第3話 紳士なおじさま
長々と続くレンガ造りの塀沿いに歩いていると、何か所かひび割れ、崩れている場所があった。かろうじてバランスをとっているようなそこは、大人は無理でも子供ならどうにか通れるくらいの空間があいている。
体裁を気にするはずの富豪が暮らす屋敷らしくないが、それでもこれはチャンスだ。
まず、
「うわぁ……」
そこは、外から見た以上に鬱蒼とした木々が所狭しと並んでいた。月明かりも届かないような暗さと、時折風に揺れる木々のざわめきに身体が震えそうになるが、それでもここならば身を潜めることはできそうだと確信する。
花梨は顔だけを外に向け、小声で秀英を呼んだ。
「
「……いい、の?」
見知らぬ屋敷に忍び込むことに躊躇っているようだが、このまま西の区域を歩き回る方が変に目立ってしまう。
「ちょっとだけ、ここで休ませてもらうだけよ」
「……うん」
自分よりも容易にこちら側にきた秀英を抱きしめ、花梨は崩れている塀から少し離れた木の根元に腰を下ろした。肌寒いが、あいにく自分も上着を着ていない。逃げようとするのがバレないため……いや、花梨自身、そこまで気が回らないほどパニックになっていたのだと今ならわかる。
秀英を温めるように抱き込み、動揺を見せないようにできるだけいつもの調子で言った。
「ご飯、食べた?」
「……うん」
夕食の時間は過ぎていたので少しは安心だったが、それだって満足できるほどの量ではない。特に今の秀英は働き手でもないので量は少なめで、おまけにここまで歩いてきて、きっとお腹も空いているだろう。
空腹と、寒さと、眠気。今夜一晩は何とかなっても、明日はどうすればいいのか。
(明日……やっぱり教会に行くしかないの……?)
花梨は泣きそうになるのを堪え、秀英を抱く腕に力を込める。
日本人としての記憶が蘇ったというのに、まったくそれが役に立たない。今必要なのはお金、それと、安心できる寝床……どれも、
(……思い出さない方が良かった……)
そうすれば、諦めてあの男のものになったかもしれない。
貧弱なこの身体では多くの客を取ることは到底無理だし、きっと物珍しさで買う客はすぐに途絶えたはずだ。そうすれば、また下働きの仕事が主となる。
秀英とともに逃げることもなく、少なくとも今よりは良い暮らしもできただろう。
「……ごめんね、秀英……」
既にウトウトとしている秀英は何も答えないが、あどけないその顔にどうしようもない罪悪感が襲ってくる。
花梨は何者からも守るように、腕の中の小さな体を抱く腕にもっと強く力を込めた。
軽く頬に何かが触れたような気がした。
(……ん……?)
いつの間にか眠っていた花梨は、そのわずかな刺激にゆっくりとまどろみの中から意識を浮上させる。
まだ夜は明けていないのか、閉じた瞼の向こうが暗いなと思いながら目を開けた花梨は、
「!」
自分を見下ろしてくる見知らぬ男の姿に身体が固まった。
(だ……れ?)
長身を屈めるようにして、木の根元に横たわっていた花梨たちを黙って見下ろしている男は、グレーに白の混ざった髪をしている。目元や口元には皺があり、おそらく60歳は過ぎているように見えるその男は、花梨が目を覚ましたことに気づくとわずかに深い緑の目を細めた。
「どうしてここで寝ている?」
尋ねてくる声は落ち着いた響きで、けして脅したり、責めたりするような響きではなかったが、意識が鮮明になった花梨はようやく今の自分たちの危機的な立場に気づいてしまった。
「あ……」
男の服装はいくらかラフだったが、時折店の近くで見かける大店の主人が着ているものによく似ていた。上等な生地に、手の込んだ刺繍も施された洋服。どう考えてもこの男は自分たちが忍び込んだ屋敷の主だ。
穏やかな表情をしているが、すでに衛兵を呼んでいるかもしれない。不審者として突き出されて当たり前のことをしたという自覚がある花梨は、男の目から秀英を隠すように体勢を変えた。
(穴はすぐそこ……秀英だけなら逃がすこともできるかも……)
衛兵に捕まった罪人がどんな目に遭うかは知らない。だが、暮らしていた南の区域には何度も捕まったことのある者たちが大勢いて、その中には手足が不自由になった者や、身体を壊してまともに働けない者もいた。
すべてがすべて、罰のせいだとは思わないが、それでもかなり過酷な状況が待っているだろうと容易に想像ができる。そんな場所に、幼い秀英をやることだけはどうしても避けたかった。
どうしたら、この男の注意を逸らすことができるだろうか。
花梨はめまぐるしく考えるが、まだパニックは収まっていないのかなかなか良い考えが浮かばない。
(……女は度胸っ)
ようやく覚悟を決め、花梨は男を見上げた。
「悪い奴らに追われているところに、このお屋敷の塀が身を隠す場所を教えてくれました」
塀が壊れていたからとは言わなかった。
「勝手に庭に入って、すみませんでした。すぐに出ていくので、許してもらえませんか」
頭を下げて、男の反応を待った。ばかばかしいことを言うなと激高されるか、それとも他の男たちのように花梨によこしまな感情を抱き、下品に笑いながら手を伸ばしてくるのか。
「ねえちゃ……」
「……っ」
声を落としていなかったので、秀英も目覚めてしまったらしい。後ろから強く服を握られて焦ったが、花梨は頭を下げた体勢は変えなかった。
しばらくの沈黙の後、再び良い響きの声が耳に届いた。
「このまま出ていけば、君の言う悪い奴らに出会ってしまうんじゃないかな?」
「……」
確かに、外の状況がわからないまま出てしまうのは危険すぎる。一晩経ったが、用心棒たちが花梨たちの捜索を諦めたとは思えないからだ。
花梨が働いているのは安宿の女主の許だが、その女主は金貸しから花梨を預かっている。3年もの間花梨たちの衣食住を世話してやって、ようやく元を取ろうとしたところで逃げ出したのだ、あの男たちが簡単に諦めるはずがなかった。
言葉に詰まった花梨に、男は続けて言った。
「今、この屋敷には私しかいないんだ」
「……」
(何……言い出すの?)
嫌な予感で、無意識に男を睨んでしまう。すると、男はなぜか楽し気に笑った。
「見返りがあるのなら、匿ってあげてもいいんだがね」
「……見返り?」
男が何を望んでいるのか。花梨は寝ている時に乱れたワンピースの裾を強張る手で整える。相手が変わっただけで、やっぱり自分の身を売ることになるのかと思うと、いったい何をしているのかと笑うしかない。
ただ、あの夜の男と目の前の男を比べたら、初めから花梨のことを物のように見ていたあの男よりは、どういう魂胆か表面上は穏やかな目の前の男の方がマシのように思えた。
どちらにせよ、秀英のことを考えれば答えは一つだ。
「……見返りとは、どういったものでしょうか? 見てわかるように、私、何も持っていません」
男の口からはっきりしたことを聞くまでは言葉を誤魔化すつもりで言えば、男は思いがけないことを言い出した。
「そうだねぇ……君の、その綺麗な黒い髪はどうかな?」
「……髪、ですか?」
「ああ。それほど艶やかで綺麗な黒髪は見たことがない。十分長さもあるし、良い鬘になりそうだ」
「鬘……」
花梨は視界に映る自分の髪を見下ろす。王都のルートヘルにはなかなかいない、東の大陸の人間である花梨たち。確かに花街という狭い世界でも、同じ黒髪の人間は見なかったと思う。両親が死んで3年間は髪を切ることもなかったので、腰に届くほどの長さになっていた。
それに、男が言うようにこの髪には艶がある。下働きの花梨の髪がこれほど手入れできているのは、ひとえにこの髪を気に入っていた金貸しの意向だ。将来花梨の価値を上げるためなのかどうか、高い香油を使うように言われたり、櫛も支給されていた。
その髪を、目の前の男は欲しいと言う。花梨の答えは決まっていた。
「わかりました。申し訳ありませんが、鋏か剃刀を貸してもらえますか?」
「いいのかい?」
「はい。切ったって、また伸びますから」
思い入れがないわけではないが、それで助かるなら儲けものだ。
花梨がきっぱりと言い切ると、男はしばらくじっと見つめてきたかと思えば、ふっと口元を緩めて体を起こした。
「ついて来なさい」
「え? あ、あの」
「そこの男の子も一緒に」
そう言ったかと思うと、さっさと背を向けて歩き出す。
(え? 結局どうなったわけ?)
何歩か歩いて振り向いた男は、唖然としたままの花梨を見て首を傾げた。そして、何を思ったのか引き返してきたかと思えば、いきなり秀英を抱き上げる。
「ちょっ、は、離して!」
ようやく我に返った花梨が慌てて声を上げたが、今度は男の足は止まらない。結果的に花梨はその後を追うしかなかった。
外から塀を見た限りでは、どんな豪邸が建っているのかと思ったが、鬱蒼とした木々の間を抜けた先には広い庭と、意外にこじんまりとした屋敷があった。
一人で暮らしていると言った言葉の通り、屋敷の中に入っても人の気配は感じなかった。どこか雑然とした、それでいて人気のない少しひんやりとした空気を肌に感じ、花梨は興味深く周りを見てしまう。
「こっちだ」
案内されたのは一階の奥、客間というよりはプライベートな居間のような部屋だった。
置いてある椅子とテーブルは派手ではないが品が良く、下に敷いている絨毯も趣味がいい。ただ、こういった富豪の屋敷に飾ってありそうな絵画や花などはなく、どこか殺風景な感じはするものの、花梨にとっては居心地の良い空間だった。
男はその椅子の一つに秀英を下ろし、隣の椅子を引いて花梨を促す。エスコートは自然で、容姿と相まってとても紳士に見えた。
「……さて、お茶を出した方がいいんだろうが、私は人に淹れたことがなくてね」
「……はい、お茶はいりません。あの」
「まずは私の名前からだな。私はマルティン・ドラノエ。ドラノエ商会の……まあ、相談役のようなものだが……知っているかい?」
「……すみません、知りません」
アデルベルト帝国の王都、ルートヘルに来て5年。その2年後に父が亡くなるまで町で暮らしてはいたが、まだ子供だった花梨は一人で買い物に行くこともなく、父が亡くなってからの3年間は南の区域からほとんど出ることもなかったので、有名な店であっても知ることはなかった。
男―――マルティンは相談役のようなものだと言ったが、商会の名前を持つくらいだ、きっと創業者一族か、そうでなくても相当上の地位なのだろう。
だとしたら、どうしてここに一人で暮らしているのだろうか。
「何のお店ですか?」
「野菜から、玩具から、武器から、何でも扱っているよろず屋のようなものかな」
「……」
(武器まで扱ってるなんて……相当大きなお店なのかも)
武器を扱うには、確かとても難しい許可を取らなければならないはずだ。それを持っているのだとしたら、花梨の想像通り、マルティンのお店は大きいということだ。
多分、だが、マルティンはちょっとした好奇心で花梨の話を聞いてくれようとしているのかもしれない。富豪には社会貢献をして名誉を得たいと思う者も多いと聞いたことがある。哀れみを向けられているのは少々複雑な気持ちだが、それでこの場を切り抜けられるのなら。
「あの、鋏を」
「ん?」
「庭で髪を切ってきます。ここじゃ床が汚れてしまうし」
掃除をする人はいるんだろうかと思いながら言うと、なぜかマルティンは驚いて否定してきた。
「髪が欲しいというのは冗談だよ」
「え? で、でも、私、他には何も……」
「昔、私は東の大陸に行ったことがあるんだ」
「……」
「そこで出会った君と同じ、黒髪に黒い瞳の者たちはとても勤勉で、私にとてもよくしてくれた」
いきなり始まったマルティンの昔話。
それによると、彼は商売のために若いころ数度、東大陸を訪れたようだ。場所を聞くと花梨たちの故郷ではなかったが、東大陸特有の容姿は、欧米人のような外見のマルティンの目に神秘的に映り、そこで親切にされたことを今でも覚えているらしい。
もう30年近く前のことらしく、もしかしたらマルティンの頭の中でかなり美化した思い出になっているのかもしれないが、それでも、その思い出が花梨たちにとって良い方へ話を持って行ってくれていると思えば、見知らぬ同族に感謝の思いが込み上げてきた。
「それで、君を見て懐かしい記憶が蘇ってきて、柄にもなく恩返しがしたくなった」
「ドラノエ様……」
名を呼ぶ自分の声が震えているのがわかる。
「君の話を聞かせてくれないか?」
こんなにギリギリに助けの手が差し伸べられるなんて、もしかして今夢を見ているのか、それとも罠なのか。
だが、溶けてしまった警戒心は元に戻らず、花梨はすがるようにマルティンを見つめた。
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