のらねこレストラン(2)
薫が住み始めた家からほどない場所に、小さな公園がある。鉄棒、ブランコ、砂場、ベンチと水飲み場がある児童用の公園だ。象を模したすべり台に少し特色がある。
そこに、自分のことを吾輩と称する猫がいる。吾輩、吾輩と連呼するので、周辺の猫の間では、吾輩さんと呼ばれている猫である。
身体は小さいが、周囲の猫の間では、物知りで有名な猫だった。
吾輩は、元は神田で生まれて、その後は文京にいた。世話をしてくれていた人が急に死んで、猫が多くいるという噂を聞き谷中に行った後、日暮里への坂を降りて、田端から上中里二丁目の中洲地帯にたどり着いたが、出口がわからず戻れなくなった。
吾輩とホーリーは、のら猫同士の知り合いだった。
ホーリーは、ペットショップで売られているような見た目うるわしい子猫である。のら猫だとは信じられない。ノルゥエージャンの血が混じっている。日本ののら猫で、毛並みの長い猫は、珍しい。
一方、吾輩は、サビといわれる模様で、あまり人間には人気のない模様である。鉄が錆びたような模様である。親しみやすいし、愛嬌がある、と言ってくれる人もいるが、地味で貧乏臭い模様である。
五月の話である。
子猫は、人間のところで世話されるようになった、と吾輩に言った。
ぽかぽか陽気の児童公園での話である。
付けてもらった名前はホーリー。子猫がそう吾輩に教えた。
「背中に十字架があるからだって。キリストなんだって」
「にゃ?」と、吾輩は言った。「話がよくわからなかったにゃ」
「お母さん、猫と話できるよ」
「お母さん? にゃ?」
「名前は薫だよ」
ホーリーの話は、要領を得ない。子猫なので仕方がない。
「あ、そうだ。お母さんに、友達、連れてきなさいって言われてたんだった」と、ホーリーが吾輩を誘った。「のらねこレストラン始めるんだって」
「にゃ。のらねこレストランって何かにゃ?」
「そう! お母さん、ごちそうするって。吾輩さん、うちに来て、来て!」
「ごちそうかにゃ? じゃあ、いくにゃ」
吾輩は腹が減っていた。
少し前には、毎朝欠かさず公園でドライフードくれる老婆がいたが、ある朝、その老婆が中年女性に頭ごなしに怒鳴られているのを見た。
「カラスが集まるし、虫が湧くでしょ。食べ残しの掃除を誰がやってると思うんですか」
公園にカラスが集まったり、虫が湧いたりしても、それほど困ることだろうか。意地が悪いんだな、と吾輩は思ったが、そのあとぱったり、その親切な老婆の姿を見なくなってしまった。
半年ほど前の話だ。それから食いつないでいくのが大変になった。
吾輩はホーリーの後をついていった。
「ここがおうちだよ」と、ホーリーが吾輩に言った。
目の前に見えるのは、昭和初期の家屋で、カントリーハウスと数寄屋造りを繋げたような少し風変わりな建物である。入り口が二つある。昔の町医者の住宅件病院だったもので、一つは一つは病院の出入り口、奥のもう一つは、住居の玄関なのだった。
隣に、三階建ての新築住宅と、シェアハウスのコンクリート四階建てアパートが建っている。背の低い風変わりな家屋は、埋もれて目立たない。東京の狭い敷地で、室内空間を大きくしよう思うと、どうしても縦に伸びるから、時代遅れの家屋は、ひっそりとたたずんでいた。
道路から見て手前側がカントリーハウス風の部分で、かつて病院だった名残である。西洋風のいわゆるドアがついている。玄関の軒下には、和洋折衷な小洒落たランプが取り付けられていた。よくよく見てみれば、手が込んだランプである。今は、ランプに明かりは灯っていない。夕暮れになれば、灯るのだろうか?
ホーリーは、その手前の一つ目のドアを素通りしていった。
もう一つの入り口。半透明の乳白色のガラスに木の格子がはめられている玄関の戸は、横に引く和式のものである。格子が日に黒く褪せ、角が痩せている。もとの戸がどんな色だったのかもさっぱり想像がつかないぐらいである。
ホーリーが大きな声で「ただいま!」と言った。
カラカラと静かな音を立てて扉を引き、顔をのぞかせたのは、家の様子とかけ離れた若い女性だった。鼻が低く、目は細く、あまり自己主張しない顔立ちであるが、こじんまりと整っている人間の若い女性である。。
吾輩は見とれた。
後ろ髪が肩にかかるぐらい。黒髪のストレート。艶に反射する光が美しい。すらりと長い手で戸を開けた仕草は落ち着いていて、育ちの良さが感じられた。
吾輩に時間が戻った。
「きれいな人にゃ」と、ボソリとつぶやくように、吾輩はホーリーに言った。
羨ましかった。ホーリーは綺麗だったし、飼い主が更に美しい人だというのは、吾輩にとってはこれ以上なく妬ましかった。しかし、そんな気持ちをホーリーに知られたくないから、ちょっと感情を抑えて言ったのだ。
しかし、ホーリーに言ったつもりで、返事をよこしてきたのは人間の方だったから、びっくりした。
「ふふ。お客様。お世辞がお上手なんですね」と、人間はそう言ったのだった。歯並びがきれいで、そして、とてもきれいな声で言った。
「……吾輩の言ってること、わかるのかにゃ? いや、吾輩の口にした言葉が、わかるのですか?」と、吾輩は、恐る恐る聞いた。
興味深そうに少し首を傾げ、吾輩を見つめている。
くす、と上品に笑い、人間の女性が言った。
「ええ。わかります。お褒めの言葉、ありがとうございます」
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