深く感謝していた。保証人もなく、体は売っていなかったものの、花街で働いていた花梨を簡単に雇ってくれたことも。その恩に報いるためにも、しっかり働かなくてはと気持ちを引き締めた。
「よいしょっと」
掃除用のモップを握りしめた花梨は、見下ろした拍子に目に入った服に思わず笑みがこぼれた。
「可愛いよなぁ、この服」
今、花梨はマルティンが用意してくれた小間使いの服を着ている。当初は前世でもテレビなどで見たことのある、いわゆるフリフリのメイド服か、もしくはシンプルなワンピースが制服かと思っていた。しかし、実際はまったく違ったものだった。強いて言えば、ベトナムのアオザイに似ているだろうか。上半身は長袖の、体にピッタリとした膝丈の上着で、その下は少しダボっとしたズボンを穿くスタイルだ。
色も汚れることを考慮してか濃い藍色で、とても動きやすい。ただ、体にピッタリなので、栄養不良気味の胸元が寂しいのが何とも言えない。
それでも、使用人の服としてはとても上等のように思えた。安宿で働いていた時は、それこそ草臥れた甚兵衛のような服だったのだ。
花梨も、綺麗なものや可愛いものは好きだ。似合うかどうかは別にして、真新しい服を軽く揺らしながら、上機嫌で掃除を再開した。
掃除や洗濯は問題ないが、やはり料理となると緊張する。
当たり前だが、この世界にはガスも水道もないし、冷蔵庫やオーブンなどという便利な家電もない。
母がいたころは手伝いもしていたが、そのころの記憶はあいまいでどんな風な料理を作っていたのかは思い出せなかった。
まったく自信はないが、料理ができると言った手前、何とかして食べられるものを作らなくてはならない。野菜や肉、パンなど、食材は五日に一度、マルティンが相談役をしているというドラノエ商会の人が運んでくれるらしい。
花梨たちが来た翌日、今日くらいは料理をしなくてもいいと言ってくれたマルティンが手配してくれて、出来合いの料理が配達された。その時に運んでくれた食材は、質量ともに充実していた。
「何を作れるかな?」
食材を運んだ時、まるでからかうように言うマルティンは、花梨が料理できないことを見透かしているようだった。今までの言動から考えても、正直にできないと言った場合でもマルティンは花梨たちを追い出さない気がする。だが―――。
「……よし!」
台所に立った花梨は、さっそく夕飯作りを始めることにした。まだ夕方とも言えない時間だが、絶対に時間がかかる自信があるので早めに始める。
まずは、今朝教えてもらった食料保存庫を開けた。大きな氷を上下の空間に設置して食材を冷やす、いわゆる冷蔵庫だ。クローゼット型のドアを開き、ひんやりとした空気を頬に感じながら食材を見つめる。
「失敗しない料理……」
今世での初めての料理となる朝食は、目玉焼きにパン、前の日の残りのスープだった。昼は、パンにスクランブルエッグ、クプルのサラダ。昨日、花梨は食材を配達してくれたドラノエ商会の人に、こっそり竈の使い方を聞いた。花梨よりいくつか年上らしいその人は少し驚いたようだが、とても親切に教えてくれた。
竈は木炭か薪を使うらしいが、この屋敷はドラノエ商会から木炭を買っていた。そのおかげで、比較的火をつけることは容易かった。
(種火があったのも助かったし)
台所の片隅に、ランプが下げられている。その火を、竈の火起こしに使うらしいのだ。
オーブンの使い方も教えてもらった。これも炭火を使うのだが、火加減が難しくて使いこなすには経験が必要だということだった。
そう考えると、初めての夕食は切って煮込むだけのシチューにしようか。
「ニンジンに……ジャガイモ……あ、キノコもある」
名前は違うが、日本の野菜と同じ形と味がする野菜を取り出し、まだ慣れない包丁で慎重に切っていく。
(う……難しい……)
花梨の手が小さいのか、それとも包丁が大きいのか、簡単にできると思っていた野菜の皮むきにも四苦八苦した。こんな時、ピーラーがあったらどんなに便利だろうかと溜め息が漏れる。
かろうじて切った野菜と、鶏肉らしき肉も切って鍋で煮込む。確か、牛乳とバター、小麦粉にコンソメの素があればシチューもどきが作れるはずだ。ただ、当然のごとくコンソメの素などないので、塩と胡椒で誤魔化す。
「あとは弱火で煮込むだけ……って、弱火って、どうすれば……あ、炭を外せばいいのか」
花梨の手には大きな火かき棒で鍋から炭を遠ざけると、次は何を作ろうかと考えた。ただ、あまり張り切りすぎると、すぐにレパートリーが尽きそうだ。
しかし、シチューとパンだけではあまりに寂しい。考えながらエプロンを外そうとした花梨は、
「あ」
不意に声を上げた。料理ではないが、簡単にできるデザートを思いついたのだ。
「あれなら、ここにある材料でできるはず……」
花梨は再び食料保存庫を開いた。
「ごはんですよ~!」
屋敷の中を探しても、マルティンと秀英の姿はなかった。いったいどこに行ったのかと庭の方に出ると、2人はまだ菜園にいた。どうやら昼食を食べてからずっと、ここにいたらしい。
秀英はともかく、マルティンまで何をしているんだと思わないでもなかったが、秀英のお守りをしてくれていたと思えばありがたかった。
「2人とも、ご飯ができましたよ」
「ねえちゃ!」
「もう、そんな時間かい?」
すぐに駆け寄ってきた秀英とは違い、マルティンはずっと同じ体勢で体が固まってしまったのか、なかなか立ち上がれない様子だ。なんだか子供みたいな人だと思いながら、花梨は秀英とともにマルティンに手を貸すことにした。
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