のらねこレストラン(5)

 キッチンタイマーが、またぴこぴこ鳴った。

「サバがもう一枚、焼けたようです」

 薫が部屋を出て、また戻ってくる。今度も薫は、大根おろしを付けてきた。

「大根おろしは、もういらにゃいにゃ」と、吾輩は言った。

「付けないとなんだかわびしい気がしまして。料理と言えないような」

「こだわりますにゃ~」と、吾輩は言った。

 薫が美しい箸使いでサバの身をほぐす。その仕草に、吾輩は見とれた。

「それにしても、箸さばきの手付きが綺麗にゃ~。見とれるにゃ~」

「ちょっと、ふふ。おかしなこと言いますね。この猫さんは」と、薫は微笑みながら言った。そして聞いた。「吾輩さん、吾輩さんって呼んでいいんですかね。呼び方としてちょっとおかしくはありませんか。ホーリーは、吾輩さんってお呼びしてましたけど、失礼ではありませんでしょうか」

 薫は、もう一枚持ってきた小皿に、吾輩の分のほぐしたサバの身を取り分けた。

「にゃー。失礼にゃんて。そんな事はにゃいですにゃ。あだ名みたいにゃもんですにゃ」


「ああ。口癖があだ名になるという。父の時代のアニメの登場人物ですけど、ルパン三世の相棒役の次元の名前の由来が、作者の口癖だったと聞いたことがありますね。『次元が違う』とかなんとか。父が言っていました」

 ニヒルで有名な昭和アニメの登場人物である。射撃が上手い。おもちゃのピストルで撃ってくるという不愉快な事が多いので、吾輩はあえて返事をしなかった。

「いただきますにゃ」と、吾輩は、サバを口にした。身がふっくらしている。「美味しいですにゃ~。この脂が乗っててしょっぱいのがたまりませんにゃ」

 しばらく、吾輩は、薫の焼いてくれたサバに舌鼓を打っていた。

「ところで、薫さんは、みんなから何と呼ばれているのかにゃ?」

「私ですか。そのまま楠木か薫ですよ。そういえば、私にはあだ名がありませんね」

「おならばっかり出す子供が『ブー』って言われるにゃ」

「ブーですか。そんなふうに私は呼ばれてませんが」

 いや、もしかしたら影でそう呼ばれていたかもしれない。中学時代の教室。みんなに注目されている場面で、鼻血を出したことがあった。

 おならブーではなく、鼻血ブーである。

「吾輩は、ブサとか言われますにゃ。きっと、相当ブサイクにゃんですにゃ」

「そんな。そんなひどい事言う人は、少し頭がおかしいですね」

「ホーリーは、ノル、ノルちゃんって言われてるにゃ。近所の人間ににゃ。可愛いから人気ものにゃ。羨ましいですにゃ。妬ましいですにゃ」

「そこまで妬みを正直に言えるなんて、清々しいですね。ノルは、ノルウェージャンですね。ホーリーは毛が長いから。関東の日本人は、先頭を、関西人や外国人は、最後を略称にすることが多いんですよ。たとえば、アマゾンは、日本ではアマですが、海外では、ゾンですよね」

「じゃあ、ホーリーは、海外にいたら、ジャンにゃ!」

「ジャンだとフランス人みたいですね。ノルウェーなのに。ふふ」と、薫は笑った。この人間の娘、笑顔がとても素敵である。ふとした瞬間である。表情がない仏頂面のことが多いようだが、その時は美人で、笑うと花が咲いたように可愛い。

「しかし、薫さんは、『お母さん』と、ホーリーに呼ばれてるにゃ。吾輩も『お母さん』と呼んだほうがいいかにゃ?」

「いきなり母呼ばわりですか。私、ホーリーや吾輩さんを生んだ覚え、ないんですが。ほぼ初対面の女性をお母さんと呼ぶ人は、おりませんよ。おかしいですよ」

 どうも薫の機嫌を損ねてしまったようである。

「自分の母でなくても、男性が女性のことを母と呼ぶことがありますにゃ」

「と、いいますと」と、薫が聞いた。

「旦那が奥さんのことを「お母さん」と呼ぶことがあるようにゃ」

「ああ。子供の前では、夫婦が「お父さん」「お母さん」とお互いを呼びますね。日本の家庭では、家族の中で一番幼いものから見た役割で、家族を呼ぶという習慣があるんです」

「にゃるほど」と、吾輩は言った。

「私は、子供を生んだことありませんが、子供がいるような歳に見えるんですか」

「失礼ですが、お歳を教えてくださいにゃ」

「十八ですが」

 落ち着いているので、もう少し年上に見える。二十二歳ぐらいに見える。正直、子供がいるように見えなくもない。子供がいてもおかしくは見えない。が、吾輩はそれは黙っていた。吾輩が黙っていたので、薫が口を開いた。

「どうでしょう。私、老けて見えるんですかね」

「にゃにゃ! そんにゃこと、ありませんにゃ! 薫さんの思い過ごしですにゃ~」と、吾輩は必死に否定した。が、結局、嘘をつくのもどうかと思って、思い切って正直に言ってみた。「お嬢さんがお淑やかで、落ち着かれているので、すでに成人されているかのように見えただけですにゃ。まったく吾輩の思い込みですにゃ~」

「はあ。そうでしょうか。ひとつ聞いてもいいでしょうか」

「にゃんですかにゃ」と、吾輩は少し身構えた。

「吾輩さんの歳を教えてください」

 薫の二つの目が、答えを聞かなければ済まさない、と吾輩に言っている。

「そんにゃこと聞かれても。猫に自分の歳はわかりませんにゃ。猫は、平成も令和も、暦もなく暮らしていますにゃ」

「そうなのですか」

「あたりまえですにゃ。ホーリーも、自分の歳は分かりますまい」

「後で聞いてみますが」

「では、ごほん。吾輩は何歳ぐらいに見えるのですかにゃ」

「よくわかりませんが、私よりも年上のように思えるのですが」

「十八歳? それ以上ですかにゃ? のら猫の十八歳はかなり稀にゃ~」

「そうなんですか」

「吾輩、猫又にでも見えますかにゃ? 尻尾が二本ありますかにゃ~」

「いえ、そんな妖怪のようには見えませんが、なにか貫禄があるので」

「誤解ですにゃ~。猫は人の年齢を正確に当てられないですし、きっと人間も、猫の年齢を当てられないですにゃ~」

 少し間があった。薫は納得していない。

「本当に薫さんは、吾輩が、十八年以上生きているように思うのですかにゃ?」

「それで聞いているのですが」

「さて。吾輩もわかりませんが」と、吾輩は、薫の口ぶりを真似て言った。

 薫が、吾輩をジロジロ見つめている。

「ごちそうさまですにゃ。店員さん」

「あ! それです。『店員さん』」と、薫は喜んだ。喜んで、手を口のあたりに合わて微笑んでいる。「面白いです。私にもあだ名がつきました。仲のいい友達がいなかったから、あだ名を付けてもらえなくて。そうそう。他になにかお持ちしましょうか……いや、他にご注文はございますでしょうか」

 笑えば、十八歳に見える。笑ってないときの静かな仏頂面が年を取って見せてしまう理由かもしれない、と吾輩は思った。菩薩様のように美しくはあるが、若くは見えない。

 吾輩は、サバを食べ終わっていた。皿はきれいに舐めてある。ホーリーの方はというと、食い散らかして、少し身が残っているが、もう食べる気はないようだ。

「いえ。もう、ごちそうさまですにゃ」と、吾輩はテーブルの上から、床に降りた。

「出口はどう行ったらいいかにゃ?」

「こちらからも出られるんですよ」と、薫は、病院側の出入り口のドアを開けた。キィときしんだ音がした。

「では」と、吾輩は言った。

「またのご来店をお待ちしています」と、薫が吾輩を見送った。「キリスト教と十字架の話、神父様に伺っておきますので、またいらしてください」

 ホーリーと薫が、玄関口で吾輩を見送っている。

 敷地を後にしながら、吾輩は考えていた。女性に対しての口の聞き方には、もう少し気をつけたほうがいいな、と吾輩は反省していた。老けて見えるかと聞いてきたときの、あの娘の敏感さは、怖いぐらいだった。薫の目。猫のひげ以上に敏感で繊細で、物と同じように心の動きを正確に測定しそうだった。不用意に歳を聞くのはとにかく良くない。

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