のらねこレストラン(3)

「お母さん、吾輩さんだよ」と、ホーリーが吾輩を人間に紹介した。「ごちそうしてくれるんでしょ?」

 吾輩には、ホーリーと人間の会話がすぐに飲み込めなかった。が、どうやら、ホーリーは、飼い主の人間のことを「お母さん」と呼んでいる。

「ええ。ごちそうしますよ。お客様。お入りください。のらねこレストランへいらっしゃいませ」

 吾輩は、玄関から上がり、住居部分の板敷きの廊下から、家の中をくねくね曲がって、元は病院の待合室だった部屋に通された。

 部屋の様子は、レストランとはいいがたい。積み重ねられたソファーが、バリケードのようなものを部屋の隅に作っている。壁には黒板があるが、何も文字は書かれておらず、何も張り出されていない。

 のらねこ食堂ではないか。と吾輩は思った。

 ただ、部屋の真ん中に、部屋の大きさとは不釣り合いな、小さなテーブルと椅子が置かれている。そのテーブルと椅子だけが、真新しかった。

 吾輩は、そのテーブルの上に載せられた。

「何をお召し上がりになりますか」と、女性が聞いた。「……ちょっと、言い方が違いました。言葉が……あ、そうそう。ご注文をどうぞ」

 ついてきていたホーリーも、テーブルの上に飛び乗り、吾輩と並んだ。

「何を出していただけるんでしょうかにゃ? カリカリとかかにゃ?」

「メニューがあるんですよ。すいません、まだ不慣れで、手順が……」と、女性が微笑みながら、画用紙に書いたメニューをテーブルの上においた見せた。「ごほん……メニューをどうぞ」

 吾輩は、人間の言葉はわかっても、文字は読めない。

「読めないにゃ」

 女性は指で文字を指しながら、丁寧にメニューを一通り読んでくれた。

「ドライフード、ささみ味、フィッシュ味、……ウェットフード、カツオ、ツナ、サーモン……生魚、ブリ、マグロ……焼き魚、鮭、サバ……」

 レストランといっている割には、メニューに洋食がない。店内のあまり洒落っ気のない様子も含め、のら猫食堂という方が正しいのではなかろうか?

「吾輩、お金にゃいんですけど。飲食店とか入るの初めてにゃ」

 吾輩は、猫としては至極当然のことを言った。のらねこレストランなどと言っていたが、この若い女性はどこまで本気なのか?

「お代はいらないんですよ」と、ちょっとくだけた口調で女性は言った「それとも、ホーリのおごりですかね」

 女性は、ちょっと意地悪そうな顔をしながら、ホーリーの頭をなでた。

「おごらないよ!」と、ホーリーが元気よく答えた。

「本当にお金いらないにゃ?」と、吾輩は恐る恐る言った。

「ええ。ご心配なく」

「では……」と、吾輩はごくりと喉を鳴らしながら言った。「サバがいいにゃ。好物にゃ」

「サバは、焼き上がるまでお時間頂きます」と、女性が言った。少しドヤ顔してたのを吾輩は見逃さなかった。多分店員の役にちょっとずつ自信がついてきたのだろう。「よろしいでしょうか」

「じゃあ、ウェットフードにしようかにゃぁ、うーん。やっぱりサバがいいにゃ。せっかくごちそうしてくれるにゃら。生のサバはにゃいの?」

「生食用のサバの用意はございません。申し訳ございません」と、女性が一礼した。女性の嬉しそうな顔がはっきり見えた。経験値アップ!という感じだった。

「……焼き上がるまでにどれくらいかかるにゃ?」

「十分ほどいただきます」

「待つにゃ。吾輩は、焼きサバをお願いできますかにゃ!」と、吾輩は答えた。多分、サバと書いてあるあたりをびしっと指差して。

「かしこまりました」と、女性が一礼した。そして「ホーリーは、何か食べますか」と、ホーリに向かって言った。

「今はいらないよ!」と、ホーリーが元気な声で答えた。

 女性は、メニューを下げた。ホーリーと吾輩を残して、部屋を出ていった。

「ここ、お客さん沢山いるのかにゃ~? のらねこレストランなんて初めて聞いたにゃぁ」

「お客さん、吾輩さんが初めてだよ。お母さんが、のらねこレストランって言い出したの、今朝だもん。さっきのメニューも、今朝書いてたんだよ」

 女性が戻ってきた。水の入ったコップを手に持っている。

「忘れてました」と、ぶつぶつ、つぶやいている。「……メニューを出す時に、一緒に出さないと、レストランっぽくありません」

「このお水、何ですかにゃ?」と、吾輩は聞いた。

「これは、お冷ですね。お客様のためのサービスですよ。お食事と一緒にどうぞ」

「そういうものにゃんですね」

「ええ。日本のレストランだと、普通そうですね。海外だと、お水も客が注文するものらしいですが」

「では、頂きますにゃ」

 吾輩は、出された水をぺろぺろと飲んだ。

 ひょっとして彼女は、ままごとのつもりなのではないだろうか? そんな疑問が吾輩の頭をよぎった。紙に書いた薄っぺらいお絵かきのサバが出される様子を想像した。

「お嬢さん、お名前は、薫でいいですかにゃ?」と、吾輩が聞いた。「さっき、ホーリーが、『名前は薫だ』と言ってたのですがにゃ」

「ええ」と、女性はうなずきながら言った。「楠木、薫といいます」

「素敵なお名前ですにゃ~」と、吾輩は言った。「クスノキは匂いが強いといいますにゃ。それが薫るというのですから、洒落ておりますにゃぁ~」

「これは! ありがとうございます」と、驚いたという表情で薫が答えた。「薫は、父が付けてくれた名前なんですよ。音無響子みたいな名前がいいとか。ところで、お客様は『吾輩』さん、ですか。それが名前なんですか」

「自分のことを吾輩と言っているだけですにゃ。吾輩には名前は無いですにゃ」

 猫の一人称と言えば『吾輩』だ。それが明治以後の日本の常識だ。それを吾輩は、女性に説明した。

 思いの外、障害なく人間と会話が成立する。そういえば、さっきホーリーが『お母さん、猫と話できるよ』と言っていたのを、吾輩は思い出した。

「猫といえば、たしかに『吾輩』ですよね。本で読んだのでしょうか」と、薫が聞いた。

「文字は読めないにゃ。先輩の猫から聞いたにゃ」と、吾輩は答えた。

 吾輩はまたさっきのことを思い出して、薫に聞いた。

「ホーリーは、薫さんのことを『お母さん』と呼んでましたけど、どうしてですかにゃ?」

「おそらく、生みの親と育ての飼い主の区別がついていないのでしょう。世話をしているうちにお母さんと呼ばれるようになってしまって」と、薫が答えた。「しかし、人間でも、学校の担任教師が女性だと、児童が先生のことをついお母さんと呼んでしまうことが、しばしあるのですよ」

「ふーん。にゃるほどですにゃ。では、担任教師が男性の場合、ついお父さんと呼んでしまうものですかにゃ?」

「いえ。そういえば、そういう場面はありませんでしたね。私の小学校の頃の記憶では。教室でお母さんは、二、三回あったように思いますが、お父さんは、ないです。よく考えると不思議ですね」

「こちらには男性の方はいらっしゃらないのですかにゃ?」

「えっ。いえ、おりませんよ。私一人です」と、薫が少し慌てて言った。

「この広い家にお一人ですかにゃ。薫さんのお父様やお兄様などを、ホーリーがお父さんと呼ぶのかにゃ、と思って」

「男性の家族がおりません。それに、こちらは今は、一人住まいです」と、薫が答えた。「兄弟はおりませんし、父は亡くなっておりますから」

「そうなのですにゃ。これは失礼いたしましたにゃ。お若いのにもうすでにお父上をなくされているというのは、お悔やみ申し上げますにゃ」

「これはご丁寧に。お気遣いいただきありがとうございます」と、薫は答えた。

 続けて、吾輩は、ホーリーの名前について聞いた。

「ホーリーの名前は、キリスト様となにか関係があるのですかにゃ?」

「はい。背中の十字の模様が十字架のようなので、そこから連想でキリスト教の聖人などの『聖』『ホーリー』ということなんですが。おわかりになりますか」

「にゃるほど。キリスト様といえば、十字架ですにゃ」と、吾輩は答えた。「サバはまだ時間かかりますかにゃ?」

 薫は、ポケットからキッチンタイマーを取り出して確認した。

「あと少しですね」

「どうして薫さんは、猫と話ができるのですかにゃ?」

「さて。私にもわかりませんが」と、薫が答えた。

 唐突すぎる吾輩の聞き方だったかもしれないが、あまりにあっけない返事に、吾輩は言葉を失ってしまった。

 そのまま薫も吾輩も無言の状態となった。

 ふたりとも黙っていると、薫のポケットの中のキッチンタイマーが、ぴこぴこ電子音を知らせてきた。

 薫は、キッチンタイマーをポケットから取り出して、音を止めた。

「焼き上がったようですので、お持ちいたします。お待ち下さい」

 薫は部屋を出ていこうとしたが、振り返って、吾輩に聞いた。

「大根おろしは召し上がりますか」

「大根おろしですかにゃ? うーん。口にしたことがないかもしれにゃいにゃぁ。あの白くて、ドロッとしたやつのことですかにゃ?」

「多分それですが。少しおろして、添えておきます」

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