第3話 現実と願いのはざま

 マグノリアが護衛の武官らを引き連れて部屋を出た途端、ディオンの張り手が飛んだ。ばちんと大きな音がしてフェリシアの軽い体は壁際まで吹き飛ぶ。


「いったい何を書いた!」


 口の中に鉄の味が広がった。だが彼女は左の頬を抑えてすぐさま立ち上がり、自ら進んで二発目を待つ。


「何も。お父様とお兄様にお見せしたものから何も変えておりません」

「見え透いた嘘を吐くな! 出来損ないが、どうせありもしないことを付け足したのだろう」


 言葉を吐けば嘘つき呼ばわり、何も言わなければ後ろめたいことがあるのだろうと言われる。

 どちらにしろもう一発飛んでくる拳に目を閉じて構えたが、その時はなぜかいくら待っても飛んでこなかった。不思議に思って目を開けると、絵に描いたような憐憫を顔に張り付けた兄マティスが父の手を抑えている。


「父上、フェリシアを叩いてもどうにもなりません」

「ならばどうせよと言うのだ!」


 抑えられた拳を忌々しそうに振りほどきながら、ディオンは唾を飛ばす。するとマティスは少し思案顔になってから、ポンと手を打った。


「逆にあの女の状況を、フェリシアに報告させるのはどうでしょう?」


 ビクリと体を震わせたフェリシアの前にマティスは立ちふさがる。大きな体で上から押さえつけるように両肩を持ち、威圧的な笑顔で頭上から迫った。


「それぐらいのことは、お前にだってできるだろう?」


 こうなると、彼女の返事に選択肢はない。はいかイエスだ。

 女中たちが身重のオパールを庇うように退出し、叔父のノアも顔を伏せて黙って成り行きを聞いているしかできない。ディオンは椅子に戻って残りのボン茶を一気に飲み干して、汚い口髭を歪ませた。


「嘘つきにはちょうど良い役向きだな」

「叔父上も呼ばれていたようですから、二人であの女を探ってきてくださいよ。……父娘で間諜の真似事なんて面白いじゃありませんか」


 そう話を振られたノアは、伏せていた顔をゆっくりと上げる。硬い表情でわずかに首を縦に振った。

 実のところ法律上は、フェリシアはすでにディオンの娘ではなくなっている。元から聞こえもしない声と会話をするうえに、九歳の時の落石事故で顔に大きな傷が残った娘を、ディオンは自分の弟ノアに養女として押し付けた。

 それゆえフェリシアへの小言や折檻が終わると、二人の矛先は彼女の養父となったノアに向く。


「まったく。養女に出してから日に日に生意気になっていくようだぞ。どういう教育をしているんだノア!」


 養女の粗相は養父のせいとばかりにノアを叱責する。これはフェリシアがノアの養女になった二年前からお決まりだった。

 結局のところ、法律上フェリシアがノアの養女になろうとも、同じ屋根の下に収まると家族としての役割は変わらない。ディオンは責任だけを自分の弟に押し付けた形だ。

 フェリシアが養女になるにあたって実父ディオンが出した条件は一つ、二人がグロー領内に住むことだった。傷物の醜い娘を都の貴族の笑いものにしたくないとの理由だったが、それは帝都での医者の仕事を辞めてグローライトへ戻ってこいというノアへの命令でもあった。

 戻ってから彼には館の一室をあてがわれて医師の仕事はほとんど取り上げられ、領主の仕事の代行させられている。都合よく人件費削減にされていた。


「とんだ恥をかかされたわ。まったく養女に出しても不幸をばらまく豚め」

「報告書については褒めておられましたが」

「たわけ!」


 再び罵声を上げながら、太ましい手が手元のティーカップを弾き飛ばす。軽い音がして花柄のティーカップが粉々になっていた。


「もういい! あの女狐の尻尾を掴んだらすぐに報告しろ!」


 ディオンとマティスが引き上げた後で、いつも通りノアは気にするなと苦笑をした。

 忍ばせていた軟膏を取り出して、フェリシアの叩かれた頬に塗り込んでくれる。申し訳ありません、と彼女は言葉を繰り返したが、この日の叔父は少しだけ違っていた。


「マグノリア殿のこと、どのように思った」


 叔父の質問の意図をはかりかねて、フェリシアは返答に窮する。


「どのように、ですか」

「ああ、どんな印象を持った?」


 目を見張るほど真っ白な人、優しそうな貴婦人、とんでもない甘党、下手したらあの義姉よりも綺麗、威風堂々として、でも時に狡猾、ずっと微笑みを絶やさない。

 様々な言葉が一瞬のうちに頭の中を通り過ぎたが、どれも彼女を表現するには物足りない。フェリシアはこれら全てを包括する言葉が分からず、肩を落とした。


「一言ではなんとも。けれど、ただの女性には見えませんでした」

「ふむ。フェリシアもか」

「やはりあのように博識でお美しくて、しかも懐の深い方でないと皇帝陛下のお傍に侍ることは難しいのでしょうね」


 ノアは何度もうなずく。慣れた手つきで軟膏を片付ける間、彼は何事か考えている様子であった。

 しんと静まり返った部屋に、居心地の悪い空気が居座る。フェリシアはノアが何を言わんとしているのか続きを待つ。

 ところが次の言葉は、想像のはるか上をいくものだった。


「ここだけの話、あの方はな、本物だ」


 は?という間抜けな音が口から抜け出た。話の脈絡に頭が追いつけない。


「本物とは」

「まごうことなき人体書籍、それがマグノリア殿だ」

「はい……?」


 人体書籍とは不老不死のおとぎ話の登場人物だ。

 歴代アルミラ皇帝に数百年前から仕えている、人の形をした人ならざる本の精霊。この世の全ての知識を詰め込んだ魔法世界の人。この国に住んでいる者ならば誰でも知っている、お話の中の住人だ。


「待ってください。あのおとぎ話は何かの比喩でしょう? その、例えば人体書籍と呼ばれる役職があるとか、そういう」


 普通に考えるならば人間はよほど長く生きても七十がよいところだ。数百年も生きて歴代の皇帝に仕えるなど、夢物語、絵空事、作り話、言い方は様々だが、詰まるところは嘘である。

 ではどうしてそんな話が世に広まったのかといえば、人体書籍なる知恵者の席が皇帝の周りにあるのでは、というのが夢から覚めた大人の発想だ。当代一の知恵者が人体書籍なる称号を得て、為政者の補佐をする。これならまだ現実味がある。

 ところがノアは怖い顔をしたまま微動だにしなかった。その無言の圧力に恐れをなし、フェリシアは目をそらす。

 自然と声が大きくなった。


「いやいや、そんなまさか。あの方はどう見てもまだ二十代前半、お義姉様と同じぐらいですよ」

「私も医者の端くれだからね、人間がいつか死ぬというのは理解していたつもりだった。しかしあのお方は何か、根本的に存在が違う」


 いや、そんな、まさか、と何度も口に出さずに繰り返す。そのたびに叔父の表情が深刻の度合いを増して、現実味を帯びていった。


――あの真っ白な麗人が、人間ではない、としたら?


 疑問が大きく膨らむにつれて、フェリシアの抱く救世主への印象が崩れて形がぼやけた。マグノリアという人物が分からなくなる。


――人間じゃないのなら、一体何だっていうの……?


 ただの女性が何の後ろ盾もなく皇帝に仕えるなど、甘い世の中ではない。女が一人で生きていくには、外の世界はあまりにも過酷過ぎると聞かされていた。

 だから多くの女は幼くしては父兄に、嫁しては夫に、夫の死後は息子に従うものとされている。傷物ですでに嫁ぐあてのないフェリシアは、虐げられてでも家の中にいる方が何倍もましだと聞かされて育った。

 だからなのか、聞かされた彼女の正体がどれだけ眉唾ものでも、薄気味悪さは感じなかった。むしろ好ましいとさえ思い、フェリシアは彼女が泊まる棟の方へと視線を動かす。


「それはなんとも、羨ましい方ですね……」

「羨ましい?」

「無礼を承知で申し上げるなら。――だって人の理に縛られては、おられないのでしょ」


 もしフェリシアが男であったならば、ノアのように自立する術もあったのかもしれない。ところが現実は、そのノアさえ相当に立場が弱かった。

 爵位も財産も継ぐことができない貴族の次男坊以下は、下手な下級貴族の娘よりも身の振りように困ることが多かった。手に職を付けなければ、食い扶持が無くなることさえある世の中だ。事実、ノアは今年四十五になるというのに嫁の気配もない。

 その叔父が唐突にフェリシアの前に立ち、怖い顔をして見下ろした。


「フェリシア、もう少し待ってくれるか」

「待つ? 何をですか」

「時機に分かる」


 ノアの声はいつにもまして低い。

 優しい声が、今日は低く恐ろしい響きをしていた。


「だがそのためには、フェリシアが私の娘で、裏切らないと約束してほしい」

「……はい?」

「そなたはもうこのノア・グローの娘として生きてくれるか?」


 珍しいことを言うものだと、フェリシアは真顔になった。

 だが叔父の目に寸分のゆがみも無いことを見て取る。

 フェリシアには自分に危害を加えるディオンとマティスよりも、せめて黙って隣にいてくれるノアを家族だと思っていた。未だに叔父を父とは呼べずにいたが、否定の言葉が生まれることはない。


「それはもちろんです」


 叔父を頼る以外にフェリシアに選択肢はない。そうか、とノアは安心したようにうなずいた。

 その背後で、窓の外を風が切れる音が通り過ぎた。

 振り返ると窓の外に白い鳩が雨空を切るように飛んでいく。一路南へ、雨の中を鳩はすぐに姿を消した。


「伝書鳩?」

「マグノリア殿が到着されたことを都に伝えるのだろう。ここから都までは随分と遠いからな」


 アルミラ帝国は都アーミラリィを中心に三叉路のような形をしている。その北東の端にグロー辺境領は位置する。馬車を使っても都から二週間の距離があるグローライトは、中央貴族なら嘲弄するほどの田舎だった。

 都まで無事にあの鳩が着くのか、着くまでにどれほどの時間がかかるのか。そんなことに思いを馳せながらフェリシアが灰色の空を見た。

 そこへもう一羽、後を追うように鳩が飛ぶ。


「あれまた?」

「今のも足環と筒が付いていたな?」


 通信文の入れ忘れか、他所への知らせか。ともかく皇帝陛下お抱えの知恵者というのは、大層潤沢な装備を与えられているようだ。

 その彼女が一体何者で、何を考えているのかはよく分からない。

 ただフェリシアは鬱屈した雨の向こう側へ行ける鳩すら羨ましく、翼の行方をしばらく目で追った。



 グロー辺境伯の館は、南北に延びる谷沿いに広がる領都グローライトの一番北側にあった。細長く傾斜のついた敷地に小分けに建物が並び、屋根のついた渡り廊下で繋がっている。

 そのうち、南東の山際の低いところにある建物が賓客にあてがわれるのは、山の端から昇る朝日が真っ先に当たる場所で、景色が良いからだった。暖かな一室でマグノリアは持参した茶葉にお湯を入れていた。


「ボン茶もいいのだけれど、今はいつものがいいわ。あとノア殿から頂いたお菓子も準備して」


 女中に指図する様はいっぱしの貴族に見えたが、言っている側から自分がぱたぱたと動きまわるのは貴族の女主人のそれとは何かが違う。

 ただ意外にもそそっかしいのか茶葉を零したり、左足を机にぶつけたりと騒がしい。彼女が動くと女中たちの仕事が増えるので、しまいには女中頭が渋面で座っているようにとお願いしていた。


「そうでした。忘れないうちにこれを」


 ようやく腰を落ち着けようとしていた彼女は、一度奥に引っ込むと一通の赤い蝋封の封書を裏返してノアに手渡す。ちらっとフェリシアもそれに目を走らせたが、やけに柔らかいソファーが居心地悪くて座り直す方に必死だった。

 何ならフェリシアが座らされた席は、本来は部屋の主であるマグノリアが座る位置だ。浅く腰掛けて手を握ったり開いたりして、落ち着かない気分を紛らわす。


「お待たせいたしました。報告書は全て頭に入れましたわ。本来八月頭から一か月程度で終わるはずの雨がすでに三か月も続いているのですね。都の方でも少し調べてから来たのですが、確かにこれは異常です」


 ようやくの出番にフェリシアは飛び上がるように背筋を伸ばす。準備しておいたセリフを思い出しながら口を開いた。


「はい、これほどの雨は精霊の仕業だとして、私を生贄に鎮めようとしたのですが、それがうまくいきませんでした。調べてみると、四年ほど前から徐々に雨季の期間が長くなっているようだったので報告書の方にまとめてあります」


 長引く雨に困り果てたディオンは、山際に住む精霊師の元締めであるセロンという老婆に解決を頼んだ。これが今回の事の発端だ。

 セロン媼によれば、山の精霊の機嫌が悪いことが原因だと言う。そのために生贄が必要だといわれ、フェリシアがその生贄に指名された。もちろんディオンは嬉々として娘を差し出した。

 ところがこれがなぜか上手くいかず、雨が止むことはなかった。

 それで仕方がなく、今度は都から精霊師を呼ぶことになった。それがマグノリアというわけだ。

 これに際して一連の出来事を説明するために、フェリシアは報告書をまとめるようにディオンから指示された。

 フェリシアは嫌々ながら自分を生贄に捧げようとした精霊師たちに話を聞いたり、かび臭い書庫で過去の記録を漁った。書庫には彼女の曽祖父がこの地に封じられて以来の記録がある。その期間およそ九十年。

 片っ端から調べてみたものの、九月半ばまで雨が降ったり止んだりを繰り返す年はあっても、十月も末まで断続的に降り続けた年は無かった。


「ええっと、少し時系列を整理させてください。まず、フェリシア殿が生贄になったのが一か月前で、長雨は三か月前からですね」


 長椅子の方にゆったりと腰かけたマグノリアは、また紅茶に角砂糖を七つ落とし込む。くるくるとスプーンでかき混ぜるとふんわりと湯気が立ち昇った。

 だがその正面で、ノアが両膝の上で拳を握って首を横に振る。


「いえそれについては、少し込み入った事情がありまして」

「と言いますと」

「フェリシアは三歳の頃にも一度生贄になっていたらしいんです。私はその当時すでに都の方に移り住んでいたので、今回初めて知らされました」


 ノアの言葉に、カップに口を付けかけたマグノリアが、まぁと目を見開いた。二人から視線を受け取ったフェリシアは、申し訳なさそうに応じる。


「小さい頃のことなので、全然覚えてません。申し訳ありません」


 期待を裏切るようで肩身を狭くしたが、それは当然だとばかりに、二人はうなずいた。


「三歳の時は勝手に歩いて帰ってきたとか。それで一か月前に誰を人身御供にするのかというときに、精霊師たちは当然フェリシアにすべきだと言い張りました。しかし何度、山の峰に向かおうとしても風雨に押し返されてたどり着けなかったらしいのです」

「でもその三歳の頃のお話は、報告書には書かれておりませんね」


 脇に避けた報告書をもう一度手に取り、マグノリアは猛然と目を通し始める。しかし三歳の頃のことは今回とは関りがないとして、報告書をまとめる際にディオンから記載をしないようにフェリシアは言われていた。言わばこの報告書は形式ばかりのものなのだ。

 途中でそれを察してか、マグノリアは難しそうな顔であちこちのページをめくる。その邪魔にならぬようにと、女中が小ぎれいな皿に上品に盛り付けた砂糖菓子を遠くに置いた。ノアがわざわざ取り寄せたもので、ほんのり紅色をした鳥が飛ぶ形をしていて、花の香りがする。

 フェリシアは固唾を飲んでマグノリアの様子を見ていたが、ノアが食べたのを見て自分にも出された砂糖菓子を一個だけ手に取って齧った。あまりの甘さにびっくりしている間に口の中で溶けて消えた。


「で、事態が膠着してしまったので、ノア殿を通してわたくしが伺うことが決まったというわけですか」

「生贄が失敗した後、兄上がフェリシアの生き血を御山に撒いて清めるなどと言い出したのでもう必死で……」

「生き血?! 生き血でどうにかなるなら戦争のたびにお天気ではありませんか!」


 信じられないというように額に手を当てて、マグノリアは大きく首を横に振りながらため息を吐いた。

 生き血云々の話はフェリシアも初めて聞いたことだが、特に驚くことはない。あの父なら言いかねない、という納得しかなかった。だがノアが止めてくれなければ、フェリシアは今頃、生き血を抜かれて干からびていたところだ。

 常識的な叔父の存在が、辛うじて彼女の首と胴とを繋いでいる。


「それでも生贄は絶対に必要なんだそうです。根本的な原因が何なのかは、いくら聞いても教えてくれないんです。ただ、必要だからとしか……」


 三歳の生贄失敗事件があったからか、地元の精霊師たちは蛇蝎のごとくフェリシアを嫌い、今回は何が何でも生贄に寄越せとディオンに迫った。ディオンの方も、これ幸いと厄介な娘を売り飛ばした構図だ。

 ところがフェリシアを連れて峰へ行こうにも、風雨が急に酷くなって押し戻される。驚いたのは彼女を連れた精霊師たちの方だ。


「山頂に向かう道中に、精霊師たちが言うには、境界があるらしいんですな。それより先には進めず、こうしてフェリシアは戻ってきました。でも帰ったら帰ったで、この仕打ちです」


 ノアの言葉に、フェリシアは自嘲気味に笑った。

 領民のために死ねと言われて、死ぬつもりで行ったのに死ぬに死ねない。しょうがなく戻ると誰もが嫌な顔をした。予想外の帰りを喜んでくれたのはノアとオパールだけだ。

 マグノリアが真剣な視線を上げる。彼女の額からさらりと銀の髪が零れ落ちて左目にかかった。


「そう、まず疑問なのは生贄の件です。こういうものは大抵平民同士で行うもので、領主の娘というのはあまり聞いたことがありません」

「土地の精霊師からしてみると、グロー家の方が後から来た領主なんです」

「それでもグロー家は辺境伯に封じられて九十年余りの家柄のはずですが」

「生贄はそれよりも遥かに古くからの風習で、星の巡りと生まれの順番で決まるから、と。それでなくともフェリシアは兄上に疎まれておりますし……」


 無口なフェリシアに変わってノアがほとんどを答える。その間、申し訳なさげにフェリシアは膝の上に揃えた手の甲に視線を落としたままだった。

 ただ、マグノリアは特に気にする素振りは見せず、ふむと独り言ちる。


「まったく。古いしきたりを守りさえすればよいとは頭を使わぬ愚か者の所業です。後生大事に守っている風習とやらがどれほど古いものなのか、では、少し記録を紐解いてみると致しましょうか」


 誰にというわけでもなく言うと、マグノリアは切れ長な目を閉じ、背筋を伸ばして顔を斜め上へと向けた。

 彼女の優美な指が二つ膝をたたく。

 何が始まるのかとフェリシアが息を吸った次の瞬間、形のいい唇から堰を切ったように言葉が流れ出した。


「これほど長く雨を降らせることができるのは、精霊としても相当大物です。過去にも雨を降らせる精霊として記録があるのは、神代まで遡って雨神バアル、季節ごとに嵐を呼ぶ精霊ルドラ、あるいは珍しいところでは屋根に住みついてその家の周囲だけに雨を降らせるガルグイユなど、風雨の規模は様々ですが雨に関する精霊は多数の記録がございます。彼らの雨は恵みや罰、あるいは鎧、中には涙や血液という表現の場合もございますね」


 いつの間にか部屋には護衛のカラスとシギとスズメの三人が居並んでいて、シギが口述筆記をしていた。彼女の話す一言一句記録に残していく。まるでそれは喋る本が、どこで・誰に・どんな知識を吐き出したのか管理をしているように見えた。


「さらに付け加えますと」


 前置きをして、彼女は指でもう二つトントンと膝を叩いた。


「三百十八年前に、テッセンという宮廷付き精霊師が書き記した『精霊旅記』という書物がございます。その三章二項にてテッセンはソレル地方、これは現在のグロー辺境領のことでございますね、こちらの土地を旅した際にソレルの山の峰に巨大な蛇が巻きつく様を見たと書き記しております」


 マグノリアの口から紡がれた言葉には全く淀みというものが無かった。瞼を閉じたまま、他の誰にも見えない書物の影を淡い桃色をした指先でなぞる。

 とても不思議な光景だった。

 彼女には恐らく件の本が実際に見えている。彼女の知識の引き出しが開かれ、本に書かれた知識が寸分狂わず泉のように湧いてくる。


――これは人間技じゃない。


 自己紹介の『人体書籍』という肩書を思い出し、フェリシアは背筋がぞくりとさせた。


「蛇は古来より水の象徴です。種類はナーガの近縁種ですが、ソレルの大蛇には名はなく、土地の者には蛇神へびがみ様と呼ばれているそうですね。大蛇は夏に雨を降らせ、自らの皮をふやかし、秋になると脱皮をして一回り大きくなるとの記述が……ただし、これはテッセンが土地の者に聞いた話と自分の考えを合わせた想像で、実際に目で見て確認したわけではないようです。この点については『精霊旅記』の三年後にテッセンが弟子のクレマチスに宛てた手紙の二枚目に記述がございました」


 頭に話は入ってくるものの、フェリシアには内容を詳しく吟味する余裕がない。右から左から耳に入ってくる情報を一度掴み損ねると、そこから先は追いつくだけで精一杯になり、意味を追いかけることが難しくなった。

 だが、ふっとマグノリアの動きが止まる。彼女は目を閉じたまま首を傾げた。


「……しかしどこにも生贄などという記述はございませんよ」


 恐ろしい速度で動いていたシギの手が止まった。


「他の書物も一通り調べてみましたが、ソレル地方の山々に生贄の風習などございません。未記載の線は捨てられませんが、隠しておきたい悪習か、あるいは小さすぎてどうでもよいと判断されたものか。いずれにしてもたかだか三百年程度遡っても見当たらないものを、古来よりの風習などとおこがましい」


 と、語ったところで、赤紫色の瞳がカッと開いた。

 その瞳が捉えたのは、彼女の手元にあった甘い鳥の形をした砂糖菓子だ。

 彼女は一度に数個を掴み取ると、無造作に口に放り込む。さらに足りないとばかりに見回すところへ、ノアがさっと自分の皿を差し出した。こちらも無言で掴み、マグノリアは上品とは言い難いほど口を大きく開いて三ついっぺんに口に流し込む。


「え、ええ?」


 フェリシアは甘い菓子をむさぼる美女に唖然とする。無言の室内にゴリッボリッという菓子を噛み砕く音が響き渡った。

 ややあって、彼女の困惑した視線に気が付いたマグノリアは苦笑する。


「驚かしてしまいましたね。知識の引き出しを開けるとちょっと障りがあるのです。糖分が足りなくなることが原因らしいのですけれど、特に久々に取り出す記憶は辛くて。あの、よろしければフェリシア殿の分をいただいても?」

「えっ……あ、はい、どうぞ……」


 楽しみに取っておいたと言える雰囲気ではなかった。残りの菓子があっという間にマグノリアの口の中に消える。初めて食べる異国情緒あふれる砂糖菓子が消えていく様子に年甲斐もなく肩を落としていると、マグノリアはいたって真面目な顔で他の菓子を出すようにと女中に指示をした。


「あ、いえ、あの、そういう意味じゃなくって」

「いいえ、わたくしもまだもの足りませんから、ちょうどよろしい」


 慌てて手を振ったが他の焼き菓子がたんまりと大皿で出てきた。やはりこの美女、相当な甘党らしい。


「ちなみにですが、先ほどお話をした情報は、わたくし第六巻・精霊学が記憶している書籍の中から今回の事例に関連する情報を抜粋しております。『わたくしの記憶が正しければ』と一応お断りはしますが、恐らく間違いはないでしょう」

「いえ、陛下に仕える方を疑うなんて……」

「皆様そうおっしゃいますが、よく不審がられますの。だってほら、見ての通り胡散臭いでしょう」


 冗談交じりに肩を竦めて、彼女は紅茶を極限まで甘くした液体の残りを一気に飲み干した。ようやく落ちたのか、肩の力を抜いてはーっと幸せそうな吐息を天井向けて吐き出した。


「で、明日はどこをご覧になりますか」

「そうですね、その精霊師の元締めはセロン殿と言いましたか。彼女の話は必ず聞かねばなりませんね」


 ノアとマグノリアが額を突き合わせるように相談事を始めると、フェリシアはまた手持無沙汰になった。夜になり、雨脚が少し強くなった窓の外は、真っ暗で何も見えない。

 その闇の向こう側に、フェリシアは何かの叫び声を聞いた。

 いつも自分以外の誰にも聞こえないあの声だった。悲しくもがき苦しむ声が脳を揺さぶるので、咄嗟に体を強張らせた。脳裏にまた生ぬるい水の鎧をまとう感覚が蘇って身震いをする。


「フェリシア?」


 二人が心配そうにのぞき込む気配が身近にあって、びっくりして目を開けた。だが、なんと説明をしても気狂いを疑われそうで、無言で首を横に振る。


「大丈夫ですか」


 マグノリアの温かい手が、必死にスカートの裾を握りしめていた手に触れた。大丈夫だと頷いて見せると、マグノリアはゆっくりと手を引き、またノアと相談に戻る。

 その傍らでフェリシアは歯噛みして、脳を揺さぶった声の主を恨んだ。


――分かってる。あれは、雨を降らせている精霊の声だ。


 何と言っているのかも、なぜフェリシアにだけ聞こえるのかも良く分からない。ただ、いつも自分だけ聞こえる声が響くときには、どこかに精霊がいる。


「マグノリア様」


 だからこそ、声の主が憎い。


「雨を降らせている精霊を殺すことはできますか。そしたら雨は止みますか」


 恐々とだが、はっきりと声を出していた。膝の上で握る拳に自然と力が入る。

 フェリシアにとって、雨を降らせている精霊は敵に近い存在だった。いずこかの名も知らぬ精霊のために何度も殺されかけ、今もまだ精霊師たちはすべからく蛇神の生贄に成るべしとフェリシアに迫る。

 今までは黙って受け入れてきた。ところがまさか、否定してくれる人が現れたのだ、少しばかり抗ってみたくもなる。

 ところがだ。


「貴様は馬鹿か」


 言葉は意外にも別の場所からだった。マグノリアの開きかけた口を制して、フェリシアを素早く罵ったのは武官見習いの少年だった。

 年端も行かぬ少年は薄い氷のような瞳の向こう側に怒りをくすぶらせていた。彼の主であるマグノリアの方はと言えば、追加で出された焼き菓子を二つも手に取って頬張っていて、口をもごもごと動かしている。

 間が悪いことに制する者がいないまま、苛立ちに満ちた言葉がフェリシアに向けられていた。


「精霊を殺すだと? 馬鹿を申すな、何のためにマグノリアの書が貸し出されたと思っている。精霊殺しなど阿呆でも出来る。精霊を生かして本来の山野の姿に戻せるのがマグノリアの書だけだからだ。能無し女は口を噤むがいい」


 少年が一気にまくしたてたところで、ようやく菓子を飲み込んだマグノリアが彼の胸を拳で軽く小突いた。


「スズメ、お嬢様に対して何という口のきき方ですか」


 重い声色の制止でも、スズメ少年は納得しがたい表情をしていた。だがそれ以上は言わずに無言と頭を下げる。同時にマグノリアも頭を下げた。


「申し訳ありませんフェリシア殿」

「いえ、私も、ちょっとどうかしていました」


 あまりに見事な不意打ちで、フェリシアは完全に我に返った。いったい何を考えて精霊を殺そうなどと思ったのか、思い返しても寒気だつ。

 しかしマグノリアは座り直してにっこり微笑んだ。


「ですが、そういう方法もございますよ。悪さをする精霊は殺してしまえばよい」


 物騒な言葉を飾る笑みがまた一層怖い。続けて焼き菓子をもう一つ取って口に放り込んだ。


「民間の精霊師たちが時として小精霊を殺すのはご存知ですね。大精霊と呼ばれる高位の精霊も、理屈としては同じことが可能です。殺そうとすれば殺せますよ」

「そう、なのですか?」

「ええ、だって所詮は生き物ですから」


 例えば人が家を建てるのに材木が必要だったとして、大きな木を切り倒せばその木に宿っていた木の精霊は死ぬかあるいは移動する。ただし精霊の方も自分の宿り木を無抵抗に切られるようなことはなく抵抗する。そうでなくとも自らの領域に入り込む人間に対して、精霊はいわばちょっかいを出してくる。

 それが度を越すと、怪我人や死人が出ることがある。これが精霊と人との、標準的なかかわり方だった。

 しかしそんな事ばかりでは困るので、人々は精霊師に頼る。彼らに頼んで木を切る前にまじないをしてもらい、精霊を殺したり追い払ったりしてもらう。これが民間の精霊師たちの主な仕事だった。

 だが彼女は精霊師ではないはずだ。不思議に思ってフェリシアが質問の切り口を探していると、マグノリアはテーブルに置かれた大皿の菓子をなぜか移動させ始めた。


「強引に解決させるならば、やはり精霊は殺してしまうのが手っ取り早いのです。生贄などより、よっぽど短絡的で効果が分かりやすい方法です。しかし、これほどの雨を降らせている精霊と言えば山の主たる大精霊でしょう。その大精霊を殺してしまうと、縄張りにぽっかりと一つ穴が開いてしまうことになります。これが大変よろしくない」


 大皿の真ん中に空間ができていた。彼女は環状に移動した焼き菓子を指し示しながら言葉を続ける。その手にはドライフルーツが乗った焼き菓子が一つ、優雅につままれていた。


「例えば、このお皿の上を山に見立てたとき、山にはたくさんの木が生えておりますね。そのなかには時に、大きすぎて日を遮り、周囲の木々の生育を邪魔する木もあるかもしれません」


 手に持っていたドライフルーツ付きの焼き菓子を皿の真ん中の開いた空間に掲げた。つまり彼女が今持っているドライフルーツ付き菓子が、山の中の邪魔している木ということらしい。


「邪魔な木ですから伐ってしまいましょうか」


 言うや否や、木に例えていた焼き菓子を口に放り込む。一口で、彼女はあっという間にそれを飲み込んだ。


「邪魔な木を取り除き、しかし何の種も植えないと、さて、どうなると思いますか」


 フェリシアに問いかけを残し、優雅にカップを手に取って紅茶を口に含み、飲み下す。全く敵意のない、むしろ敵意が隠されていたとしても分からないような微笑みにフェリシアは尻込みした。答えはなんとなく分かったが、それが正解なのか何とも心細い。

 言おうかどうしようか迷っていると、意志薄弱を察したように彼女はどうぞと手を差し伸べた。仕方がなく、恐る恐る回答する。


「飛ばされてきた草木の種から芽が出る?」

「その通り」


 大きくうなずいて肯定されると何やら嬉しい気もした。だがいつもの癖で大手を振って喜べず、愛想笑いを返す。


「精霊もそれと同じで、大きな精霊を一柱ひとはしら殺してしまうと、次はどのような精霊が居つくか分かりません。当然、周りの精霊たちが新たな縄張りを巡って争いもする。精霊とは自然が豊かな地に住まう我ら人間とは異なる異種族です。縄張りがあり、ひとたび人間の都合で精霊を殺して縄張りに穴を開けてしまうと他の精霊が縄張り争いをいたします」

「そっか、それでもし悪い精霊が住みついたら……」

「どのような被害になるかは想像もつきません。過去にはエルビオ火山の噴火やサッシュ海峡の海嘯など、甚大な自然災害が起こった記録もございます。ですから不用意に精霊を殺すのは非常に危険なことなのです」


 言われればなるほどと腑に落ちた。しかし言い表せないだけで、色々と不満はある。

 例えば、どうしてそんな異種族に我々人間が苦しめられなければならないのか、とか。フェリシアは言わなかったが、マグノリアは思いを丁寧に汲み取って苦く笑った。


「精霊と人間の生活圏が被って干渉し合うことはままあることなのです。その際に呪術を用いて仲裁や侵略をするのが精霊師のやり方ですね。ですがわたくしは精霊師ではなく精霊を研究する者です。精霊の習性や生態を元に彼らとの諸問題を解決いたします。明日はその問題の根本を見極めに参りましょう」


 明らかにフェリシアの方を見てマグノリアは話をしていた。だが当のフェリシアは、ノアとその他の護衛武官や使用人たちを順繰りに見る。

 一拍置いて、やや不安そうに自分を指さした。


「あの、やっぱり私も、ですか?」

「一番よくご存じなのはフェリシア殿でしょう」


 有無を言わせないその笑顔に、フェリシアは分かりましたと、心ならずも頷いた。



 次の朝、雨が屋根を叩く音でフェリシアは目覚めた。

 前の晩は遅くまで父と兄にマグノリアの様子を聞かれたが、二人の期待にそうようなことは何もなかった。そのせいでまた折檻された腕が痛い。言い出した責任を感じたのか、マティスはその後、彼女の様子を見てくると言ったっきり帰ってこなかった。逃げたと見える。

 憂鬱な雨模様は相変わらずで、フェリシアは今日の予定を考えても全く乗り気しない。もう一度薄い毛布の中に戻りたくなった。それでもどうにか嫌気と眠気を押しのけて起きる。

 のろのろと準備を整えて、蝋引きが剥げかけた雨用のマントを手に館の入口へ向かうと、その途中の中庭で木を眺めるマグノリアの姿があった。後姿はすらりと伸びて美しいシルエットをしている。

 深い青に染めたハイネックのワンピースはひざ下までしか丈がなく、大人の女性が着るには少々長さが足らない。にもかかわらず思いのほかしっかりとした肩のラインと形の良い胸が、彼女の立ち姿を美しく見せていた。裾には銀糸の見事な刺繍が淡い雨の光を反射している。

 少女のようにも見える彼女が一枚絵のように溶け込む。その光景に一瞬、時を忘れてフェリシアは見入った。

 だがまた、強くなった雨の音で我に返る。


「マグノリア様おはようございます」

「あら、おはようございますフェリシア殿」


 振り向いてほほ笑むとふわりと花の香りがした。雨の中でも悠然と咲く花のごとき笑みを湛えている。


「あれがボンですか」


 視線の先には、高さが三メートルほどにまで成長したボンの木があった。

 青々とした葉は分厚く大きい、南方の植物の雰囲気がある。夏から秋へと季節が進んだこの時期に、光沢がある葉の下に赤い実を見え隠れさせていた。雨にも負けないその樹勢はたくましい。


「若奥様がお輿入れの際にインデラからお持ちになったという」

「あれを元に五年前から挿し木で増やしているところです。この長雨で今年のバタイモはもう期待できませんけど、晴れさえすればボンは収穫できるんじゃないかと」

「なるほど。逆にいま雨が止まなければボンすら収穫できず、民は飢えてしまう」

「帝国の北辺は寒すぎて麦が育ちません。冬越しは喫緊の課題です……」


 フェリシアはけぶる雨の向こう側に、濃い緑色の木を眺めた。

 この冬、領民に凍死者を出さずに越せるかどうかは、すでに瀬戸際のところまで来ている。悠長に構えている暇はない。

 もう少し暖かければ、あるいはもう少し別の実入りのある産業があれば、と思いを馳せることはあったが、どれも今からでは遅すぎる。今は目の前の問題を解決する他に手立てはなかった。


「ノーラ!」


 軽い足音と共に明るい声が後ろから投げかけられた。二人が同時に振り返るとスズメが駆けてくるところだった。見習いとはいえ悠長な、護衛の方が後ろから来るとはなかなか図太い。


――ノーラ? 愛称?


 引っかかるものを感じながらも、フェリシアは些細な疑問に蓋をした。


「もう少ししっかりなさい」


 マグノリアの口調も主従というよりは、弟か息子に話しかけるのに近い。不思議な気分でフェリシアが見ていると、頭一つ分小さいスズメが下からきつく睨んだ。


「見世物ではないぞ」

「すいません。……おはようございます」

「フン。憂鬱な朝だ」


 一体何が気に食わないのか、この少年の地雷が分からずフェリシアは内心ではため息を、顔には取り繕った笑いを張り付ける。

 嫌われることをした覚えはないのだが、明らかにスズメは彼女のことを毛嫌いしていた。かといって嫌味を言われても、咄嗟に何とも言い返すことができずに愛想笑いを返す。


「またなんてことを言うの、謝りなさい。申し訳ありませんフェリシア殿」 

「いえ、私は別に、何とも……」


 客人に頭を下げさせたところなど、ディオンに見つかればまた何を言われるか知れたものではない。慌てて彼女の体を起こそうと肩に触れた瞬間、フェリシアの目の前に小動物が飛び出した。


「ひえっ?!」


 彼女の左の袖口から長く伸びた動物には、手も足もない。尖った耳と鼻を持つ小麦色をした小さな獣が真っ赤な口を開いて威嚇していた。


「ああ、こっちも! 威嚇してはなりませんよ!」


 マグノリアは慌てた様子で袖の中に細長い動物をしまおうとする。それでも小動物は鋭い目つきでフェリシアのことを睨みつけていた。

 特に目立つのは額に赤く輝く石だ。見たこともないこの小動物が精霊だと気が付くまで、フェリシアはしばらくかかった。


「カーバンクルが威嚇するなんて珍しいわ」


 マグノリアは牙を剥く小さな精霊の頭をこしょこしょと撫でた。次第に逆立った毛が戻り、剣呑な雰囲気ではあったがゆっくりとカーバンクルは袖口の中に後退していく。最後はしゅぽっと音を立てるようにして引っ込む。

 つられて袖の中を覗き込む。暗い中でも爛々と光る眼玉が二つ、未だにフェリシアを睨んでいた。


「精霊がいるのですか? 袖の中に?」

「大抵は遊んでくれるのですけどね。どうにも昨日あたりから、機嫌が悪いみたいで」


 辺境地であるグローライトは都市部に比べて精霊の被害が多い。物が隠されたり、髪を引っ張られたり、悪戯が後を絶たない。そのため地元の精霊師たちが精霊たちを司る場所から引き剥がして始末する場面にはよく出くわす。だが精霊を使役している人を見るのは初めてだった。

 そもそも形がくっきりと見える精霊は少ない。悪戯をする小物は輪郭がはっきりとせず、体も透けて頼りなかったりとまるで幽鬼のような存在だ。一概には言えないが、その多くが可愛らしいとは言い難い形状をしていて、いきなり出て来られると虫と間違えかねない。気持ち悪いと嫌がる女性も多い。

 ところがマグノリアの袖口から出てきた小精霊のカーバンクルはふわふわした毛並で、フェリシアの見知った精霊とは全く違っていた。


「雨嫌いにもほどがありますよ、カーバンクル」

「そういうものなのですか?」

「この子は風を司る精霊なので、水が苦手なのですよ」


 毛皮が濡れるのは確かに嫌だろうと認めつつも、フェリシアはあのふわふわに嫌われたことの方がよっぽどショックだった。

 そこへシギが馬車の用意ができたと呼びに来たので、フェリシアは馬を取りに踵を返した。だがマグノリアに「余裕がございますからどうぞ」と手招きされると断り切れなかった。のこのこと玄関に連いていくと、六頭立ての見たこともないほど重厚な飾りのついた馬車が扉を開けて待ち構えていた。さすがは皇帝陛下お抱えの何某だ。

 すり減った轍の跡さえ凹凸する不揃いな石畳に馬車は揺られ、屋敷を出るとすぐに橋を渡った。

 グロー辺境領の領都グローライトは、ソレル山脈から流れ出でるシシラ川の両岸に張り付くように広がる山岳の城塞都市だった。渓谷に沿って細長い街並みが作られ、周囲に山を切り開いた実りの少ないバタイモ畑が、申し訳程度にくっついているように見える。

 その街の北端、領主の館がある川の東側にはほぼ垂直に山が迫ってきている。逆に今日最初にマグノリアが検分したいと申し出た畑は、川の西側に比較的広く開けた傾きの緩やかな土地だった。


「あ、魚が跳ねた! 見事な橙色だったぞ」


 ずっと不満げな顔をしていたスズメが、俄然興味を示して冷たい窓に顔を近づけた。御者も気を利かせて速度を落とす。川の中に見え隠れする橙色の背の魚を確認したノアが、何事か心得たように頷いた。


「あれは普段は茶色に近い色ですが、秋になると背が鮮やかな橙色に変わります」

「なぜだ、なぜ色が変わる?」

「腹に卵を持ったことを示す特徴のようですよ」

「それは面白い」


 やり取りを横目に、マグノリアは静かな川面に目を凝らしていた。わずかに首を傾げる素振りを見せると、トントンと二回こめかみを指で叩く。

 フェリシアも外を見てみたが、今日も変わらずシシラ川は穏やかに流れている。川の中央ほど近く、水深が深い場所で魚が跳ねる姿がいくつか見えた。

 スズメは橙色の背の魚を気に入った様子で、食べてみたいと目を輝かせていた。だが、この時期は卵に栄養を取られておいしくないのを地元住民であるフェリシアは知っている。教えても良かったが、彼の夢を壊してもお互いに良いことはないだろうと、開きかけた口を閉じた。

 雨で濡れる鈍色の石造りの街を通り抜け、畑へ向かう間は誰もが口をつぐむ。街中の道ですら、鎖のサスペンションが意味をなさないほど揺れる石畳では無理もない。

 実は本来ここは、都市がつくられるような場所ではなく、単なる城塞だった。

 フェリシアの曽祖父の時代、つまり山向こうの国と戦争をしていた頃、国土を取り返そうとする帝国の縁辺にあってグローライトは重要な戦略拠点だったのだ。当時の現地司令を務めた彼女の曽祖父は、数万の帝国軍を駐留が可能な城塞都市を築き、紆余曲折を経て領土を削り取った。

 その当時の状態がほぼそのまま残る厳つい城門を出て、城壁沿いに畑へ向かう。外側から見ると街は威圧的な壁に阻まれ、城壁よりも高い建物は何一つ見えなかった。

 今なお現役の城壁と当時の兵士たちの奮戦により、アルミラ帝国は大きく領土を回復した。その褒賞として辺境伯という貴族の中では特別に自由度の高い権限を賜り、氏族の姓を領と街の名前に付けることまで許された。

 時代の流れで戦争相手の隣国と国交が回復しても、グロー氏族は一帯を領地とする伯の位を賜っている。それはこの辺境の守人であるグローという氏族にとっては誇りでもあった。


――だからと言って、城壁が雨傘にはならないのよね。


 どれほど堅牢な城塞都市でも、裕福なわけではない。元は山間にあるただの山城だ。

 グローライトの産物は急峻な斜面で作るバタイモと、毛足の長いヤギだけ。山野の恵みはあったが量を揃わないので輸出には向かず、ほとんどがその日を生きる糧に消えていった。イモとヤギ、秋に遡上する魚と秋から冬の猟、それでおしまい。かつての兵士の子孫である領民の大抵は、貧しい生活を強いられていた。

 向かった畑は、そういった意味でかなり大切な場所だ。一番広い面積が取れている領主直轄の土地で、飢饉があれば供出される場合もある。

 だが例年なら今時期は緑色の葉が広がる畑に、黄色く腐りかけた葉が目立っていた。


「ここはバタイモぐらいしかしかまともに育つ野菜がないものでして」

「でもボンを植えられていますね」


 雨が降りしきる中、マグノリアはフード付きの毛皮のコートを着て馬車から降りた。ぬかるむ道だからと止めたが、よく見ると彼女はすでに足元からして気合が入っている。昨日履いていたようなヒールの靴ではなく、滑り止めの付いた革のブーツで足元を固めていた。

 装備の用意周到さに違和感を隠しきれず、フェリシアは思わず眉をひそめて首を傾げた。『この人は本当に何者?』と思う気持ちが顔に出ていたのか、マグノリアは元気な笑顔で振り向く。


「学問の基本は調査と検分です。雨になど負けませんよ」


 彼女は外見に見合わぬ身軽さで、急な畔道を登りきる。着いて行くフェリシアとノアは元から馬だと思っていたので足元には難儀はしないが、彼女の軽快さには後れを取るほどだった。


「中庭のボンと同じぐらいでしょうか」

「ここに植えてあるボンはオパール殿が輿入れの際にもってきた苗木の一部です。領内でも大きい方だと思いますよ」


 マグノリアは興味深そうに木を触る。神秘的な横顔だった。

 フェリシアはおとぎ話の中に出てくるエルフをふと思い出す。美しく、知恵者で長寿の幻想上の種族だ。そんな存在を重ねたくなるほど、マグノリアは神秘性を持ち合わせている。いっそ人間離れしていると表現した方が正しい。

 思索にふけっている彼女と、その横顔をまじまじと見ていたフェリシアは、突然大きなだみ声の鳥に邪魔をされた。ぎゃあぎゃあと大きな声の鳥が三羽、雨の中を飛び去って行く。どうやらマグノリアがコンコンと幹を叩いたボンを止まり木にしていたらしい。


「また食われていたみたいだな」


 地面に落ちた赤いボンの実を拾ったノアが、大きくため息をついた。


「ゲゲと言いまして、山から降りてくる鳥なんですが、どうもボンの実をいたく気に入ってしまったようで……」


 ノアが他の木も見て回ったが、止まっていたのはこの木だけだったようだ。

 豆粒大のボンの実を大柄なゲゲが啄むと、熟れていない実まで振り落としてしまう。傷ができたり落ちて腐ったりしたボンの実は商品にはできない。


「ゲゲには困ったものです。雨だってお構いなしに食べにくる」

「まぁ、そんなに美味しいのかしら」


 ノアの手から赤い実を取り、マグノリアはやおら口へと運ぼうとした。

 ところが付いてきたカラスは特に口をはさむ様子もなく、ただ見守っているだけだった。シギに至ってはスズメと共に馬車から降りさえしない。

 フェリシアとノアが慌てて彼女を止める。


「せめて木から採った物になさってください」


 フェリシアは比較的熟れた赤いボンの実を見繕って数粒もぐ。熟れた実は簡単に枝から離れて手の中に転がり込んだ。


「よろしいのですか、これが領民の冬の糧になるかもしれないのに」

「一粒ではお茶にはなりませんし、摘み取りの時期は子供たちのおやつにもなるんです」


 フェリシアは赤い実を口に含んで器用に果肉を削ぎ落すと、種だけ口から吐き出した。乾かして脱穀する前のボンのほんのり甘みがある。彼女は種の部分を焙煎してお茶にするよりも、そのまま齧る方が実は好きだった。

 マグノリアも真似て口に入れると、ほのかな甘みを口の中に感じたのか、小声でなるほどとつぶやく。

 そこに近づく者があった。


「おい、あんたら何やってんだ」


 見慣れない恰好をした人間を不審に思ったのか、腐ったバタイモを取り除いていた農夫の一人が近寄ってきた。ノアの顔を見て、マグノリアを見て、最後にフードの中の傷のある赤髪のフェリシアを見て農夫は顔を歪めた。


「なんだ贄か。近寄るんじゃねぇ、呪いが移る」

「仮にも領主の娘だぞ、言葉をわきまえないか!」


 ノアが声を荒げるが一向に構わないという顔をして、髭面の農夫はフェリシアを睨み据えた。


「ご領主がそれを許してるんだから関係ねぇだろ。だいたいから、この長雨だって贄の娘がちゃんと役割を果たさねぇからなんでしょう?」

「それは迷信だと何度も言っただろう! 都から高名な精霊の権威にも来ていただいたのだから、めったなことを言うんじゃない!」


 追い払うようにノアが手を振ると、胡散臭そうな視線を残したまま農夫は作業に戻っていく。その間、フェリシアはじっと顔を伏せていた。

 一連のやり取りを隣で見ていたマグノリアは腕を組みながら、またこめかみを指で二つ叩く。


「贄の娘、ですか」


 考え事をしているのか、馬車へ戻るまで何も問わない。ブーツの泥を落として乗り込むと腕を組んで目を伏せた。


「見苦しいものをお見せしました」


 露を払いながら最後に乗り込んだノアは表情を曇らせていた。本来であれば不敬罪で罰せられるような言行が、当たり前のようにまかり通っている。

 当のフェリシアは慣れと諦めで、何を言われようとも反論しない。じっと耐えて終わるのを待っていた。


「いいえ、わたくしは良いのです。畑の様子が見られたのですから問題ございません。しかしながら、街の者たちまであの調子というのが何ともお辛い」

「先ほどのあれは我が家が抱えている小作なので、フェリシアにはぞんざいな態度をとっても良いと特に勘違いをしております。ただ、街の者も多くは雨の原因は生贄だと思っていますね……」


 小雨の中、腰をかがめて作業をする農夫たちは、馬車からかなり遠くにいても時々伺うように顔を上げていた。それはまるで野良犬を見るような目つきだった。

 近くに寄って来られれば嫌だが、遠くから石を投げつけて楽しむぐらいの余興は欲しい。いかにちょうどよい距離から安全に標的をいたぶって楽しむか、そのために間合いを図っているのに似ていた。

 ところがフェリシアは噛みつくことはおろか、誰かに害を与えたこともない。それでもこうして被害者面をされるのは、ひとえに彼らの噂話と勝手な想像ゆえだ。それらの止める術を持たないフェリシアは、ひたすら耐える以外に方法はなかった。

 視線を遮るようにノアが馬車のカーテンを閉める。


「先に謝罪しておきます。次に話を行く精霊師のところでは、もっと嫌な目に合うかもしれません」

「それでも参りましょう。話は聞かねば、何も分かりません」


 件の精霊師の元締めの住処は山の入り口にあって、うっそうと茂る木立の間に擬態するように立っていた。腰をかがめながら小さな木戸をくぐると、部屋の中は所狭しと薬草が干されている。香ばしい薬の香りにフェリシアはくしゃみをした。


「よりにもよってその娘を連れてきたのかい」


 小さな暖炉の脇に老婆と孫娘が寄り添うように座っていた。

 このあたり一帯の元締めをしているセロンという老婆の精霊師は、今年でそろそろ九十に手が届こうかという。国土回復戦争を間近で見たという話さえある、まるで魔女だった。


「悪いねぇ、足腰の弱った年寄りにはあの屋敷までは遠すぎる」

「セロン殿ですね。初めましてマグノリアと申します」


 マグノリアは裾を気にしながら老婆の右横に膝をついた。パチンと威勢のいい音がして薪が爆ぜる。部屋の奥に逃げ込むように隠れた孫娘は、注意深く銀髪の乙女の一行を睨んでいた。


「それで、都の精霊師様が辺境の婆に一体何が聞きたくて来られたのか」

「まずは切々草きりぎりそうについて、お尋ねいたします」


 彼女は指を滑らせて、天井にかかっている尖った草の束を指さす。白っぽく乾燥した薬草の束がわずかに二つ、梁に吊るされていた。

 寒い地域の山に生える野草の一種で、葉の縁が鋭い刃のようになっていて、慣れていないと手を切ることから切々草と呼ばれていた。乾かして煎じれば体を内側から癒す薬になるので、特に内臓を患う人にとってはありがたい薬となる高価な薬草だった。切々草を採る人は密集する群落を家族にも教えないと言われるほどだ。


「ここ数年、グローライトから来る切々草が減ったと都でも噂になっております。これは長雨の影響でしょうか」


 帝国の辺境地では未だ呪術と医学薬学の境界は曖昧だ。医者と呼べるような人はほとんどおらず、平民が頼るのは民間療法をしてくれる精霊師となる。

 薬草取りは呪術の延長線上として考えられており、精霊師の重要な収入源になっていた。それが減っているのは彼らにとっても由々しき事態のはずだ。

 しかしセロンはその真っ白な頭をゆっくりと横に振った。


「雨よりももっと前からさ。御山おやまに何か起こっているのは間違いあるまい」


 セロンの言葉はおぼろげな不安で、小さく聞き取りづらい。一方で視線だけは明らかにフェリシアに敵意を向けていた。ぎろりと音がするほど彼女を睨みつける。蛇に睨まれた蛙のように、委縮したフェリシアは慌ててノアの陰に隠れた。


「なるほど。ではもう一つ」


 マグノリアはセロンの視線を意に介すことなく、質問を続ける。


「なぜ生贄が必要なのですか?」


 意外そうな、それでいて滑稽なものを見たように老婆は笑った。ひとしきり笑ってにやりと口を歪めると、先ほどまでと違って分かりやすく大きく口を開いて、怒りをあらわにした。


「そういうしきたりだからさ。今までそれで上手くいってたんだ、贄の理由は御山の蛇神様にでも聞いてくんな。わしらは昔から必要だと言われていたことをしたまで」


 吐き捨てた言葉がフェリシアの存在を傷つける。ノアが一歩前に出て猛然と抗議するように手を振った。


「そういって、この間もう一度儀式とやらを行って生贄に捧げたのに雨が止まなかったではないか!」

「生贄が届かないんじゃ、止むものも止まないさ。しかも二度も、逃げかえるなんて世話ァない」

「先へ進めず、フェリシアを連れ帰ったのはそちらの精霊師だろう!」


 セロンはなおも鋭い眼光でフェリシアのことを睨む。スカートの裾を握り込んで立ち尽くしたフェリシアは、誰ともまともに顔を合わせられないでいた。

 求められているのがその命なだけに、受動的に役割を果たせない限りは、彼女とて率先して全うするのが難しい。それを責められてもどうにもならないのにと、俯いて口をきつく結んでいた。


「雨が止まないのは蛇神様が苦しんでおられるせいさ。本来であれば、そこな娘が生贄となって蛇神様の苦痛を取り除いて差し上げねばならんことだ。それがおめおめ逃げかえって来るなんて、民草を守るべき領主の娘が何てザマだい、えぇ?」


 セロンは目を見開いて大きく息を吐く。目は白く濁り、すでに光を捉えてはいない。それでも的確にフェリシアの方を向いていた。

 是とも否とも答えず、目を細めたマグノリアは居住まいを正した。


「ちなみに蛇神様のご在所は教えていただけますか」

「今時期はまだ山頂辺りか、巣穴へは戻られてはおられんじゃろう。あんたがた、山に分け入るつもりかぇ」

「そのつもりでおります」


 はっきりとしたマグノリアの主張に、セロンは目で笑いながら声を荒げた。


「勝手にをし。だがもし山へ分け入っても、山頂の切々草に手を出すんじゃないよ。あれは蛇神様のものだ。人間ごときが手を出しちゃいけない、それだけは心しておくことだね」


 言葉が終わらないうちに老婆は手を振って追い出しにかかる。孫娘が奥から飛び出してきて、魔よけの杉の葉の飾りを振りかざして一行を追い立てた。


「分かったらさっさと出てお行き。生贄の一つも真っ当にできない屑と一緒の空気を吸うだけでもへどが出るってもんだよ」

「では最後に一つ!」


 杉の葉に叩かれながらマグノリアはこめかみに指をあてた。


「本来の生贄の儀式はいつですか。彼女が三歳の時、生贄になった際の季節です」

「年明けさ! 日取りは星の巡りを見て、太陽の出ている日を見極める。分かったらさっさと出てお行き!」


 すっかり小屋から追い出された一行は、雨の滴る軒先でマグノリアの言葉を待った。彼女は腕組みをしながら何事か考え込んでいる。フェリシアはその沈黙にしゅんと項垂れて彼女の沙汰を待った。

 ノアが閉ざされた小屋の内を小窓から横目で確認する。小屋の中からは孫娘が走り回って、何か撒きながら呪文を唱えている声が聞こえた。


「フェリシアの四人前の生贄が、あの媼の妹だったらしく……フェリシアへの風当たりが厳しいのはそういうわけでして」

「ややもすると、人の世を動かしているのは感情です、こればかりは仕方のないこと。ですが執り行う理由すら定かでないとは、難儀ですね」


 マグノリアは古い記憶を引っ張り出しながら考え事をしているのか、声に抑揚を欠いていた。会話をするよりもゆったりと言葉が紡がれる。

 平坦な声はいっそフェリシアを死へと推すようにも聞こえ、昨日感じた起死回生の喜びが風前の灯火になる。


「やっぱり私が、ちゃんと死んだ方がよかったんでしょうか」


 草だらけの板葺き屋根から滴り落ちた雫が石に当たって砕ける。

 精霊のしでかすことは、時に超常的で人智を越える。そのための生贄なのだから、他に良い案が出ないのも当然のように思えた。

 だがマグノリアの頭の中身には、まるで違うことが詰まっているようだ。


「神相手ならまだしも、同じ生き物相手に自死を選ぶなど愚かなことですよ。獅子を恐れて目の前に寝転がるのと同じこと、腹を膨れさせたところで問題は解決しない。まるで意味のない考えはお控えなさいませ」


 彼女は振り向きもせず、その場を後にした。



 視察の翌日、マグノリアは再び応接室に居た。

 最初に顔を合わせた時と同じく、辺境伯ディオン、その弟ノア、息子のマティス、娘のフェリシアの取り合わせだ。さらに護衛にはカラス、シギ、スズメの三人がソファーの背面に立ち居並ぶ。

 同じようにボン茶が振る舞われ、山で採れる木の実を流水と灰で灰汁抜きして作る、山間ではありふれた菓子が添えられていた。ただし今日のレシピは砂糖がやや大目に変更されている。


「それでマグノリア殿、いかがでしたかな。その精霊学とやらに基づく原因は見つかりましたかな」


 ディオンはもったいぶって、眼前の美女に声をかけた。横柄で嫌味たっぷりの態度は、フェリシアとノアから調査の収穫が芳しくなかったことを聞いての余裕の表れである。

 対するマグノリアは、かといって特に焦る様子はない。またボン茶に容赦なく角砂糖を入れる。スプーンで混ぜてからヤギの乳をカップの縁ギリギリまで注ぎ、甘くて濃厚な一杯を作成させると、満足そうに一口飲んだ。

 甘く潤した口からは、言葉と共に甘い匂いまで漂ってきそうだった。


「結論から申し上げましょう。確かに、雨はソレルの峰に住まう蛇の精霊の仕業です。それ以外に原因は考えられません」

「では」

「ですが、フェリシア殿とは関係ございません」


 桃色をした唇がぴしゃりと言い切ると、一瞬喜んだディオンの顔が渋く歪んで閉口した。同時にフェリシアの視界の端でノアがほっとしている。だが話がそれで終わるわけはないので、フェリシアは自分の処遇をただ茫然と見守っていた。

 関係ないと言い切っても、マグノリアに長雨の確たる答えの持ち合わせがないことはバレている。ディオンは畳みかけるように口を開いた。


「では一体なぜ雨が止まないと? その原因は分かったのですか」

「直接の原因は蛇の脱皮不全であると考えております。何らかの異常事態が起きて、脱皮が出来ずにもがいて苦しみ、雨を降らせているのです」

「異常事態! つまり生贄が届かぬからではありませんか! やはりフェリシアを生贄に儀式を執り行うべきでは」


 嬉々として膝を打ち、ディオンは息子のマティスと顔を見合わせた。自分たちは間違ったことを言っておらず、同時に厄介なただ飯食らいを消すのに十分な理由が付いた、とでも言いたげな顔をしている。

 底意地悪い笑みを浮かべる二人に対して、マグノリアは穏やかなまま言葉を繰り返した。


「フェリシア殿とは関係ございません。そもそも物事の順序がおかしいことに、なぜ気が付かれないのでしょうか。恐れながらわたくしには、そちらの方が不思議でなりません」


 交わされる論戦をフェリシアは呆然と立ち尽くして眺めているしかなかった。握った手はすでに冷たく痺れ、いったい自分がこの後どんな処遇に落ち着くのか全く成り行きが見えない。

 ただそれとは別に、フェリシアがやきもきしたのは、頑固なまでのマグノリアのやり方だった。

 如何に彼女が皇帝陛下の覚えめでたい方とは言え、グロー領は中央からは遠く、蛮族の住まう土地とまで揶揄される。こんな遠方の地で、女性が一人でその土地の権力者の意向を軽快に蹴り飛ばすのは、あこがれはするものの見ていて非常に肝が冷えた。

 頑迷なまでに我が道を行く彼女のやり方は、何か落ち度があればただでは済まない。それでもマグノリアはフェリシアの報告書を開いて、目の前の二人に説明を始めようとしていた。その横顔に淡い期待を寄せつつ、きりきりとした緊張に身を縛られながらじっと耳を傾けた。


「まず、雨が降り始めたのが三か月前の八月初旬ですが、報告書には四年ほど前から長雨の期間が延びつつあったとあります」


 ぱしっと小気味良い音を立てて報告書のあるページを提示する。

 フェリシアが兵士たちの日誌から読み取ったところ、夏の雨が延長するようになったのは四年前からだった。当時はまだ延長と言っても半月ばかり雨上がりが遅れたり、長雨が終わったと思ったら天気が愚図つくようなこと多かっただけだ。


「しかしフェリシア殿が最初に生贄に失敗したのは三歳だったそうですね、これは今から十二年も前のことです。もし生贄の不足が原因であれば、長雨の延長は十二年前から始まっていなければおかしい。こんな簡単な道理は、もちろんご理解いただけることでしょう」


 突き付けられた報告書を受け取り、額を寄せ合うディオンとマティスは反論できずに沈黙する。

 さらに追い打ちをかけるように、マグノリアの口は止まらない。


「しかも精霊師のセロン殿によれば、本来の生贄の儀式は年明けだそうです。長雨とは何ら関係のない時期ですね。これでも生贄の不足だと、そう解釈なさいますか」


 否とは言わせない断固たる数字で迫るマグノリアは、表情だけは穏やかであったが凄みのある気迫を有していた。普通の貴族女性とは明らかにまとう空気が違う。それは彼女が皇帝の傍に侍る者だからなのか、あるいは彼女の本来の資質なのかは、一昨日会ったばかりのフェリシアには分からない。

 一昨日と同じく、明らかに年上のディオンに対して攻勢をかけ、彼女は理論を展開していた。


「山の峰で何か別の事件が起きているはずなのです。わたくしも仮説はいくつか立てましたが、いずれも確証はございません」

「ふん、お前だって分かってないんじゃないか」


 言うに事欠いて、悔し紛れのマティスなどは嫌味を吐き出した。色めき立ったのは背後に控えていたスズメだが、それもカラスの腕でがっちりと捕まえられる。反論したのはマグノリア本人だった。


「仮説は調べるために立てるものです。そのため実際に御山に登り、蛇神様と呼ばれている精霊にお話をお伺いする所存でございます」


 マグノリアは後ろに控えたシギと視線を交わす。シギは黙して頷くと、一通り必要なものが書かれた紙をディオンに手渡した。


「これが山へ登るために準備していただきたいものです。それから山道の案内をしてくださる方も紹介していただきたい。わたくしは護衛のカラスと二人で行くつもりですが、そちらはどなたが参られますか」


 ソレル山脈の山並みはさほど高くはない。グローライト自体が平野からだいぶ登ったところにあるので、街から山頂までは一日もあれば楽に登れる標高だった。ただし晴れていればの話で、今は雨模様が邪魔をする。

 一つ間違えば滑落か低体温か、天候の悪い山というのは本当に恐ろしいところだ。それを知っているのか、マグノリアは穏やかに脅した。


「わたくしどもだけでは、何をしでかすか不安でしょう。どなたが見届け人になりますか」


 目を左右に滑らせながら、一同を見回していると、やはりというべきかノアが挙手しようとした。

 が、その時。


「俺が行こう。叔父上に口裏を合わせられては困るからな」


 マティスが手を挙げた。虚勢を張っているのが傍目からも明らかだった。

 しかし続けざまに、口を引きつらせながらフェリシアを指さす。


「だが条件はこいつも連れていくことだ。状況を見て、本当に生贄が必要だと分かれば、その場であなたに生贄の儀式を執り行ってもらおう! 駄目とは言わせないぞ」


 事の成り行きをただ見守っていただけのフェリシアは、まさかの兄の言葉に身を固くした。にやりと笑った彼の口元を見て、体の底からおこりのような震えが沸き立つ。


――今度こそ、本気で殺す気なんだ。


 今までの生贄は何か不思議な力で押し返され、直に凶刃の元に立たされたわけではない。緩やかに死に近づき、だが不思議と死の方から追い返された。フェリシアはある意味逃げ帰る機会が与えられた。それがマティスという足を得て、刃が向こうから迫ってくることになる。

 ところがマグノリアは、マティスを一瞥して冷笑した。


「それで本当によろしゅうございますね。では山で何が起こるのか、その眼をしっかりと開けてご覧になさいませ」


 フェリシア自身の意見などどこにもない。蚊帳の外に追い出されたまま、また全てが決してしまった。



 その夜、登山の準備をしていると思いがけない訪いがあった。義姉のオパールだった。

 彼女は大きく膨らんだお腹をさすりながら、フェリシアの狭い部屋に入る。二人もいると部屋が小さく感じられた。フェリシアは毛布を彼女に渡して椅子を勧め、自分はショールを巻きつけて床に広げた革のマントの蝋引きに戻った。


「お兄様が何かまた言ってました?」


 何とは言わず申し訳なさそうにするオパールに、フェリシアは苦笑いをする。彼女は肩を落として大きくため息を吐いた。


「今夜のうちに逃げ出さないように念押ししてこい、ですって。全く何を考えているのか、フェリシアは実の妹でしょうに……」

「お兄様はたぶん、傷物の私の処分を自分の代に持ち越したくないんですよ」


 夫の言いつけ通り義妹のフェリシアに会いには来たものの、オパールはそれ以上何も言わない。彼女自身、フェリシアを逃がすことまではできない。それが義姉の限界であることもフェリシアは知っていた。

 ただそのことで、オパールを責める気はフェリシアにはなかった。誰もがフェリシアの死を願う中、彼女とノアだけは辛うじて異議を唱えてくれていたので、そう思う気持ちは全く無かった。

 オパールは細い指を絡め擦りながら、マントに向かうフェリシアの横顔を伺った。


「怖くは、ないの?」


 その一言に手を止める。

 装っていた笑顔が崩れ、壊れかけたフェリシアの心を揺さぶった。


「いえ、ごめんなさい。怖くないわけはないわね」


 オパールの冷たい滑らかな指が、フェリシアの荒れた手を撫でた。数少ない慰めの手だ。でも感情の赴くままに縋るには、フェリシアが溺れかけている沼は深く、危険すぎる。だから平気な振りをするしかない。


「怖いなんてとうに忘れましたよ」


 感情を殺して絞り出す言葉は嘘ばかりだった。

 物心ついたころから彼女の生き死には、いつも他人が握っていた。だから今あるのは、恐怖よりも不安の方だ。何をやらされるのか、自分がどうなるのか、自らは全く舵取りが出来ない。そんなところに身重の義姉を引きずり込むことなどできない。

 だが現れたマグノリアは義姉とは違う力強さを持っていた。彼女は何をどうしてか、一人で生きていく力を持っている。

 そこに不思議と惹かれるのだ。

 蝋を持った手に力が入る。


「マグノリア様の言うことは不思議とすんなり心に入ってくるんです。感情じゃないところでお話なさっている感じというのかな。損得で考えたら、お父様に言われるまま生贄の儀式をした方が、こんな田舎からすぐ都に帰れるのに。……不思議な方ですよね」

「……そうね、あの人は私たちと少しだけ似ている匂いがする」


 実はオパールは、技術書や指南書を好んで読むフェリシアと似た者同士だった。

 そんな本ばかり買い与えるノアも、世間的には相当な変わり者ではある。しかしそれ以上に変わっていたのは、フェリシアやオパールの方だった。恋愛小説や冒険譚はどれも現実味が無く、上手くいくわけがないと読む前から鼻じらんでしまう。そんなところで変に意気投合したのが仲良くなるきっかけだった。

 オパールは貧乏な辺境領に嫁ぐまでは、蝶よ花よと育てられた生粋の令嬢だった。物心ついて以来の被虐者であるフェリシアとは天と地ほども差がある。

 にもかかわらず頭ごなしの否定もなく、相槌を打ってくれることに喉の奥が苦しくなってフェリシアは口を閉じた。手を動かす方に没頭し、せっせと古びたマントに蝋引きを続ける。


「ねぇフェリシア、雨が止んだらあなたは何がしたい?」


 雨が止んだ時、それは精霊が雨を降らせるのを止めた時だ。でも自分の生死が上手く想像ができず、フェリシアは何かを言いかけようとした口を閉じる。したいことなど、考える余裕もすっかり失われて久しい。

 するとオパールは憂鬱な空気をかき消そうと、男性を気取って腕組みをしてみせた。


「私はそうね、新しい機械仕掛けの脱穀機が欲しかったのだけれど、今年のボンの出荷量ではさすがに難しいかしらね。今年こそもっと大きくて効率が良いものが欲しかったのに」

「じゃあ来年に期待です」

「だとしたら来年にどう備えるかってことよ。あのぼんくらどもに任せていたら何をしでかすか分からないんだから、フェリシアもちゃんと考えてちょうだい」


 フェリシアの方に迫ったオパールの顔に深い影が差した。

 領主の館と言えどもランプの燃料となる油が潤沢に備蓄されているわけではない。しかもフェリシアの部屋には比較的明るいランプさえない。

 夜の小さな部屋で頼りになるのは不確かな蝋燭の炎で、二人の動きに合わせて影が揺れる。すると悪い顔をした義姉の顔がさらに悪く見えた。それが余計に面白くて、楽しい。


「お義姉さま、悪いことしてるみたいですよ」

「構うもんですか。行けと言ったのはあの人よ」


 顔を見合わせ、二人は声を殺して笑った。


「雨が止めば、元通りになるでしょうか」

「そのためにも無事で帰ってきてフェリシア。私の支えはあなただけなのよ」

「きっと、なるようになりますよ」


 軽く抱きしめ、頬にキスをしてくれるのは義姉かノアぐらいなものだ。それほどまでに互いを失うのは、この閉鎖的な家の中では致命的なことだった。フェリシアは義姉を、オパールは義妹を、ひっそりとだが確実に互いに必要としていた。


「あ、やりたいこととは少し違うのですが、ちょっと気になることはあります。この最新の機械の燃料が何かご存じですか? この間読んでいた本では、何か別のものが必要らしいのですが、良く分からなくて」


 マグノリアに呼び出される直前に読んでいた農機具の技術書を開いて見せる。オパールは一瞬頬をぴくっとさせたが、差し出されたページを覗き込んで首を傾げた。


「あら本当、薪や炭ではなさそうね……。今度また実家のお父様に手紙で聞いてみるわ」


 どうか無事でいて、とオパールは何度もフェリシアの髪を撫でた。毛布を返して部屋から出ていくまでの短い間に、彼女は何度も神に祈りの言葉を捧げる。それはフェリシアの知らない南の地方の神の名前だった。


――無事だったらやりたいこと、か……。


 変わらぬ雨脚の窓の外を見て、フェリシアは唐突に今自分が知っている世界の狭さを覚えた。これまでにない感覚の正体を辿ると、それは恐らくマグノリアが来たからであり、オパールが手紙を出せる実家があるということを認識したからだった。

 オパールもマグノリアも、フェリシアの知らない世界を知っている。

 見えない檻のように降りしきる雨の向こうを彼女たちは知っている。

 そこに羨む気持ちを見つけたフェリシアは、ぎゅっと胸の辺りを抑えた。


――生きていたら、そうだ。このグローライトから出てみたいな。知らない場所へ行ってみたい。


 思ってから急に気恥ずかしくなり、薄い毛布を頭からかぶる。だが芽生えた期待をむやみに捨てることができず、名も知らぬ神にひっそりと祈りを捧げた。

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