第2話 その人は花のように笑う本

 灰色の雨の幕をかき分けて、馬車が着いた音がした。一気に屋敷が慌ただしくなる気配を聞きながら、フェリシアは白く残る顔の傷跡を撫でた。


「あーあ、ついに来ちゃった」


 ちびた蝋燭を惜しんで、彼女は暗い自室の窓際に張り付いていた。農機具の技術書をまた一ページめくる。

 ようやくこの日、都から高名な精霊師が来ると女中たちが噂話をしていた。三か月続く異常な長雨を解決するために呼び寄せたという。

 それはつまり、フェリシアを殺す人が来る日でもあった。


「こうしていられるのも、あと何日かなぁ」


 などと嘯きながら最期の時に彼女が一体何をしているのかといえば、固いベッドの端っこで叔父にこっそりもらった技術書を読んでいる。他には何もすることがなかった。

 彼女が雨を止ませるための生贄になることに失敗して一か月余り。地元の精霊師たちが匙を投げたため、とうとう都で皇帝陛下に仕える高名な精霊師が呼ばれたというわけだ。


「生贄なんて非科学的だと思うんだけど、君はどう思う?」


 窓枠を伝って降りてきた小さな飛び蜘蛛に、フェリシアは荒れた指を差し出した。


「でも非科学的で間違ってるって証明するには、生贄に効果が無いことをまずは実証しなきゃならない。つまり生贄を殺してみなきゃその正否は分からないってわけ。本末転倒よねぇ」


 指に乗ってきた飛び蜘蛛に強く息を吹きかけて、少しだけ開けた窓の隙間から雨の続く外の世界へと逃がした。

 その静寂をノックと女中の声が打ち破る。


「お嬢様、応接室にすぐいらしてください。旦那様がお呼びです」


 咄嗟のことに返事ができず、慌てて本をベッドの下に滑り込ませた。部屋に踏み込まれるのかと息を殺して耳をそばだてたが、女中の足音は雨の音に混ざって遠ざかる。

 それからしばらく経って、言葉が現実味を帯びるとフェリシアはベッドから跳ね起きた。

 丁寧に身づくろいをしている暇はない。一番まとも見える臙脂のワンピースを箪笥の奥から引っ張り出し、くたびれかけの上下をベッドの上に投げ捨てる。早く参上しなければ、それを口実にまた折檻される。

 ごわごわの長い赤髪を一本の三つ編みに束ねながら、階段を駆け下りた。


「ちょっと、これは、展開が早すぎやしませんか……!」


 建物同士を繋ぐ渡り廊下をいくつも走り通り抜けながら、フェリシアは唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を打つ。

 予定では、まずその精霊師に経緯をまとめた報告書が渡される。それを元に新たな生贄の儀式の方法を模索してもらい、正しく生贄の儀式を執り行ってもらうと聞いていた。それまでは部屋で待機しているように、フェリシアは父からきつく言い遣っていた。

 だから先ほど到着したばかりですぐに呼ばれるなんて予想外だ。早急すぎる事態に彼女は眉をひそめる。


「まさか、報告書に不備とか?」


 フェリシアに報告書をまとめるように命じたのは、父であり辺境伯のディオン・グローだった。

 彼女は父の命令で、自分を生贄として山へに連れて行った地元の精霊師たちとカビ臭い書庫の間を飛び回って話を聞いて集めた。樹木が自らを伐採する準備をするなら、たぶんこんな最悪な気分だろうと苦笑いするものの、フェリシアは逆らうことができない。

 あまりに気の毒だと、途中から叔父のノアが手伝いをしてくれたが、そもそも高名な都の精霊師はノアの知り合いの紹介らしい。叔父も何かとつじつまの合わないことをすると思ったが、フェリシアはそれすら口に出すことができなかった。

 母屋に辿り着くと、無意識に顔の傷をなぞりながら弾んだ息を整える。

 額中央から左の眼の中心を通るようにして長く続く傷の盛り上がりは、医者から一生残ると言われた。醜い傷と母の死を理由に父ディオンは、娘フェリシアへの冷遇を虐待に換え、もはや貴族としては結婚の見込みがない娘を小間使いのように扱う。

 崖崩れと母の死から六年が経ち、傷の痛み自体はなくなった。

 しかし別の意味でこの傷は彼女をえぐり続けている。


「あら、フェリシアがもう呼ばれたの? カップが足りないかも……」


 応接室の扉の前でちょうど義姉あねのオパールと鉢合わせをした。彼女は大きなお腹をさすりながら、従える女中を振り返る。

 準備されたカップの数も見ずに、フェリシアは首を横に振った。


「私はたぶん報告書の件でお小言かコレなので、大丈夫です」


 言って、人差し指を首に当てて真横に一直線にする。首を切られる身振りで情けなさそうに笑うと、オパールは大きく肩を落とした。


「報告書ならこっそり私も目を通したけれど、特に問題ないと思うわよ。……もちろん生贄を推奨する部分以外は、だけど」

「そうは思わない方が、我が家にはいらっしゃるのです」


 オパールは「そうね」とは言わずにため息を吐いた。

 父はフェリシアのやることなすこと、揚げ足取りのように非難して罵倒して虐げる。他の誰が大丈夫と言っても、父にかかると何でもフェリシアは駄目な娘にされてしまう。


「お茶をお持ちしました」


 気兼ねなくノックして部屋に入る義姉の陰に隠れ、フェリシアは俯きながら応接室に滑り込んだ。


「フェリシアです。お呼びと伺いました」


 途端、眉間に深いしわを刻んだ父ディオンの顔が目に入った。他に兄マティスと叔父ノアが椅子に座っている。

 その対面のソファーに女性が一人座っていた。

 結っていない真っ白な髪が背中ほどまで伸びているので、一瞬老婆なのかと思った。だが肌はピンと張り詰めていてしわ一つない。


「わざわざお呼び立てして申し訳ございません。お呼びしたのはわたくしです」


 伸びた背筋のてっぺんから発される女性の声は、見た目に反して太くしなやかに腹に響いた。


――この人に生贄にされるのなら、案外悪くないかもしれない。


 はじめましてとお辞儀しつつ、フェリシアは白銀の美女をつぶさに観察した。

 滑らかに滑り落ちる白銀の髪と、ほんのりと赤みがかった頬は絵画の女神のようだ。義姉が今一番の流行だと言って見せてくれたハイウエストのドレスだが、色は流行りの淡い色ではなく深い青だった。だがこれが不思議としっくり似合っている。

 年の頃は二十代前半だろうか、彼女は軍服を着た男女の武官と、少年の武官見習い一人を従えていた。


「こちらは都からいらした精霊学の権威、ラァ・エル・マグノリア殿。長年帝室にお仕えしている、現陛下の信厚き方だ」

「初めましてフェリシア殿。人体書籍じんたいしょせき第六巻、ラァ・エル・マグノリアでございます。姓はございません、どうぞマグノリアと、名をお呼びください」


 ノアに紹介された彼女が調律された音楽のようなお辞儀をするので、フェリシアも釣られて再度ぺこりとお辞儀をしつつ視線を泳がせる。空いている席は無かった。

 背後に控える男の武官がカラス、女の武官がシギ、金髪碧眼の少年が見習のスズメだと続けて紹介する。

 だが絵画の貴婦人がそのまま出てきたような、まるで実感の沸かない高嶺の花が微笑みに、周囲の人にまで気が回らない。フェリシアは不躾にも、マグノリアの珍しい赤紫色の瞳に見入っていた。


「人体書籍って、あのおとぎ話に出てくる本の精霊の、ですか?」


 思わず声に出してしまうと、兄マティスがハァと誰の耳にも聞こえるほど大きなため息を吐いた。


「マグノリア殿申し訳ない。我が妹フェリシアはこの通りの傷物で、加えて大した才も学もありません。荒唐無稽なことを言いますが、どうかご容赦ください」


 非常にわざとらしく恭しい礼をして、マティスはちらりとフェリシアを睨んだ。

 一見するとマティスは愚かな妹想いの兄に見える。だがそうやって周囲からは、醜い妹の世話を引き受けさせられた哀れな兄の評価を得ていた。


――だってラァ・エル・マグノリア六番目のマグノリアなんて、相当古い言葉を聞いたら本物かと聞きたくなるのが普通でしょうよ。


 言い返すと兄の嵩にかかった言動が倍になるのを知っていて、フェリシアは視線を逸らした。

 人体書籍といえば、この国では有名なおとぎ話の登場人物だ。この国に住む者なら子供でも知っている、帝室が所有する人の形をした本の逸話がある。

 歴代の皇帝は数百年生きている本の精霊を従えて、有事の際には彼らに解決策を上申させる。それにより八百年の長きにわたりアルミラ帝国は繁栄をほしいままにしてきたと言う話だ。

 人体書籍は全部で十二巻。

 国の宝である本の精霊たちを巡って、大昔には戦争が起きたとさえ言われている。


「陛下の求めに応じて知恵をお貸しする、只の物好きにございますよ」


 彼女はくつくつと笑ってから、背後に控えるカラスから赤い蜜蝋で封をした封書を受け取った。それをディオンへ手渡す。


「では改めてお話を進めましょう。陛下からお預かりした書面をこれに。グロー卿、ご確認を」


 ディオンが畏まって受け取った封書には翼の無い竜の封蝋がしてあった。紛れもなく主君からのものだ。純粋な白い紙も高級そのもので、フェリシアは目を見張る。

 このうら若い銀髪の女性は本当に帝室にゆかりのある人物なのだと改めて驚き、こっそり上目使いで彼女を盗み見た。こんな辺境まで皇帝の意を受けた人物が直々に出向くというのは、証を見るまではどこかで疑いがあった。


「確かに陛下から承りました。長雨の原因究明、および解決をよろしくお願いいたします」


 もちろんですと彼女が微笑むと、その雰囲気はいっそう浮世離れしていて、おとぎ話なのか現実なのか判じがたい。その手元に、義姉のオパールがティーカップと茶菓子を静かに置いた。

 手を伸ばしながらマグノリアは、まぁと顔をほころばせる。


「ボン茶とは珍しい。ボンの木はもっと南方の植物だったと思うのですが」


 黒く光沢のあるお茶はボンと言って、木の実を乾かして脱穀し、煎って粉にした香ばしさと苦みが特徴のお茶だ。オパールが丁寧な手つきで淹れるカップには、屋外の雨模様とは対照的に鮮やかな花の模様が描かれている。


「わたくしの故郷が南方のインデラ領で、輿入れの際に苗木を持参したのです」


 兄嫁のオパールは滑らかに手を動かして、全員にお茶と茶菓子を配った。


「そうでしたか。陛下もインデラのボンは香りがたいへん良いと、気に入られておりました」

「それはもったいなきお言葉、故郷の父も喜びます」


 微笑み返すオパールは、フェリシアの兄マティスにはもったいないほどできた妻だった。出身はアルミラ帝国南部、海に開けたインデラという領で、父は海運とボンで財を成したインデラ領主だ。

 本人も才色兼備、オパールの結婚相手は引く手数多と言われていた。しかしなぜか遥か北東の僻地にある辺境伯の息子であるマティスに嫁いだ。しかもわざわざインデラ領秘蔵のボンの苗木を携えていたのだから驚きだ。

 この冬、待望の第一子が生まれる予定だが、未だに輿入れ先を間違えたのではと笑い話になる。


「美味しいお茶は淹れ方も大事と聞きます。この華やかな香り、きっとお茶を淹れた方も余程お上手なのでしょうね」

「おほめに与かり光栄です」

「若奥様が手ずから淹れてくださっていたのですか。それは美味しいはずですわ」


 微笑みながらシュガーポットを抱え込んだマグノリアの手は白魚のように美しい。

 まずは角砂糖を一つ入れる。

 続いて二つ目、で止まることはなく三つ四つ五つ六つ、七つ目でようやく手が止まり、スプーンでかき混ぜた。次いでヤギの乳をこれでもかというほど、カップのギリギリまで注ぐ。黒いお茶は砂糖とヤギの乳で、薄茶色をした甘い奇怪な飲み物に変貌した。

 未知の飲み物の作成過程に、部屋にいる一同唖然とする。だが指摘できる者はいない。彼女は今にも溢れそうなカップを簡単に持ち上げ、優雅に香りを楽しんでいた。


――えっと。私、こんな人に殺されるの……?


 甘いボン茶を含みながら、マグノリアは一つ菓子を頬張る。どうやらこの美女、無類の甘党らしい。貧しい家計の敵だ。

 さて、とカップを置いて銀髪美女のマグノリアは区切りをつける。手元にあるのはフェリシアがまとめた報告書だった。


「これをまとめたのがフェリシア殿だと伺ったので、お呼び立てしたのです」


 忘れていた早鐘がまた鳴り始め、息を止めてフェリシアは彼女の顔色を伺う。なんの無礼があって怒られるのかと、心もとなく両手を握りしめた。


「申し訳ありません、どこに不備がありましたか」

「一通り目を通した限りでは特に不備はございません」

「え、ない? 何も?」


 パラパラとめくりながらマグノリアは頷く。だがすぐに顔を上げて一同を見回した。


「不備はありませんが、質問はあります。なので、やはりまとめたご本人がいらっしゃらなければ話を進めることは難しいと申し上げたのです」


 マグノリアは、フェリシアと渋い顔をしているディオンの二人を見比べた。


「フェリシア殿がやったことならば、彼女に説明をさせるべき、そして彼女自身がそれについて責任を持つのが道理というものでございます」


 びっくりしてフェリシアは目を丸くしたが、自分が呼ばれる前にどんなやり取りがあったのか、少しだけ分った気がした。

 父のディオンは傷物の娘を人前に出すことを酷く嫌がる。生贄の儀式が執り行われるまでの間、部屋からはできる限り出るなとさえ言われていた。しかしマグノリアが頑として譲らなかったのだろう。

 お小言ではないと分かってホッとするも、話には続きがあった。


「フェリシア殿もご自分でお調べになったのならば、もう少し自信をもってもよろしいかと。この報告書も実によくまとまっております。何の卑下なさるところもございませんよ」


 一瞬何を言われているのかよく分からなくて、フェリシアは呆けた。

 父に命令され、兄に嫌味を言われた長雨の報告書を、まさか都から来た貴婦人に褒められるとは。思わず頬をつねろうかと動いた右手を、あやうく左手が掴んで元の位置に戻す。

 案の定、ディオンとマティスは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「あ、あっ、あの、ありがとうございます」


 その先に何か言うべき言葉があるのは分っていたが、出しゃばりだと叩かれるのを恐れて言葉が出てこない。

 窓を叩く雨の音が無言の応接室に鳴り響いた。


「ですが」


 報告書に目を落とし、マグノリアは文字を追った。瞬きをするたびに赤紫の瞳が素早く左右に動いていく。静まり返った部屋に、羊皮紙をめくる音とガラスに当たる不規則な雨の音が響いた。

 固唾を飲んで見守る美女の口は、意外な言葉を発した。


「残念ながら、生贄には賛同できません」


 閉じた報告書をテーブルに戻し、彼女は一同を見回した。

 ディオンは断りを入れた目の前の美女を我が目を疑うかのように見て、次にフェリシアを殺さんばかりに睨みつけた。「どんな余計なことを書いたのか」という言外の圧に、フェリシアは首を大きく横に振る。

 必死の否定の甲斐なく、マティスが立ち上がり、大股で彼女に近づくと無言でそのまま一発頬を打った。


「なんてことを。おやめになってください」

「こやつが余計なことを書いたのでしょう。一体何を書いたのだ、言え!」


 マグノリアの制止を振り切り、続けざまに腕をひねり上げられる。ここで悲鳴の一つでも上げれば、あとからまた何を言われるかと思うとフェリシアは声を上げずに目をつぶって必死に耐えた。

 と、その痛みがふっと楽になる。

 涙目になりながら目の前の光景を確認すると、マグノリアがマティスの手を叩き落としていた。


「暴力は苦手です。控えていただけますか」


 静かだが至極不愉快そうな声が部屋の中に反響した。ひねられた腕をさすりながら、フェリシアはマティスを見上げる。

 兄は汚らわしいものを見るような目つきのままだったが、ディオンの戻るように促す声に引かれてようやく席に戻った。

 不穏な静けさが部屋に横たわる。耐えきれない様子で、ディオンが咳ばらいをした。


「マグノリア殿は皇帝陛下に仕えるご高名な精霊師と伺いました。そんな方がなぜ生贄に反対されるのか、伺ってもよろしいですかな」


 マグノリアの方に身を乗り出すように迫る。だが当の美女は何食わぬ顔で出された茶菓子を食べていた。

 極限まで甘くしたボン茶を飲みつつ、倍ほども年上の辺境伯を諭すように微笑みかける。


「一つ誤解をなさっているようですが、わたくしは精霊師ではございません」


 その場にいた面々はまたぽかんとして顔を見合わせた。

 都から皇帝陛下に仕える精霊に精通した人物が来るとなれば、都でも一級の精霊師であろうと誰もが思っていた。精霊との関りで生計を立てる者のことを精霊師と呼ぶのであって、それ以外にあの摩訶不思議な生き物と好んで関わろうとする奇特な人間はあまりいない。

 だがマグノリアは確かにここに至るまで、一言も『精霊師』とは名乗っていなかった。


「わたくしは精霊の知識を持つ者でございます。学術的に精霊を知る者であって、民間の精霊師が使う呪術の類は使えません。よって生贄を使うような方法で、精霊との軋轢を解決したことはございません」 


 はぁと毒気を抜かれた返事をしたのはディオン。マティスも理解が追い付いていないようで首をかしげるばかり。フェリシアも困り顔で叔父ノアの方を見た。ところがマグノリアを呼び寄せたノアですら、肩をすくめている。

 不理解には慣れっこなのか、気にも留めていない様子で彼女はそのまま続けた。


「精霊を学術的な観点から説明いたしますと、彼らは生き物です。人間と同等の知性や言語を操る個体もいるという点が他の生き物との大きな違いではございますが、山に住む鹿や熊などと変わりありません。生きている以上、行動には理由がございます。その理由を調べ、対策することで問題を解決いたします」

「あんな気色の悪いやつらに理由などあるのですか」


 マティスが胡散臭そうに顔をしかめるが、マグノリアはもちろんと大きく頷いた。

 その言葉にフェリシアは胸の前で思わず両の手を握った。瞠目してこの白銀の美女を、まるで崇めるかのように見つめて半歩足が前に出る。


「あの、じゃあ私、生贄に、ならなくても……?」

「フェリシア! 貴様は黙っておれ!」


 思わず溢れ出た本音に怒りの声が飛ぶ。慌てて口を噤んだが、すでに漏れた気持ちに蓋はできなかった。

 生贄にならずに、生贄が不合理だと証明できるのかもしれない。あと数日、どの本を読んで余生を過ごそうか鬱々と考えていたのが一気に吹き飛んだ。

 いま一度立ち上がったマグノリアは静かに歩み寄り、フェリシアの手を取る。


「本当に生贄で鎮まる精霊ならば、わたくしも生贄を考えましょう。しかし長らく精霊とは付き合いがございますが、今までそんなことは一度もございませんよ」

「そやつは生贄になるべく、今日まで養ってきた娘ですぞ! 如何に貴女が皇帝陛下お抱えの何某なにがしとやらと言えども、さすがに娘一人の処断を勝手に決められる筋合いではない!」


 顔を真っ赤にしたディオンが机を叩きつけて立ち上がる。そうだ!と尻馬に乗るようにマティスも声を荒げたが、マグノリアはすぐさま振り向いて語気を強めた。


「では、まったく進んでいないグロー辺境領の地質調査の件、帝室の差配で行うように陛下に上申いたしますが、よろしいですね」


 思わぬ強い言葉が部屋を圧倒した。帝室の名を振りかざし、従うようにと一人の貴族を平らげる。うら若い女性にしては異様な威厳があり、遥か年上であるはずのディオンも躊躇する。

 だが彼女はあくまで朗らかに、微笑を湛えている。


「調査のために、兵をこの地に入れると脅されるのか!」


 咳ばらいで取り繕いながら辛うじてディオンが反論するも、マグノリアはゆったり部屋を歩き回りながら憂い顔でため息を吐いた。


「さて、具体的にどうなるかは分かりかねます。ただ陛下は、調査ができぬグロー卿の言い訳にだいぶ飽きておいででした。秋は収穫で、冬は雪で、春は畑仕事で忙しい忙しいと時節の挨拶のように送ってきて、もううんざりと。夏はといえば、今度は異常な長雨……」


 マグノリアは柔らかそうな体を窓辺に寄せ、音を立てて降る雨に憂色を示す。その雨の向こうに広がる山々の地質調査を、ディオンが全く手を付けていないことを、フェリシアも知っていた。

 去年の秋口に皇帝から命じられたあと、兄と一緒になって「こんな無駄なことに金をかけていられるか」と言い捨てているのを聞いていた。グロー辺境領は山ばかりで貧しいため、すぐに金にならないことには父も兄も手出したがらない。

 しかし皇帝から直々の調査命令ということは、何かただならぬものが山に埋まっているのかもしれない。金か鉄か、予想もつかない財産が眠っている可能性があるということだ。現に山向こうの国では数年前から何か採掘が行われていて、急に街々が栄えたと旅人が噂をしていた。


「その長雨を解決するためにわたくしは陛下より遣わされたのです。まずはわたくしのやり方にお任せくださいませんか。それで駄目なら生贄でも何でもなさればよい」


 柔らかな笑みのまま、マグノリアは長雨を解決する対価として、早く調査をするようにとせっつきに来た皇帝の使者の仮面をちらつかせる。渋々ディオンが頷くと、彼女は両手を合わせて晴れやかに是認を受け取った。

 その華やかさにかけては花も恥じらうほどだった。

 ただその人は己を、ただ知恵を貸すだけの物好きだと語った。それが本当かどうか、フェリシアには良く分からない。

 分からないのに、彼女はどんどん話を進めていった。


「ではノア殿、フェリシア殿、夕食後にわたくしの部屋に来ていただけますか。明日からの調査について相談いたしましょう」


 見たことが無いほどディオンが悔しがって歯噛みする様子に、フェリシアは動揺してしばらく返事を忘れていた。

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