第2話 分かれ目
交易が盛んなので出回っている食材も色とりどりで、行き交う人々の雰囲気は活気に満ちたものだった。
しかし、いくら富んでいる国にも暗部がある。それが南の区域を占める下町だが、中でも貧民通りと言われる場所には人に言えない生業の者、親を失った孤児たち、そして体を売る女たちが集まる花街があり、皆が息を潜めるように暮らしていた。
花梨が働く花街の中の安宿も南の中心にあった。
売春宿に訪れた主人に同行した者や、最低限残した以外の護衛などが泊まる宿なので、ベッド以外ない三畳ほどの部屋だ。単に寝るだけなので食事の世話はしなくてもいいが、部屋数が多いので掃除が大変だ。時には掃除中に泊り客と顔を合わせることもあり、そんな時は花梨がまだ幼いと知りながら部屋に連れ込もうとする男もいた。
それは、花梨がこの西の大陸でも珍しい容姿だからだろう。
東の大陸は広い海を介しており、様々な人種が入り混じるこの国の中でもあまり見かけなかった。
東の大陸の人間特有の黒髪に黒い瞳は、この国の人間には神秘的に映るらしい。今までも、そして前世の記憶が蘇った今も、花梨にとっては見慣れたこの容姿こそが自分の身に危険を呼び寄せているとは……。
逃げれば追いかけてはこないが、少しでも気を緩めればどうなってしまうかわからない。花梨は部屋を掃除する時は自衛のためにドアは開けたまま、猛スピードで最低限の掃除をこなしていた。
安宿の女主は、当然花梨たちの事情を知っている。金貸しとつるむくらいには一筋縄ではいかない人物だが、それでも花梨が働いている間、幼い秀英の面倒をよく見てくれた。
面倒を見るといっても自分がいる部屋に置いているくらいなのだが、おとなしい秀英は邪魔にならず、可愛らしい顔をしているので目の保養にもなっているらしい。
食べるものも少なく、朝から晩まで働き詰めの日々だったが、思いのほか平和に暮らせた3年間。
だが、今夜そのささやかな平穏は破られた。
「はっ、はっ」
訪ねた北の貴族街をようやく抜け、花梨は町の南に向かって走った。
既に周りは暗くなっているが、大通りにはまだ人の波は途切れていない。ここから南の区域に向かっては飲み屋や飯屋もあるので、酔った男たちの笑い声が耳にむなしく届いた。
こんなにも陽気に酔っている人間がいるのに、自分は必死に逃げている。その現実に花梨はひどく惨めで泣きそうな気分になるが、ここで足を止めるわけにはいかなかった。このままでは自分はおろか、大事なたった一人の弟まで酷い目に遭ってしまうかもしれないのだ。
(でも、逃げた後はっ?)
この世界にも、日本の警察のような組織はある。町の人間で組織されている自警団と、王都の治安を守る衛兵が所属する治安部隊だ。ただ、日本とは違い、そこはけして弱い者の味方というわけではない。地位や金の力で善悪が変わることはよくあるし、それが当然という世界だった。
今回、花梨が訪れた屋敷の主は下級貴族らしい。下級でも、貴族は貴族だ。その貴族の言い分と、花街の安宿の下働きをしている花梨の言い分、どちらが通るかなんて考えるまでもない。あの男に引き渡される可能性だけでなく、貴族に無礼を働いたと言って牢に入れられてしまう可能性だってあった。
(じゃあ、どこっ?)
王都には頼る人物は一人もいない。いや―――。
(教会……はっ?)
地域ごとにある教会。そこは孤児院も兼ねていると聞いたことがある。秀英とともに駆け込んだら……一瞬そう思ったが、すぐにその案を否定した。5歳の秀英はまだしも、13歳になった花梨は孤児院には入れない。日本では中学生だが、この世界では一人前として働かなくてはならない歳なのだ。
(秀英っ、秀英っ)
何も考えつかないまま、花梨はようやく暮らしている安宿に着いた。今夜も客が多いのか、たくさんの笑い声や話し声がする。
この時間、女主も常連の客相手に店に出ることが多かった。
「……」
花梨は大きく深呼吸する。ここからは自分が戻ってきていることを知られるわけにはいかない。
慎重に裏木戸を開け、庭の様子を探る。人影がないことを確認し、花梨は腰を屈めて庭の奥、使用人が住む長屋に急いだ。
今の時間は小屋の中にいるのは幼い秀英だけだ。
こんな長屋に鍵などはかかっておらず、花梨は土足のまま音の鳴る廊下を通って、ようやく自室のドアを開いた。
「……っ」
秀英は、いた。薄い布団にくるまり、じっと動かない。
まだ追手が来ていないことに心から安堵したが、花梨は急いで秀英を揺り起こした。ここでもたもたしていたら、あの男の使いがやってきてしまう。
「秀英、秀英、起きて」
「……ねえ、ちゃ?」
「秀英、眠いだろうけど起きて。ほら、私の背に乗って」
できるだけ驚かせないよう、花梨は強張る頬に笑みを浮かべて秀英に告げる。素直な秀英はなぜ花梨がそんなことを言うのか疑問にも思わなかったようで、そのまま小さな手を首に回して背に乗ってきた。
「……っ」
まだ5歳、それに華奢で小さい秀英だが、13歳の、それもここまで走ってきた花梨にとってその身体はかなり重く感じる。それでも、ここで時間を食うわけにはいかなかった。そうこうしている間に、あの男の差し向けてくる追手がここにきてしまうかもしれないのだ。
「秀英、お姉ちゃんがいいって言うまで声を出しちゃ駄目だからね? お約束、守ってね?」
花梨がなぜそんなことを言うのか、幼い秀英にわかるはずがない。秀英はこくりと頷いてくれた。
(……よし!)
長屋を出た花梨は、今来た道を足早に戻る。
こんな所に客が来ることはないが、同じ下働きの人間に遭う可能性は―――。
「花?」
「!」
出てくるなと思う時ほど、そうなってしまうのだろうか。花梨はとっさに上げかけた悲鳴を飲み込んだ。ここでいつもと違う態度をとって、不審に思われて安宿の用心棒などを呼ばれては万事休すだ。
大きく呼吸をして気持ちを落ち着かせると、花梨は強張る頬に笑みを浮かべてゆっくりと振り向いた。
「ドーラ」
「こんなとこで何してるの? 今日、お使い頼まれたんじゃない?」
(あ……そっか)
女主人に今日の使いを頼まれた時、確かドーラが通りかかった。下働きの仕事ではなく、街に出る使いの仕事は結構人気だ。綺麗な服を着ることができるし、賃金も多い。現に、今花梨が着ている服は下働き用のものではなく、街の中級の住人が着るような小奇麗なワンピースだ。
ドーラは特にこの国の人間ではない花梨たちに敵愾心を持っているようで、何かと突っかかってもきていた。花梨より1歳年下のドーラはもともと孤児だが、容姿が整っていたので女主が町から連れてきたらしい。それなりに自分に自信があるせいか態度も尊大で、この場で会うには最悪の人間だ。
(でも、どうにかして誤魔化さないと……っ)
「使いは済んだの。秀英がちょっとぐずっていたから外に連れ出したのよ」
「ふ~ん……」
信じただろうか。ドーラは薄い茶色の瞳を眇めている。
「少ししたら宿に行くから」
「……あんまり遅いと、サボったって言うから」
ドーラはつんと顎を出して立ち去った。どうやら一応信じてくれたようだ。
それでも、花梨がサボったと伝えたいがために、早めに女主にここで会ったことを告げるかもしれない。
花梨は辺りを慎重に探り、そっと裏木戸から外へ出た。
向かう先は決まっていない。
ただ、少しでも早く町の南からは出なければならなかった。
幼い子供を負ぶった花梨を怪訝そうに見る者はいたが、まさか花街から逃げているとは思われるはずもなく、案外スムーズに街の中心まで来ることができた。
「……ふ……」
まだ安心することはできないが、まさか貴族が町中で騒ぐこともないだろう。
「……秀英、歩ける?」
「……ん」
秀英を背から下ろすと、ひとまず息をつくことができた。
「……どこいくの?」
「……どこ行こうか……」
「……ねえちゃ……」
自分一人ならまだしも、小さな秀英を連れたままあてもなく歩き続けることは無理だろう。
(もう、教会に行くしか……ないかも)
花梨は無理でも、秀英はひとまず引き取っては貰えるはずだ。
しかし、それはあくまでも最終手段でしかない。この世でたった一人の弟を、自分の目が届かない場所にやることはできれば避けたかった。
町の中を歩く人の数は一向に減る様子はない。
「秀英、眠い?」
「だいじょーぶ」
「……」
いつもなら既に眠っている時間だ。早く休ませてやりたくて、花梨はそろそろ覚悟を決めないといけないのかと唇を噛みしめる。
「秀英、あのね」
いくら聞き分けの良い秀英でも、花梨と離れて生活するということにすぐに納得はしないだろう。どう説明したらいいのか……開きかけた口が自然に閉じてしまった時だ。
「何?」
「なんだ?」
今までの喧騒とは違うざわめきが耳に入った。
「あれって、南の……」
「何か探しているのか?」
「!」
その単語を聞いた途端、花梨はすぐ側の建物と建物の間に体を滑り込ませた。
大人がようやく1人通れるかどうかの隙間で、秀英を強く抱きしめたまま息を潜めていると、すぐに道を走っていく男数人の姿が目に入る。あまり上等ではない服に、人相が悪い男たち……あの顔には見覚えがあった。
(もう知られちゃったんだ……)
あれは、安宿の用心棒たちだ。町の粗暴者が小遣い稼ぎでやっているようなもので、考えるよりも先に手が出てしまうような者たちだ。
あの貴族の男の使いが行ったのか、それともドーラが告げ口したのかはわからないが、あの男たちが逃げた花梨たち姉弟を探しているのに間違いないだろう。
教会に行こうか迷っていたが、そこにたどり着くまでに見つかってしまう可能性が高い。
(どうしよう……っ)
考えられる方法は三つ。
素直に姿を現し、女主に頭を下げて秀英だけは咎めなく助けてもらうか、この王都から出ていくか。
それか、あの粗暴な男たちが足を踏み入れにくい貴族街か、富豪が暮らす西の区域に行って何とか逃げおおせる活路を開くか。
花梨は手を繋いでいる秀英を見下ろす。眠いだろうに、ぐずることもなくおとなしくしているその様子に、事をあまり長引かせることはできないと思った。
「……静か……」
花梨が足を向けたのは西の区域、富豪が暮らす屋敷が立ち並ぶ場所だった。
結局、女主に謝ることは考えられず、何の用意もないまま王都から出ていくことも自殺行為だ。
とにかく、今夜を乗り切る場所として考えられるのは、富豪の広い敷地くらいしかなかった。貴族とは違い、富豪の中で夜間護衛を雇っているところは少ない。それならば、広い庭の片隅で一夜を過ごすことも可能に思えた。
……いや、よく考えれば、行き当たりばったりの考えだと、前の人生では三十路まで生きた花梨には容易にわかった。それでも、今はこれ以上の妙案が思いつかない。
「……ここ……」
かなり奥まったところまで行くと、鬱蒼と木々が茂った屋敷が現れた。壁には蔦も絡まっていて、月明かりの中で見るとお化けでも出てきそうなほど怪しい雰囲気だ。
(ここ……富豪が住んでいるわけ?)
金持ちの大店の持ち家にしては怪しすぎる。しかし、ここまで庭に手が入っていない様子なら、子供2人が隠れることも簡単ではないか。
(……よし)
「秀英、こっち」
花梨は声を潜めて屋敷の裏に回った。
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