近代精霊奇譚

鳴海てんこ

第1話 彼女の成り立ち

 吊り上がった目、真っ赤な顔、むき出しの歯。目の間に迫った殺気立つ形相が雨に濡れ、怒号が飛ぶ。


「貴様が、貴様がマージョリーを殺したのか!」


 怒りに肩を震わせた父が、小さなフェリシアの肩に掴みかかった。揺らされた拍子に、柘榴のように割れた額の傷から生暖かい血が流れ出す。

 兄は雨に打たれ、泣きながら大岩に組み付いている。使用人たちが小さな裏庭に駆け付け、岩の下敷きになった母マージョリーを救おうとしていた。


「ち、ちが……ッ」

「またありもしない声が聞こえたと母に申したのであろう!」


 父は岩の下敷きになった母の腕に全く力がないことを認めて、そこへ至った経緯を唯一知る娘のフェリシアを大きく揺さぶった。そのたびに、彼女の額から左目に向かって伸びた大きな傷が、真っ赤な血を噴き出す。

 一昨日から降り始めた雨の中で幼いフェリシアは、彼女にしか聞こえない声にずっと怯えていた。声は大きく小さく不安定に泣き、叫び、もがき苦しむように断続的に彼女の耳に届く。両手で耳を塞いでも、指をすり抜けて鼓膜を震わせる恐ろしい声に、彼女は怯えて母にしがみつきっぱなしだった。

 確かに彼女は幼い頃から、誰もいないところで返事をするような変わった娘だった。それがすでに九歳。本人も、自分が周囲とは何か違うと思い始めてはいたものの、だからと言って我慢できる歳でもなかった。


「だって、怖い声が、本当に裏庭から!」

「黙れェ! 貴様の世迷いごとに付き合ってマージョリーは岩に潰されたのだぞ!」


 怖い怖いと泣き続けるフェリシアに困り果てた母マージョリーは、彼女をぬかるむ裏庭へと連れて来た。何度も女中に様子を見させたが、自分の目で見れば納得するかと見せてみた。

 雨脚は一層酷くなったのに、わざわざ屋根のない場所へとフェリシアは出ていく。スカートの裾に大きな泥跳ねを作った。

 貴族とは言えかなり貧しく、しかし体裁だけは保とうと必死で家計を切り盛りしている領主夫人のマージョリーは、赤髪の自分の娘に向かってこっそりと舌打ちをした。

 案の定、裏庭は空っぽだ。


「気が済んだのなら戻りますよ」


 ずぶ濡れになったフェリシアは母に促されたが、立ち止まったまま虚空に指を突き出す。


「あの子は」


 指し示す先には淡く黄色に光る不定形の体に大きな目が一つあった。

 それは崖の中腹にある岩の出っ張りに腰かけていた。球と楕円を行ったり来たりしながら小刻みに震えている。大きな目ばかりの表情のない顔が、不思議と具合が悪そうにしていた。

 それを見るなり、マージョリーは不愉快をあらわにして口元を抑える。


「まぁ、精霊なんて薄気味悪い。精霊師を呼んで追い払わないと」 


 山深いこの山岳都市には、街の中でも人ならざる者が往々にして姿を現す。マージョリーは女中を呼ぼうとしたが、その手をフェリシアは引っ張る。幼い娘は取り憑かれたように、ぬかるみを崖の方へと踏み出した。


「おやめなさい。あんなものに関わってはなりません」


 母と娘が互いに引っ張り合う。

 その最中、精霊の体がぐらりと揺れて輝きを失いながら落下した。姿が半透明になり、地面にぶつかって潰れる寸前、吸い込まれるように形が崩れて消えていく。

 消え去り際の精霊にくぎ付けになって、フェリシアはいくら手を引っ張られても動こうとしなかった。大きく丸い寒々しい一つ目を覗き込んでいた。


「フェリシア!」


 きつく名を呼ばれて顔を上げようとした瞬間、フェリシアの小さな体は横に突き飛ばされた。それとほぼ同時に轟音が響き渡る。一瞬の出来事だった。

 彼女が立っていた場所に大岩が崖から外れて転げ落ちた。岩は地面にぶつかり、爆ぜるように割れて母娘を巻き込む。突き飛ばされて泥の中に倒れ込んだフェリシアの顔に、割れた岩の破片が飛び跳ねて大きくえぐった。

 崖が崩れた音に、屋敷中から人が集まってくる。この辺鄙な土地の領主であり、フェリシアの父であるディオンが駆けこんできたときには、大岩に潰されて息のない母マージョリーと、壊れたように泣く娘フェリシアの姿しかなかった。

 半狂乱になりながら岩を押しのけようとする兄と、押し潰された妻を見るなり振り向いて自分を揺さぶった父。自分の顔に付いた大きな傷と流れる血を見るなり、父の顔が怒りで真っ赤になっていく様子にフェリシアは恐怖した。


「貴様が母を殺したのだ」


 九歳だった彼女は、この時はっきりと自分に対する憎悪が芽生えたことを理解した。

 元から少し変わった娘だからと、父から冷遇されてはいたが、まだ実の娘として扱われていた。それもこの日で終わり。


「フェリシアはやはりあの時、蛇に呪われたのだ。貴様は呪われた娘だ」


 手についた泥が黒ずんでいくように見えた。降りしきる雨の中、フェリシアは頭を抱え込んで言葉にならない叫び声を上げる。

 幼い彼女の叫びに応えるように、生ぬるい雨が足元から肌を逆さまに伝って鎧のように取り憑いた。気味の悪い感覚に叫びながらフェリシアはもがき、父親譲りの赤毛を掻き毟る。

 だが「うるさい黙れ」と一声のもと、父の拳で意識が飛んだ。その時最後にぼんやり見ていたのは一対の黒い眼だ。


 フェリシア・グロー。

 辺境伯の娘でありながら、家から出せぬほど醜悪このうえないと噂される娘が出来上がったのは、そんな雨の日だった。

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